翻訳家: 森下 千尋さん (2003/04/11)
| 氏名 | 森下 千尋 | 住所 | サンパウロ州 サンパウロ市 | 職業 | 翻訳家 | 生年月日 | 1966年 血液型AB | 出身地 | 東京都 | 渡伯年月日 | 1978年 |
2002年9月
※ ブラジルに来たきっかけは?
うちの父が工業移住者として1978年にサンパウロ州のマリリアという町にあるササザキというサッシ会社に呼び寄せという形で来ることになって、そのときに一緒に来ました。11歳半でした。
※ 自分は行きたくないって言う思いはなかったですか?
別に問題ありませんでした。というのは、うちの父の仕事が原因で転々と移ることが多かったので、また引越しかという感じが強かったし、日本だと転校するといじめがあるでしょう、それが嫌だったし。でもブラジルはそういうことはないだろうって。あんまり深くは考えていませんでした。
※ 外国に行く意識なんてありましたか?
漠然としてありましたが、遊園地かなんかに行くような気分だったのかもしれない、今思うと。
※ 来たときのブラジルの思い出はありますか?
あの当時は直通便の飛行機はありませんでした。コンゴニアス空港についたときは物凄い雨で町がどんより曇っている感じがあったんですが、次の日晴れて、空を見ているとああなんて大きいんだろうっていう印象が第一でした。
※ 何人家族ですか?
兄と弟と妹、当時一番下の妹が1才4ヶ月でした。
※ お父さんはよくブラジル行きを決意しましたね。
やっぱりうちの母親の力が強かったからでしょう。うちの父はそのとき40になるときだったから、さすがにどうしようかなって思ったみたいだけど、「あんたの夢は自分の機械を作ることでしょ」って、うちの母がハッパかけてきたんです。日本だとなかなか実際に機械を作らせてもらえないでしょ。ブラジルだったらそれができるということで決意したみたいです。うちの祖父もどうせ行くんだったら、骨を埋める気持ちで行けという感じでうちの母親を励ましてくれたこともあったようです。
※ 学校はどうだったんですか?
現地の学校。最初地方だから、大きくなった子供を受け入れる体制がなくて、日本から通信簿からなにから全部取り寄せて翻訳して、半年勉強できない状態でした。本当はブラジルの7年生に編入しなきゃいけなかったんですが言葉がわからないということで2年落とされて、辞書を片手に授業を受けているという感じでした。小学生だから英語も何もわかんないでしょう。ABCの段階からでした。でも、いじめはなかったですね。ブラジル人っていうのは明るいっていうか、興味本位のところがあるでしょう。かえっておもしろがっていろいろ教えてくれました。
※ 何年くらいから話せるようになったのですか?
兄貴は速かったですね。1年くらいでポルトガル語でバカな冗談とか言って。私は自分から話すっていうようになるには3年くらいかかったんじゃないかな。
※ マリリアは日本人がおおいですよね。
うちの父は日本で少年野球のチームの監督やっていたこともあって、マリリアでもまかされて、うちの母親は日伯学校の日本語教師をやっていたんだけど、でもうちの両親達はブラジルに来たんだから、ブラジルに馴染めっていうことで日本人と付き合うことを強制もしませんでした。まあコロニアの人たちと話すことがあの当時はうまくいかなかったということもあったから。というのは日本語学校の理事の人たちというのは当時60歳、70歳の人たちだったんですが、12歳の女の子とっつかまえて、「おまえどこから来たんだ、おまえは勝ち組みか負け組みか」って聞くわけです。 同じ年齢の子供達とは話をしませんでした。趣味が合わないというか、言葉がわかってくると外人の子供達と入る方が楽だったし、楽しかったから。 だから、私が日本語を話すようになったのはサンパウロに来てからです。マリリアにいる間はずっとポルトガル語だけだった。よく言われるのはサンパウロ来てからポルトガル語の発音が悪くなったっていわれます。
※ どんな仕事をされてきたのですか?
いろんな仕事をしてきました。20歳のとき家を出てサンパウロにやってきて、日本語を喋れるということで、ある駐在員相手の医療機関の受け付けや、日本の企業の秘書として働いたこともあるけど、どうも日本人の間での仕事はダメでセールスの仕事に入って、なんだかんだやっているうちに、母がマリリアにレストランを開けたのでそっちに戻ったんですが、家族でやる仕事はなんだかんだあってダメでまたサンパウロに戻ってきたんです。それでワルテル田村さんの翻訳事務所に入ったわけです。ちょうどそのときは出稼ぎブームで翻訳もたくさんある時代。 簡単なものから翻訳をはじめていった訳です。
※ 12歳くらいにこちらに来て日本語の勉強はどうしたんですか?
家で独学かな、というのは母親が本読むのが好きだったからかなりの本を持ってきていて、最初編入できなかった6ヶ月の間に本を読みあさっていたんです。それと、手紙を書いて、母親に直してもらったりしたのは良かったんでしょうね。
※ 翻訳家になって何年くらいですか?
11年くらいかな。はっきり言って翻訳って私は嫌いなんです。実に神経使うし、やるたんびに自分の語彙の少なさを痛感させられるし、他の先輩達の翻訳を読んできているけど、そこまでできないな、ということをいつも痛感しています。
※ 翻訳やっていての楽しみは?
普通だったら絶対聞く機会のないようなことも知ることができるっていうことかな。わかんなかったら、それはどういうことかなって追求しなければならない部分も出てくるし、だからそういう部分は面白いよね。皆によくものを知っていますねっていわれるけど、知らないと訳せないし伝えられないことが一杯あるから、どうしても必然的にいろいろ知るようになるよね。
※ 娘さんは日本語が非常に上手ですがその辺は気を使っているわけですか?
家の中では日本語を使おうねって言っています。外に出るとポルトガル語でしょ。やっぱり、日本語を維持させたいというのが、この子を産む前から私の中にあったし。というのは文化というのは言葉だし、言葉というのは生きているから使わないと死んじゃう。だから使う場を与えてやらないといけないと思うんです。
※ 日本には帰られましたか?
一度も帰っていません。もう外国人だよね。帰りたいというか、遊びに行きたいですね。うちのひいおばあちゃんが90歳で生きているから、ひ孫の顔を見せに行きたいけど、なかなかその機会が訪れませんね。
※ 日本に対する望郷みたいなものはありませんか?
大人になってきた人とはやっぱり違います。日本の文化とか歴史とか一種の憧れのようなものはあるけど、今のハイテクには全然興味ないし。
※ 自分は日本人だと思いますか? ブラジル人だと思いますか?
難しい質問だよね。うーん、私は日本人だと思っています。根本的にブラジル人になれないから。ブラジル人って喜怒哀楽がはっきりしているから楽しむときにはとことん楽しむし、悲しむときにはとことん悲しむ。日本人だと絶えず人目を気にして、迷惑をかけているんじゃないかとか、そういう感覚があるでしょ。私の中にもそういうのがあるし。
※ 旦那さんは? 日系人です。ある程度の年頃になって結婚を考えたときに、離婚を考えながら結婚するバカはいないと思うから。長い間付き合おうと思ったら、今までは逃げ回っていた日本人がいいかと思ったんです。その結論に達したのは結婚してからだけど。
※ 日本の若者について何か?
今の若者を見ていると、いつもお膳立てをしてもらいたいという人が多いですね。自分からあえてなんかやっていこうという姿勢が無い感じがします。もちろんそれが全部だとは思わないけど。いまいち温室状態に満足していてあえてそこから出ようとしない若者や、過去にしばられてこういうことをすれば良かったとかいう若者が凄く多いよね、見てて。そんなこと考えずにやってみりゃいいと思う。やってみてから考えりゃいいじゃん、っていうのが私の考えだし、またそういう風にいろんな若者によくいうよね。とにかく第一歩を踏み出せって。 彼らを見ていると、すべてのことに答えをださなきゃっていう姿勢が強くって凄い自分で考え方をせまくしているような気がします。そういうのをなくさないと新しいものを発見できないし、楽しめないと思うよね。周りが言っているからじゃなくてもっと大きな目で全体を見るように心がけて欲しいなと思います。
※ 将来の夢は?
今まで領事館に入国管理局宛てに今までずっと書類を書いてきているけど、私は翻訳やっているよりは、そういう人の話というのを書いていくのが好きですね。今まで10数年書いてきた人の話をまとめてみるのも面白いかなって思います。 あと、ブラジルの伝説や民謡といったようなものをきちんとした形で訳していきたいなと思います。これはあくまでも趣味という形になるでしょうが。
※ 趣味はなんですか?
本読むのも、クラッシクを聞くのも好きですが、何も考えずにぼーっとするのが一番好きです。それが私にとって一番のエネルギー充電になります。 ※ ブラジルに来てよかったですか?
良かったと思います。いくら親に連れてこられたといっても。こっちに来て自分に厳しいということは何も自分を追い詰めることではないんだ、と思えるようになったし行動できるようになりました。
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