植物研究者: 橋本 梧郎さん (2003/04/11)
| 氏名 | 橋本 梧郎 | 住所 | サンパウロ州 サンパウロ市 | 職業 | 植物研究者 | 生年月日 | 1913年(大正2年) | 出身地 | 静岡県 | 渡伯年月日 | 1934年 モンテビデオ丸 |
2000年8月
※どうしてブラジルに来られたのですか。 理由はいろいろありますが、第一は、植物学が好きで、日本の植物ではあきたらなくなったからですね。チャールズ・ダーウインやアンゼンチンのハドソン、アマゾンの博物学者のベイツの本を読んだりしたことも影響しています。 その頃、ブラジルが日本人の行ける唯一の自由に行けるところだったんです。結局ブラジルに絞っていろいろ調べたところ、海外興行株式会社が政府を代行して希望者を募集して、手続きすれば行けるようになっていました。ところが普通のブラジル移民はすべて家族移民だったんです。当時ブラジルが欲しいのはサンパウロのコーヒー園で働く労働者でした。だから1家族に3人以上の労働者がいなければダメで、1人では移民できませんでした。そうするうちに、朝日新聞の広告にエメボイ農業学校の実習生募集の広告が載っていたんです。これだと、いうことで結局、選考を受けました。同窓は16人でした。 ※植物に関心を持ったきっかけはなんだったのですか
中学時代に、動物、植物、鉱物に詳しい先生がいて、あんまり教室で授業をせずに、ほとんど野外にでて実地に教てくれるような先生でした。夏休みには2週間ほど、海岸に希望者を連れていって、プランクトンネットで夜光虫などをとって顕微鏡でみたりね。その先生の影響が強いですね。昆虫採集をやったりしましたが、やっぱり虫を殺すというのが好きでなくてね、結局植物に凝ってしまったね。だから卒業しても植物についてやりたかったんだがね。 あの頃は昭和の初めで、一番不景気なときで、学校の先生をやってみてもたいしたことはなかったし、戦争が近づいていたということも、移民するきっかけとなりました。満州事変が始まり、シナ事変が起こり、10万人ほどが移民で満州に行った時代でした。そんな所に行っても私は身体が貧弱だし、戦争に行っても真っ先に鉄砲だまに当たって死んじゃうだろうし、そんなバカな話はないと思って考えたんです。やっぱり自分の好きなことをやりたいものね。日本にいたらだめだと思ってね。ブラジルは憧れの地だだったしね。
※こちらにきてどういう仕事をされたのですか?
2年間農学校で勉強しました。しかし、農学校を出てもとうとう百姓はやらなかったですね。またそういう人が多かったですね。
※その後はどうだったんですか?
卒業してさしあたりどうするかということになって、モジの郊外で日本語学校で勤めることになり2年間働きました。校長兼こづかいで1年から6年まで一人で教えるのはなかなか大変でした。ときどき理科の授業では、お世話になった先生の影響で、子供らを外に連れていって教えたこともありました。 ヘビ多いところで、朝起きるとベッドの下に大きなカスカベル(ガラガラヘビ)がいたりしてね。夜、父兄の家にいった帰り見ると、道にいっぱいヘビがいて、その時はあまり思いませんでしたが、今考えると危ないことでした。 2年間やって先生も嫌になって、栗原研究所で働くことになりました。今では関係者は僕しか生きてませんが、面白い研究所でした。研究所を作ったのは神屋信一という男で、日本にいるときに紹介されていたんです。1936年にこの研究所ができ、僕が入ったのは1938年からです。研究所といっても貧乏で4人しか職員はいませんでした。サンパウロの本部は今のサンパウロ新聞のある通りにありました。
※楽しかったでしょうね。 神屋さん以外は独身でしょう、やりたいことをやったわけだ。一人が昆虫やったら、一人は天文気象、もうひとりは考古学、そして僕が植物。金がないのでないので何か考えては寄付をしてもらったりしました。結局僕が入ってからその当時の海外興行株式会社のサンパウロ支店長に理事長になってもらったんです。それでかなり融通がきいて補助金も大分だいしてもらいました。 採集を兼ねて、月の半分は方々へ歩いたものです。戦争がなかったらもっと発展したんでしょうが、戦争ですべてがなくなってしまいました。 それで、お金を得る手段にブラジル日本移民歴史調査というのをはじめました。植民地を選んで会長に話しをつけて、その植民地の家族全員の写真をとり、履歴、記録を全部とりました。こういうことをしながら、僕は採集をして歩いたわけです。考古学をやっている酒井さんと一緒にサントス・ジュキア線の調査をずっとやりました。95%が沖縄出身で面白いことにお年寄りは内地語が分からないんですよね。だから沖縄県の人に知り合いを作って通訳してもらって歩いたものです。中には船から逃げ出して、そのままいついた男がいて、彼は沖縄語をブラジル語だと思っていました。面白かったねー。 お土産もってインディオのグラニー族の部落に入ったり、奥地で調査しながら採集したり、楽しかったね。
※天皇に標本をさしあげたということですが。
その頃の大使がみやげに動植物の標本を作ってくれということになって、植物標本も大分つくったなー、あの当時昭和天皇がネンキンというきのこを研究していましたから北パラナのウライで採集した覚えがあります。マット(森)の中で虫眼鏡がいるぐらいの小さなものを探すんです。点数にして100点くらいかな、採集して箱に収めて、大使がもっていきました。2回くらいあげたかな。結局そのネンキンがその後どうなったのか僕にしては気にかかっていたんです。それがNHKが僕を取材したときに、その所在をつきとめて、ちゃんとリストにあるということを確かめて送ってきたよ。だから僕もおと年日本に行ったときに前もって連絡して見せてもらったんです。昭和天皇がもっていた標本は筑波の植物園に平成6年に移していたんですが、向こうも事情を知っているから園長自らから迎えてくれました。普通は入れないところなんですがね。 アマゾン調査しようということになり神屋さんと酒井さんが、戦争で最後の船が日本に帰るというときに、日本に募金に行ったんですが、結局、戦争でどうにもならなくなってね。国内も外国人だから自由に歩けなくなって、採集もできなくなりました。カンポス・ジョルドンの出張所にいくにも、警察に行って届け出をして通行書をとらなければならない時代でした。 やっぱり生活していかなければならないから、生活の手段として日本語を教えて大分歩きました。
※博物研究会の始まりはいつからだったんですか?
戦争が終わって大分落ち着いてきた1950年に、リオで開かれた第5回微生物学会に日本から学者が来たんです。コロニアからも誰か出ろということで僕が出ることになったんです。戦後初めてだから、先生たちに日本の事情も含めて学術講演をしてもらったんです。そのとき来たのがクロレラについて研究されていた田宮さんだったんです。僕も、彼が講演するのについて奥地をほうぼう歩きました。ちょうどそのときに植物をやろうという人たちが集まって、話しをしているうちに今の博物研究会の発会式になったんです。田宮先生が名前をつけてくれて、それから50年、博物研究会は続いています。 栗原研究所もほぼ終わってしまい、結局残された資料は全部ぼくが引き継いでそれぞれ分散してしまいました。 その後、日本人を入植させたいからパラグアイ国境のガイラに試験場を作るからあんたこないかということになったんです。地図見たら随分遠いし変わったものがあるだろうということで52年の11月に行きました。そこに20年以上いたかな。すぐ帰ると思っていたんだけどなかなかそうもいかん。
※植物研究会はその後どうなったんですか
僕はいなけいど、会長がいて役員がいてほそぼそやっていたわけです。僕は毎年行われる採集会は一度もかかしたことがありません。ガイアからサンパウロに来るのは大変なんだ。1千キロあるからね。最初の頃はバスもなくて、だいたい道がないんだから。なんできたかというと飛行機できたんだ。そのうちに国道ができてバスが走るようになってそれを利用してきました。私はそこで採集をしながら、日本人会を作ったりしました。試験場というのは民間だから土地を売ればもう用はないわけ。結局閉めることになったんですが、連邦政府が観測所を作ることになって呼ばれたんです。そこに2,3年いましたね。そこで気象のことは大分覚えました。
※今後の展望は
97年に博物研究会の会館建設が始まってやっと研究会の本部ならびに標本館が完成し、今まで苦労して集めた標本が収まりました。今までは、まず採集で、十分研究する暇がなかったのですが、現在は植物の整理分類をやっています。分類がまた大変なんです。点数にして10万点くらいあるんでこれからまだ何年もかかるな。 もう年だからね、先のことはわからんが、標本館というものは学問的なものだから、よそから研究者が来て標本を見て研究する、そういう体制を早くつくらなきゃいかん。体制づくり、それが一番の問題ですね。
※日本についてどう思いますか 私も今衛星放送でNHKを見ているから、昔からみたら、現在の日本は実に変な事件が起こっているね。このままでは世界に遅れてしまうような感じがするね。技術的にはずいぶん進んだ点もあるけど、政治的に貧困だと思います。
※日本に対する期待は 植物の方でいえばもっと日本に期待していましたが、あんまり進んでいないですね。一番の欠点というのは日本の政治家がもっと科学を振興しなければいけません。テクノロジーは進んでいるけれど、もっと根本的な科学に理解力がなくて金を使わないから、他の国に比べて国力がつかないと思うね。ほんとうに貧弱ですよ。まことに他よりない。
※趣味はなんでしょうか
今はほかのことを考える暇はないから、植物に関する本を読んで、もう少しなにかにまとめたいと思っています。そのひとつとして、私が研究したブラジルの植物を総決算としてをまとめていきたいです。もうひとつ計画しているのは最後のライフワークとして南米の有用植物をまとめた辞典を作りたいですね。
※一番大切なものは
やっぱり自分の採集した標本でしょうね。なにものにも買えがたい世界の財産だと思っているからね。自分のものではなくて。
※好きな食べ物
刺身とか寿司とか日本食だね
※ブラジルにきて満足していますか
満足しています。自分で本当にきたかったんだし、まがりなりにも自分の好きなことができたからね。
※国籍は移されたんですよね。惑いはなかったですか。
なかったね。 やりたいことはたくさんあるけど、そう一度にはできないから、今後ライフワークを進めていくためにも、まだ歩いていない海外の国をひと通り歩きたいですね。たとえば、コロンビア、ベネズエラ、パタゴニアそいうとこを歩きたいですね。
|