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熟年クラブ連合会
     活動報告  (最終更新日 : 2018/12/14)
2011年10月号

2011年10月号 (2011/10/13) 老ク熟年讃歌応募歌

 先月号に続き、老ク連熟年讃歌の応募作品を紹介します。

「熟年讃歌」 作詞・作曲:与古田徳造(JICA シニア・ブラジル在職記念)

一.熟年集まれ 楽しもう (輪になって)
  クラブ仲間は 明るく若い
  寄る年齢(とし)忘れ 手を取り合って
  笑顔で迎える 楽しい集い
  今日も幸せ 老人クラブ
二.熟年集まれ 笑いましょう
  会員同士 希望を持って
  お顔のしわは 勲章だよ
  ブラジル万歳 一世二世も
  今日も楽しく 老人クラブ
三.熟年集まれ 語らおう
  一生青春 一生ロマン
  一生感動 恋も求めて
  アマゾン開拓 夢かない
  今日も元気だ 老人クラブ


お楽しみ老ク連ビンゴ大会

 老ク連恒例、今年二回目のビンゴ大会が去る九月三十日、老クサロンで開催された。今回は七、八月の催しが繁多につき、連絡、段取りが遅れ気味であったにもかかわらず、時間前には広いサロンは座ることもできないほどの人で埋まり、相変わらず廊下にまであふれていた。
 十時開始と同時に会場はたちまち熱気に包まれる。数字を読み上げるたびにあちこちから様々なつぶやきが聞こえてくる。「あ~ぁ、全然ダメ。一つもこないわ」等とけん制しながら確実に埋めている人。「あんた、よく出るわね~。またじゃない」と人の分まで目を通す人。そのうちに早い人がどこかで「ビンゴ!」と声を上げる。「イヤダー。もう出たの?間違っていない?」なんて憎まれ口をついてみたり。「あー、これは間違っていますよ」なんて言われたら、どこかで「良かった~」なんて本音が出たりしていた。
 賞品はいつもの通り、役職員から集めた寄付金で購入したものと、役職員や会員有志から差し出された数多くの品物で、一回につき約四十五人は当たる程揃えられた。また今回も内海博副会長の寄付で特別賞が行われた。
 ビンゴは何回も当たる人もいれば、一回も当たらない人もいて、それでも次のビンゴが待ち遠しい不思議な遊びである。
 賞品のみのビンゴが七回と赤券、青券の二回で、あと特別賞が一回と全部で十回も夢を見たビンゴ三昧(ざんまい)の一日も三時半には無事に終わり、参加者は笑顔で会場を後にした。青券は一回目は一人に当たり、また赤券は二名に当たり特別賞は三名にも当たり、大喜びしていた。

賞品寄贈者(順不同)
五十嵐司、松平和也、小坂誠、玉田伯夫、西丸敏子、高山友巳、玉井寿美子、中川浩巳、纐纈蹟二、戸田房子、杉本正、遠藤猛、有賀春子、内海博、井出香哉、上田孝子、永山豊恵、香山和栄、鈴木文子、相沢絹代、宮田文野、菊池つる子、伊藤フミエ、上原玲子、岡たつみ、藤井郁子、餅川寿美子、星井のぶ、畠中和廣、金籐康子


宇野妙子先生からのご挨拶

 ありがとうございました。
 懐かしい皆さんにお会いしたくてやってきたブラジル。楽しい日々は過ぎるのが早いですね、あっという間に帰国の日がやってきました。
 でも心から満足しています。新しい人との出会いもあり、たくさんの方が私のことを覚えていて下さったので幸せでした。そして「前より若くなったね」の言葉はこれからの元気の源になります。ビューティケアと手のマッサジを続けて下さることを心から願っています。また、お会いできる日まで…。


「まりまり」さんから 御礼届く

ブラジル老人クラブ連合会の皆さまへ
こんにちは。先日はブラジル老人クラブ連合会でお芝居をご覧下さり、誠にありがとうございました。私たちにとっては生まれて初めてのブラジルでの上演であり、私たちの芸が皆さまの心にかなうものかどうか大変な緊張のなかでの上演でした。 でも皆さまの明るい笑顔とパワーですっかり会場は明るくなり、私たちも心を込めてお芝居をさせていただく事が出来ました。ありがとうございました。又五十嵐会長、皆さまにはカブを抜くのをお手伝いいただきありがとうございました!  その後、皆さま方の歴史についていろいろお話をうかがえた事も、とても感激でした。お話しされる笑顔の中に人生の幾多の困難を乗り越えられた明るい自信と大らかさを感じさせていただきました。 日本では出会えないスケールの大きい人生の先輩方にお会いできた事が今後、芸の肥やしになっていくと確信しました。
「老壮の友」八部もありがとうございました。義援金の募金や日本へのお見舞いの寄稿、各ご出身地への思いをつづった文章には涙が出ました。ほかの文章もまりまりお芝居をご覧下さったお一人お一人のお顔が浮かぶようでした。
 本当に皆さまが驚くほどお元気で、その元気こそ今の日本に必要なものだと思いました。皆さまの活動や日本への思いを、まりまりは日本に伝えていきたいと思います。コンピュータ教室もはじめられたとの事、ホームページやメールで皆さまとこれからも親しくさせていただけましたら光栄です。どうぞ、皆さまによろしくお伝え下さい。又お会いできます事を心より願っております。(お芝居デリバリーまりまり 萩原ほたか)


三泊四日の慰安旅行

バウルー福寿会 早川正雄
 好天気にめぐまれた思い出の旅行。あっという間の四日間。九月十八日午前九時にバウルの会館前を出発。ウバタンのホテルに着いたのは午後四時頃だった。約六時間五十四人乗りの大型バスは延々としたカンナ畑の国道を北に走る。ブラジルの広さを改めて確認する。ホテルはリオ・グランデを堰き止め発電所が造られたために出来上がった人造湖に面しているウバタン温泉ホテルだ。
 ホテルの朝のカフェー、昼食、そしてジャンターは慰安旅行に不足のない御馳走だった。
 プログラムに従って毎日の行動を共にしたことではあるが殊にガイドのクライトンさんの説明は微に入り細にわたりで好感がもてた。またハイドロ・ジナスティカ(水中体操)ではホテル所属の指導員が愛嬌たっぷりに指導してくれたことは言うまでもないが特別指導でバウル老ク会員の梶原さんが独特の水中体操を披露、指導して下さった。プールにはリオ・グランデ・ド・スールのグループや別方面からの男女青年たちを含めて七十~八十名も参加。まことに和気あいあいの水中体操だった。
 二十一日午後二時、帰聖前にホテルの前で記念写真を撮る。車中、大川会長から関係責任者の御苦労に心からの感謝、合わせて参加者にお礼の言葉があって全員で拍手。予定の午後八時には無事バウル会館に到着した。楽しかったね、よかったね。御苦労さまでした。来年もまたお願いします。思い思いに心の内を口にしながら帰途についたことだった。


追悼の辞、真鍋次郎顧問を送る

ブラジル日系老人クラブ連合会会長 五十嵐司
 ブラジル日系老人クラブ連合会の偉大なる第三代会長であった真鍋次郎顧問が私たちを残して急逝された。
 真鍋氏は長野県出身、二十一歳の時夫人同伴でブラジルに移住。イタケーラに入植、直ちに養鶏・桃作り・蔬菜の栽培などに従事され、同時に地域社会の発展にも積極的に協力された。
 同地の日本人会であるイタケーラ共済会の会長職には一九六九年度と一九七四年度の二回にわたって就かれ、老人クラブであるイタケーラ寿会の会長は二十年間も勤められている。そして一九七五年発足の老ク連では、その結成の初期、初代田中丑子会長の時代から役員として加わり、特にゲートボールの振興には力を入れて指導された。一九九一年には三代目会長に就任、九五年までの任期を務められた。九六年には日系社会に対する貢献により日本政府から旭日賞を授与されている。
 この間に老ク連ではそれまで手狭な事務所からホールつきの広大な本部会館を持ちたいという会員たちの強い要望に応えて、それを立案・計画、先頭に立ってブラジルの各地を弃走、コロニアの諸団体、日本内地の関係機関などに要請し、三年間の努力の後ようやく資金を調達し得て隣接する土地建物の購入に漕ぎ着けたのである。
 真鍋顧問を失った今日思うのに、私ども後輩がこうして固有の資産・資金を持ち安穏に連合会の運営にいそしんでおられるのは一にかつて真鍋顧問のような先輩方のご苦労の賜物と思い誠の感謝にたえない。我々も心を引き締めてこの立派な会を守り、後に続くものにこれを伝えて、そのご恩に報いねばならないとの決意を新たにするものである。真鍋顧問という方は人に接しては誠に温厚な中にも強い意志を持ち、与えられた責任を重んじるという古武士の風格があった。九月二十四日午後、小雨降るカルモ墓地で顧問を慕う大勢の日伯人たちの涙に囲まれて埋葬が行われた。九十六歳、天寿とはいえまだまだこの世にあって私たちを導いて頂きたかったのに、と惜しまれてならないが、今は天上で私たちを見守り、安らかに休まれるよう祈るばかりである。


真鍋氏と共に歩みし歳月を振り返り

スザノ福博村福栄会 杉本正
 九月二十三日、第三代会長の真鍋次郎氏が亡くなりました。
 突然の逝去の報に永劫の別れとなった寂しさが身を包みます。人は皆、この世に生を受け、以来、日一日と死に赴いていく事は世の慣わしではありますが…。
 真鍋さん、貴方はついに九十六歳の長命をもちまして貴方の人生の終わりを告げられたのであります。
 貴方は働き盛りの年代にては至って健康で、一筋に日系老人クラブ連合会に傾倒され、三十年からを役員として、その発展に意を注がれて参られました。会長就任中は共に本会の創立二十周年記念式典を執り行いましたね。また、会館建設に当たっての積極的なイニシアチブは私も役員の一人として側から見ていて深く感銘を抱き、微力ながら私なりにお手伝いさせて頂きました事を懐かしく思い出します。
 会館建設に当たって、貴方はこの事業を「全役員諸氏の総力なり」と激励し、特に日本国に対し建設助成金の嘆願をせるも拒否されるに至った時、貴方は「もう日本政府を相手とせず、会員と日系社会の誠意によって募金活動をし、自らの手で会館を完成する」という強い意思を示されたこと、今もって忘れることができない発言であります。
 また、第三者による共同建設の提案もあり、理事会内でも賛成者があって意見が対立した時にも貴方は会長として決然とされ、「会館建設は我々の手によって完成すべきなり」と表明されました。会長時代、穏やかばかりではなかったと、当時のことが浮かんでまいります。
 そして日本全国老人クラブ連合会の多額の友愛拠金もあって、見通しが明るくなるにつれ「肩の荷が大分軽くなってきましたね」と私が言った事もありましたね。
 三ヵ年計画の下に着手した福祉センター建設も一丸となった努力が功を奏し、完成の見通しがついた九六年に至って、役員改選の年となりました。理事会は総意の下に貴方に「会長職を継続して頂きたい」と懇請されたのですが、貴方はもうどなたが会長になられても完成できるとのお考えをすでに持たれ、ご自身の引きどころであるとの思いを固められて辞意を通されたのでした。引き際を見事に見極め次世代に託し、次期会長に完成の事業の一役を残されました。
 常に側にあった私は貴方の意を汲み、当時に思いを馳せながら、逝きし貴方の面影をしのびつつ追悼の言葉として結ばせて頂きます。


心から感謝と御礼を申し上げます

イタケーラ寿会会長 小坂誠
 謹んで真鍋次郎イタケーラ寿会名誉会長の御霊に感謝と御礼の言葉を捧げます。
 誠に残念ながら貴方は九月二十三日、九十六歳の長寿で逝去されました。然し私はもっともっと前会長の経験から相談や決断を仰ぎたいと思っていました。
 貴方は一九七三年、イタケーラ寿会創立に際しイタケーラ共済会の理事として創立に貢献されました。
 そして寿会会長として一九七八年から一九九八年の二十年間、地道に会の発展に尽くされました。誠に努力の人でした。その反面、酒をこよなく愛し、明るく陽気な人でした。今でもにこやかな笑顔が目に浮かびます。
 また、一九六九年と一九七四年の二回、共済会(=日本人会)の会長に推され、一九九六年日本国より秋の叙勲勲六等旭日章を授与されました。
 生前、健康が許す限り月例会に参加し我々を見守って居て下さいました。我々会員は貴方の意思を継いで高齢者の幸せの為に尽くす覚悟であります。真鍋次郎名誉会長有難う、ご冥福をお祈りします。


苦労でも楽しかったあの頃

前老ク連事務局長 上原玲子
 一九九一年、前年に夫を失った私は息子達が父の後を継がないというので、農場を整理してサンパウロに出て来ていました。当時は出稼ぎの始め頃で、直ぐに日系旅行社に勤め書類の翻訳や日本語記述等予想外に自分の出来る事はありました。しかし仕事での言葉は日本語でもその他はポ語、只一人一世で十以上も年上の私は、何か場違いで居心地の悪い思いでした。
 そこに県人会で馴染みだった真鍋さんから、老ク連で働かないかという話が来たのです。会長になったばかりの真鍋さんによると、職員が一人もいなくて困っているとの事。給料は半減するが、自分同様一世の高齢者の会ならば勤まるかも知れないと気持が弾みました。朝の掃除やカフェー作り、電話や客人の応対に昼食のうどん作り、そして事務の全て等が私の仕事でしたが、毎日のように真鍋会長、副会長の大貫氏・杉本氏、佐藤会計理事等が手伝いに来て下さり、まるでもう一つ我が家が出来た様なとても楽しい気分で毎日を過ごす事が出来ました。
 やがて仕事にも会員にも慣れた頃、活動の場である会館購入の話が持ち上がりました。理事会は今度こそ何が何でも実現しようと、先ず自分たちが高額を出し合い、日本側にも頼み、コロニアのあらゆる団体・個人・企業にお願いしました。一年後に入った金藤さんと私は事務所で手紙と電話攻勢、真鍋会長以下役員は連日外回りで、どんな小額でも下さると言う声が掛ると出かけて行き、又返事のない所にはお百度を踏み、迷惑がられてつらいと言いながら、少しづつためて行きました。特に真夏の暑い中今にも倒れそうになって帰り着く姿を見ると、お年寄りにどうしてこんな苦労をさせるのかと、頼んでも頼んでも応じてくれない母国が恨めしくなりました。近郊の会員一人一人に加えて、ベレンを初め他州の遠方の会員達の支援も大きく、やがて25万ドルいう資金が集まり、現在の大邸宅が購入出来ました。しかしその代償に大貫副会長はがんに倒れ、まだまだ続くと言われていた真鍋氏は疲れ果てて会長を辞し、次の三浦会長が増改築をして、現在の会館になったのでした。
 真鍋氏は自分の意見を通すよりも、役員皆で相談して会員の気に入るような会にしていく会長でした。従って副会長達も良く従い、事務所に見える会員とも馴染みで、いつも話が弾んでいました。総会の前日などは執行部全員が夜遅くまで明日の打ち合わせに余念がなかったり、自宅でとれた筍を山のように持ってきて、居合わせた役・職員総出で皮をむいた事など、本当に楽しき良き時代だったと思い出します。私的にも情のある方で、多くの子供さんや血の繋がりの無い関係者も良くまとめ、いつも大勢でワイワイやっていた様な家庭でした。
 老人クラブの創立時から会員やゲートボールの勧誘に国内をくまなく歩いたりした真鍋氏は、今頃は先に逝った多くの役員や会員達と楽しげに話しているのではないかと、九十六歳という天寿を全うした事を祝福したい気持です。


~老ク連親睦旅行~ ハラハラギャーギャー!ボニート旅行

麻州ボニートへ

サンパウロ鶴亀会 玉井須美子
 老ク連は八月二十七日、今年最初の親睦旅行を行った。早朝五時に本部に集合。旅行だと皆こんなに朝早くても苦にならないらしい。
 サンパウロからTAM機で二時間足らずでカンポグランデに着く。バスに乗り換え心地よい風に吹かれつつ平坦な国道を行く。五時間近くかかってボニートのホテルに到着。立派なホテルで一同大満足。夕食はボニートの町へ出掛けて行き町を見学したり買い物を楽しみ、ゆっくりと時を過ごす。サンパウロと違って人ものんびり、車も少なく自転車も通りに置きっぱなしになっていても無くなる事はないらしい。
 ホテルへ帰り一夜明けてツアーの本番となる。山歩きにしてもボートでの川下りにしても今までに体験したことのないことばかり。本当に来て良かったと口々に言っている。
 老ク親睦旅行で飛行機を利用したのは今回が初めてだが、疲れも知らず皆元気に無事帰ってくることができて感謝、感謝。
枯野行く赤い夕陽の麻州旅


雲の上行く老人会

サンパウロ名画倶楽部 田中保子
 早朝六時集合にもかかわらず全員定刻空港に集合。八月二十七日八時には老ク連会員親睦旅行団は雲の上を快適に飛んでいた。
 いつもなら貸し切りバスの旅行だが、寅さんの台詞じゃないが「大したもんだよ…」。もっとも今回は麻州ということで時間節約のため飛行機と相成(あいな)り候(そうろう)。時差があり、九時少し前に到着。外はムッとする暑さ。これでも早朝ゆえ少し涼しいのだそうだ。カンポグランデ市からバスで目的地まで延々(えんえん)四時間の大移動である。
 途中ピットインで昼食。覚悟はしてきたが今回はブラジル食オンパレードの由。
 ホテル着もお早いお着きで部屋割りもスムーズ。夕食までゆっくりする。夜、ボニートの街に繰り出してさぁ何を食するかで意見が分かれ、結局ワニ肉組と日系店の焼きそば組に分かれた。
 やっぱり暑いとアイスクリームに目が行く。地元名物の果物アイス店にぞろぞろと押しかける。多種類あり、聞いた事もない果物の名に戸惑う。
 翌早朝ホテル出発。いくつもの滝を見ながら山歩き。様々な植物、果物の名をガイドに聞いたけれど、右から左へと素通り。
 下りの川辺で涼み、所々の滝つぼで達者な人は泳ぎ、昼食はファゼンダの手料理。午後は川下りボート乗り場までバスで移動してゴムボートに分乗する。
 ガイド曰く「天竜川でのボート転覆事故のことがあったので余り宣伝しなかった」由。早々に辞退する人が出ると予想したらしい。ボートに乗ったらまな板の鯉(こい)。一か八かで腹をくくるしかない。激流を下る時、滝を乗り越えるときのポーズの練習をする。フォルモーゾ河下りがこんなにスリリングとは思いもせずホイホイと参加したことをちょっぴり悔やんだが滝を越える度に「行くぞー」「ぎゃー」を幾度繰り返したやら。ボートの底の水をバケツで汲み出し水夫(婦)の役をやっているうちに伴走するブラジル人の若いもん達のボートからバケツで河水をぶっかけられ、こちら全員頭から水浸し。応戦に努めたもの、唯一の武器のバケツを敵にぶん取られ最大のピンチ。伴走のカヌーのカメラマンの男に取り返してもらってまた水かき水夫に戻る。
 最後の滝を飛び越して振り返って見ると、直角の滝の深さにゾーッとした。よくまぁ、あんな所を無事に飛び越したものよ。ギャーギャー年を忘れて二時間全身びっしょりで神父の島とやらに到着。
 ホテルで着替えて町へ出た時、どこかで見たような女性二人とすれ違ったが向こうさんがクルリと回れ右して「がんばれの小母さん!」と抱き付いて来た。ボートを漕ぐ時、「がんばれ、ガンバレ」と掛け声をかけて、そのブラジル人女性たちにオールで漕がしたのを覚えていたらしい。大げさに言えば、生死を共にした仲である。街の中でブラジル娘たちとド派手にアブラッサ(ハグ)する日本人のバアさんも珍しい。
 三日目以降、どなたかにバトンタッチ。
 皆さん、時間敢行規律良く旅慣れした方ばかりで病気、怪我なくメデタシだった。
 秋空や雲の上飛ぶ老人会 保子


滝つぼでひと泳ぎ

モジ中央日会老人部 西丸俊子
 旅行のお誘いを受けた時は体調も良好で、長男に相談すると、老ク連で行くなら心配ないからとすぐ賛成してくれました。その後、梯子(はしご)から落ちたり風邪が二ヶ月も長引いて、そのうち咳がひどく気を失って倒れ、頭を打ちました。眼のまわりはドス黒くなり起床する時、天井が回ったり、フラフラしてしばらくは安静にしないと起きられませんでした。
 これでは旅行は無理かなと思いながら、長男に病院へ連れて行ってもらい色々と検査しましたが医者は「悪い所は一つもない。旅行へも行って来なさい」と言われました。お医者様が「どうもない」と言ってくれた次の日~現金なもので今までの事が嘘のように元の健康に戻りました。
 飛行場までの送り迎えは次男がしてくれました。旅行二日目の滝の公園トレッキングでは素晴らしい滝を幾つも見ました。一番大きな滝の滝つぼで案内人が滝に飛び込んで泳いだのを見て、私も泳ごうと思い、滝の下まで泳いで帰りました。沢山の小魚が体を突いて来ました。ちょっと体の疲れを感じました。
 三日目の二十九日はサンミゲル鍾乳洞の見学です。四〇〇米の吊り橋を渡って入り口の洞穴までたどり着き、そこから中へ入ります。足元が悪く転ぶと大変なので、案内人の手を借り、命がけで全神経を集中して説明を聞き、見学しました。無事に出た時は案内人の大男に心よりお礼をいい、その時のにこやかな優しい顔が印象に残りました。
 午後は魚と遊泳です。川の底まで透き通る水の中をゆっくりと舟で下りました。終点に着き、ここでもう一度、向こうの滝まで泳いで帰りました。今度は少しも疲れず、これなら心臓もまだまだ大丈夫と分かり自信が付きました。いつもの旅行は良かった良かったで終わりですが、この度の旅行は大違いで初めての体験にビックリするやら冷や冷やするやら命がけでした。この年でこのような旅行ができ、本当に楽しうございました。大勢の皆様のお蔭で無事に過すことができました。心よりお礼を申し上げ、益々の老ク連の発展をお祈り申し上げます。


天然水族舘

サンパウロ中央老壮会 武田邦子
 この度の旅行の最終コース、水中観察(=アクアリオ・ナトラール)について書いてみたいと思います。
 私たちは三つのグループに分かれ簡単な浮き泳ぎの練習をして本番にのぞみました。
 河の始発点近くでは綺麗にすんだ水中に中型の黒っぽい魚がたくさん泳いでいました。水深は二米以上あったと思います。水はカルカリオの水なので飲まないようにと注意がありました。それぞれの体にあった潜水用の服を着用。口のみで呼吸するようになっています。
 水中メガネ、専用サンダルまで借り、現地のガイドの若者を先頭に若い方の女性二人に私も加えて頂き、三人が先頭のガイドの足、そしてその次の人の足とつかまってバタバタせずただ浮いて水中を覗くという訳です。水底の砂、貝殻等は綺麗に見えて、両側にはたくさんの藻草がゆらゆらと茂っています。
 左手の方では私たち以外の泳ぎに自信がないという人たちがボートで並行しているらしく、話し声が聞こえていました。
 私はたくさんの魚と触れるぐらい水中を泳いで見られるものと思っていたのですが、たまに脇の方に魚の影があったくらいで魚が見当たりません。赤い魚がいるという声でよく見ると糸くずのような小さい赤い魚が藻の中をチラチラしているのみです。これはまったく期待外れでした。
 その状態で半時間も流されていたでしょうか。動かなかったので身体が冷えてきました。着岸後はまた林の中を歩いて自然の中で飼われているいろいろな動物を見たりしながら出発地点に帰ってきました。
 後で聞くとボートの人たちは沢山の魚が見られたようで「こんなに魚がいるのは養殖をしているのか」という質問が出たほどだったそうです。


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