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(最終更新日 : 2003/04/11)
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自然染色研究家: 川上 久子さん
自然染色研究家: 川上 久子さん (2003/04/11)
氏名
川上 久子
住所
サンパウロ州 サンパウロ市
職業
自然染色研究家兼作家
生年月日
1941年
出身地
東京都
渡伯年月日
1967年
2001年8月
※ブラジルに来た動機は?
日系ブラジル人と結婚したからです。
※結婚されるときご両親は反対されませんでしたか?
そりゃあ、やっぱり心配しましたよ。私は兄と弟がいるんですが女は一人でしょ、それにブラジルがどういう所かもしらないし、家族は本当にびっくりしたり、心配したりしました。でも「自分が選んだことだから大丈夫でしょう、しっかりやりなさい」ということで許してくれたんです。
※お嬢さんだったということを聞いたんですが?
ブラジルに行く必要はないんじゃないの、っていう感じはありましたよね。
※旦那さんのどういうところに惹かれたのですか?
ブラジルの男性といのは誰でもそうだと思うんですけど、凄い親切じゃないですか。日本の男性は、集まりに奥さん連れていかないだとか、男性だけが楽しんだりしますよね。例えば会社の帰りにどこかで飲んでくるとか。ブラジル人にはそういうのがないのよ。だから会社から帰ってきたら、ゆっくり食事して映画に行くとか、夫婦単位の行動がブラジル人って多いのね。
彼は凄い親切で優しかったの。やっぱりこういう優しい人がいいな、って思ったのは確かでした。
※日本ではどういうことをしていたんですか?
女子美術大学という美大にいったんですね。油絵をやってそのときに図案とか他の勉強もするんだけれでも、図案科の先生が私の描く図案がいいからテキスタイル(織物や染物に関する平面デザイン)の仕事をしたらいいんじゃなかいって言ってくださったんです。それで学校を卒業してから10ヶ月くらいテキスタイルのデザインの仕事をしました。ブラジルに来てからもカネボーでフリーデザイナーとして1年くらいテキスタイルのデザインをしました。
染色は、日本で女子美に行っているときに平行して、友達に誘われて、世田谷染め研究所というところで染物を2年間習って、そこでロウケツ染とか染めの基礎を習ったんです。
※ブラジルにこられての第一印象はどうでした?
30年以上前でしょ。飛行場なんかほんと箱という感じだったんです。電気も凄く暗くて悲しくなりました。実は来る時、飛行機が12時間遅れたんですよ。朝の9時につくものだったのが夜の9時になったんです。ペルーから電報を打ったんですが、ついてなかったんです。それで主人の家族達は知らなかったわけです。インフォメーションもないし、だから家族たちは夜の9時まで待っていたんです。当時はそんな状態だったんです。家に着いても、周りは林や草原で何もないし、今は発展して家屋もどんどん増えていますが、道も土でした。
※お嬢さんに育ってよくそんな生活に耐えられましたね。
後々父にも言われたんですが、おまえは純情かバカかどちらかだっていわれました。洗濯機もなかったし、いろいろなことが次々におきましたし…、驚いたことがたくさんありました。でも遠くにきちゃったし、自分が選んだ人の所について来たんだから、ここで我慢しなけりゃならないなんていうんじゃなくて、これが普通かなっていう感じでした。お嫁さんはこういうものかと思っていたんです。
※今は草木染めをやっていますが、どうしてそちらの方に進まれたのですか?
一番最初に染めた春のヨモギの色が凄くきれいだったんです。家庭でだれもが使うたまねぎの皮、そういう身近な染料で染めた色が忘れられなかったからです。それとブラジルの自然の豊かさ。いろんな植物が豊富にあって、植物を見たらどんな色に染まるかな、といつも思っていましたから、前から好きなことができるときが来たら草木だけで染めようと考えていました。子供達も大きくなって自分の時間が取れるようになってきたんで始めたんです。
化学染料というのは材料は売っていますから買ってさえくればいろいろな色がたくさんありますが、草木はやっぱり材料を採りにいかなければならないとか、煮出して材料を作らなければいけないとか、時間がかかるんです。そういうことができる時間が取れるようになったことは大きいですね。
先人達が残した色を自分が染めたいと思ったし、もし私がずっと染めることができたら、私の後輩とかに素敵な色、自然の色を残しておくことができたら、と思っています。
※草木染めを本格的に始めたのはいつごろからですか?
主人と別れてからです。それまでも、私の好きなこと、勉強してきたことを継続して行きたいという気持ちはあったんです。それで展覧会や工芸展の作品は一生懸命作ってきたけれど、日ごろなんにも自分の好きな仕事をすることができなかったんです。工場があったのでその仕事を手伝ったり、家の中の大勢の食事を作ったりという仕事にあけくれていたんですよ。自分の時間にゆったりとした気持ちで何かをやるというゆとりはなかったのね。
父が、私に染物とかやらせてくれたのは私が結婚して子供ができて時間があったときに楽しむためにそういうものをやってもらいたいと思って習わしてくれたみたいなんだけど、そういうことが全然できなかったんです。主人と別れたときに、父がこれからは自分の好きなことをしてゆっくりくらせばいいよって言ってくれたんです。最初に先生から教えてもらってその色が忘れられなくて絶対草木染めをやろうと思っていたわけです。父も言ってくれたし、子供達もこれからはママが好きなことをすればっていってくれたから、これからは草木染めをやろうと思ったんです。
※別れた時点で日本に帰ろうと思わなかったですか?
父や家族や親戚みんなが帰ってきたらいいって言ってくれました。でも私は、大人になってからこちらの生活の方が長いじゃないですか。それに子供達はみんなブラジル人だし、日本の習慣とかを忘れようとしたわけじゃないけれど、ブラジルにいる間に日本の人と人の関係の難しさとか社会の制約とか忘れちゃいましたよ。私がそういう人間になって、子供達がブラジル人で上手に日本語が話せるわけじゃないし、書けるわけでもない。子供達も私も苦労すると思ったので日本にいかないでこちらで暮らすことにしたんです。
※その頃一番下の息子さんは何歳だったんですか?
下の子は10歳で小さかったので大変でした。彼は小さいときから一人で学校に通ってました。ママは一人だから仕事もしなけなければならないから何もしてあげられない。だからみんな自分で自分の道を開いていかなければいけないんだよって、小さいときから言ってたんです。早いうちにあの人達には何が好きかっていうことを決めてくれっていったんです、そうすればやる道は一本定まるじゃないですか。あれもやりたい、これもやりたい、っていうのはダメだっていったんです。お兄ちゃんは工業デザインをやりたかったので建築科を卒業しましたし、次男はエンジアニア、末っ子は絵を描いたりするのが好きだったので広告デザイン関係の仕事をしています。
※なかなか生活するのも大変だったのではないですか?
お金っていうのはあった方がいいかもしれないけど、自分が気をつけたことは健康であることです。
コーラスをやっているときに、遠征をするのに資金が必要だったわけです。それでバザーをやったんですが、それが好評で、それからも私の染めた物や工芸関係の仲間の物を集めてバザーを引き続きやっていたんです。そのバザーで売れたお金は私の助けになりまして本当にありがたかったです。今も、みなさんの作った手作りのものを家において売っているんです。
※草木染めの難しいところはどういうところですか?
ブラジルでは道を歩きながらでも材料はたくさん生えているわけですよ。だけども、人に何という名前と聞いても分からないわけです。今はエコロジーの関係で関心を持つようにになってきましたが、17年前は誰も知っている人はいませんでした。こんな色、何で染めたんですかって、人に聞かれたら、さあー知らないわとは言えないんで、植物のことを知っている人を探していると、たまたま私の友人が博物研究会というところに行っていたわけです。橋本先生の名前は前から知っていたんですけど、お会いしたことはなかったので、それじゃ博物研究会に入れていただいて先生と歩きながら植物のことを教えていただこうと思ったんです。いろんなことを先生に教えていただいて勉強させてもらっています。本当にありがたいことだと思っています。みんなが協力してくださって、植物を持ってきてくださったり、植物の採集を手伝ってくださったり、本当に博研の人たちは頼りになる仲間でありながら先生でもあると、感謝しております。
※植物をみたら経験上だいたい色がわかるんですか?
例えば木の葉の緑というのは、ほとんどが茶色い染料を持っているんです。緑だから緑になるっていうのはあんまりないんです。でもブラジルでは、ほとんどの緑色のものから染めたら苔色くらいになるものが多いですよね。パイネーラやつつじ、イッペーローショの花は薄いピンクから紫がかった色なんですが、出るのはきれいな灰色なんです。
日本で先生にならったとき、ちがったトーンの茶色を200色、灰色を100色染めるのが宿題だって言われたんです。だから世の中にある植物のほとんどは茶色色素と灰色の色素を持っているということなんです。灰色にも違いがあり、緑がかったり、茶がかかっていたり、いろんな灰色に染まります。だからこれで、何色がでるというのは染めてみないと分からないけれども、いくらでも次から次へと新しい素材が出てきてきりがないです。
※今まで染色して一番感激した植物はなんですか?
やっぱり、パウブラジルでしょう。赤、ピンク、オレンジ色・・・がでるんです。
※どうしてそんなにたくさんの色がでるんですか?
草木染めにはバイセン剤というのがあって、それは発色させて、色を定着させるという役目を持っているんですね。そのバイセン剤の掛け合わせの違いだとかやってみると、一つの植物から30色くらいが染められます。
パウブラジルの色というのは、どういうふうに染めたらどんな色がでるっていう辞書のようなものがなかったですから、自分でいろいろ掛け合わせて染めてみたんです。だから凄く感激しました。それとやっぱり最近そめて感激したのはラピエルホッシャ。家畜の飼料にするカンナからほんとうにきれいな緑色がでるんです。それとマモーナ(ひわ)の葉っぱ。
※パウ・ブラジルはやっぱり皮で染めるのですか?
皮じゃなくて、心材という心臓の部分なんですよ。だから木を切らなければ、赤い部分が出てこないということです。今は切ってはいけないし、ほとんど絶滅に近いですよね。この木は成長がとっても遅いですよね。なかなか染めるためにばっさり切るということは難しいです。
同じ木でも花と木の皮と葉っぱと同じに染まるのもわずかにありますが、それぞれ違った色にでるものがほとんどです。例えばバラやざくろはすべて同じ色がでます。
やっているとほんとうにキリがなくて、自然の色の素晴らしさが体験できて素敵なことだと思います。
※日本の若者について何か?
日本の若者との接触がないですよね。時々帰って見て驚くのはなんかあまりに日本人じゃないみたい。例えば髪の色を染めちゃって、その人に似合っているのかないのか? 黒い髪の日本人っていうのにあんまり会わないのに驚きますね。それと日本語をちゃんと話す人がいないっていう感じがしますよね。なんか日本語と英語がまざった、略した言葉で全然わかりません。
今はそれが普通なのかもしれないけれど、例えば列車の中でばっとハンドバックを開けて口紅を塗っている人とか、お化粧をしている人、そいうのは凄く驚きます。だってブラジルにはそういう人はいないでしょ。学生は学生らしいでしょ。なんか高校生なんか見るとブラジルの方が学生らしいっていう気がします。やっぱり、年相応の態度をして欲しいですよね。若い年代の人の感覚がずれているんじゃないかなって思います。
※将来の夢は?
今までは、ブラジル人の素敵な生活というのは、子を育て、本を書き、木を植えるというのが人間の一生の夢だったそうなんです。だから私も本を書くのが夢だって10年前から言っているんだけど、なかなか書けないのね。本を書くとなると色見本をきちんと作らなければならないし、自分は染物をやっている人間なんだけれども、まだまだ家の中の生活もしなければいかねいわけです。そうすると独りではなかなかできないのね。一つのことだけに集中している時間がやっぱり少なくて、食べるお金も作らなければいけないから、売るための小物なんかも作るわけでしょ。そうするとなかなかそういう仕事ができないんです。植物を採ってきても色見本をつくるとこまでいかないわけです。人が見て、この本を見みたら染めたくなったという本を作りたいわけです。
そんなわけでいろいろ時間がたってしまってなかなかできません。本当は60歳までに本を作りたいと思っていたのにできなかった。あと5年くらいのうちに書けたら、と思っています。それは夢ですよね。
今までいろんな方に教えてきたんですが、続けてやってる方は一人か二人しかいないわけです。それはアパートに住んでいて場所がないとか、草はどこで採るの、っていうことになるわけです。染料自身も自分で作らなければならないので面倒臭くなっちゃうみたいなんです。やっぱりやる方がいなし、本を作れば少しずつでも染めてくれる方がいるんじゃないかなーって思うわけです。ブラジルの植物の色を知らせたいし、自然の色を知って自然界を知る興味が湧いたらいいんじゃないかなーて思っています。だからそういう本を作りたいです。
※ブラジルに来てよかったですか?
それは良かったです。いろんなことがありましたが、日本の中にないいろんなこと、例えばブラジル人というのは人と人のつながりはすごいシンプルなんだけど、心がやさしいというか親切な人が多いですよね。困ったときには、うわべや形式だけじゃなくて自然な感じで助けてくれるんです。経済状態が悪いとか、治安が悪いとか、悪いところはいくらでもありますが、いいところも山ほどあります。だからブラジルに来てよかったと思います。
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