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     文化・芸術・スポーツ関係  (最終更新日 : 2003/04/11)
ブラジル将棋連盟会長: 内海 博さん

ブラジル将棋連盟会長: 内海 博さん (2003/04/11)
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氏名内海 博
住所サンパウロ州 サンパウロ市
職業ブラジル将棋連盟会長
生年月日1923年 血液型AB型
出身地東京都
渡伯年月日昭和8年 モンテビデオ丸


2002年7月

※ 今どういったことをされているんですか

 79歳ということもあり、現役の仕事はしておりません。まあ、名誉職みたいなものですが、将棋連盟の会長を7年しています。それ以前は希望の家の事務局などで勤めていました。それから自分の親戚筋にあたるものに州議院を勤めています下元八郎という男がおりまして、その秘書補佐のようなことをして、日系社会の事情などを彼に伝えたりしていました。家内が下元の姉なんです。

※ 将棋を始めるきっかけは?

 その頃働いていた日本語放送に働いていたのですが、上司の義理のおとうさんが将棋連盟の役員で、世話していたんです。その上司はあんまり手伝いたくないので私がかわりにいかされたわけです。それがきっかけになって37、38歳の頃から将棋をはじめました。

※ 将棋は何段くらいなんですか?

3段です。
ブラジルの将棋の歴史は連盟ができて55年ほどになります。それ以前、移民が将棋を持ってきた頃からいえば、移民の歴史と同じようなものです。現在は私達の連盟に所属しているものが、およそ5、600人ほどです。年寄りが多いので減っていく方が多いのですが、二世の人たちもだんだん増えています。

※ 増やすための努力は何かされていますか?

 ブラジル語でも翻訳書を作ったり、あるいは若いものに呼びかけて小さな会を作ったりそのようなことをやっています。

※ 漢字で書いてあるのでブラジル人にはとっつきにくいですか?

入ってしまえば、漢字であることなんかほとんど関係ないですね。現在、純ブラジル人で10名くらいいます。二世の場合は、日本語が分からなくても、親父が将棋をさしていたりして、もっととっつき易いようですね。例えば、日本語はあまり分からないけれど地域の大会で優勝したという人います。

※ 将棋の原理はチェスと似たところがあるんですか?

 そうですね。似ていますね。インドに源を発し、それから、中国に渡って、日本に渡ったのが将棋なんです。だからもともとの母体は同じなんです。将棋は日本に来て、まったく独自のものになったもので今は日本の文化の一つになっています。

※ブラジルの将棋連盟と日本や他の国との交流みたいなものがあるわけですか?

ここ、4,5年日本に棋士を派遣したり、こちらに来ていただいたりしています。一昨年はアメリカの将棋の会がリーダーになって日本を除く海外の将棋連盟が参加して大会を開きました。ブラジルからは6名参加し、幸いにもブラジルが優勝しました。昨年も12月に第2回を行うことになっていたのですが、テロ事件のために延期になってしまったんです。今ニューヨークでは気分的にも大会を行う状況でなく、経済的にも十分でないし、治安の問題などもありますから・・・。しかし何かしなければならないということで今年の2月に萩原さんという方が来られて、もう少し前向きにしようということになったんです。それには大会に人を集めることが大切ですが、それと同時にインターネットを使うなどして海外の人と対局ができないものかと、言うような話をしまして、こちらでも検討しようということになったんです。
来年の2月頃、アメリカの人たちが、観光などをかねてくることになっています。それから、アルゼンチン、ペルー、パラグアイなど日系の移民の多いところと連絡をとりたいと思っているのですが、なかなか難しいですね。今これらの国につながりの強いゲートボール協会に頼んで連絡をとろうとしているところです。

※ かつて日本に行って、プロになれるような人はいましたか?

 例えば中林さんという方は初代の名人で13代連続続けた方ですが、戦争がありましたから、年代的にちょっと遅かったですね。日本では10歳位ですでにかなり上級でないとプロになれないという話ですから・・・。それ以降はブラジルからプロになれる人はいませんね。今度ブラジル代表で日本に行く14歳の男の子がいますが、この子が9つのときに日本に連れて行こうではないかという話があったんですが、親も疑心暗鬼だったし、本人も芽が出るかわからないし、結局いきませんでした。今はもう時期がすぎましたね。でも少年としては強いですよ。
 昨年、日本から6段のプロの方が見えまして段について話したところ、地域の段でよいでしょうということになりました。ブラジルでは現在6段が二人います。

※ 今までブラジルでいろんなご苦労があったと思いますが、ブラジルのいいところ、悪いところ、その辺をちょっと話していただけるでしょうか。

私は子供のときに、親父の意思でブラジルに来て、小金を儲けて日本に帰るんだということで、戦前は日本語だけでブラジルの社会とは隔離したような生活を送っていました。そして終戦と同時に、親父を失いましてやむなく方向転換をさせられて、今度は自分でブラジルの社会に入るしかなかったんです。私が家長になり、なんとか社会に出る方法はないものかと考えていましたが、農業だけでは難しいと感じておりました。その当時には経済的な事もあるし、社会的な自分の立場もあるし、日本には帰れないんだと、ここで力を入れて家長として使命を果たさなければならないんだ、という風に考えが変りました。

※ いろんな葛藤があったでしょうね?

そうですね。午前中は日本語学校、午後からはブラジルの学校に通って、嫌でしょうがないのに鍬をひっぱらなければならないというような問題がありました。それで学校いかせてくれないと農業を手伝わないとだだをこねたこともありました。13歳のときに、青年会の夜学部で、日本語とブラジル語の勉強を夜2時間ぐらい毎日やりました。本当は15歳からしか青年会には入れないのですが入れてもらったんです。青年会のある場所から家が一番近いところにいたので、青年会の図書部長になったりもしました。というのは図書部長さんはいつも遅くくるわけです。それで、責任を果たしていないといって部長さんをつるしあげたんです。それがきっかけになって、図書部長補佐になってカギを持てというようなこともありました。15歳のときには一番若いにもかかわらず、図書部長をやったりしました。
農業ではあまりいいことはなかったです。ブラジル農業は博打農業ですからね。兄弟、夫婦全部ががんばって、一発当たればよいですが、当たらなかったら全部ダメですから。いつも潰れてはまた一からやりなおしと言う感じでした。
52年頃にはラジオの日本語放送をやっていたんです。ブラジルでは12月に先生などの公務員や会社員は一ヶ月休暇をとって休みますね。それでその放送局をやっている人も遊びに行きたいだけど、休むわけにいかないから、ピンチヒッターで私がやったわけです。そのときもまだ農業をやっていたんですが、たまたま農閑期だったので引き受けたんです。そうすると、スポンサーがそのまま続けてくれないかということになったりしました。
また、サンパウロで喉自慢がありまして、私が若い者の引率で行ったんです。司会者が送れてきたためにピンチヒッターで司会をしたこともありました。それがきっかけになって今のイマージン・デ・ジャポン(TV番組)の奥原さんが田舎で喋っていてもしょうがないぞ、悪いようにしないからサンパウロに来い、と誘ってくれサンパウロに出てきました。その頃、奥原さんはラジオ放送をやっていたんです。
それから蛍光灯の仕事にはいり、制作販売や営業をやっていました。日本では40歳過ぎての転職は非常に難しいと思うのですが、私は再就職を何回もやりまして、それからもいろんなことをやりました。最終的に月給をもらう仕事は希望の園の福祉事務です。

※ ブラジルの悪いところ、良いところは一口にいうと

特に悪いところは感じませんね。私自身としては社会人として生活するには、他の国だったら人種差別とか人間的な差熱がありますが、そういう部分は全くない国だから初対面の人ともすぐ同じように仕事ができ、話しができるし、受け入れてもらえるし、そういうことで私はいい国だと思っています。

※ 今の日系に対して何かありますから。

私が父親の希望で、日本語オンリーの生活を強いられましたが、今の若い人には少なくとも日本語とブラジル語が両方できるようになって、社会で活動して行けるように努力して欲しいですね。また、視野をなるべく広げて、ブラジル人とも日本人ともなかよくやっていけるようになって欲しいですね。

※ 日本の若者に対して何か

日本人はもっと自信を持っていいのではないでしょうか。それと模倣心が強すぎます。例えば、サッカーの代表をみても髪が、茶パツだったり、赤かったり、あれは情けないと思います。日本人は黒髪がいいんだという自信を持ってもらいたいですね。あれがいいと思うことはすでに自分に自信がないということです。言葉にしても模倣ばかりしてなんか強さがない。自分という強さを打ち出して欲しいですね。

※ 今後の夢は

 私はこういう年ですから、私自身はなにもありませんが、将棋をブラジル語で定着させて底辺を広げたいです。


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