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     文化・芸術・スポーツ関係  (最終更新日 : 2003/04/11)
極真会館南米地区連盟総責任者: 磯部 清次さん

極真会館南米地区連盟総責任者: 磯部 清次さん (2003/04/11)
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氏名磯部 清次
住所サンパウロ州 サンパウロ市
職業極真会館南米地区連盟総責任者7段
生年月日1948年3月1日(血液型B型)
出身地福井県福井市
渡伯年月日


2002年2月

※空手との出会いはいつだったんですか?

 空手と縁があったのは私が13歳の頃です。あの頃は極真会というのはまだ存在していなかった時期で、他の流派で
教えてもらっていました。ちょうど町内で祭りがあったんです。そこである青年が余興でいきなり板を手で割ったわけですよ。力道山の空手チョップが知られている時だったこともあり、わーっ凄いなと思ったんです。それは何か聞くと空手だと言うんです。自分なんかも練習すると強くなるのかと聞くと、強くなるっていうんです。その人から半年くらい手ほどきを受けました。本格的にやるならば、道場に通ってと思ったんですが、うちの親父がダメだと言うんです。そんな野蛮なことをやっちゃいかんといってね。そのうちに「途中から投げ出すんだったら最初からやるな」ということになりまして、通わしてもらったのが15歳になった頃ですかね。もうほとんど休まず、どんなことがあっても通いました。

※空手にはどんな魅力があるんですか?

神秘的なものというか、今まで全然できなかったことを通えば通うほどできるようになってくるわけですよ。それが楽しみでした。
高校を出て福井農業短期大学の林学部に入ったんです。全寮制で月~金まで外に出れないんです。特別に練習の日だけは許してもらって通っていました。
「君達は武器を持っているんだから喧嘩してはいけない。怪我だけでなく生命にかかわることだから」って先生は言うんですけど、自分は細いし、ほんとに喧嘩に使えるのかなーっていう感じでした。ちょうど黒帯びになる直前に、師範代が目に痣をつけてきたんです。「昨日花見にいって、ちょっともめて袋叩きになったんだ。こんな空手だめだ」って言うんですね。やっぱりな、と思いました。組み手をやらせないし、基本と型をちょこちょことやってそれでおわりですから。自分は短大を卒業して、県の職員に入ったんです。昇級するには勉強もしなければならないし、こんな空手を習っても仕方ないなと思ってやめちゃったんです。
その時期は空手に戻るなんて気持ちは全然なかったんです。ところが、一緒にやっていた友人が同士会というのを作って始めていたわけです。彼等から電話が突然あって「おまえの力が欲しい、来て教えてくれ」というわけでいったんです。仲間の一人が大山倍達に手紙を出していたんです。恥かしい話だけど、大山倍達のことをしらなかったんです。それで著書の「100万人の空手」というのを読んだんです。その中に「いろんな先生は「空手に先手なし」という奇麗事をいっているけれど、私はあえて空手に先手あり、空手をやっている人間は強くなければならない、負けてはいけない」というくだりがあって、なるほどなー、これは凄いと思ったわけです。その後、大山倍達から手紙がきたんで東京に我々がいったんです。その頃は、極真空手もはしりの頃でした。
普通、空手をやっている人は小さくて痩せてますから、大山倍達に始めてあったとき、これなら牛も殺せると思いました。練習をさせてもらって、これは凄いと思い、また秋頃行って、練習させてもらったんです。そのとき今までやっていた空手とは大きな違いがあるということを実感して、これは本格的にやらないとダメだと思ったわけです。それで70年の後半に東京に出ていきました。

※その頃は空手で飯を食いたいと決めていたわけですか?

決まった人生も面白くないし、空手は時期がありますからね。年取ってからはできるわけないし。本格的にやろうと思って親にいうと、最初の頃はとんでもない、バカモノって怒られたんですが、「そこまで思っているんだったら、3年間はいいから行ってこい、途中で止めたり、帰ってきたりするな」ということになって行かしてもらったんです。東京では練習の他に大山倍達の運転手やったり、指導したり、いろんなことを教えてもらって、2段を取れたのが72年でした。それで福井に帰ろうと思っていたんです。ところが、福井に帰る前に海外に出ないかということになったんです。オーストラリアに行く予定だったんですが、ブラジルに行けということになったんです。ちょうど24歳の頃です。

※当時、ブラジルにはすでに道場があったんですか?

自分の先輩が3年前にきたんですが急遽もどらなければならなくなって二ヶ月間程教えて帰ったそうです。その後二世の方がひきついだんですが、空手をあまりよくしらないのでうまくいかないわけですね。それで私は1年契約できたわけです。日本で聞いた話では給料は500ドルだったんです。あの頃日本でもらっていたお金は2万円ちょっとだったのでこれは凄い、1年我慢すればお金が貯まると思っていたんです。3日目くらいに本当に500ドルもらえるんですか、と聞いたら「知りません」ていうんです。契約書の写しを見せてもらったら、CR$500、CRが前についていてブラジルの貨幣単位だったんです。その頃の日本円で8000円位しかなかったんです。農業短大まででているんだからせめて1万円くらいはくれっていったんですがダメでした。
73、74年と大山倍達がきてくれたんです。でも私が帰ると言う話が出ないんです。その頃道場にはバスで通っていました。そうすると大山倍達が「君! ブラジルは広いんだからバスで通っていたら、普及に時間がかかるよ、車を買ってやんないとダメだよ」っていわれたんです。あの頃(72年)フォルクスワーゲンの63年型が6000~7000ドルしたんで、そんなとんでもない、自分の給料では買えるお金ではなかったです。それで「自分のもらっている給料では自転車もかえません」っていったんですね。そうすると「自転車も買えんかね、はははは」って笑ったんです。そのとき、あっ、分かっていたな、って気づいたんです。それからさらに話をすると、残れというんです。それで今にいたったわけです。

※じゃあ、来たくて来たわけでなく、はめられたような感じだったんですか?

そうですね。二年くらいは仕方がないと思っていましたが、腰を据えてとは考えてもいませんでした。

※今生徒さんはどれくらいですか

入門した数はブラジルで3万人、4万人くらい。ここだけでもう28年ほどで、6500人ほどです。南米全体で8万人ほどですね。

※そこまで広がった秘訣は情熱ですか?

信念ですかね。やっぱり。3年、4年すぎたあたりから、ブラジルに骨を埋めようかという気持ちに本格的になってきました。じゃあ、中途半端に教えても、考えてもだめだなー、しっかりした信念をもたなきゃだめだと。空手一本で行こうと決めたんです。

※師範がそうとう練習されたということが伝説になっているんですけど、実際はどうだったんですか。

それは、まあ普通ですけどね。極真というのは異端児というか、村八分というか、他の空手の流派からは邪道的な見方で見られていたんですよ。以前に来ている他流派の先生は極真というのを知らないんですよね。
あの頃、機会があったら、デモンストレーションや演舞をして、テレビでも何回か凍り割や瓦割をしていました。「あのとき割った石は、割ったものをくっつけたものなんですか」って生徒が聞きにくるんですよ。それでおまえに教えているものはなにひとつインチキはないから厳しくやったらこれだけのことができるんだよ、って教えたものです。でも、風当たりが強くなってきたなって思って、昼練習して、夜もみんな寝ている間に休み無く蹴ったり、腹筋をやったり、それはもう日本にいるとき以上に練習はやりました。やらなきゃ気が納まらない。寝れないんですよ。だってあの頃62、63キロしかないんだから、不意に道場破りなんかが来た時や、なにかあったときに勝てるかなって思うわけですよ。90キロある奴だったら倒されますよ。心配で心配でね。これだけやったんだから、これ以上はできないと思って安心して眠れるという感じでした。

※フィーリョを育てことで凄く有名になりましたがその辺の話はどうなんですか?

やっていく段階で実績というのを残さなきゃいけないじゃないですか。実績を残すのに一番手っ取り早いのはいい選手を作ることなんです。ちょうどあの頃4年に1回世界大会が開催されていたんで、早く実績を残すには世界に通用する選手を育てることでした。世界に通用しそうな選手を集めて時間を作って3、4倍の厳しい練習をやらせてそれが結局実ってきていろんな選手が出てきたわけです。
今までにアデミールっていうのがいたけど180センチで74キロだったんです。これではやっぱり世界をとるには無理です。で、フランシスコ・フィーリョが186センチで92キロ、18歳で南米チャンピョンになったんです。練習して強くなったっていうのではなくて天性のものであれだけ体格があって力があって、根性があって、これは磨いたら世界に通用する選手になるなと思いました。それで試行錯誤して練習をやらせたんです。
91年の5回世界大会では、とにかく、あの頃有力選手だったアンディ・フグを倒すことだったんです。それをフランシスコにかせたんです。2年間その練習をずっとやったんです。とにかくおまえの技と力でねじ伏せてしまえという感じでした。結局アンディとやって延長2回で一発でのばしてしまったんです。それで世界のフランシスコになったんです。
そのときはベスト8で判定で負けてしまったんです。ラテン気質というか目標まではがんばるがそれを達成したらそれでおしまい、という感じですよね。これじゃあ、チャンピョンになるというのは生易しいことではないし、選手育成はやめた、と彼達を呼んで宣言したんです。そうすると、フランシスコが本当に辞めてしまうのかっていうんですよね。次の世界大会までの4年間だけ教えてくれないかって頼むので、本当に投げ出さないでがんばるかって、聞いたら、どんなことでも我慢しますから教えてくれっていったんです。それで、足と手に太いゴムチューブをつけて二時間くらい練習させたんです。これは心臓が飛び出るくらい大変なものらしいですが。
95年大会では、彼が冷静に今まで培ったものを100%出し切ってくれれば優勝は本当に間違いなかった。ところが、彼の後輩が日本の数見選手に延長戦で一本負けしてしまったんです。それでカッとかっときて延長で判定になって試し割の差で負けてしまい3位になってしまったんです。おまえの目の前になにが起ころうと感知するなって、練習のたびに言っていたんですが、24歳という若さでかーっとなったんですね。

※次の大会で優勝したんですよね。どうでしたか、そのときは?

それはうれしかったですね。テレビにもその様子は出ていましたけど。フランシスコが優勝するには8年かかっているわけですが、自分が優勝するには前の連中がいるわけです。だから自分の場合は10数年かかっていますから、本当に感無量というか嬉しさというのは格別のものでしたね。

※どんな練習をしているんですか?

まず基本、突いて、蹴って、受けて、これを厳しくやっています。日本の連中はそういう武道的要素を全部取り払って、試合に勝てばいいという考えだから基本はやんない。ミット打ちをやったりでね。自分はかたくなに伝統的な基本をやっています。これはもうかかせななさいし、数も多くやる。

※これからもブラジルの選手を育てていこうと考えていますか。

次の大会は来年なんです。3回世界大会をブラジル人が優勝すること、それを達成することが使命であり、夢ですね。

※日本の若者たちに対して何か一言ありますか。

苦労しなさいと。自分を苦しい方向に持っていきなさい。
自分が若い連中に指導するときにいつもいうんですが、楽はいつでもでできる、強くなりたいんだったら、勝ちたいのなら、苦しい方向をやりなさい、っていいます。うちの連中は、フランシスコはが世界チャンピョンになるにあたって、いろんなことで苦労していることをしっているから、そういう意味でも説得力があります。昔日本人はいいましたよね、買ってでも苦労しなさいと。今の連中はそれがない。

※将来的には

空手をやるんだったらブラジルの練習をやれ、といえるくらいにしていきたいですね。自分がやっているときはずっと本来の基本に忠実な空手をやっていきたいし、続けさせたい。

※8月にイベントを行うそうですがどんなものですか?

今準備しているのは今年の8月に国別対抗戦の団体戦をやります。本部の方で第2回のワールドカップにしようかと言っているんです。というのはパリで1回団体戦をやったんです。ちょうど4年目にあたるんです。もうひとつ私がこちらに来て30年になるということを記念してという意味もあります。


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