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     2010年ゲスト・アーカイブ  (最終更新日 : 2010/12/30)
Vol.128 「テロリストの息子は文化人」 本多文男さん

Vol.128 「テロリストの息子は文化人」 本多文男さん (2010/05/18) 放送:2010年5月7日(金)ブラジル時間 11:17:~14:11(2:54) 日本時間 23:17:~02:11(2:54) 、ダウンロードはゲストコーナのみの1時間23分59秒です。
出演:本多文男(71歳、茨城県常陸太田出身)、大久保純子、生放送では石崎矩之、細川多美子、砂古純子

「テロリストの息子なんじゃ」。衝撃的な台詞が自己紹介の第一声だった。話を聞くと、本多さんのお父さんは橘孝三郎の水戸愛郷塾の塾生で、5.15事件に関わったとの事。東京裁判にかかった大川周明氏をかくまった話など、貴重な話がポロポロと出てくる。
 そんな本多さんは次男のため、開拓移民としての農業移民を目指す。20歳でコチア青年としてブラジルへ渡り、持ち前の器用さでラーモス移住地の造成当初から参加。八角堂という立派な建物があるのだが、その入り口や門に掛かる「大和心」の書は本多さんによるもの。
 書の達筆さにも驚いたが、生け花もたしなむ本多さん。移住地で最初に出会った時、バケツに花を持ってウロウロしていた。どこからどう見ても普通の農家のおじさんで、奥さんが生けるための花を運んでいるのかと思いつつ冗談で「まさか、おじさんが生けるんじゃないですよね?」と言ったら、そのまさかだった。そんな強烈な出会いだったが、話を聞けば聞くほど味が出て、何事も正直で素直に語ってくれた。「ラジオをやっていて、本当に良かった」と思えるインタビューだった。

それでは、以下のリンクをクリックしてお聴きください。
http://brasil-ya.com/radio/20100507.mp3

 2017年8月7日から10日にかけて、ラーモス移住地を再々度、訪問した。7日夜、同移住地の八角堂で日本から来られた歌手の井上祐見さんらの歓迎会が行われた。その前の方の席で、ラーモス特製の梨のお酒を片手に楽しげに飲んでいる移住地のおじ様たちのテーブルがあった。
そこには懐かしい、いたずらっ子のような笑顔で微笑む本多さんの姿があった。
お酒と共に「小川和己さんも亡くなり、今、ワシが話しておかなければ、移住地が出来た最初の話が埋もれてしまうだろう」と言って、語ってくれたラーモス移住地が出来る秘話を語ってくれた。多くの人が賑わう中での収録だったので、お聞き苦しい点はあるが、戦前移住者・平田さん、州政府、日本国領事館、それぞれの思惑や願いがあった貴重なお話である。
http://brasil-ya.com/radio/20170807.mp3

 2023年12月11日、ラーモス移住地にお住まいだった故・山本和憲さんのご息女・織絵さんから訃報の第一報が入った。
 また一人、貴重なお話を聴かせてくださる大切な方が天に召されてしまった。
 以下は、当地の唯一となったブラジル日報に書かせて頂いた本多さんの訃報記事。衷心より本多さんのご冥福をお祈りして、ここにも再記したいと思う。
 サンタ・カタリーナ州のラーモス移住地在住の本多文男さんが12月10日、同地で亡くなった。行年85歳。茨城県常陸太田出身。2017年(平成29年)秋の叙勲にて旭日単光章を受章。11日午後5時、Crematório Memorial Parque das Araucárias (Curitibanos-SC) にて荼毘に付された。  1958年、「ぶらじる丸」でコチア青年として単身渡伯。聖市イタケーラの果樹園に入植後、事業団(現JICA)の嘱託職員としてラーモス移住地造成に参画。その後、ラーモスに移住し、ラーモス日伯文化協会で会長も歴任した。
 同移住地八角堂の揮毫他、生花や盆栽、居合など文武に長け、同移住地を支える一人であった。同地のマーク「瓢箪」も同氏の考案によるもの。また、長女の清香さんはラーモス移住地の歌「私の町ラーモス」を作詞。同曲は日本の神津善行氏作曲、山口洋子補詞で同地の曲となっている。


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