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     文化・芸術・スポーツ関係  (最終更新日 : 2003/04/11)
人文科学研究所所長: 宮尾 進さん

人文科学研究所所長: 宮尾 進さん (2003/04/11)
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氏名宮尾 進
住所サンパウロ州 サンパウロ市
職業人文科学研究所所長
生年月日1930年10月28日
出身地ブラジル アラサツーバ
渡伯年月日


2000年10月

※小さい頃に日本に行かれたそうですが?

 うちの親父は長野から第三アリアンサに入って、僕はそこで生まれて9歳のときに日本にいきました。親父の家の跡取がいなかったので、誰かが宮尾家の跡をつがなきゃいかんということでいったわけです。

※ご両親はこちらにおらたんですよね。9歳というと物心がついている年齢ですが、嫌だとはいわなかったんですか?

 男の兄弟3人、女の子もいたんですが、誰か行かないかといわれたとき僕が手を上げたらしい。ま、行ってみたいという気持ちがあったんでしょう。
 日本ではおばあちゃんひとりが残っていて、一緒に過ごしました。お袋からいろいろ日本の話は聞いていて一種の憧れみたいなものがあったんですが、行ってみたら随分と違っていました。田舎だったし当時の日本は貧しかったですよね。9歳でいってすぐ小学校3年に編入させられましたが、僕はアリアンサのコロニアにいましたから、日本語には困りませんでした。

※高校、大学と日本で過ごされたんですか?

 行った翌年に太平洋戦争が始まって、中学2年生のころには学徒動員にひっぱっられほとんど授業はなかったよね。大本営を造るために、朝鮮から連れてこられた労働者と一緒に山を掘ったり、工場で戦闘機の羽根を造ったりしました。2年生途中から3年の終わりまでほとんど授業はなかったです。

※やっぱりブラジルに帰りたいと思っていたわけですか?

 それはありましたよ。工場にいれられたときはまったく食い物がなくて終戦前には新潟に満州からついた大豆の油の絞り粕をたべました。肥料にしているやつ、それを食っていました。とにかく腹がすいていてね。そんな状況だったから、やっぱりオレはしくじったな、と思いました。ははは。
 跡取の権利を放棄するからっていうことで、戦争が終わって8年目、大学を終えてから逃げてきました。おばあちゃんは話せる人だったから。

※ 大学はどこだったんですか?

 松本の信州大学です。哲学を専攻していました。その頃、哲学やろうという人間は5人くらいしかいなかったね。
 寮に居たこともあって、食料委員長みたいなことをやったこともありました。あの頃はアメリカの放出物資で砂糖だけがきたりしてね。リヤカーに砂糖つんで闇屋の親分のところにいって米に交換してもらったこともありました。
寮の朝飯は、サツマイモ1個だとか、昼飯はスイトンだとかそういう時代だったんです。

※ブラジルに帰ろうと思ったききっかけは

 戦争が終わっても大変だったからね。よくなったのは64、65年ごろからだから。食堂へ行っても自由にものを食べられる時代ではなかったですね。その頃食券というのがありました。大学でてもあの頃は不況で就職も大変で、大学出の初任給で7000円くらいでした。当時はブラジルの方がずっとよかった。そんなわけで卒業した時点で帰ろうと思っていました。

※帰ってきてどうでしたか?

 日本で苦労したから1年か2年かは何もしないで、ぼさーっと暮らすつもりだったんですが、赤間学院から先生してくれと頼まれてね。あの頃は半田友雄さんだとか偉い先生がたくさんいました。ということで半年も遊ばないうちに午後先生やりました。
 コチア組合の広報課で斎藤博さんが農業雑誌をやっていたんですが、斎藤さんがやめることになり午前中何もしていないのなら手伝って欲しいということになったんです。それ以来、雑誌の編集を長い間やりました。
 その後、コチアから別れてやっていたんですが、日本語の雑誌もだんだんと読む人も少なくなてきてやめるといったんです。そのときに南伯共同組合とコチアと産業組合中央会がやめないで続けてくれということになり、3つが金をだし、「農業のブラジル」という名前で、新たに始めました。結局雑誌の仕事は56年から77年頃まで続けました。

※ 宮尾さんというと人文研のイメージが強くてそんな仕事をしていたとは知りませんでした。

 人文研の前身は、戦争の終わった翌年からあったんだよね。土曜会という会で、ブラジル研究が行われていました。当時は負け組みの連中が多かったです。神田さん、斎藤さん、安藤さん、こういう連中、つまり認識派が集まって、ブラジルに永住する以上はブラジルのことを知らないといけないということで始まったものです。それがずっと事務所もなく続いていて、いろいろ援助してくれたのが県連の創設者である中尾さんです。「研究することがあったら言ってください、金は出しますから」っていう感じの人でした。
 この文協の建物ができたときに1部屋借りてそれから正式に人文科学研究所という名になったんです。65年からです。

※ 最初は人文研はどういう活動をされていたんですか。

 ブラジルの移民についての研究だとか各国の移民についてだとか、ブラジル研究が主だったんだけど、時代が変わってブラジル研究というのはポルトガル語でたくさん出ていることもあり、また日本移民が1953年より再開されていることもあり、日系移民の歴史の研究、日系社会の研究、この二つを主とした研究テーマの中心になっていきました。その頃からコチアで働いていましたが、僕もメンバーではあったわけです。土曜会にも参加していました。

※ そうそうたるメンバーがいたんですね。

 そうだね。随分大勢いてそれぞれにみんな研究を続けていました。安藤さんはいろいろ本を書いているし、半田さんもそうだし、斎藤さんもそこから出発して大学の先生にまでなったし。中尾さんに援助してもらっては本をかったりしてね。そういう意味では中尾さんは非常に偉い人でした。

※ 宮尾さんはそのころどういうことなさっていたんですか。

 集まりにはしょっちゅうでていました。「君は日本で何を勉強していたのかね」って聞かれて「哲学です、サルトルやっていました」っていったら、「そのことを発表しろ」ていわれてね。発表するとみんな厳しいんだ。
「君はその程度しかサルトルを読んでないのかね」なんていわれてね。ははは。だけど面白かったね。

※その後雑誌はどうされたのですか

 結局、日本移民の中で農業者もどんどん減っていくでしょ。世代が変わって2世の時代になるとペイするようなとこにいかなくなってきちゃってね。無理してやってもしょうがないから、どうしようもなくなる前に辞めるっていったんです。周りには随分と辞めないでくれ、という声もあったけどミキリをつけるのが早かったです。赤字を作って辞めたっていうことになったら大変だからね。みんなにお金はらって、自分には何も残らなかったけど。
 その後、コチア青年の若手が続けて欲しいということで、1年ほどして「アグロ・ナセンテ」が、田尻さんなんかが参加してできたわけです。

※行動に移すのが速いですね。

 いわれたことがあるよ「もっと自分で走り回って努力して続けなければだめだ」ってね。だけど2世が農業雑誌を日本語で読むということはりえないし。
 辞めて、斎藤さんが日本からの会社「紀聞」を紹介してくれて1年いきましたよ。

※ サラリーマンもやられたんですか?

 ブラジルで何かしなければならいということで、あの頃豚飼いがよくて豚飼いを会社に勧めて、ソロカバの近くでやっていました。
 当時、僕が入った頃は日本は豆乳ブームで紀聞なんか早い方で日本でシェアーを30%ほどもっていたんじゃないかな。ブラジルはとにかく大豆の大生産地だったんで、その大豆を利用してブラジルでも豆乳をやればいいと思ったわけです。あの頃、ブラジルでは大豆は油をしぼるだけだったんです。豆乳をやったらどうかということで、州政府にまでいきました。牛乳よりも安くできるし、牛乳は今は足りないといことはないけれど、当時は旱魃の時期なんか足りなくなって困ることもあったしね。日本からの豆乳を飲ますと、これはいいということで全部買いましょうということになったんです。そこまで商談をしていたんですが、結局ぽしゃっちゃって。
 全部まかされれば利益をあげることができるですが・・・。結局けんかしてやめてしまいました。
 辞めるときに国際部長が飛行機で飛んできて「考えなおしてくれ」っていわれたんで、飛行機で来るお金があるんだったら、今必要なトラクターを買うのにそのお金を何故まわさないんだっていいましたけどね。結局辞めました。

※ 豆乳は惜しいことでしたね。

 そうですね。一番早かったですから。その後でアグロニッポー、ヤクルトがやり始めまて売れていますからね。

※ ブラジルに帰ってきて満足していますか

 自分の好きなことをやってきたからね。

※ 今後の展望は
 
 10月28日で70になるからね。所長なんかやっていると経営の責任があるから、いっぱいやりたいことはあるんだけど雑用に追われて難しいですね。所長を下ろしてもらったら平の研究員としていろいろやりたいことがあります。
 例えば、半田さんが亡くなって、遺族のから日記を全部もらってきたんです。実に綿密に書いてある。半田さんについて日記をもとにしてまとめたいと思っています。

※ 日本についてどう思いますか

 僕は2重国籍で日本にも国籍があるのだけれど、別に選挙をしようなどとは一切思わないですね。今自分が生活しているブラジルの政治については当然義務もあるし権利もあるんで考えます。
 日本政府は、海外に出ている移住者に対しても随分とお金を使っているよね。そいうことに対してこういう風にすればいいんじゃないかという考えはあるよね。日本の状態だとか政治に対しては何もいうつもりはありませんが、JICAだとかには我々が調査してその結果をもとに、こうしたほうがいいんじゃないかということは新聞に書いたりしています。
 移住者のアフタサービスとして日系子弟に日本語を教えるためにJICAが多くの援助をしています。これで成績があがっていけばいいですが、どんどん日本語を学ぶ2世3世が減っているわけで、方向転換しなければならないんだけれど、それがなかなかできない。我々の調査によると3世42%、4世が62%が混血です。そういう若者たちが学習の対象になっているわけです。ということは日系人だけというのではなく、対象はブラジル人の子供達にいかに関心をもたせるか、どいう形でおしえるか、そいう方向にもっていかないともう日本語はほろびます。僕らがああしろ、こうしろというんじゃなくて調査結果を見て、やらなければいけないことを考えてくれと常に言っているわけです。
 僕らのところは研究所だから、これらの結果を見てどうしたらいいかといことを考えてくれというのが僕らの立場です。何年か前に日伯学園を作ることになっていましたがぽしゃってしまったしね。コロニアもダメだし、日本政府もだめですね。
 例えば、余所の国は自国の移民に母国語を普及するだけでなく、いかに自分の国の文化をこの国に普及させるかということを考えてやっています。ドイツなんか2つ学校があります。この学校は普通のカリキュラムとドイツ文化を普及させるのを一緒にし、義務的に毎週4時間ドイツ語を教えています。ドイツ語の1級をパスしたらそのままドイツの大学に入れるシステムになっています。イタリア、イギリスなんかもそうです。
 日本政府もコロニアもそういうことは考えていませんね。
 島国のせいか、余所の国の文化は取り入れるが、自国の文化を他に普及させる意識はでてきませんね。コロニアにしてもそうです。日本文化を自分達の子弟に伝えたいという気持ちはあるけど非日系まで伝えようなんてことはおそらく誰も考えてないのではないでしょうか。
 文化を普及させるということは、必ず自国のための利益になるということを知っているから他の国は行っているんです。
 我々はこういうことを調査して、発表してます。それを見てなるほどな、っていうことになってくれればいいんですが、なかなかそうはならない。

※ 一番残念なのはどういうことですか。

 ことがあれば僕は言っているんだけど、日系人から俺たちも何とかしなければならないという連中が出てこないということです。ようするにリーダーがいないということですね。2世、3世の中から出てこなければいけないんだろうけど、コロニアという移民社会と2世、3世という社会には大きなギャップができてつながりがないわけでしょう。
 1世は永住しようと思った時点で高学歴を身につけなければブラジル社会には入っていけないということで、みんな子供達を大学へ入れたわけです。確かに高学歴の人種は日系ですよ。これは、はっきりブラジルの調査でも出ています。結局そいう連中は高い地位についていますが、ブラジル社会に入ってしまってコロニアとはつながりがないわけです。だから、2世、3世には日系としての意識もうすれてきているし、組織もない。

※間をつなぐ方法はないものでしょうか

 だからそれですよね。日伯学園の必要性だとかをわかってくれて誰かがリーダーになってやるべきだということになればいくんじゃないでしょうか。
 コロニアは衰退してしまちゃっているから鳴かず飛ばずで難しいですしね。

※日本に対していいたいことは

 日本は島国感覚じゃなくて、国際的な感覚を身につけてもらいたいですね。政治もそうでしょう、アメリカの言うと下りハイハイいって。日本人の芯になる意識がないんじゃないでしょうか。

※ 趣味は
 
 お酒かな。

※ 好きな食べ物
 
 うまいものならなんでも好きです。グルメだから。どちらかというと日本食よりはブラジル食かな。

※ 嫌なものは

 最近嫌なものは政治的な腐敗かな。あれは腹立つね。

※今日はどうもありがとうございました。


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