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     2015年ゲスト・アーカイブ  (最終更新日 : 2016/02/07)
Vol.185「ブラジル・バレーの父、今井さん」今井庸浩さん

Vol.185「ブラジル・バレーの父、今井さん」今井庸浩さん (2015/09/24) 放送:2015年6月11日(木)ブラジル時間 13:13~14:56(1:43) 日本時間01:13~02:56(1:43)、ダウンロードはゲスコーナのみの1時間53分28秒です。
出演:今井庸浩(のぶひろ)さん(70、東京)、細川多美子、砂古純子、大久保純子

 バレーボールの元ブラジル・ナショナルチームのコーチだった今井さん。子どもの頃、眼が見えなくなる大病を患い、病弱だったという。高校から早稲田に入り、一念発起でバレーボールを始めた。当時はまだ9人制で、6人制が始まったのは、今井さんが高校3年生の時からで、1964年の東京オリンピックに備えての事だったという。高校、大学を通してオールポジションを体験。後にこれが今井さんのコーチ人生に大きく役立つことになる。
 「世界」に目が開いたのは、大学1年生の時に開催された東京オリンピックがきっかけだ。当時、ボランティアでオリンピック選手のボール拾いなどをし、間近で世界の選手を見ることとなり「オリンピックへ行く」という夢を持ったという。
 大学4年生の時に、男子として始めてヤシカの女子チームの手伝いを経験。1967年には、日紡貝塚(東洋の魔女)、ヤシカ、日立、倉紡の4強大会に備えた合宿も手伝い、それがきっかけで選手として就職が決まっていたが、それを蹴って、ヤシカ女子チームの「監督」として就職した。
 1968年のメキシコ・オリンピックでも、山田監督からの依頼でメキシコへ手伝いに行き、「オリンピックへ行く」という夢を実現することになる。
 1969年には、ヤシカが日本リーグで優勝した褒美にチームを欧州、北中南米、世界各地に派遣した。ここで今井さんは初めてブラジルを訪問。1か月間ほど滞在し、各地で試合を行い、1971年には再来伯し、ブラジルに魅せられていった。
 1973年にブラジルのバレー協会と契約し、男子のナショナルチームのトレーナーとして一人で渡伯。この時、現在ブラジル・バレーボールの監督として活躍するジョゼ・ギマラエス(Jose Roberto Guimaraes)をも指導している。最初はボールを拾い、監督に集めるという日本では基本中の基本を教えることとなる。
 1974年に日本ヤシカ社から呼び返され、ブラジルに支店を開けるために半年戻り、1975年に再度、ブラジルへヤシカの社員として戻り、1980年までパウリスターノ・スポーツクラブでバレーボールを教えながら、会社員として働いた。
 その後、1980年から1983年まで北米へ駐在として出向。83年にヤシカを退社し、ブラジルへ戻り、1987年からバネスパ(Banespa)チームで本腰を入れて、選手を育てることができるようになった。アナ・モーゼ(Ana Moser)、マルセロ・ネグロン(Marcelo Negrao)、リカルド・ベルムデス(Ricardo Garcia)など有名選手の秘話も聞ける。
 そして今、一番気になるチームはキューバだとか。来年2016年リオ・オリンピックの今井さん予想も聞ける必聴版!!だ。


【訃報】2016年5月29日(日)午前9時25分、聖市内の病院で動脈瘤により亡くなられました。享年72歳。このラジオにご出演下さって1年弱。この8月にはリオでオリンピックが開催され、今井さんも楽しみにされていただろうと思うと、あまりにも突然の訃報に言葉を失いました。まだまだ元気で若々しかった姿が目に焼き付いており、信じられない思いです。本当に残念です。衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。

貴重なインタビューとなりました。出来る限り、元気なお声を残したく思います。

それでは、以下のリンクをクリックしてお聴きください。
http://brasil-ya.com/radio/20150611.mp3


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