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ブラジル日和
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Vol.171 「浪曲 笠戸丸&平野運平」

Vol.171 「浪曲 笠戸丸&平野運平」 (2014/03/09) 放送:2014年1月28日(火)ブラジル時間 11:11~13:13(2:02) 日本時間 22:11~00:13(2:02)、ダウンロードはゲスコーナのみの1時間25分58秒です。
出演:細川多美子、砂古純子、大久保純子


 今回はコロニア(ブラジル日系社会)の浪曲、2曲をご紹介。
 最初の曲、「笠戸丸」は移民60周年(1968年)を記念して作られ、口演は天中軒満月氏、曲師は菅原虎之助氏(同一人物)が担当。
続く「平野運平」(1962年製作)も、口演は菅原虎之助氏、曲師は堀田春三氏。2枚とも初期移民の苦労と生活を心情を込めて演じ、表現している。
 この貴重な音源は、LPレコードから取ったもので、そのオリジナルは、東山グループに定年まで勤務し、2009年に80歳で亡くなった野尻耕造さん(サンパウロ州ベルチオーガ在住、奈良県出身)が収集していたものだ。
 それを2011年、未亡人の野尻武子さんが老人クラブ連合会(=現:熟年クラブに改称)に寄贈。2011年7月30日に老人クラブ連合会で浪曲鑑賞会が行われた。
 当初レコードはサンパウロの移民史料館に寄贈する予定だったが、耕造さんの友人の田辺豊太郎氏に話を通したところ、浪曲になじみのある高齢者たちに聴いてもらったほうが良いとの判断で老ク連に寄贈されることになった。老ク連ではレコードを直接聴くためのステレオ・システムがないことから、浪曲レコードを会長がDVDに焼き直し、貴重な音源を生き返らせた。
 ぜひ、お聴き頂きたいと思う。
 なお、下に浪曲の全歌詞をご紹介する。

それでは、以下のリンクをクリックしてお聴きください。
http://brasil-ya.com/radio/20140128.mp3


「浪曲 笠戸丸」口演:天中軒満月、曲師:菅原虎之助
(第1面)
? 笠戸丸。つわもの達の夢のせて、荒波超えてサントス港。第1回の移民船。到着以来今日までに希望を燃やし移り来た、移民の数は60余万。夢が実りて巨万の富を築いて、安楽に暮らせる人も数あれど、夢は破れて実らねど、希望は捨てず今もなお、汗と涙で密林の山を開拓するものある。
移民の歴史に燦然と、先駆の偉人と讃えられ、その名を残した人あれど、今日のコロニア建設に土台となって散り果てて、その名も知られず大陸の露と消えたる拓人の、数多先駆の霊魂よ。永久に眠れよ安らかに。祈りながらに読み上げる開拓移民の物語。
「お静、お前、また泣いているのか。ここまで来てしまっていくら泣いたって仕方がないじゃないか。今更日本に帰る訳にもいかんし、第一、お前にそう泣かれちゃ、俺の気持ちがたまらんようになってくるんだ」
「すいません。でも、夜になると故郷の事が思い出されて、ひとりでに泣けて来て、あなたにまで心配かけて」
「お父ちゃん、日本に帰ろうよ。僕、お婆ちゃんのそばに行きたいよ。こんな汚い家、僕いやだよ」
「光雄、そんなわがままな事を言うんじゃない」
「お母ちゃんだって日本に帰りたいんだよ。だって、お父ちゃんが山に行った後で、いつもお婆ちゃんやおじいちゃんの写真を見て泣いてばっかりいるんだ。早く帰らないと、お母ちゃんかわいそうだよ」
「あなた、子供までがあんなに帰りたがっております。あなたさえ帰る気持ちになってくれれば、船賃は私が手紙を出して、日本の兄から送って……」
「お静、お前はそんなに帰りたいのか。我慢できんのか」
「私、こんな所ではとても我慢が出来ません。将来性のある所ならどんな苦労だってしますが、いくら働いても借金が重なるばかりで、これじゃ、成功どころか、一生奴隷のような暮らしをせねばなりません。見込みがないと分かったら、一日も早く帰った方が……」
「お静…いや…一人娘で親兄弟から可愛がられて育ってきたお前じゃ、無理もない。その気持ちはよく分かるが、俺はどんな苦しみにあっても、このまま帰る訳にはいかんのだ」
「どうして帰る事が出来ないの? どうせ苦労するなら、生まれ故郷の親のそばでした方が…あなた、私すぐ帰りたい、帰りたい」 
「エッ、やめろ。お静、お前そんなに帰りたいなら、子供を連れて勝手に一人で帰れっ」。
口では強く言うものの、心の中じゃ手を合わせ、許せ妻子よこの俺も、夢も希望も投げ捨て、今でも飛んで帰りたい。ましてお前は女ゆえ、泣いてせがむも無理ないけれど、故郷を出る時、村人に「必ず成功してくる」と誓った言葉は忘られず、男の意地でおめおめと、今さら帰れぬこの胸を察してくれよと、口には言えず、涙隠して表に出れば、月も泣くのか椰子のかげ。
(第1回の移民船、笠戸丸で渡伯した吉谷幸三。平野運平の通訳でグァタパラ耕地に配耕されたが、軍人上がりで気も荒く、苦しいコロノ生活には我慢をして働けど、ジャポン、ジャポンと頭から馬鹿にしてかかる監督の態度には我慢ができず、ちょっとした諍いから足腰立たぬほど監督を投げ飛ばしてしまった。それを見た外人ども、日本人が監督を投げ飛ばした。それっ、やっちまえと、手に手にファッカ(短刀)を握って幸三を、ぐるりっと取り巻いた。その時、
「おーい、マッタ、マッタ(=殺せ、殺せ)」と威嚇の拳銃を射ち鳴らし、「待った、待った」と大声あげて飛んで来ました平野運平。「マッタ、マッタ(=殺せ、殺せ)」のその声に恐れをなした外人ども。蜘蛛の子散らすが如くに逃げ去ってしまった。
「吉谷さん、あんた大変な事をしてくれたなァ。あなた、ここにいては危ない。奴らはどんな事をするか判らん。一刻も早くここを逃げてくれ」。
「逃げれっ?冗談じゃない平野さん。あんな奴らを恐れて逃げたりなんかしたら、日本人の恥ですよ。今度奴らが押しかけて来たら、片っ端から日本刀で叩き斬ってやるんだ」
「吉谷さん、そんな事されたら、それこそ大変だ。後はこの僕に任せて、とにかく今夜のうちに逃げてくれ」
(その夜、無理矢理に夜逃げをさせられたが、いざファゼンダを出されてみると、どこへ行ってよいのか、当てはなく、言葉分からず、金は無し。途方に暮れた幸三親子)。
柳行李を細引きで、家財道具を背負い込めば、肩に食い込む荷の重さ。焼け付くような砂道や、雨の土砂降る坂道を、感慨無量で歩み行く。乳呑み児背に、左手に光雄の手を引き、右手には風呂敷包みをぶら下がて、妻のお静が後より、無言のままで付いて来る。塒(ねぐら)求めて移民鳥、どこに行くのか今日もまた、歩き疲れて日が暮れる。
「お父ちゃん、僕たちどこに行くの? サントスへ?」
「サントス、サントスへ行ってどうするんだ」
「サントスには日本の船が来るでしょう。それに乗って帰るんだよ」
「光雄、いや、サントスまでこの調子で歩いたら、二月も三月もかかるぞ」
「遠いなぁ。お父ちゃん、今晩もまた木の下に寝るの?僕、お腹が空いて疲れちゃったよ。お父ちゃん、僕、ご飯食べたいよ」
「無理もない、無理もない。グァタパラを出てから今日で10日目だが、マンジョッカとミーリョばかり食わして、一粒の飯も食っちゃいねえ。どれ、お父さんがあの外人の家に行って、米を探してくるから、お前たち、ここで待っていろ」
(柳行李の中から日本から持ってきたシャツを取り出し、カボクロ(原地人)の家にやって来て、米があったら取り替えて下さいと頼んでみたが、サッパリ話が通じない。手真似素振りでやっと分かったが、米は無いからと言って、鶏の卵1ダースほどとカルネ・セッカ(乾肉)1キロばかりと取り替えてもらい、急いで戻ってくると)
「あなた早く。光子が大変な熱よ」
「どれっ。うん。こりゃ、ひどい熱だ。薬は無し、こんな所じゃどうにもならん。この山を越せば、ドアルチーナという小さな町があるそうだ。医者はおらんでも、薬ぐらいはあるだろう。光雄、さぁ、急いで行こう。おっ、お静。尺八の音が聞こえて来るぞ。日本人が近くにいるぞ。ああ、ありがたい。ありがたい。日本人だ、日本人だ」。
異国の果てで故郷の、思いで乗せた尺八を聞けば無性に泣けてくる。疲れも忘れて急ぎ足、その音をたよりに来てみれば、コケイロ(椰子)壁の一軒家。暗いランプのその影に、映し出されたその顔は、同じ移民(笠戸丸)で50日、退屈しのぎに駒並べ、たとえ将棋じゃ負けても、南米じゃ俺が成功するのだと互いに夢を語りつつ、生死を共に荒波を超えてきました親友富岡さんとこんなところ出会えるとは不思議な縁と幸三夫婦うれし涙で胸迫る。
(富岡夫婦のお情けで、子供を介抱してもらい、わざわざ沸かしてくれたドラム缶の露天風呂で旅の疲れを流し、鶏までつぶしてご馳走してくれるその友情は、日本ではとても味合うことのできない同胞愛の美しさ。同じ祖国の血を分けた日本人であればこそ、こうして助けてくれるのだと、嬉しさ胸にこみ上げて、感謝の涙が止めどもなし)。
「吉谷さん、あんたたちはようまあ、あんな所で半年も辛抱したもんだ。俺は日本から来て3日目に夜逃げしたが、今考えてみると、まったく無茶な事をしたもんだ。なんだか配耕されたファゼンダがじごくみていな気がして、後先考えずに飛び出したが、行く所がない。仕方がないので、サンパウロの領事館にでも行って、何とかしてもらおうと、鉄道線路沿いに思い荷物を担いでさ、女房と2人でテクテク歩いて、バウルーまで来た時、霜の降る寒い夜だった。寒さしのぎに駅の倉庫に潜り込んで休んでいるところを見つかって、泥棒と間違えられ、警察の手に渡され、なんやかんやと訊問されたが、さっぱり解らん。エッ、どうでもなれと、俺たちは日本から来た移民だが、一等国民をあんな地獄みていな所へ入れやがって。俺はこれから領事館に談判に行くんだ。汽車賃がないから貸してくれと、もちろん日本語で啖呵を切ってやったが、解るはずがない。警察署長もホトホト困っている所へアントニオというファゼンデイロ(地主)がやって来て、「ドアルチーナの近くに500あるケールの土地があるが、そこで米を作ってみる気はないか? と親切に言うてくれる事がどうやらこうやら解かって、ここまで連れて来てもらいやっと3アルケールほど米を蒔き付けたが、まぁ、明日の朝、見てごらん。ものすごくよく出来ているから。吉谷さん、あなたも行く所が無かったら、ここで米作をしてみる気はないか? 2人でパトロンに交渉して、ファゼンダ(耕地)で泣いて暮らしている連中を呼んで、ひとつ日本人の植民地を拓こうじゃないか」。
(富岡の世話で吉谷一家もここで米作を始め、5年間で23家族を入植させたが、地主のアントニオは心臓麻痺でポックリと亡くなってしまった。500アルケールの土地は隣の大地主の手に売り渡され、1か月内に立ち退くようにと通知を受け、植民地内は上を下への大騒ぎとなった)。
「馬鹿な事をいえ。4年も5年もかかって、汗水たらして拓いた植民地をそんなにあっさりと捨てて出ていけるか。俺ぁ、ここに2人の子供まで犠牲にしているんだ。俺ぁ、殺されたって、ここから出やせんぞ」。
(再三の立ち退き命令にもかかわらず、植民者は動こうとしないので、地主はわざとセルカ(柵)を破って、牛を追い放した。何百頭の牛はもうもうと土煙を立てて、巻き付けたばかりの畑をめちゃめちゃに荒らし回った。それを見た移住者は手に手に得物を持って牛を追っ払ったが、その時、2、3頭の牛に傷を負わせたのをもとに、セルカを破って逃げた出した家畜に、日本人は甚大なる被害を与えたと反対に訴え、強制立ち退きを執行した。荷物と共に植民地外に放り出された移住者は、どうすることも出来ず、鉄道工夫になっていく者、あるいはカフェランジャの平野植民地、プロミッソンの上塚植民地へとそれぞれ退散していった。
吉谷と富岡の2家族は、そこから30キロばかり離れた所に原始林を5か年払いで買い求め、綿を蒔きつけてみたが、大豊作で値段もよく、3年目にはまたも25家族を入植させて、大和植民地と名付け、前途に明るい希望を燃やしていたが、入植4年目の正月3日、一天にわかにかき曇り、ゴウゴウと物凄い音を立てて龍虎争うような黒雲が、大地を一飲みにするかのごとく、鶏卵大の雹をまじえた大嵐が襲い来て、大木をひし折り、密林を坊主になし、花盛りの綿畑を、あっという間に叩き潰して過ぎ去った。めちゃめちゃに荒らされた畑を眺めて、泣くにも泣けず、あまりにも無残なこの様に気を失うものさえ出た。運の悪い時には続くもので、その年、悪性のマレッタ(マラリア)病が発生し、植民者はバタバタと倒され、幸三一家も13歳の光子が亡くなり、1週間目に妻のお静が看病の甲斐もなく、とうとう亡くなってしまった)。
「お静、俺がお前の親兄弟の反対を押し切って、ブラジルに来たばっかりに、さんざん苦労をさせた挙句、お前と光子を殺してしまった。お前、グァタパラのファゼンダで日本に帰りたいと言って泣いた時、俺は大きな声で怒鳴り飛ばしたが、あの時、俺が素直に帰っていれば、こんなみじめな死に方をさせずに済んだのに、俺が悪かった、悪かった。今頃、日本の親兄弟はお前が死んだことも知らず、一人娘の帰りをただ待っているだろう。お静、勘弁しておくれ」。

(第2面)

許しておくれ、お静、妻の亡骸に取りすがり、声をば立てて泣き口説く、せめて線香の端なりと。手向けてやろうと探せども、異郷じゃそれも手に入らず、細いランプに火を入れて、ローソク代わりと枕辺に、両の手合わせて親と子がが、南無阿弥陀仏、阿弥陀仏、迷わず成仏しておくれ、無情の風が隙間から冷たく吹いて火が揺れる。
「光雄、今年こそはお前をサンパウロに出して、勉強させると思っていたが、それも出来なくなってしまった。勉強どころか毎日、御飯炊きから洗濯までさせて、お父さん本当にすまん」。
「いいんだよ、お父さん。それより僕、お母さんを日本に帰してやれなかったことが残念だったよ。これから一生懸命に働いて2、3年の中にはお父さんをきっと日本に帰してみせるよ」。
「光雄、ありがとうよ。お父さん、その言葉を聞いただけで、日本に帰ったよりも嬉しい。お母さんも光子も、ここに眠っているんだ。お父さんも日本に帰らず、ブラジルの土になるよ。子どもの時から苦労ばかりさして、お前に勉強さす事が出来なかったが、お父さんも頑張るから、お前、大地主になって、日本とブラジルの為になるような立派な人間になってくれよ」。
(マレッタ病を恐れた移住者は、畑を捨てて次から次へと出てしまい、せっかく拓いた植民地も急に淋しくなってしまった。幸三はその後に、のるかそるか80アルケール綿を蒔きつけてみたが、それが見事に当たって、3年間でパラナ、ソロカバ、ノロエステの3か所に次々と原始林を買い求め、カフェーを植え付ける事が出来た。ある日、)
「光雄、10年払いでタダみたいに安い土地があるんだが、お父さんそれを買う事に決めてきたよ。1万5千アルケールを」。
「1万5千アルケール」。
「そうだ。三方に川があって、水が豊富だし、牧場にするにはもってこいの土地だ。マット・グロッソの奥だが」。
(マット・グロッソと聞いて、光雄は2度びっくりした。当時、マット・グロッソといえば、猛獣か土人の住む所で、とても日本人の入る所ではないと考えていた)。
「お父さん、そんな山奥を買ってどうするんですか? それよりそのお金で1度、日本に帰ってきたらどうですか?」
「今は地獄の密林でもここ20年か30年たてば、サンパウロ州以上に拓けてくる。その時はもう高くなって手が出せんようになる。今のうちに日本に帰った心算で、孫たちのために買っておいてやるんだ」。
「孫たちって、僕まだ嫁さんもいないのに」。
「そうそう、嫁といえば、お前も知っているだろう。船で一緒に来た細井さんの娘、アキちゃん。あの頃は洟垂らしのきかん女の子であったが、今は立派な娘さんになって、器量はよし、体格はよし、頭もいい。それに14人兄弟の多産系だ。あの娘を嫁にもらって、じゃんじゃん子どもを産んでもらうんだ。ブラジルの百姓は家族が良くなくちゃダメだ」。
「僕、嫁さんよりお母さんが欲しいよ」。
「お母さんてお前。何っ。お父さんに嫁をもらえと言うのか。はは…お父さんはいらん、いらん。一生独身で暮らすんだ。そりゃ、お父さんも1人で淋しい時もあるが、お墓の中で淋しく眠っているお母さんを思うと、後添えを貰う気持ちにもなれんよ。早いもんだな。お母さん亡くなって4年目だ。17でお父さんと結婚して、23でブラジルに来て、10年間さんざん苦労に苦労をして亡くなってしまったが、そうか、33の厄年でもあったのか。生活に追われて、厄払いも何も忘れていたが、光雄、そういえば、お父さんも今年、42の厄年だ。厄負けしてポックリ逝ったらお前1人ぼっちになってしまうぞ。そうだ。これから細井の家に行って、アキちゃんをお前の嫁にもらってくるよ」。
「お父さん、僕、まだ早いよ」
「遅いより早い方が良い。話がまとまったら、富岡を仲人に頼んで、今晩の内に結納と、お父さんの厄払いと一緒にするから、お前、ガラフォンでピンガ(焼酎)1本と鶏2、3羽ひねって待っていろ」。
(馬に飛び乗り一鞭くれれば、砂を蹴って駆け出す)。
善は急げと幸三は、細井の家にやって来て、お前の娘を倅の嫁にくれと直接話すなら、こんな娘で良かったらと、話決まれば仲人立て、吉日選んで三々九度。男蝶、女蝶の晴れ姿、交わすピンガの盃に、酔えば踊りも唄も出る。時が春なら鳥唄う。山じゃイペーの花盛り。)
(結婚して翌年から、年子、年子で13人。我が子に教育をさす事のできなかった幸三は、勉強好きな孫たちは片っ端から町に出して、中学から大学へと通わせた。総領孫の秀明が20になった時、日米戦が勃発。日本人はひどく圧迫を加えられ、軍人上がり吉谷幸三も、警察に呼び出され、監獄にぶち込まれてしまった。その時、秀明は警察に乗り込んでテーブルを叩いて談判。警察署長も舌を巻いて幸三を釈放した。その様子を見ていた幸三は、偉い孫が出来た。これは今に出世するぞと喜んでいたが、終戦と同時に、日本を出てから40年間、何事をするのにも兄弟のごとく付き合って来た富岡と、勝った、負けたのつまらぬ争いからプッツリと絶交してしまった。しかしブラジル生まれの孫たちには、そんなことは何の関係もなく、富岡の孫娘マリ子と秀明は恋仲となり、結婚すると言い出せば、おじいさんの幸三は真っ向から反対した。
「おじいちゃんは、どうして僕たちの結婚に反対するのですか」
「おじいちゃんは日露戦争の生き残りだ。天皇陛下様より金鵄勲章まで頂いた男だ。敗戦を唱える奴の孫娘と結婚さす事は死んでも許されん。戦争中に俺を監獄に入れたのは、敗戦の奴らだ」。 「そうじゃないよ、おじいちゃんがあんまり日露戦争の生き残りだと言って、金鵄勲章を見せびらかし、勝った、勝ったと意地張るから、それが警察の耳に入って……」
「黙れっ。少しばかり教育したからといって、年寄りを馬鹿にするか。銃剣を握ったら連隊一のこの俺じゃ。70になってもお前らにはまだまだ引きは取らんぞ」。
「おじいちゃん、今の戦争は銃剣を取って突撃したって、とても間に合いませんよ。原子爆弾1発で……」。
「エッ、馬鹿っ」。
「これッ、秀明、やめなさい。お前、おじいちゃんに何てことを言うんですか」。
「だってお母さん。おじいちゃん、あんまり頑固すぎますよ。明治時代の古い思想なんて、今頃外国じゃ通用しませんよ。勝ったとか、負けたとか、日本人同士で射ち合いまでして喧嘩をするのが、それが日本人の愛国精神というものですか。ブラジルの日本人が勝ち負け2組に分かれて、双方が全滅するまで喧嘩をしたって、日本のためには一文の利益にもなりませんよ」。
「秀明、やめなさいと言ったらやめなさい。あっちへ行っていなさい。おじいちゃん、すみません。ブラジル生まれの子どもは気が強くて」。
「あき子、秀明は偉い孫だ。あれの言う事が本当だよ。自分の正しいと思った事は、何歳までも押し通そうとする、あの気性は俺が若い時とそっくりじゃ」。
(その夜。秀明は家を出たきり、帰らなかった。目の中に入れても痛くないほど可愛がって育ててきた孫の家出を心配した幸三は、それから4日目に脳溢血でバッタリと倒れてしまった)。
静かに部屋にと運ばるる、銃を執っては戦場で、命を捨てて国のため、斧を握れば密林で、猛獣毒蛇も恐れずに、雨にも風にも生き抜いて、開拓続けたつわものも、病にゃ勝てず床の中、痛さ辛さは堪えても、孫の秀明、今頃はどこでどうしているだろうと、思えば死んでも死に切れぬ。
(父親の病勢が急に悪化したので、光雄は子供たちに電報を打った。心配して集まって来た孫たちの中に総領の秀明の姿だけが見えなかった)。
「秀明はどうした。まだ来てくれんのか。今でもやっぱり、俺を恨んでいるだろうか」。
「おじいちゃん、そんな事ないよ。秀明兄さんきっと来るよ」。
「おじいちゃんもうダメだ。秀明が来たなら、おじいちゃんが悪かったと一言伝えてくれッ。それから……」。
「あっ、おじいちゃん。秀明兄さんが来たよ。秀明兄さんが」。
「秀明、秀明が来てくれたか」。
< (電報を受け取って、飛んで来ました秀明が)
「おじいちゃん、おじいちゃん。秀明です、秀明です。僕が悪かった、悪かった。おじいちゃん、勘弁して下さい」。
「よう来てくれた、来てくれた。お前が来るのをどんなに待っていたか。植民地開拓で苦労した40年より、床の中でお前を待ち続けた5年間の方がよっぽど長かったぞ。でも、お前に一目逢わぬうちは死なれんと思って頑張って生きてきたよ。お前、苦労したろうが、元気でよかったなぁー」。
「おじいちゃん、心配かけて悪かった、悪かった。僕はあれからさんざん苦労に苦労して、どうにもこうにもならず、切羽つまって、お父さんにこっそり相談した所、マット・グロッソの奥に広い土地があるから、そこで牛でも飼ったらどうかと言われ、今、そこに入って牛を飼っておりますが、その土地はおじいちゃんが日本にも帰らず、孫たちのために買ってくれた土地だとお父さんに聞かされて、それほど僕たちの事を思ってくれるおじいちゃんに、あんな生意気な事を言うて、悪かった、悪かった。僕も自分で山奥に入って苦労して初めて、おじいちゃんたちが昔、苦労したことが解かりました。そして何事にも負けない、不撓不屈の日本精神を持つ、明治生まれの開拓者がいたからこそ、今日のコロニアが出来上がったという事も解かりました。おじいちゃん、見て下さい。この3人はマット・グロッソで生まれた僕の子です。おじいちゃんの曾孫です」。
「おー、これが俺の曾孫か。みんな可愛い顔して。秀明。お前が小さい時とそっくりだ。親子三代苦労してきたが、四代目のこの子たちには苦労さすんじゃないよ」。
(この時、幸三の容体が悪いと聞いて、長い間、絶交していた富岡のおじいさんが急いでやって来た)。
「おー、吉谷、しっかりせい。しっかりせい。おれぁ、逢いたかったぜ。45年前からの付き合いだ。お前が病気だと聞いて、俺ァ、見舞いに来たくって、来たくって堪らなかったが、つまらぬ意地が邪魔して、今日まで来れなかったが、悪かった、悪かった」。
「富岡、悪いのは俺の方だよ。二言目には、日本精神とか、大和魂とか、偉そうにかたい事ばかり言うてさ。俺ァ、秀明に、今の世の中は、いくら銃剣術が強くても、原子爆弾にゃかなわんと、ドカンと一発喰らわされた時は、無条件で孫に降伏して、時代の変わりに目が覚めたよ。考えてみりゃ、俺も随分、頑固だったなぁ。富岡、昔のことは何も言わず、勘弁してくれ」。
「勘弁してくれッ、何だ、吉谷。お前らしくもない。笠戸丸の甲板で、水野を殺してしまえと押し寄せてきた20人余りの火夫たちを柔道三段の腕前で片っ端から投げ飛ばした、あの時は見事であったぜ。もう一度、あの時の元気を出すんだ」。
「笠戸丸か。思い出すと懐かしいなぁ。将棋じゃお前にかなわんかったが、ブラジルじゃ俺の方が少しばっかり勝ったぞ。孫だけでも13人だ。医者もおれば、弁護士もおる。政治家の卵も出来た。富岡、見てくれ。この可愛い3人の子は、こりゃ、俺の曾孫だよ。おれだけでも俺の勝だぞ」。 「何を言う、吉谷。これは俺の曾孫じゃないか」。
「お前の……。あ、そうか。秀明の嫁マリ子はお前の孫娘だったなぁ。は……、これじゃ、もう、喧嘩も出来んなあ、は……」。
病も忘れてニッコリと、笑うて喜ぶ幸三の、長い間の苦しみも、胸の曇りも掻き消えて、心の中は日本晴れ。
されど悲しや人間の、寿命にゃ勝てずその晩に、笑顔のままで大往生。親子四代拓人の、その精神を大陸に、深く打ち込みコロニアの、土台を築きし功績は、歴史の端にも残らねど、パラナ、ソロカバ、ノロエステ、拓いた耕地は孫の手で、今もカフェーの花盛り。遠くマ州の高原に数千頭の牛の群れ、のどかに遊ぶ春空に、今日も曾孫が馬の背に、歌を唄いつ牛を追う。角笛鳴らして牛を追う。(終わり)。


「浪曲 平野運平」口演:天中軒満月

(A面)

? 桜咲く。恋し懐かし日本よ。母よ、恩師よ、わが友よ。しばしの別れと移民船。希望乗せたる船出じゃが。なぜか淋しいドラの音。腹に沁み込む哀調の、ボッーと響く汽笛は別れの合図。見送り人も移民らも、互いに励まし別れの言葉。早く無事で帰って来いよ。
「おぉ、5年たったらきっと帰ってくるからな」
元気で待っていておくれ。ちぎれるほどに手を振って、さようなら、さようなら。投げたテープも次々と、切れゆく時の悲しさよ。学生たちの音楽で、歌ってくれる歓迎の、移民の唄がなつかしや「行け行け同胞海越えて、遠く南米ブラジルへ、御国の光を輝かす、今日の船出の勇ましや、万歳、万歳」。
万々歳に送られて、南九州沖縄より、北は樺太北海道、日本の国を一度に乗せた、船の航海また面白い。バッテン熊本、大阪サカイ、東北ズーズー丸出しで、船にゃ言葉の花が咲く。
自慢話をするうちに、玄界灘もいつの間に。早くも付いた香港の夜の眺めの美しさ。初めて来たのにサイゴンの港。シンガポールも早や過ぎりゃ。ここはお釈迦様の生まれた所で、黒ん坊ばかりのコロンボ港。拝んで通れば、赤道祭り。仮装行列賑やかに、踊り狂っている時に、「イルカいるぞ」のその声に、何がいるかと出てみれば、イルカの親子が群れをなし、「早く行けよ」と追って来る。
逃げるがようにインド洋。逆巻く怒涛はダーバンと、ケープタウンも無事過ぎりゃ、太平洋の小波に汐吹くクジラを間近に眺め、あれあれあれよと言ううちに世界三大美港のその一つ、リオデジャネイロに一泊なして、夢で見ていたブラジルの、着いたところがサントス港。
我が同胞の移民史は汗と涙の50年と余年。農工商に今日の大活躍のその陰に、われら開拓先駆者の尊い犠牲があればこそ、移民の父よと仰がれし、平野運平先生の涙の開拓物語り。
静岡県士族榛葉健造氏の次男に生まれ、その後、叔母の家に養子に貰われて、平野の姓を名乗った運平は東京外国語学校スペイン語科を卒業。ブラジル政府の招聘で通訳5人組の1人として、明治41年6月18日サントス港に到着した第1回移民笠戸丸より一足先にシベリア鉄道経由で渡伯したのは、平野がまだ22歳の青年であった。移民たちは通訳に連れられて、それぞれ奥地の耕地に配耕されることになった。
感慨無量の移民たち、泣いて別れる右左。配耕された耕地は日本の国で聞いていた「金のなる木」どこへやら。慣れぬ暑さに食糧に、言葉も解からず、仕事なら監督つきの半奴隷、夢も希望も破られて、ただ日本が懐かしく、こんな所になぜに来た。父ちゃん、家に帰ろうよ。泣いて騒ぐ妻や子を、なだめすかして自分でも、珈琲の葉陰で朝夕に泣いて暮らす情けなさ。
移民たちは耐え切れず監督とけんかをして脱耕する者、あるいは夜逃げをするものひと月と経たないうちにあちらでもこちらでも紛争事件を巻き起こしてしまった。平野が通訳として配耕されたグァタパラ耕地でも
「おい平野。貴様、若造のくせに生意気だぞ。通訳様だなんて言われて威張っていりゃそれでよいか知らねえが、俺たちの身になって考えてみてくれってんだよ。俺たちゃなぁ、地球の裏までわざわざこんな苦労をしに来たんじゃねえや。俺たちは奴隷じゃねえぞ。おい、貴様、通訳なら通訳らしく、俺たちを出すのか出さねえのか。はっきり耕主に聞いて貰おうじゃねぇか」。
「そうですか。貴方たち、それほど出て行きたいなら、仕方がありません。だが皆さん、よく考えてみて下さい。貴方がた第1回移民がこうして騒動を巻き起こしては、第2、第3と計画を立てている日本移民は禁止されてしまいます。我々には今後の日本移民に対する重大なる責任があるのです。遠い外国まで来て、言葉もろくに解らぬうちに、金儲けをしようなどとは少し早すぎではないでしょうか。この暑い国で日本式にお茶漬けを食べているうちはまだまだ駄目です。早く言葉を覚え、食物や気候に慣れ、ブラジルの様子が解かって、初めて我々の仕事、金儲けはそれからです。こんな遠いブラジルまで来て、いつまでも奴隷のような生活をしていては駄目です。せめてこのグァタパラ耕地の我々だけでも真面目に一生懸命に働いて、早く自分たちの土地を買い求め、植民地を切り開いて一致団結、みんなで力を合わせて、このブラジルに我々の第2の故郷を築こうではありませんか」。 「平野先生、よく解かりました。早く日本へ帰ろう、帰ろうとばっかり考えていた自分たちは間違っておりました。先生の今の話を聞いて、わしゃ、何だか世の中が急に明るくなったような気がします。明日から真面目に働きます。おい、みんな謝れよ。平野先生に」。
「先生、この通りです」。
「解かってくれましたか。貴方がたは日本国民を代表してきた開拓移民です。イタリア、ドイツ移民に負けてはいられません。自分ひとりのためでなく、ブラジルのため、日本のため、いや世界平和のためにどこまでも自由に伸びることのできるこのブラジルの大陸で、思う存分働いてみようではありませんか」。
「せ……先生、ご意見、ありがとうございます」。
思わず握った男の手と手。解けて結んで心と心。
勇気、才能、人格や人事統制の力量に、感心なされた支配人が若き青年、運平を副支配人に抜擢し、日本移民を特別に待遇すれば、1年が2年とのびて、友情の花咲く花散る早や7年。思い出深い珈琲園グァタパラ耕地に別れを告げ、20名の先発隊を引き連れ、平野運平は障烟蠻雨のノロエステ、ドラードス河畔に立ち上がり、河は向こうの山々は、目指す我らの理想郷、伐っては拓くはここなりと、平野の言葉に一同は、どっと叫んだ万歳は、千古の山にこだまする。
平野運平先頭に20名の先発隊、当時形ばかりのペナン駅、今のカフェランジャ駅より13キロ離れたドラードス河の対岸地、1620アルケールの原始林を買い求め、平野植民地の開拓を始めたのは1915年の8月3日であった。河端に雨露しのげるだけの小屋を建て、山を切り拓いて米を蒔き、12月の末までには82家族を入植させ、米もよく出来、植民者は初めて迎えた正月に喜んだ折も折、悪性マレッタ(マラリア)の発生で70名近くの犠牲者を出すという、邦人移民史の中に最も悲惨な1ページを記するに至った。
「おばあさん、どうしたのですか」。 「平野先生、秋山さんの奥さんもとうとう駄目でしたよ。可愛そうなのは、1人残されて寝ている子ども。昨日までは兄姉や父親に死なれ、今日はまた、たった1人の母親に死なれて、苦しんで泣きながら寝ている子どもが可哀想で可哀想でなぁ」。
聞いて平野が駆けつけて、カンテラに灯を点し、照らしてみれば母親の死骸にすがり幼子が苦しい声で「母ちゃんよ、なぜに死んだ、父ちゃんも兄ちゃん、姉ちゃん、皆死んで、誰もいないよ。淋しいよ。母ちゃん、母ちゃん、生きて下さい。母ちゃん」と虫のなく音で呼んだとて、帰らぬ母は答えなく名前も知らぬ虫の声。ただチチチチとなくばかり。
「坊や良い子だから泣くんじゃないぞ。お前になかれりゃ、この運平の胸は張り裂けそうだ。泣くんじゃないぞ」。
泣いて泣くなと抱き起こしゃ、コケーロの壁の隙間より差し込む月は幼子を青く照らして哀れなり。

(B面)

昨日は3人、今日5人、明日は何人逝くのやら。飢餓と病魔に身をもがき、枕並べて村人が、病にゃ勝てず熱のため、妻の腕に助けられ、立てども歩めぬ者もあり。末期の水をば弟に与えし姉もその夕、同じ枕に逝くもあり。母の死骸の乳房にすがり、そのまま死に行くみどり子や、次から次への埋葬に棺を作るに板はない。
「春ちゃん、遠いブラジルまで来て、お前をこんな物に入れて葬式するとは思わなかった」柳行李に愛し児の死骸を入れて母親は泣き泣き埋めて帰るなり、夫もすでに息切れて、「あなた、あなた、私1人をこんな所に残して、死んでしまっては駄目じゃないの」。
夫の死骸を背に負い、よろよろよろと河端の墓地まで運ぶその様は見るも語るもただ涙。
その間、病床の植民者を一軒一軒見舞って慰めて歩く平野の厚意に病人たちは「先生、ありがとうございます」とただ泣くのみであった。
この平野植民地の窮状を知った松村貞雄初代総領事が、戸田善夫という医者と薬を送り、その上、自分の懐より当時の金で8コントスという大金を送り、その施療に従事せしめた。
平野をはじめ植民者は、奇特な総領事に救われて、勇気百倍、翌年は珈琲も植え付け米も蒔き、明日の収穫夢に見て、一夜明ければ恐ろしや、青く晴れたる大空を、一転にわかに曇らせて、雨か嵐かごうごうと天地たちまち暗黒に、襲い来たった蝗(いなご)の大群。汗と涙で蒔きつけた、実る五穀をばりばりばり。あっという間に喰い荒らし、たちまち変わる枯野原。泣くに泣かれぬ大被害。どこまで続くこの試練。翌る年には旱魃で、米も綿も枯れ果てて、わずかに残った珈琲に平野は自ら先頭に、河の水をば汲み上げて、一本一本愛し児に与える如くに水をやり、穴の上まですくすくと青く伸びたるその上に、真っ白に降りたる大霜に哀れ珈琲も全滅す。
三度四度と重なる災難に、愛想づかした植民者は、次から次へと別れの言葉も交わさずに、黙って出て行く引っ越しを眺めて、平野は悔しいやら、気の毒やら。苦しい胸を一杯のピンガでぐっと堪え、もはやこれまでと涙をのんで残った30余家族の人々に向かい「皆さん、よく今日まで頑張ってくれました。平野は心から感謝します。これ以上、皆さんを犠牲にしたくはありません。何も言わず、もう一度、耕地に戻って働いて下さい」。
「平野さん、あなたはこれからどうしますか?」
「畑中君、僕はいつまでもここに残って、この村のため、犠牲になってくれた方々の霊を守ってゆくつもりです」
「そうですか。おい、みんな聞いたか。平野さんの言葉を。我々も一緒に残って頑張ろうではないか」。
「平野先生、僕もここに残って死ぬまで頑張ります」。
「平野さん、この畑中もここで一生働きます」。
「先生、私も、私も残ります」。
「僕も残ります」。
「ありがとう、ありがとう。よく言うてくれました。皆さんはこの平野をそれほどまでに。ありがとう、ありがとう」。
感謝感激胸せまり、言おうとしても言葉さえ、口が震えてままならず。血涙しぼって運平は30余人のその前で声を立てて男泣き。
残った30余家族の人々も、飢餓と病気で思うように仕事がはかどらぬ。家鴨(パット)の味噌汁が体によく効くと聞いた平野は山奥の原始人の家を訪ね歩いてはアヒルを買い求め、それを植民者一軒一軒配って歩く。また夜になればイサノ夫人と2人で、植民地を駆け回り、病人たちに薬や注射を施して歩くのであった。
ある夜のこと、山道をガサガサと帰ってくると「先生、こんな夜更けに山道を歩くのは物騒ですぜ。毒蛇(コブラ)にでも噛まれた大変です。僕は豹(オンサ)かと思って、もう少しで先生を撃つところでしたよ」。
「いや、山下君か。驚かしてすまん、すまん」。
「先生も奥さんも毎日毎晩、そんな無理をして、もしものことがあったらこの植民地はどうなりますか。今日まで植民者が頑張ってこられたのも、みんな先生のお蔭です。お願いです。先生、早く帰って休んで下さい」。
「ありがとう、山下君。心配かけてすまんなぁ。じゃ、一緒に帰って休もうか。なぁ、山下君、今年は米も綿もよく出来て良かったなぁ。それに値段の方も良いようだから、この分なら皆、今年は少しぐらいは残るだろうよ。学校の生徒たちも近頃は急に元気が出て、とても成績が良くなったと、弟の彦平も喜んでいたよ。どうやらアヒルの味噌汁が効いたらしいぜ。ハハハ」。
「これもみんな先生のお蔭です。ねぇ先生、いよいよこの植民地にも花咲く春がやって来たようですね」。
「そりゃ山下君、これ以上我々に苦労をさせちゃ、今度こそは神様に罪が当たりますよ。ハハハ……。いや、今夜は良い月夜じゃ。久しぶりに学生時代に覚えた詩でも怒鳴ってみるか」。
男子志を立て、郷関を出ず。学もしならずんば、死すとも帰らず。
入植以来4年間、寝食忘れて働けば、心も体も疲れ切った平野を襲ったのは猛威を振るったスペイン風邪であった。ひどい高熱のため、身を横たえながらも村のことを心配する平野は、当時、小学校の校長をしていた弟の榛葉彦平を枕元に呼び
「兄なき後は弟や、すべての事はお前によろしく頼む」と後事を託し、心配して駆け付けてくれた村人に「皆さん、長い間、お世話になりました。どうやら僕も駄目らしいんだ」。
「先生、そんな気の弱いことを言わないで。いつまでもいつまでも生きていて下さい。先生」。
「ありがとう、畑中君、山下君に植田君。僕が気にかかるのはこの村の事。ここには今日までに70余名のと尊い命が犠牲になっているんだ。このままでは終わらせたくない。貴方がたの手で立派な植民地を」。
「先生、植民地のことなら、心配しないで下さい。私たちが力を合わせて、立派にやっていきますから」。
「それからこの村の続きの3,000アルケール。あの山は土地もよし、地形もよし、これから来る新しい移民たちのために手に入れておくと良いがなぁ」。
「解かりました。先生の言われる通り、第2平野植民地をきっと拓いてみせます」。
「第2平野植民地か。それが僕の長い間の望みだった。それをみんなで拓いてくれますか。ありがとう、ありがとう。もう、何も思い残すことはない」。
「あなた、そんなことを言わないで、しっかりして、しっかりしてあなた」。
「イサノ、お前には苦労のかけ通しだったなぁ」。
「いいぇ、あなたこそ、あなたこそ。苦労に苦労してこのまま死んでいくなんて」。
「これでいいんだ、これでいいだよ。こうして種さえ蒔いておけば、いつかは実り、誰かがそれを収穫してくれるんだよ。解ったな」。
「はい」。
「今日は良いお天気だなあ。日本の歌を聞きたいなぁ。加藤さん、あなたの得意の二上り、ひとつ頼む」。
「せ、先生、聞いて下さい」。 諦めてみても「あぁ、良いなぁ」未練の戻り橋。
「あなた、あなた、あなた。しっかりして。あなた」。
「先生、先生、先生」。
恋し懐かしい故郷の唄を聞きつつ、運平は34歳の若さにて眠るが如くに散りてゆく。時は大正8年の無情の風邪に堪えかねて、仁徳義きょうの英雄も大往生を遂げたれど、弟榛葉彦平が、遺業に準ずる村人と、築く文化の理想郷。拓く第2植民地。死して望みは果たされて、その功績と業績を讃えて祈る鎮魂碑。時の特命全権大使有吉明 碑文を贈って追悼す。
平野植民地は伯国に於ける我が植民地の嚆矢(こうし)にして、静岡県人平野運平君をもって創始者とす。
時の流れは是非もなく、平野が逝きて40年。二世の時代と変われども、されど歴史に蒔かれたる、開拓移民の魂は、種は亡びぬ永久に。2月6日の命日にゃ、老若男女が集まりて、花と線香とローソク供え、ありし昔を語らいつ、先生はこれが好きじゃったと、ピンガを墓石に注ぎかけ、謝恩慰霊の手向けする。世に麗しき習わしは、今なお続く物語り。(終わり)


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