移民百年祭 Site map 移民史 翻訳
ブラジル日和
     2010年ゲスト・アーカイブ  (最終更新日 : 2010/12/30)
Vol.131「ペレイラの重鎮、増田さん」 増田敏明さん

Vol.131「ペレイラの重鎮、増田さん」 増田敏明さん (2010/07/10) 放送:2010年6月21日(月)ブラジル時間 10:56:~13:25(2:29) 日本時間 22:56:~01:25(2:29) 、ダウンロードはゲストコーナのみの1時間11分16秒です。
出演:増田敏明(香川県出身)、松本浩治、細川多美子、砂古純子、大久保純子


 「ペレイラに愛着があり、この町を出ようとは思わなかった」―。こう語るのは、聖州ペレイラ・バレット(旧チエテ移住地)で約80年間住み続けている増田敏明さん(85、香川県出身)。文化体育協会(ACEP、木庭元幸会長)の顧問や同地の西本願寺代表などを歴任し、農業生産から始まった移住地の生活は、車の修理工場などを経て現在、マットグロッソにある約700アルケール(約1680ヘクタール)の土地で農牧業を営むなど財を成してきた。
 1930年6月、「博多丸」で渡伯した増田さんは当時、まだ7歳の少年だった。サントスから汽車に乗り、現在はダムの下に沈んだルッサンビーラ駅で下車。チエテ川をバルサ(いかだ)で渡り、移住地に入植したという。父親・才太郎さん(故人)は、家を立てるためにブラジル拓殖組合の収容所から毎日、入植先のA(アー)区まで開墾のために通い、一か月後には同地に移ることができた。当時、A区には60家族が入植し、増田家族は最初に米を作ったが、売る先がなかったために金にならずに腐らせ、カフェも植えたが霜にやられるなど当初はうまくいかず、綿・ミーリョ生産に切り替え、農業活動を続けた。長男の増田さんは「14歳から(消毒用の)重い噴霧器を背負って農業の手伝い」をし、16歳で父親から農業経営を任された。その頃、A区はウニオン区と名前を変え、綿生産で沸いた移住地の全盛時代には、全体で約千五百家族の日系家族がいた。
 その後、10年ほど農業生産を続けたが、「新薬(農薬)が出て、それを使ったら頭が痛みだした」ため、戦後移住地を出て行った人の土地を購入。50年代初旬から牧場経営に変更した。27歳で芳子夫人(80)と結婚。それと同時に、51年から弟たちと共同経営で車の修理工場も始めた。
 88年、日本の瀬戸大橋の開通式に参加するため、初めて日本に一時帰国を果たした増田さんは、故郷の香川県にも足を運んだ。実家は「金毘羅(こんぴら)さん」の近くにあったが、「山だった土地が平坦になっていた」と時代の流れを肌身に感じた。

それでは、以下のリンクをクリックしてお聴きください。
http://brasil-ya.com/radio/20100621.mp3


前のページへ / 上へ / 次のページへ

BB企画 :  
E-mail: Click here
© Copyright 2024 BB企画. All rights reserved.