移民百年祭 Site map 移民史 翻訳
ブラジル日和
     2006年ゲスト・アーカイブ  (最終更新日 : 2007/01/06)
Vol.037「猪野ミツエの松原移住地秘話」 猪野ミツエさん

Vol.037「猪野ミツエの松原移住地秘話」 猪野ミツエさん (2006/06/08) 放送:2006年6月4日(日) ブラジル時間 生放送は09:59 ~ 11:47(1:47) 日本時間21:59 ~ 23:47(1:47)。ダウンロードはゲストコーナのみの41分10秒です。
出演:猪野ミツエ(ゲスト・和歌山県出身、81歳)、大久保純子、高橋 晃一(協力)

 猪野さんは松原植民地(※注1)第3次の入植者である。ご主人は戦争中はラバウルで植林指導をされていた。戦後、和歌山で薬の木箱作りに携わっていたが、次男であることからブラジルへと渡る。その時、ミツエさんは27歳。3歳と1歳半の子供を連れていた。
 移住地の生活を聞くと、「はっきりと3つのタイプに分かれた」と言う。
 1つは「お金を持ってきた人」。2つ目は「お金は無いけれど、家族構成が良くて、働き手がいっぱいいる人」。3つ目は「うちのようにお金も無いし、働き手も無い人」と明言する。
 現在は老人クラブ連合会で盆踊りや俳句をたしなむ優雅な生活だが、その頃の苦労がうっすらと滲み出てくる。
 カフェ(コーヒー)栽培が霜の被害にあった後、近隣の町・ドラードスへ出て、同じ和歌山出身者の木工所でサラリーマンとして勤務。8人の子供たちを立派に育て上げた。
 今も和歌山には猪野さんたちが住んでいた家は甥が管理して存在するという。それでも「日本は遊びには行きたいけど、住むのはやはりブラジルがいい」と笑う。
 「日本人はお金がある時は付き合ってくれるけど、貧乏になると離れていく。ブラジル人は人種差別も少ないし、ブラジルなら『七転八起』ができる。つまり、失敗しても立ち直れるし夢がある」とつややかな顔で笑えむ姿は、まるで少女のようだった。
 今回もブラジル老人クラブ連合会で録音。


(※注1)松原植民地
1952年、第二次世界大戦で途絶えていた日本移民が講和条約が結ばれ、再開の機運となる。この時のブラジル大統領であるジェツリオ・ヴァルガス大統領と松原植民地の生みの親・松原安太郎(和歌山県出身・戦前移民)の友好関係から、ヴァルガス大統領が日本移民4000家族の導入権を付与したもの。1953年7月8日サントス港到着の第1次船から3回に渡って、和歌山56家族、岡山5家族、広島3家族、栃木1家族、現地(ブラジル)から4家族の69家族。目的地マット・グロッソ州に入植。
戦争中敵視され苦労してきた旧移民にとって、新意味の到来は大きな励みで、盛大に歓迎されたという。
日系人の入植予定地にはすでにブラジル北部からの人々がすでに入植しており、さらに20キロメートル奥地に入植せざるを得なかった。現地に入植するには原始林の中の道作りからはじめなくてはならず、男子15歳以上の全員が数ヶ月かけて、小型カミニョン(トラック)の通れる道を作ってからの入植となる。
入植後の問題は地下水が深く、水不足に悩まされた事だったが、移住者のほとんどが戦争経験者で意志が強く団結心があったことが功を奏した。
農作物は主にカフェーであったが、米も植え付けた。1963年頃から連続3回の霜害と相場下落があり、70年頃には入植者の半数はカフェーに見切りをつけて移転。75年の大霜害は致命的な打撃となり、82年には18家族、13家族と減り、2003年には3家族となっている。
【参考資料・「南麻州日伯文化連合会創立25周年史『躍進への道』1988年12月発行】
(なお、猪野さんはラジオ内で61家族。1次、2次は和歌山出身者ばかり。3船は15家族で上記のような他県と再渡航者ありと話しておられます。)

それでは聴いてみましょう。
http://brasil-ya.com/radio/20060604.mp3


前のページへ / 上へ / 次のページへ

BB企画 :  
E-mail: Click here
© Copyright 2019 BB企画. All rights reserved.