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熟年クラブ連合会
     活動報告  (最終更新日 : 2019/02/15)
2008年10月号

2008年10月号 (2008/10/14) 日野原先生を迎えた今年の老人週間

 九月五日今年も援協・救済会・老ク連・GEENIBRAの四団体共催で、第三十九回老人週間が行われた。この催しはブラジルの敬老の日に合わせて毎年九月末に行っているが、今年は「日本で一番有名な高齢者」と言えそうな日野原(ひのはら)重明(しげあき)博士の来伯に合わせて、一ヶ月早まった。そのため予約していた文協大講堂も使用できず、直ぐ近くの客家(ハッカ)会館を借りることにした。準備の段階では、百周年協会の招待である日野原先生の来伯の日程や、講演の有無などいつまでも決まらず不安な数ヶ月であった。漸く決定したのは記念式典が一段落した七月末で、それから会場の配置や音響など、共催団体の職員は誰もが超多忙の中、若い職員達が必死に頑張ってぎりぎりの状態で当日を迎えた。
 前日の準備も許されなかった会場では、六時から準備が始まったが、五時から設置(せっち)するはずの音響グループが三時間も遅れたので、慣れない会場で出足から大変だった。入口サロンでは業者バザー、高齢者の手作り品店、講堂内にも弁当・菓子・古本などの各店が出て、一階では血圧と血糖値の検査が行われた。舞台では音響設置の合間をぬってシニアダンスが行なわれたが、十時二十分からは予定通り始まり、久しぶりに元気な小林文枝先生の「健康表現体操」が観客と共に楽しく行われた。
 続いては日伯友好病院の村谷エレーナ栄養士の講演「高齢者の栄養」で、若い人とは違う食事の内容や取り方習慣などについて話された。次はJICA福祉の種まきプロジェクトチームによる演劇=現代版「水戸黄門」が本格的な扮装で面白く演じられた。その中で貞弘先生が観客と一緒にレクリエションをする場面もあったりして、多彩な中身となった。
 午後は式典から始まり、菊池援協副会長による主催者団体の挨拶、領事館・JICA・文協からの来賓挨拶、来場者から選ばれた男女各最高齢者(どちらも九十四歳)に記念品が贈られた。
 最後のショーではエトワールグループの見事な歌、貞弘先生の太極拳(たいきょくけん)、沖縄から来られた具志恵(ぐし・めぐみ)さんのすばらしい沖縄民謡の数々、先日の芸能祭優勝番組のリ・ピーレス錦友会の体操と、サ・アンドレ白寿会の団体舞踊が披露された。その後、当会三十周年祭に華やかな舞台を見せてくださったSORAKOさんが、丁度京都からの一行と来伯されていて特別出演して華を添えた。ショーの最後には、老ク連舞踊教室の玉井先生から指導を受けた四十名ほどが、「海を渡って百周年」をにぎやかに踊って、百周年記念の老人週間を締めくくった。
 第二部は今回目玉の日野原先生の講演「生き方上手」で、九十七歳の先生は「私の運動です」と言われて、椅子にも座らずに舞台の上を歩きまわりながら、食べ物・運動・考え方などについて高齢者に必要なことや、身をもって実践していることなどを面白おかしく話された。日本から来られた「新老人の会」の七十名を含めた千人余の満場のお客様は、「人のために自分の持っている時間を捧げることは、人のために自分の命を捧げること」など心をつくお話に魅了された。また現在九十七歳の先生が「百歳になったら必ずまた来て皆さんに会いたい」と繰り返されると、会場から大きな拍手が起こった。終了後は著書の販売があり、観客は長い列を作って先生から記念のサインを貰っていた。今回は百台の機械を借りての同時通訳もついたので、ブラジル人も入場して有益な公演を聞くことが出来た。
 ここで日本語は終わり、各社からのお土産を手に一応解散し、第三部として夕方六時から若手の福祉専門家を対象に、高齢医学専門医の千馬寿夫(ちば・としお)先生が「緩和(かんわ)ケア」と題してポ語で講演をされた。こちらも夜にもかかわらず百二十名程の聴衆が熱心に耳を傾けていた。
 こうして今年の老人週間は、朝早くから夜遅くまで大変有意義なプログラムが組まれ、不慣れな会場で幾つかの困惑もあったにもかかわらず、無事終了して関係者をほっとさせた。


バウル福寿会と交流

 九月二十六日夜、本年の交流旅行であるバウル福寿会を目指して、二階建てのデラックスバスは老ク連前を出発した。一行は重岡会長以下三十六名、最初の目的地バーラ・ボニータまでは約三百キロ、夜中の泊まり時間をたっぷり取っても、夜明け前の五時頃静まったチエテ河畔のレストランに着いた。ゆっくりカフェーをし、散歩をし、路上フェイラで買い物をする。ここにはカバン・帽子・タペッチなど普段に使うものが、きれいで安く売っていたので、皆競争のように買ってしまう。ここで名物の遊覧船に乗って、ミニ運河(うんが)を体験するが、移住時パナマを通って来た人にとっては玩具(おもちゃ)の様なものという声も上がる。沢山のお客は船室からデッキに移り皆大騒ぎ。賑やかな音楽に合わせてブラジル人達はたちまち踊り始める。食事を済ますとまた列になって机の間を踊りまくるので、船べりの景色を見ながらゆっくり会話を…などとは程遠い状況であった。
 夕方早めにキロンボ温泉に着き早速お風呂に入る。日本の温泉のように外の景色も見えないが、熱い湯がたっぷりと出て気持ちが良い。部屋ではNHKテレビも入り、食事もおいしく時間もたっぷりあって昨夜の疲れも取れた。
 二日目はバウルに行き、まず福寿会の田中束(つかね)会長らの案内で、天理教(てんりきょう)の本庁を見せてもらう。大きな整然とした祭壇を前に天理教の始まりや信者の活動などの説明を受ける。庭に出ると真っ盛りのプリマベーラが濃い赤紫に燃えて、大きな赤い屋根と緑の木々に映えた見事な景色で、皆夢中で写真を撮る。漸く今日の交流場所である広いバウル文協に着き昼食。その手作り料理のおいしいこと。老人部と婦人部の合作でそれぞれ分担が決まっているとか、思わず全員がお代わりをしてしまう。
 例会は午後で福寿会員約百名が集まった。今日はカラオケ大会があり、四十名程そちらに行ったというが、両方あわせて百四十名なので結構にぎやかである。主客入り混じって座るよう進められ実行しているのに、なぜかバウルの男性三十名ほどは自分達だけで一列を占めている。ここも「男女七歳にして席を同じうせず」かとおかしくなった。全員で「福寿会の綱領(こうりょう)」を唱和し、老クの歌や福寿会の歌を歌い、挨拶やお知らせの後、貞弘先生のレクリエーションで、体操やパネルシアターが楽しく行われた。その後十四回も入賞したという、佐々木バウル前会長のすばらしい「影を慕いて」を聞かせて貰う。数人の役員の手際よい運営で例会はスムースに進み、最後に誕生祝の大きなボーロが歌と共に切られ、全員に配られてお茶の時間となり、再びおいしいお菓子と共に団欒(だんらん)して例会はお開きとなり、名残(なごり)を惜しみながらお別れした。
 翌日は二泊したキロンボ温泉と別れてマリリアへ向かうが、途中にあるパウリスタ神社に寄る。ここはアルジャにある「神の家」の分社で蚕祖神を祭り、昔は栄えたそうだが養蚕の衰退(すいたい)と共に今は田中会長他十家族だけで支えているとか。しかし美しい真っ赤な大屋根が象徴(しょうちょう)するように、すっかり地元の人々にも信望されているのが強く感じられた。
 続いてマリリアのニッケイクラブに寄り、七十五周年記念に作った立派な碑を見ながら坂本会長に説明を聞く。寄付者など細かく書き込まれている何枚もの碑文(ひぶん)は、地域の人たちの協力の証拠であろうと思われた。竹寿(ちくじゅ)会の坂本会長も一緒に今旅行唯一のレストランで昼食をとり、一路バストスに向かう。
 バストスでは阿部五郎明朗会会長の案内で、文協・移民資料館・日本語学校などをゆっくりと見て歓迎の夕食会にのぞむ。ここでも主客入り混じっての席に座り、両隣と資料館に飾られていた写真のこと、共通の故郷のこと、現在の家族や暮らしのことなど、おいしい手料理と名物の小豆のアイスクリームをご馳走になりながら、話は尽きない。古い植民地のバストスの住民はほとんどが二世以下ながら、みんな日本語だけである。やはり故郷の歌「バストス音頭」を皆で歌ったり、全員で踊ったりして最後の夜を楽しく過ごしてお別れをした。帰りのバスの中で、マリリアもバストスも既に老ク連から離れて久しいが、このようにたくさんの老人クラブ会員が居るのだから、今でもつながっていたらどんなに良かったかと何度も残念に思った。
 今回もまた何事もないゆったりとした楽しい老ク連の旅行で、新しいものを見たり、幾つかの移住地やそこに暮らす日系人に会うことができたりして、大きな実入りだったと思う。


二百周年の大計は「人作り」から

モジ中央日会老人部 平山文子
 去る七月十七日、モジ・ダス・クルーゼス老人会では、七月の例会日にモジ本願寺の主管・清水円了先生をお迎えして、講話をしていただきました。
 先生には四年前にも一度お話しに来ていただきましたが、久しぶりのご縁で、出席者はみんな熱心に講話(こうわ)に聞き入りました。その時のお話しを私の感想を交えて書かせていただきます。
 今年は、ご承知の通り日本移民百周年と言う記念すべき年でもあり、それに因んでのお話でもありました。百周年記念式典も日本より皇太子殿下をお迎えして、各地で盛大に式典が挙行され、ご同慶(どうけい)に存じます。
 その記念式典と併せて、各地で立派な記念事業も行われましたが、当モジ市でも安部順二市長のお骨折りで、十数アルケールという広大な土地に素晴らしい「百周年公園」や「移民資料館」、「笠戸丸館」、「イベント会場」等が出来上がり、モジ市民から大変喜ばれ、現在、モジの観光名所として注目を浴びております。
 この公園等を建設するに当たり、安部市長はモジの非日系人たちに大変気を使われたと聞いています。と言うのは、「安部は日本人だから、百周年公園建設のために力を入れている」と非難の声が上がるのではないか…との市長の心配でした。ところが、いざ、その建設に取り掛かると日系人は言うに及ばず、ブラジル人の方が「頑張れ!頑張れ!」と物心両面から応援して下さったそうで、その心からなる協力に市長は感謝感激して、公園のイナグラソンには涙を浮かべて、お礼を述べ、熱のこもった挨拶をされました。
 日系人や日系社会にブラジル人が、その信頼と親睦を寄せてくれるのは、今は亡き親・先輩が、どんなに辛い目にあっても、騙(だま)されても虐(しいた)げられても、誠実に正直に誠心誠意(せいしんせいい)生き、努力して来たからです。その結果「ジャポネース・ガランチード」との言葉が生まれて来たのではないでしょうか。現在の日系人に対する信用は、今の人が作り上げたのではないと言う事です。亡き親・先輩の七光りである事を忘れてはなりません。
 次に「百周年の記念として何を残すか」については、色々と議論をされましたが、結局、何れも「公園」と言う事で落着きました。しかし、先生もお話の中で言っておられましたが、大正十二年九月一日に起きた関東大震災で焼け野原となった東京を近代的な大都市にする為の指揮(しき)を執(と)られた偉大な政治家に、後藤新平という方が居られましたが、この方が「人間死んで行く時に何かを残して行かなければならないが、金を残すのは下、物を残すのは中、人を残してこそ上と言える」と言っておられたそうです。
 現在、日系ブラジル人が、この国の各界で活躍しているのは、一世の親たちが生活を切り詰めて切り詰めて、子供たちに「勉強せい!勉強せい!」と子弟の教育に命を注いで来たからでしょう。西洋人は三人寄れば教会を建てる。日本人は三人寄れば学校を建てる。と言われた日本人のお家芸は何処へ行ってしまったのでしょう。寂しく感じます。
 コロ二アがこれから二百周年を日指して進むとするなら「人作り」に力を入れなければなりません。物はやがて壊れて消えて行ってしまいます。しかし、心は何時までも行き続けます。
 私は、山口県萩市出身です。私たちの故郷では、今から一五〇年も昔に亡くなった吉田松陰先生のお徳(とく)を慕(した)い、その教えや精神を大切にされています。吉田松陰先生は、「身はたとい、武蔵の野辺に朽(く)ちるとも、留め置かまし大和魂」と辞世(じせい)の句を残し、弱冠三十歳で安政(あんせい)の大獄(たいごく)で刑死されましたが、やがて、その大和魂は、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋等と言った弟子たちが受け継ぎ、後の輝く明治の時代を築き上げました。
 「国作りは、人作りから」と言われるように、今からでも遅くない。二百年後の日系社会を目指し、「人作り」に力を注ぐべきではないでしょうか。
 清水了円先生は毎日多忙を極めていらっしゃる中、こうして老人部で感銘(かんめい)を受けるお話をして下さり、あっという間に時間が来ました。本当にありがとうございました。


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