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熟年クラブ連合会
     活動報告  (最終更新日 : 2019/02/15)
2012年9月号 [画像を表示]

2012年9月号 (2012/09/14) 会場を変えた初の老ク大会&芸能祭

 毎年八月文協大講堂で行なっていた老ク大会&芸能祭だが、今年は場所を変え、沖縄県人会のサロンを借りての開催となった。
 日毎に温かさが増して来ていた週末、当日は朝から晴天となり、貸切バスで到着した人達が続々と八時過ぎには入り始めともかく一安心。九時からの開会式には出演者もそろい、予定通り定時から始める事が出来た。
 今年も司会はベテランの藤瀬圭子さん。芸能祭に先立ち審査委員長の花柳竜伯先生、そして藤間勘悦子先生、斉藤美恵先生、佐籐元広先生が舞台上で紹介された。
 老ク大会は芸能祭に挟まれる形で、十時半から当会の玉井須美子副会長の司会で先亡会員への黙祷ではじまり、壇上にはサンパウロ総領事館から成田強領事部長、JICAサンパウロ支所の村上ビセンテ企画調整班長、援護協会の菊池義治会長、文協の林まどか副会長、ブラジル本門佛立宗のコレイア教伯師、シニアボランティア宇野博先生、当会の五十嵐司会長、小坂誠副会長が並んだ。会長挨拶に続き、来賓の方々からそれぞれの祝辞を頂いた。
 続いて、コレイア教伯師が「温故知新(おんこちしん)」という題で話をして頂いた。コレイア氏は六月の移民法要でも導師(どうし)を務められ、我々には馴染みのある方。ビラ・マリアーナの日教寺の御住職(ごじゅうしょく)であられる。十一歳から仏門に入られ、日本でも長年修行をされ、日本語もとても流暢(りゅうちょう)である。今回のテーマ「温故知新」は中国の「論語(ろんご)」による孔子(こうし)の言葉で「故(ふる)きを温(あたた)め新しきを知る」という意味だが、ご自身の体験や仏典などから例(たと)えを引き、これまで人間が大切にしてきた事をどれだけ大事にしていくかという価値観(かちかん)をもう一度、見直さなければならないと説(と)かれた。
 式典は小坂誠副会長の閉会の辞で終り、引き続き芸能祭に入った。 今年の教養教室発表は出番をバラバラにプログラムに組み込み、複数の教室に通っている人でも全員が参加できるようにと考慮したつもりである。コーラス、健康体操、踊り、練功、そして今年から健康表現体操が加わり、五教室の発表となり、元気に楽しげに自分たちの活動を舞台で披露した。心配していた出演数も思ったより多く、フォークダンス、対舞も含み、昨年とほぼ同数の六十一番組、民謡二十三、個人舞踊十八、団体舞踊十四、体操六となった。
 また民謡と踊りなどベテランの方々六名には特別出演として出演して頂いた。昨年は採点なしで、友好と交流を目的にくつろいだ演技の発表会形式を取ったが、今年は代表者の皆さんの要望で採点式に戻した。審査結果が発表され、代表が賞金を受けるたびに結果が気になって残っていた観客や出演者から大きな拍手が沸き起こり、受賞者たちも大変嬉しそうに受け取っていた。
 バザーの会場では古着や老ク連会員の手作り品、その他六つのバザリスタが一日中店を開いて華を添えた。こうして今年の最大行事も無事終了した。結果は以下の通り。

【芸能祭結果】

民謡A(80歳以上)
一位 上村敬子(83歳 ビラ・ソニア老壮クラブ)
二位 井上弥生(87歳 サン・パウロ中央老壮会)
三位 野村康(86歳 サン・パウロ中央老壮会)

民謡B(79歳以下)
一位 藤原ヨリ子(77歳 ビラ・ソニア老壮クラブ)
二位 芹川三月(75歳 サン・パウロ中央老壮会)
三位 滝ヶ平功(77歳 ビラ・ソニア老壮クラブ)
四位 中野春美(69歳 サント・アンドレ白寿会)

個舞A(80歳以上)
一位 船頭小唄(宮田マリア80歳・牧本ローザ77歳 アニャンゲーラ仲よし会)
二位 祝い舟(難波美智子85歳 アニャンゲーラ仲よし会)

個舞B(79歳以下)
一位 松竹梅(大橋教子64歳・新田邦子67歳 モジ中央日会老人部)
二位 磯浜しぐれ(西田和子71歳 サント・アンドレ白寿会)
三位 風雪流れ旅(田公子70歳 ピニェイロス文化親睦会老人部)
四位 お吉物語(梅津幸子66歳 サント・アンドレ白寿会)

団舞A(9名以上)
一位 つつじ音頭(サンベルナルド松寿会12名)
二位 南部俵積み唄(ジュンジアイ睦会16名)

団舞B(8名以下)
一位 浪花節だよ人生は(サント・アンドレ白寿会4名)
二位 人生目出多音頭(サント・アンドレ白寿会体操部4名)

体操・フォークダンス
一位 山のロザリオ フォークダンス(ピニェイロス文化親睦会老人部10名)
二位 朝だ元気で 健康表現体操(サンパウロ中央老壮会18名)


お祭りすんで

老ク連文化理事 中川浩巳
 老ク連恒例の芸能祭は過去三十五回にわたり文協サロンに於いて行って参りましたが、今年は都合により、他の場所でやることになりました。
 本来ならば六月九日にお隣の大学サロンで開催を予定をしていたのですが、これも会場の都合で取り止めになってしまいました。
 結局、八月十八日に沖縄県人会会館を貸して頂くことになったわけです。初めての場所で、地理や防犯など色々と心配されていました。また、前日の八月十七日の第三金曜日は代表者会議、そして地蔵祭りも行われました。どの行事も会にとっては大事なもので、二日続きではありましたが、強行されたのです。
 芸能祭当日は晴天に恵まれ、遠い所からもぞくぞくと大型バスで参加して下さり、時間通りに終了しました。お手伝いして下さった方々、出演者の皆様、本当に有難うございました。「案ずるより産むが易し」の如く、会員、役職員が一丸となり、始めての場所で無事に芸能祭を終了しましたことを嬉しく思います。
 さて、話を前日の代表者会議に戻しましょう。当日は芸能祭の準備や出演される人たちの舞台稽古などがあり、代表者会議や地蔵祭りの参加者はいつもより少なくなってしまったようでした。
 それでも地蔵祭りには例年通り日伯寺よりお二人のお坊さんをお迎えして、地蔵尊の供養、参加者全員でのお焼香を済ませ、ありがたいお話を聞かせて頂きました。その後、サロンの方へ移りまして、今年は日本会議の小森博会長が「自分の健康を維持する方法」と題した講演をして下さいました。毎日健康で楽しい日々を送るには食べ物に注意すること。すなわち食べ過ぎないようにする。食べ過ぎると糖尿病、心臓病、生活習慣病などさまざまな病気の原因になりやすい。腹八分でいればそのような病気にならずに済むという事です。皆、知ってはいるのですが、やっぱり食べ過ぎてしまう。「知って行なわざれば知らずと同じ」。まったくその通りです。
 でも今の世の中はあまりにも品物が豊富にあり過ぎ、また、珍しい物、美味しい物、安い物、便利な物と買いやすいように仕組まれています。家の冷蔵庫には物が一杯入っているのについ必要以上に買ってしまう。それで自分の腹の中もいつも一杯。運動もせず、家の中でテレビばかり見ていては糖尿病になって当たり前。小森氏の話の中で、朝一番の尿の臭いを嗅ぐと、糖尿病の人はすぐ分かるそうです。美味しそうな臭いがすると話されました。
 実は私事で恐縮ですが、昨年から私は医者に「糖尿病までは行っていないけれど、要注意」の赤信号をもらってしまい、毎日一回薬を飲んで半月ぐらいになるのです。それで六カ月後、また血液検査をして医者に戻ることになっているのですが、血液検査が遅れてまだ医者に行っておりませんでした。
 それで早速小森氏の話を聞いて、尿を嗅いでみたのです。すると本当にかすかですが、うすいメロンの臭いがしたのです。あらあら、本当だわと思いました。その後、病院で血液検査をした所、昨年と同じで良くも悪くもなっていない、要注意と診断され、一日一回の薬を二回飲むように言われました。どうか皆さんも糖尿病にならないよう朝一番の自分の尿を嗅いでみて下さい。横道にそれましたが本当に甘い臭いがしたのでご報告させて頂きます。
 さて、今回の地蔵祭りでは「煎茶道」のデモンストレーションがありました。お手前を見せて下さるとのことで、数名の門下の方たちが準備をして下さっておりました。私も昔々、文協で茶道を習ったことがありましたので、興味を持って最前列で見学させて頂きました。まず、第一印象はお湯を沸かす炉、そして茶器が小ぶりだなというものでした。
 煎茶道の歴史についてのお話があり、明治の頃、文人達で作られたとのことです。表千家や裏千家は戦国時代より始まり武将・豊臣秀吉の金で作った茶金はあまりにも有名な話です。煎茶は粉茶を使わず、お茶の葉を使用するとのことでした。
 見学している全員にお茶菓子と共にすすめてくださったお茶は、薫り、しっとりとした色、ほろりとした苦味といい大変美味しいお手前でした。
小ぶりで気になっていた茶器でしたが、結構、飲み出がありました。ここで使用されたお茶はブラジルの山本山がタツイー市で生産し、日本とアメリカに輸出しているものだそうで、ブラジルでは販売していないのだそうです。その特上のお茶を参加者全員に一袋ずつお土産に頂き、大変嬉しく思いました。このように美味しくお茶を入れるにはお湯の温度が一番大切とのことでした。どうかまた、老ク連のサロンでお茶会を開いて下さるようお願い致します。


宇野先生をお迎えして

モジ中央日会老人部 西丸俊子
 八月十六日の例会は久しぶりにJICAシニアボランティアの宇野博先生をお迎えしての楽しい日でした。本部に着任されて三週間だそうで、支部訪問は二回目だそうです。
 朝、私が本部までお迎えに行きました。メトロでルス駅まで行き、それからグヮイヤナーゼス駅でセントラル線に乗り換え約一時間半です。モジ駅から文協まで荷物を持ってお気の毒でしたが、その間、色々とお話ができました。先生は中学時代からサッカーをされ、ブラジルに憧れて一度行ってみたいと念願していましたが、遠い国です。シニアボランティアとして、老ク連本部に来られた事を大変喜んでいました。こちらに来るに当たり、いろいろ勉強なさり、試験一回目では無理かと思っていたところが、見事一回目で合格できた事。ご家族の事、一緒に来られたJICAの方々の事など、一時間余りお話を聞かせて頂きました。私も外の景色や駅、町の様子、老人部の話などを説明させて頂きました。
 例会は順調に進み、一時間の予定を三十分長くして頂くことができました。先生の紹介が終わり、楽しみにしていたお話を聞かせて頂きます。健康、仕事、食事、疲れの回復、休養、娯楽、運動レクリエーションを通して日々健康に結びつく話。一九三八年、日本全国都道府県レクリエーション協会ができ、全国大会、県大会、地区大会をするようになった事。ウォーキン、ゲートボール、スポーツチャンバラ、グランドゴルフ、マレット・ゴルフ等、年齢に応じてできるゲーム。カラオケ、民謡、コーラス、百人一首、マージャンなど家に閉じこもらず、自分に合った事をしたら良いとの話。
 毎日新聞のスポーツ欄に書かれていたそうですが、ドイツ文学者の丘沢静也先生は東大卒で、勉強ばかりの生活でした。今までにした事のない走る事によって人生が変わったそうです。毎日ダラダラ走る。夜はプールで泳ぐ。これを毎日続けることにより、生活習慣病にならない。身体も心も軽くなったという事です。
 ブラジルの死亡原因は①心臓疾患②脳血管障害③癌④殺人・事故。日本は①癌②心臓疾患③脳血管障害④肺炎だそうです。
 京大医学部卒の大島清先生は、山の中で自然に触れ合う大脳生理学の研究をしておりますが、山や海、自然に触れ合い歩くことは若さを保つので是非、自然の中で歩く事を薦めています。筋肉も鍛えられ、心も爽やかで五感を鍛えることで六感も授かるそうです。それから栄養と食事、毎日のご飯、肉、魚、野菜、海草、乳製品、果物等の栄養、食事の摂り方を分かりやすく説明して下さいました。
 最後にスリーアイズのレクリエーションに移りました。


 この枠の中に六メートルはなれた場所からボールを入れて点数を競うのです。白、黄色のボールを五人一組になり競争します。はじめは恥ずかしそうにしていましたが、だんだん面白くなってくると積極的に動き楽しく夢中になり時間を忘れ、目は一点に集中しました。楽しい一日でした。
 お帰りも本部にお送りするつもりでしたが「一人で帰れます」と言われ、駅までお送りしました。無事に本部へ帰られますようにお祈りし、先生の益々のご健康とご指導をお願い申し上げ、感謝の念で一杯でした。ありがとうございました。


スリーアイズとは…

 今回、宇野先生がレクリエーションに取り入れているスリーアイズというスポーツですが、大阪日日新聞の記事を先に転載しご紹介します。
 老ク連本部でも試してみましたが、簡単で高齢者には最適なスポーツではないかと思われます。
 これから宇野先生が各支部クラブを廻られ紹介すると思いますが、皆さんのクラブでも取り入れてみてはいかがでしょうか。ボールの代わりにお手玉等でも楽しめると思います。先生の任期が終わるまでにスリーアイズ大会が出来るといいですね。
   ― ☆ ―
 大阪市生野区で誕生したニュースポーツ「スリーアイズ」。子供からお年寄り、障害者など、誰もが一緒になって楽しめるとあって、区内にとどまらず、大阪市内にもじわじわと愛好者が増えている。
 スリーアイズはコートの九つのマス目に向かってボールを一チーム五個転がし、ボールが入っているマス目がタテ、ヨコ、ナナメに一列に並ぶと得点となるゲーム。一マスに二個または三個、さらに二マスに二個入れて列を完成させることで得点が上がる。完全に二列を作るとパーフェクト。
 二〇〇八年五輪の大阪招致の一環で、同区も新スポーツを考案して盛り上がろうとスリーアイズが誕生した。が、そこからが苦難の道だった。
 ルール、コートもそうだが、使用するボールの開発に四苦八苦。ドッジボールでは普通に転がって面白みに欠けるため、「空気を抜いてみたり、切ってパチンコ玉やゴルフボールを入れてみたり、鈴を入れてみたり」(西岡永治・区スポーツ推進委員協議会会長)と工夫を凝らした。
 それでも満足できるものにはほど遠く、ヒントを求めて区内の町工場を訪ね歩いた。そうした中、一軒のゴムボール製造工場で、肩たたき棒の先に付いたゴムボールと運命の出会いを果たす。それをボールの中に三つ入れることで、二、三度跳ねて止まり、微妙な転がりで面白さを演出するようになった。
 「やってみれば面白い。病みつきになる」と西岡会長。
 最初の区民大会は十五人ほどだった参加者が今では四百人が参加するまでに。核家族化の中で、子供とお年寄りが話す機会が出来るコミュニケーションスポーツ。生涯スポーツとして広げたい」と意欲満々だ。(松村一雄)【大阪日日新聞より】
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老ク連親睦旅行記「サンルイス&レンソイス・マラニェンセス」

 八月二日から六日にかけて、老ク連ではマラニョン州の州都サンルイスとレンソイス・マラニェンセス国立公園に親睦旅行を行った。
 参加者はバウルー、イタペチニンガ、サント・アンドレみずほ、アチバイアなど遠方会員を含め三十三名で最高齢者は八十九歳。サンパウロを二日の夜行便にて経ち、翌早朝三時、サンルイス島にある州都サンルイスに到着。一休みの後、町を見学。この町は四百年前にフランス人が植民地を作るために入植したのが始まりで、その後、同じ目的でオランダ人が入りフランスと争ったが最終的にはポルトガル人の植民地になったという町だ。干満の差が十メートルもあるという海岸や町の中心を歩く。世界遺産に指定されている建物が三千五百もあるというが、その一部のタイルで装飾された建物等を汗を流しながら見学する。市場では、塩漬けエビやカジューナッツなどを購入。ここでしか飲めないというピンク色のガラナジェズースなどを土産に買っている人もいた。その後、バスでレンソイス・マラニェンセス公園の起点となる町バレリーニャスに向かう。
 このレンソイス公園は広大な砂丘が広がり、その広さは十五万五千ヘクタール(グランデ・サンパウロとほぼ同じ)と言われている。見渡す限りの真っ白な砂丘とその間に点在するエメラルド・グリーンの湖。それらを見ようとはるばる来た訳である。ところが出発前日、旅行社から連絡が入り、「現地からの情報で砂漠は乾燥していて水がない」と言う。もうビックリである。旅行社は「これは自然の力なのだから仕方がないですよ。普段は八、九月はあるんですが…」と淡々と言う。しかし我々としてはそれでは困る訳で「少しぐらい遠くてもいいから、何とか水のある場所を探して欲しい」と現地の案内人に頼んでくれるようお願いしたのだが、果たして、探せただろうか。水がなかったら、皆、がっかりするだろうなぁと思いながら、一路バレリーニャへ。
 夜九時過ぎ、バレリーニャへ到着。ホテルで荷を解く。そっーと旅行社の案内人に水がある所が見つかったかどうか尋ねると、「見つかった」とのこと。「あぁ~、よかった」と急に旅が楽しくなりだした。でも見るまではまだ安心できない。そして翌日、旅行社の人が事情を説明し、「皆さん、少し遠いけれど、歩けますか?」と聞く。皆口々に「行きま~す」と返答。さぁ、イヨイヨ出発である。
 砂丘の入り口までジープ四台に分乗して出かける。両側はひとりばえの広大なカジューの林。砂利道を連なって行くがほこりが立たないので壮快である。少し若めの人は後ろに乗るように言われたが、その乗り心地たるやまるでロディオのよう。上へ下へ右へ左へめちゃくちゃに飛び跳ねる。うっかり喋っていると舌を噛みそうだ。砂丘に着く前に皆の気分は上がりっぱなし。
 しかもこのジープはトヨタである。こんな最果ての地の悪路でもけなげに頑張っている日本車。移民の我々と重ね合わせ皆、些細なことに感激しながら砂丘へと向かう。今回の旅行は高齢者にとってはかなりハードなものだったが、それでも北伯の手つかずの大自然を満喫できてとても良かった。旅行中はそれぞれの責任において体調を管理し、一人の落伍者もなく無事帰聖できたことは感謝の一言に尽きる。「楽しかった」「ありがとう」と再会を約して老ク連親睦旅行は終った。


好奇心の虫も大満足

サンパウロ中央老壮会 村松ひさ子
 日本の三大砂丘の一つ浜松のを見たことがありますが、レンソイスの砂丘は、まるで砂漠のように広大で果てが分からないようなものでした。砂は白色で美しく、そこをウォーキングしたり、途中でブギーに乗ったのも初めてのことでした。所々にオアシスのごとく点在する池で泳いだ人もおり、自然を満喫していました。この砂丘へは往復、猛スピードのジープに長時間乗っていきます。
 三日目は高速ボートでの川下りがありました。どちらも誰もがしっかりと捕まっていないと振り落とされそうで、ハラハラの連続です。いろいろの初めての体験でしたので、皆さんの細胞が驚いて、確かに若返って帰ってきました。そして、いつもテレビで見るだけだった発展している北伯の一部を見られて私たち夫婦の好奇心の虫も大変満足したようです。


北伯を旅して

サンパウロ鶴亀会 相沢絹代
 八月はじめサンパウロはまだ冬季。着いた先は真夏のような太陽が朝早くから輝いていた。私たちの最大の目的である自然が生んだレンソイスの砂丘と青く透き通った湖に行く旅。
 最初に予定した砂丘は、肝心の水がたまっていないとの事。そこでかなり遠い湖を目指す事になり、歩いて五十分位ならと全員が賛成し出発。いざ、歩いてみるとこれがまた大変で、幾つもの砂山を登ったり、谷を超えたりと、探検隊のような行程で砂に足を取られたり、固く石のような所があったり、トゲのような草があり、草履を履いたり脱いだりと大変な思いをして、目指す湖に着いてヤレヤレと思ったら、まだその向こうにもっと素晴らしい所があるとの事。それならと、水の中を胸まで使ってたどり着くと、これがまた、絶景と一口に言ってしまってよいものかと。声に出して叫んでみたい衝動に駆られた。
 本当に別世界だった。今にも吸い込まれそうな青く澄んだ水の色。白い砂の上を歩けばまるでラクダに乗って砂漠の中を歩いている王子、王女様になったような気分。目的を達成した心からの喜びを肌で感じた。全行程を歩いてきた友は五、六人位だったと思う。
 他の人たちは途中でブギーに乗った人が多かった。私も帰りは乗り物のお世話になりたかったが、帰りは追い風で「楽だ」といわれ、またとないチャンスだから歩く事にした。
 「行きはよいよい帰りは怖い」じゃないけれど、本当に大変な道のりであった。もう二、三キロで出発地点に着くというのに、足が棒のように重く、ヘトヘトになりながら二人の男性と数人の女性と歩いた。行きは景色を見ながら楽しむ余裕を持っていたのに帰りは口も重く、黙々と歩くのみ。出発地点に着いて本当に座り込んでしまった。ブギーに乗って先に着いた人たちに拍手で歓迎されたのが嬉しかった。
 ガイドさんによると、この奥の湖まで行ったグループは「老ク連が二番目で、まだその湖には名前すらない」との事だった。三時間位歩いたような気もするが、実際はどの位の道のりだったのだろうか。今思うと、二度と出来ないような体験をさせてもらい感激でいっぱいだ。


あわやミイラに!実感!姥捨て山

サンパウロ鶴亀会 玉井須美子
 四時間も飛行機に乗り、「マラニョン州は遠いなぁ」と思った。大きなホテルに着いたのが午前四時。その後、シャワーを浴びて、ぐっすり眠った。朝、目が覚めたのは七時。ザワザワと音がするのでベランダに出てみたらすぐ下は海だった。白い波が打ち寄せて、遠くに大きな船が点々と浮かんでいる。午前中はホテルで美味しい朝食をとったりしてゆっくり過ごし、午後からサンルイスの町を見学した後、レンソイス・マラニェンセスに向けて出発。日が暮れてからレンソイスの町に着いた。ホテル手前の曲がり角が狭くて、私たちのバスが大きいためになかなか曲がれず、皆で肝を冷やしたが運転手さんの抜群の腕で何とか辿り着く事ができた。
 翌日はジープに乗り、細い道を走り、右に左に揺られて砂丘に着いた。目の前に広がる雄大な白い砂丘に息を呑んだ。世の中にこんな所があるなんて見なければ信じられない。白い砂に足あとを残して砂丘を上って行く。上っては下り、下っては上るを繰り返す。砂に足がはまって歩けない。もう一歩も足が進まなくなった。「どうしようか」と思った時、ブギーが来てくれた。助かった。早速、乗せてもらう。一度に三人乗れるという。落ちないようにつかまりながら砂山を上がって下って着いたのは大きな湖であった。こんな所に湖があるなんて、本当に不思議である。一時間ほど遊んで帰りの時間になり、私はもう歩くのが大変だったので、一番最初に大原さんと大久保さんとブギーに乗せてもらった。砂山を上下して着いた所は何もない見渡す限りの白い砂山。「ここを動かないように」とブギーの人は言って、他の人をさらに運ぶために行ってしまった。
 シーンと静まり返った砂山で私たち三人、顔を見合わせてしまった。音もしない不気味な世界。「私たち、このままで居たらミイラになるわね」と言ったら、大原さんが情けない顔をして「あの人、私たちの事忘れないでしょうね」と言ったので「忘れられたら、本当にミイラになっちゃうわね。姥捨て山ね」と三人で大笑いした。三十分以上も過ぎたのに誰も来ないし、何の音もしない。さすがの私もちょっと心細くなってきた。四十分位経った頃、遠くにかすかにエンジンの音がした。見ると遠くの砂山の上に小さな黒い影が見えた。「あっ、ブギーよ」。ホッとした。音がだんだん近くなってくる。新たな三人が来て、ヤレヤレと安心した。六人になったからすっかり心強くなって「ミイラにならずに済んだわね」と三人で笑った。
 空まで届く高い砂山。目に染みる白い砂山が静寂の世界に暮れて行く。
 天上の湖水は青く雲うつす


ブラジルとは思えない別世界

サンパウロ中央老壮会 上原玲子
 私はいつか鳥取の砂丘を見たいと思っていたが、この度それ以上の物を見てしまい大満足である。レンソイス・マラニェンセスはブラジルとは思えない、ごみ一つなく人っ子ひとり居ない観光地で、見渡す限り何もない真っ白な砂山、その中を一列に近い形で延々と歩いていると、どうしても「月の砂漠」の歌が思い出され、ここでは王子様とお姫様でなくて、少しくたびれた老人ばかりだと思わず一人笑いした。今回の旅では砂漠には水がないという先入観がまるでひっくり返された事だ。砂は少しも熱くなく、方々に水たまりや大きな池も出来ているし、草履(ぞうり)を手に持って裸足で歩いている道もしっとりして、いつも涼しい風が吹いていてとても気持ちが良い。先行する皆の足跡がくっきりと残っているのに、帰りにはもう何もなくなり美しい風紋だけが揃っている。そこを歩くのが申し訳ないような気にさえなる。九十歳近い人さえいるグループなので、特別注文のブギーに、列の最後尾から三人ずつ順々に乗せて貰って目的地まで行く。私も順番が来てそのご厄介になったが、砂山をすごいスピードで上がり下がりするのはとても爽快で、得をした気分だった。
 一日目は地下水のきれいな真水につかり、翌日は海に入った。私は山国生まれで海にも泳ぎにも全く縁がなく、いつも見るだけだったが、皆の勧めで手を引いてもらい、恐る恐る結構大きな白波の押し寄せる所まで行った。お天気は曇っているし水も冷たいのに、その波がひどく温かく感じたのは生まれて初めての経験で、無理に誘って下さった皆に感謝である。
 最後の夕食は小さな町の川べりでロマンチックに始まったのに、うるさい楽団が来て会話にならない。誰も拍手をしないのに次々と続けるので、可哀そうとばかりに仲間の一人が手拍子をしたり拍手をしたりしたら、私達の会計にだけ音曲代が加算されていて、皆で腹を立てる。観光地のせいか水一本でも一〇%がつき、会計は大いに狂った。
 なお、今回は私の身近だけでもカメラの失敗が続き、一人はバスの中に置き、一人はメモリーがすぐ一杯になってしまい、一人は充電の器具を忘れた等、肝心なところで役に立たなかった。今後の大きな課題である。


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