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     2006年ゲスト・アーカイブ  (最終更新日 : 2007/01/06)
Vol.038「平野生まれのがんばり屋」 紺野(高田)イツ子さん

Vol.038「平野生まれのがんばり屋」 紺野(高田)イツ子さん (2006/06/15) 放送: 2006年6月10日(土) ブラジル時間 生放送は09:58 ~ 12:19(2:20) 日本時間21:58 ~ 00:19(2:20)。ダウンロードはゲ ストコーナのみの1時間44分32秒です。
出演: 紺野(高田)イツ子(ゲスト・2世、75歳)、松本 浩治(レギュラーゲスト)、大久保純子、高橋 晃一(協力)

 紺野さんは平野植民地(※注1)で生まれ育った。
そんな紺野さんの話の中で一番印象に残ったのはビッショと呼ばれる小さい虫が体に入った時の対処法だ。現代の都会暮らしの人間には想像も付かない世界。だが、そこには人間の知恵や生きる力がある。
 奇しくもチャットで参加してくれたエクアドルの星野さんが「紺野さんのお話を聞けば、医者要らずですね」と書き込んで下さった。そういえば、元の大家である紺野さんから頂いた知恵は数多い。ワラビや竹の子の灰汁抜き方法やピンガ酒で柿の渋を抜く方法、焼き饅頭の作り方やイグサでのお灸の作り方まで教えて下さった。
 「私はブラジル生まれの2世だから」などとよく謙遜するが、今の日本人より、よほど明治の知恵と根性がある。サンパウロへ出てきてからも昼間は銀行で働き、夜はミシンを踏んで洋裁の仕事をし、マンションを購入したがんばり屋の紺野さん。自分を含めた生ぬるい温室育ちの世代には、ぜひ聞いておいて欲しい話の1つである。
 最後にはオープニング・ソング、青木カナさんの「♪帰ろうかな」の日本語訳朗読も入っております。


(※注1)平野植民地
ブラジルへの日本移民が始まったのは1908年。その第1回移民船である「笠戸丸」移民の通訳で来たのが「通訳5人組」と呼ばれる大野、加藤、仁平、平野、嶺である。その中の1人平野運平が中心となって拓いた植民地。平野はグァタパラ耕地の副支配人だったが、初期移民の半奴隷的な生活を見て、「邦人の発展は植民にしかず」と理想を掲げ、1915年日本総領事館の協力を得て土地を購入。サンパウロから北西に約420キロメートル。サンパウロ州カフェランジャ市からさらに16キロ奥に入ったトレス・バラス地区に平野植民地はある。
1915年には82家族が入植したが、水田で米作をしたかった日本人は川辺に住み、それがマラリアでの被害を拡大。家族全員が死亡するといった悲劇も残っている。平野氏自身も1919年2月6日、34歳の若さでマラリアの犠牲になっている。
1950年代にはカフェ(コーヒー)景気で300家族もいたという第1平野植民地も2005年7月現在ではわずか12家族。平野植民地そのものは第1、第2、第3と3つの地区に大きく分かれる。ゲストの紺野さんは第1平野で生まれた後、タンガラと呼ばれる第3平野で幼少時代を過ごされた。
また、平野植民地の開拓当初を小説にした本として「『輝ける碧き空の下で』上・下」北杜夫著。新潮文庫。『森の夢』醍醐麻沙夫著。サンパウロ新聞社刊がある。
【参考資料・「拓魂100年」明るいコロニアを考える会シリーズ①星野豊作著。1990年発行。秀作社出版】
【参考資料・サンパウロ新聞2005年7月9日、7月7日】

それでは聴いてみましょう。
http://brasil-ya.com/radio/20060610.mp3


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