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     文化・芸術・スポーツ関係  (最終更新日 : 2003/04/11)
カルチャー・センター経営: 田口 定之さん

カルチャー・センター経営: 田口 定之さん (2003/04/11)
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氏名田口 定之(洗礼名:ルネ)
住所サンパウロ州 サンパウロ市
職業画廊を主にカルチャー・センター経営
生年月日1932年
出身地東京都
渡伯年月日1955年


2001年8月

※移民で来られたんですか?

 単独で学友を訪ねて来たわけです。だから自由渡航。権利も買ってね、そういう若者があの時代多かったです。

※来た動機は何だったんですか?

敗戦当時の日本がいやになっちゃったです。

※でもブラジルでなくても良かったわけですよね。

その当時はどこの国も全然入れてくれなかったんです。学校でスペイン語をやっていたんで
本当はブラジルからウルグアイに行くつもりだったんです。
 私の遠戚の叔父になる人が敗戦直前の大蔵大臣で、戦前は日銀のロンドン支店長、戦後は赤十字の総裁をやった人だったんです。子供の頃、彼に世界で一番いい国はどこでしょうかと聞くと「自分が外国に住んだ経験からいうとウルグアイだ、ウルグアイは南米のスイスだ。あそこにいったら、そんなに働かなくてもいいし、人はいいし、白人の率が南米では一番高いし、文盲率が0・3%だ」という話だったんです。ウルグアイはその時点で40年~50年移民を禁止していた国で、縦の社会なんです。だから例えば郵便局員になった場合ずっと同じ職業でいられるという調子です。それはやっぱり落ち着いた国だからそういうことができるんだよね。それと外貨事情、途中でちょっとガタガタしちゃったけど、一番安定した国だった。そういう意味で南米のスイスと言われていました。北米がウォールストリート、ヨーロッパがスイスのジュネーブ、そして南米がウルグアイのモンテビデオといわれていました。

※そのときは永住するつもりはあったんですか?

まあ、行ってみてよかったらということだったんです。やっぱり誰かいないと心細いから、中学時代の同級生がこっちの2世だったんで、彼と文通したんです。まずブラジルへ行って、それからウルグアイへ入ってやろうと考えてみたわけです。そんなら来たらということになって、よし来た、ということで来ちゃったわけ。

※その頃は大学生だったんですか?

その頃は大学じゃなくて、僕の言った学校は東京外事専門学校って言われてました。後の東京外語大学だけど、そこでスペイン語を勉強したんです。1年半ぐらいしかいなかったけど。途中退学だったの。それでしばらくお金を作るためにロイター通信に記者の見習いで入って、お金をためてこちらに来たわけです。ついてみたら外語の先輩がたくさんいるわけよね。そのつてを頼って三井物産に入ったんです。
ちょうど東京の本社から木材部の人間をよこしてなかったんです。フィリピンのラワン材だとかアラスカのパルプ材とかを主に取り扱っている人がいたけど、南米となると銘木でしょ。銘木となると物凄い専門知識がいるんです。僕が育った下町は材木屋が多いところで、昔から材木に趣味を持っていたんです。それで僕がブラジルの銘木を紹介する役をやるようになって、机をもらったのがきっかけで約20数年働きました。その間、深川の北三に日本の商社としては初めてジャカランダを大量に輸出しました。ところが途中で銘木伐採が禁止されて、その解決策として東京の木材工場がこっちへ進出してきたんです。というのは、ここで加工して製品としてならば輸出が許可されたんです。それで僕は物産にいるときに北三をこっちに呼んだんです。北三をそのままポルトガル語にもじってノルトレスという名前にして、それから社長に祭り上げられちゃったわけです。木材関係を専門にやってくれるなら、ということで出向させられちゃったんです。日本でその当時日本1の家具工場といわれた山形の天童木工が東京で北三と原料供給関係で結んでいたので、第三次製品を天童に作らしたら面白いんじゃないかというアイデアから、その話を持っていたら、よろしいということでその話もぱっと固まっちゃったんです。その当時タウバテ市が工業誘致で土地を無料で与えていて、天童が北三の隣にやってきたわけです。それで僕が北三の社長を任せられていると同時に天童の社長をやって欲しいということになったんです。というのは日本から来てもすぐには永住権が取れなかったので、永住権が取れても事情がわかるまでの間の2年間雇われ社長をやらされたんです。

※レシフェの方にも居たお話を聞きましたが。

物産でアメリカへのイセエビの輸出とメキシコからのエビ漁船の輸入の連絡事務所が必要で誰かいかなければならなかったんです。それで、コトバがわかるので便利だということで行かされたんです。

※あの頃のレシフェの生活は良かったんじゃないですか?

 良かった。仕事しないで詩ばっか書いていたよ。あの当時の詩が随分パウロリスタ新聞に残っているよ。

※みんなにレネさんと呼ばれていますが、レネというのは本名なんですか?

これはいちおう本名なのね。レ(正しくはル)というのは再びという意味でしょ。ネというのは産まれると意味。その名詞で有名なのはルネサンスだよね。僕が洗礼を受けたベルギーの牧師さんが名前として選ぶならレネがいいだろうと、理由としては僕の名前が定之で田口でしょう、そうするとSTでしょ。その前にRがつくとRSTになるでしょ。それと冗談で、洗礼をうけるならば、過去の罪を悔いて改めるという気持ちがあるはずだから生まれ変わるという意味でレネとしなさいと。

※じゃ、昔随分と悪いことをしたんじゃないですか? レシフェでは女の子を泣かしたんじゃないですか。はははは。

いやー、逆に泣かされたんじゃないの。噛み付かれるしね。あのほら、向こうの人はインディオの血が強いじゃない。だから気が強いんだよ。例えば日本人の仲間とビールを海岸に飲みに行くでしょ。そうするとなんか寄ってくるわけ。ビールを飲み終えて気分がよくなってさあー帰ろうと立ち上がった瞬間に女の子がぼかー,と噛み付いてきた訳、だってこっちは飲みに行っただけでしょ。ちなみに一番気をつけないといけない女はパライーバとアラゴアス生まれ、これは気が強い。アラゴアスの人間というのはブラジルでも銃の名人がたくさんいて殺し屋がたくさんいる。
 こっちが女の子を探すということはなかったね。それよりも捕まる可能性があったから気をつけて歩かないとね。恋愛するんならいいかげんなことはできないよね。命がいくらあってもたりないよ。

※あの頃は日本人いなかったでしょ。

ニチレイがマグロをとっていて、船員が結構いたよ。在住の日本人の奥さんがとれたてのマグロのトロを分けてもらっていたんです。たらたら脂がでるほどで、それはおいしかったよ。
 サンパウロから比べると食費なんか3分の1だもんね。すみ易かったけど、いつかぱっと気がつくとこんなところに居ていいんだろうかという気になちゃってね。タヒチで一生過ごしたゴーギャンみたいな気持ちになって自分が画家だとか自分の才能で一生食っていかれるという自信を持った人、そういう人ならいいんだろうけど。

※どうしてまた画廊を開いたんですか?

親父が宮中の蒔絵師だったから、受け継いだ血かな。それとヒデコ(奥さん)が画廊を経営していたから。開けてもう25年位になるかな。
祖父も蒔絵師で、親父はずっと宮中ご用達でやっていて菊のご紋の専門だったわけ。そういう仕事も戦争が終わって戦後になるとほとんど商売がだめになってきた。

※詩をよく書かれていますよね。

 お袋が土佐の出身で、彼女の叔父に明治の新体詩運動の一人大町桂月がいて、もうひとりの叔父は法政大学の創立にかかわった法律学者(東川徳治)いたんです。その血統からいうと商売人というよりはそっちの方の血が強かったみたいね。それからB型でしょ。B型というのは理工系には向かないよね。気分屋なんだよね。文芸関係が多い。

※日本の若い人に何か一言ありますか。

 田中真紀子さんが自由にモノを喋られていますが、僕は一面もののすごく共感するところもあるよね。親父さんの仇をうちたいのかな、という感じも受けるけど。
 アメリカが戦争に勝って日本に上陸したときに、中学、高等学校を調べ歩いて非常に学問のレベルが高いということに気がついたんです。僕らの頃も微積、ロガリズモ、三角法は勉強させられた、これは進駐軍の関係者をびっくりさせたらしい。アメリカ人は、日本人を怖いとみたんだよね。日本人が頭のいい民族だということは前前から知っていたから、これはなんとかしなければいけない、ということで6・3・3制に変えたわけだ。最近になって中曽根さんなんかが昔の旧制高校に戻すべきだといい始めたでしょ。一高だとか二高だとかがあった旧制高校時代の日本人のレベルはやっぱりたいしたものですよ。そういうことから日本人一億総白痴にしなければ、アメリカに仇をうちにくるのではないかという心配があったんじゃないかな。それでことごとく若者をジャズ化したわけだ。遊べと、ガリガリ亡者ではいかんのだということで、軟弱にさせるようにどんどん政策をすすめていった。だから最近になって今の日本の若者はそのときにアメリカが望んだ通りになってしまった。それにさらに追い討ちをかけるように教育者側が、肝心な基本を全然教えない、コンピュータを使うとすぐ答えがでてくるという教え方で、日本ってこんなに下がちゃったのかという位のレベルになちゃった。だからこれからの若者たちが育つと今までとは違う日本ができてきてしまう。もう、だからいわゆるロボット化されてきたんだよね。そういうことを田中真紀子さんが知っているかどうか分からないけど、いやにつっかかるでしょ。彼女の意気には同感するよ。今ごろあんなことをいえる人はいないもん。

※この画廊によく日本の若者がきますが、どんな感じですか。

ここに来る連中というのは日本でも一般的とは言いがたい人が来るわけよね。ようするにアートの人たち。だから自分の道を定めた人が来るから、その道に関する知識とか経験とかそういうのはしっかりしたものを持っていると思う。ただ一般常識が少しアレっと思うときがある。例えば、これはくだらないことかもしれないけど、箸の持ち方がおかしかったりね。

※感覚的にはどうですか。

 今の人達は抽象の人達がほとんどだから、頭でよく考えるよね。昔の絵描きは外に絵を描きにでかけたけど、今のここに来る若い人たちは、毎晩のように展覧会によく行っているね。

※今後の夢は。

 人に迷惑をかけずやすらかに死んでいきたいね。ははは。

※何を言っているんですか。そんな寂しい。

決して寂しいことでなくて、人間が辿っていく道だから。体をぐずつかせて、みんなに迷惑をかけたりしないで、ぽくっといきたいですね。


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