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熟年クラブ連合会
     活動報告  (最終更新日 : 2019/02/15)
2014年11月号

2014年11月号 (2014/11/14) 「老人週間」独自に開催、初の「熟連祭り」大賑わい

 十月三十一日(金)熟年クラブで熟連祭りが行われた。今までは熟連、援護協会、憩の園、GEENIBRAの四団体で行われていた老人週間だが、今年は憩の園が抜けて三団体となり、九月の終わりに援護協会とGEENIBRAが援護協会で老人週間を行い、熟連は十月三十一日十時から独自に熟連のサロンで行った。
 当日は約百名が参加。司会は玉井須美子副会長が担当し、小坂誠副会長が「いろいろなプログラムを組んでおりますので、今日一日を楽しく過ごしましょう」と挨拶。玉井須美子副会長が「この祭りを盛り上げるのはあなたたちですよ」と激励し、その後、玉井先生の踊り教室から普段の成果五曲が披露された。続いて参加者一同が輪になって「ソーラン節」「お座敷小唄」「炭鉱節」などを赤、青、黄、緑色の法被に身を包み、曲に合せてサロン内を踊って回った。十一時からは戸塚マリ先生の「手ぬぐい体操」が約一時間行われた。
 十二時から軽食のサービスで休憩をはさみ、一時には五十嵐司会長が挨拶。その後、健康表現体操の川添敏江先生のレクリエーションと体操が行われた。椅子に座って先生の動きに合わせ下半身の運動として「♪かもめの水兵さん」、上半身の運動として「♪ふるさと」を歌いながら手足を動かした。その後、全員が輪になって音楽に合せて踊る健康表現体操が二時まで行われ、心地よい汗を流した。
 二時半からは同サロンで安倍先生の生け花が行われた。かつて生け花を習っていた人もいたが、初めてという人もいて、安倍先生は一人ひとりに活け方を教え、全員が一生懸命に活けていた。
 また熟連会館の二階では十時から石井恵子先生の絵手紙教室と大山先生の無料マッサ―ジも行われ、多くの人が楽しくまたリラックスして一日を過ごしていた。


訃報 松平和也副会長

 松平和也副会長が十月二十二日、サンタ・クルース病院にてリンパ線癌で逝去されました。
 翌二十三日午後三時、コンゴニャス墓地にて葬儀と初七日法要が行われ、約二百名が列席した。
 氏は宮崎県宮崎市出身。一九三七年生まれ、享年七十七歳。一九五六年に農業移民として来伯。その後、定年までサンパウロ総領事館に勤務。熟年クラブには二〇〇四年から書記理事、二〇一二年から現在までは第三副会長として活躍。名画クラブの代表でもあった。映画に詳しく「老壮の友」にも津山恭助というペンネームでシネマ放談の記事を投稿。また、二〇一一年五月からマージャン教室も発足。年二回のマージャン大会などを行い、皆から喜ばれていた。二〇一三年十月には夫婦で日本全国を旅行され、山陰・北陸旅行の紀行文も「老壮の友」に連載したりしていた。


惜別 盟友松平氏を送る

熟連会長 五十嵐司
 松平和也副会長が忽然として去り、人の世の儚さを思い知らされた。
 思えば松平さんとは長い付き合いであった。一九九〇年ごろ戦後 移住者の団体間の交流が始まり、私は農大会、松平さんは工業移住者協会(工移協)の幹部として会合に出席していたのが、親しくなった始ま りで、その後家族ぐるみで一緒に旅行などするようになった。その当時松平さんはサンパウロ総領事館に勤務しながら工移協の機関紙「なかま」の編集に携わっていたが、内外映画の膨大なコレクターとして知られており、私もまた名画蒐集を行っていたため意気投合し、二〇〇〇年、領事館定年退職を機会に同好の士であった音楽家の千葉修也氏も誘って「名画友の会」を発足させた。昔の名作フイルムをウイスキーなど をちびりちびり飲みながら一人で観るのもよいだろうが、映画好きな仲間たちと一緒に鑑賞して、感想やその昔、若い時代に観た頃の感激や思 い出などを語り合うのももっと楽しいのではないか、と言う考えであった。リベルダーデ街の三角の角にあったボーレバルジと言うレストラン の協力で階上を借りて発足したが、次の年になって所有者が変更のため(その後、現在は池崎商会)撤退を余儀なくされ、一時グローリア街の 「よど」レストランで運営したが、間もなく老ク連会館ホールを借りられるようになり、ようやく安住の地に落ち着いたわけであった。発起人 のひとりの千葉氏は発足後間もなく病を得て帰国、故郷の広島市で長らく療養となり、会の運営・企画・広報すべて二人三脚が続いた。 老ク 連へ加入後しばらくして杉本正相談役からのお勧めがあって二人とも執行部に入ることになり、現在は会長・副会長の重いお役目を担うように なった。松平さんは熟連でも外務・記録・広報担当副会長として対外業務や「30年記念誌」の編集をはじめ機関紙「老壮の友」監修など健筆 を揮われた。
 松平さんは宮崎県での学業中からの文学青年で文芸への造詣が 深く、幅広い映画・音楽の知識も抜群であったが、文才に恵まれた上に文筆のスピードも速いため記者・編集者としても優れていた。津山恭助 のペンネームで書かれた随筆など沢山残している。プロ級のマージャンを始め趣味も多く温厚は人柄のため、幅広い友好の輪が出来ていたのも うなずけることで、この突然の死去を知らされた知友たちに大きなショックと悲しみを与えた。
 危篤状態が長く続くなかでの一喜一憂の折々、ご家族をはじめ 私たちの回復を祈る思いも空しく、ついに他界されてしまったが、思うに、その間にご本人が夢うつつの幽明境の中にあって色々と考え、何度 も迷われた末、今はこちらに戻るより、天国にまします懐かしい父上優しい母上との再会の方を選び、それを見守っていたお地蔵様の手に引か れて天上に昇って行かれたと考えるほかないと思う。


松平さんの思い出

サンパウロ中央老壮会 中山保己
 松平和也さん死亡の新聞記事を見て愕然とした。七十七歳というのは、今は若すぎる年齢だ。五十嵐会長をはじめ熟連の方々の落胆もいかばかりか。ましてご家族の悲嘆は想像に余りある。
 一九九〇年代のある日、私が勤務していた移民史料館に松平さんが見えた。
 「総領事館にある移民名簿と史料館のとどう違うか見せて下さい」
 そして「これは全く同じものです」と。
昔、海興が作成し、戦後JICAに引き継ぐとき、関係諸団体に寄贈したものか。史料館の記録台帳には「文協より」としてあり、さっぱり分からなかった。
 時は流れて…。
 JICAシニア・ボランティアとして史料館に小笠原公衛さんが二〇〇六年から二年間在勤した。日本に帰る前に、
 「総領事館に史料館と同じ移民名簿は無かった!、という人がありますが…」
というので、私は松平さんにもう一度会って、証言してもらおうと思っているうちに、小笠原さんは日本へ去ってしまった。
 その二か月後に熟連の「名画友の会」の場で松平さんにこのことをお訊ねした。
 「名簿はたしかにありましたよ。あれがなかったら移住班の仕事は出来ません」。反論を唱えた人は、他の業務課にいたのだろうと。
 松平さんは柔和な中にも決してブレない人柄だ。
 松平さんと熟連の事務所で最後にお目にかかったのは、いつ頃だったか?
 「この近くに引っ越してきましたから便利になりました」。
 松平さんの嬉しそうな顔は忘れられない。


終活セミナー&エンディングノート

 十月十五日(水)午後一時から熟年サロンにて、太田宏人氏(曹洞宗僧侶)による終活セミナーとエンディングノートについての講演が行われ、約六十名が参加した。熟年クラブ主催、サンパウロ新聞社後援。

 第一部では、「終活とは何か?」という問いかけから、「終活とは、命の素晴らしさを感じること。決して死の準備でない。人生の終焉というものを考えることを通じて、自分を見つめ、今をより良く、自分らしく生きる活動である」ということが語られた。
 二〇一一年三月に発生した東日本大震災をきっかけに「終活」が一般的に知られるようになり、翌一二年には二六・三%だった認知度が、一三年には三倍近い七三・一%まで上昇したという日本のデータを紹介。また、日本では、親が掛けていた生命保険を子供が知らずに保険料をもらえていないケースが「何億円にも上る」という。その原因は、家族間のコミュニケーション不足もあるが、一番の問題は「(当事者が)自分は死なないと思って生きていること」で、明日のことは誰しも分からないにもかかわらず、「大切な情報を遺(のこ)さずに亡くなる」からだそうだ。
 時代の流れと共に墓を守っていくことができず、特に地方では無縁仏となって墓が倒されているところも多く、遺灰を散骨するケースも増えているといった日本の状況が説明された。
続く第二部ではエンデングノートの書き方が指導された。ノートには「過去」から「現在」「未来」と書くことにより、自分のデータを残すことが出来るような仕組みになっている。例えば「過去」では自分の昔の写真、親と撮った写真や子供の頃の写真、自分の若い頃の写真など自由に選んで貼る事が出来る。「現在」はまさしく「今」。太田氏はまさしく「これを書いているから」と子供に見せて、ファミリーの写真を撮って貼る事を勧めた。「未来」のラストページには自分で選ぶ遺影にも使える写真を貼るページがあり、そこに「これを遺影に使いますか?」「はい」「いいえ」と選ぶようになっている。「終結」は遺言状ではない。だが、我々は誰でもいつ何が起こるか分からない。例えば心臓発作、交通事故などの突然の死がある。残された家族が少しでも本人の考えや希望していたことを知り、最適の措置をとるために一つのノートに書き留めておく覚え書である。このノートを開示することによって、その人が何をしたかったのかを知ることが出来るのである。
ただ流れている生活の時間を少し止めて、いつかやってくる人生の終末をきちんと見つめ、自分の人生の意味を再確認する。そんな作業を助ける、生き方であり、死に向かっての準備でもある。そしてこれは十人十色なのだと太田氏はゆっくりと穏やかに語った。
 講師の太田宏人氏は東京生まれで、大学卒業後、フリライターとして活躍。ペルー新報日本語編集部編集長として活躍後、二〇〇〇年に日本へ帰国。その後、雑誌「SOGI」、「仏教タイムス」、「皇室」等に執筆。曹洞宗僧侶で、一般社団法人終活カウンセラー協会講師、傾聴に取り組む宗教者の会代表でもある。今年五月には癌を発症し、大手術を受けたにも拘らず病を押して熟年の講演へと熱意を持って来伯された。


田中公道リサイタル

抒情歌のつどい 黒木けい
 今年も田中公道テノール歌手の独唱会が十月十八日(土)の午後一時から熟連の大サロンが満席になるほどの盛況の中で開催された。
 主催は熟連の傘下で活動している森川玲子代表の桜会と私たちの抒情歌のつどいの共催という形をとり、後援団体として熟年クラブ連合会とコチア青年連絡協議会にお願いした。
 まず、主催者の立場から言えば、大成功であったと感じている。田中先生の本番に入る前に、安達先生が前座をつとめられ、素晴らしいソプラノを聴かせて頂いた。
 田中先生の本番は解説を加えながら、オペラ曲や日本の名曲、最後は「帰れソレントへ」「カタリカタリ」と盛り上がり、聴衆のアンコールに応えて「オー・ソレ・ミオ」で拍手の大喝采で終わったのである。
 田中先生は八十八歳と年齢的には高齢者の仲間であられるけれども、マイクを通さなくても張りのあるテノールの肉声はまるで青年の感じである。
 先生はイタリアを中心とした西洋のオペラ曲が専門だそうだが、日本の聴衆のために心を配られて、約半数は日本の名曲を歌って下さった。
 本来ならば、これで大成功に終わったはずであったのに、その後、私たちの要望を受けて頂いて私たちがいつも聴き慣れている西洋の名曲を五曲ピアノ独奏して頂き、その素晴らしい音色に聴き惚れ、その上にまた日本の名曲を五曲奥様のひろ子先生の伴奏で会場の全員で合唱して大いに盛り上がった。
 そしてまた、それにひとつのおまけが付いた。田中先生と同じ島根県から学会で来泊されていた島根大学の野田教授の指導で皆の合唱に合わせながら男女向き合って踊るシンプルな健康ダンスを披露して頂き数組が前に出て踊り出すという最高の雰囲気であった。
 この度の私たちが先生の要望した後半にピアノの独奏とピアノ伴奏の合唱は、実のところ昨年の田中先生の独唱会の後、皆の反応を聞いた所、先生のご配慮で日本の名曲も数曲歌われたにしてもオペラ曲には大半の方々はなじみが薄く、オペラのみでは物足りないとの声もあったので、主催者の私たちも心を砕いて皆に誰にでも共感できるピアノ独奏曲とピアノ伴奏の合唱曲を加えて頂いたのである。
 ただ、いくらオペラ曲にはなじみが薄いと言っても、こんな機会はめったにないので数曲はぜひ聴きたいと思ったものである。
 お蔭でこの度の企画は大好評で主催者として会場いっぱいの大聴衆に心のなごみと大感動を与えて頂いた。田中公道先生に大拍手。ありがとうございました。


健康表現体操で気分すっきり!

サンパウロ中央老壮会 栗原章子
 家の中に閉じこもって、パソコンを前に翻訳ばかりしていては体に悪いと思って、健康表現体操を始めた。
表現体操はオジイチャン、オバアチャン用に開発された体操だから無理な運動はないし、体を少し動かすにはとてもいいと友だちから聞き、始めることにした。
 やってみると「ストレッチ体操」(ginástica de alongamento)、「刺激の体操」(ginástica de estimulação)、「表現体操」(gin疽tica art﨎tica)、関節の運動、筋肉の衰えを防ぐ体操、そのほか目的別に色々な体操があり、二時間の運動の中にそれぞれを織り交ぜて、音楽(童謡、歌謡曲)に合わせ歌いながらやるので、結構楽しく、もう一年以上続けている。
 水曜日の午前十時から十二時まではサンジョアキン通り三八一にある文協で、川添敏江先生と中村リカ先生、土曜日は熟年クラブ連合会(シケイラ・カンポス通り一三四)で川添先生と田中レイコ先生に午前八時から十時まで、重い腰を上げて通っている。
 熟年クラブの方は始めの頃、九時から十一時までだったのだが、生徒がどんどん増え、場所が狭くなったので、八時から十時までと十時から十二時までの二グループに分けたのだが、またまたいっぱいになっている。
 前にやっていた他の場所の体操は水曜日の午後一時半からということもあったのだろうが、他の担当の先生が一生懸命指導してくれていたのだが、さっぱり生徒が増えず、消滅してしまった。そのため私は、水曜日の午前中に文協で表現体操をすることになったのだが、ここも生徒は増える一方で、まず消滅の心配はなさそうだ。
 といっても、我々生徒の方は、年のせいか、振り付けはなかなか覚えられないで、「右手を上げて、左足を出して!」という指示が先生からあると、なぜだか、とっさに反対の左手を上げ、右足を出してしまったりしている。私は、ずうずうしく「あっ、いけない!」と先生が気がつかないうちにさっと変えたつもりで先を続けている。先生が気付かない振りをしてくれる時もある。何度同じ練習をしても一向に覚えられないし、翌週にはケロッと忘れている。
 そんな生徒に先生はホトホト手を焼いているだろうが、そんなことは顔にも出さず、いつもにこやかに「うん、皆さん、上手になりましたよ。だんだん様になってきていますよ。」といつも「ヨイショ」してくれる。
そんな先生の気持ちを汲(く)んで、「来週こそは毎日きちんと家でおさらいをして、覚えておこう」と思いながらも、何もせず一週間が過ぎてしまう。その場になって、「あれ!あれ!こんなはずじゃあ~~~」というようなことを繰り返している。
 ポルトガル語に "de boas intenções o inferno está cheio"(地獄は善意だらけだ)というのがあるが、まさにその表現を地でいくような毎日だ。
 初めの頃は二時間(間で休憩が十五分ほど入る)の運動に汗だくになり、体のあちらこちらが二、三日痛んだが、さすがにこの頃は体のどこも痛まなくなった。六十歳を過ぎ、目まいがしたり、歩いていて、体のバランスが崩れることが多々あったのも治り、最近はあまりふらつくこともなく健康な毎日を送っている。
 ただ、休憩時間に皆が結構手作りのケーキなどを持ってきたり、甘いものを買ってきたりするので、誘惑に負けやすい私はついつい食べてしまい、運動の効果の一つに痩せることを期待していたのだが、それは全然ない。おなかの周りの脂肪は悲しいことに増える一方だ。誰か「お腹いっぱい食べても太らない方法を教えてくれないかなぁ~」と虫の良いことを考えながら、もしかしたらこれを読んだ誰かが、何かいい方法を知っているかもしれないと、少しばかりの期待を込めて書いている。そうなれば、痩せたら着ようと思って誰にもあげずに大事に取ってあるお気に入りの服もまた着られるのだけれど...。


熊谷先生から「徳」を伺う

モジ中央日会老人部 西丸俊子
 熊谷荒太(あらた)先生は大阪府富田林市のお生まれです。お父様がPLの教師で、聖地の中ですべて学校教育も受けられました。
 二〇〇五年二月にサンパウロに着かれ、三月に言葉を覚えるためリオの教会に赴任しました。日本人はいないし、通訳する人もなく苦労なさいました。先生は二〇〇八年にリベルダーデに来られ、昨年まではアルジャの本部にいました。
 二〇一三年三月にモジ教会に赴任し現在に至っています。
 今回のお話は「徳」について分かりやすく説明して下さいました。「徳を積む」と一口に言いますが、徳を積んでもお金のように見えるといいのですが目には見えません。徳のある人は物事が好都合に進行します。雰囲気のいい人は徳のある方です。徳の伴った人は人間関係がスムーズに運びます。人に親切をし、喜ぶことをする人は人が寄ってきます。いわゆる人徳のある人です。物を大切にする人は徳を積むことになります。大事な時に役立つ、人のために金を使う事です。皆、徳を積むことです。徳を積むには人の嫌がる事を進んですることです。例えば、便所掃除などで、これも徳を積むことに繋がります。
 徳のある父親が死亡した場合、残った子供が五人あるとすればその一人ひとりに父親の徳が、十あれば十ずつ行くそうです。その子供が大きくなってまた同じ事を繰り返し、ピラミッド式に大きくなっていくそうです。
 私は五十年あまりPL教を信仰していましたが、徳がピラミッド式に大きくなる話は初めて聞きました。自然に楽しい心で人様、世のために尽くす事が徳を積むことに繋がるそうです。約一時間楽しくお話を聞かせて頂きました。ありがとうございました。


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