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熟年クラブ連合会
     活動報告  (最終更新日 : 2019/02/15)
2015年9月号

2015年9月号 (2015/09/15) 「老壮の友」五〇〇号を迎えて

熟連会長 五十嵐司
 「継続は力なり」という言葉がありますが、熟連の月刊機関紙「ブラジル老壮の友」がこれまで四十一年八ケ月の長きに亘って一回の休刊もなく続き、節目の第五〇〇号を迎えることに大きな感慨を覚えます。
 そして同時にこれまで毎回の発行を支えてくれた全ての関係者の皆さんに深い敬意と感謝の意をささげたいと思います。
 私たち熟連の創立は一九七五年で、今年八月でちょうど四十周年になりましたが、「老壮の友」の発刊はその一年前で、当時の援護協会老人福祉部の広報・交流として始められたものです。
 以来、今日までの発行はいつも順風満帆(じゅんぷうまんぱん)というわけではなく、時として人事上の軋轢(あつれき)、政策(せいさく)的な難関(なんかん)にも遭遇(そうぐう)しながらも、その時々の編集者、寄稿者、協力者たちの情熱と努力で全てを乗り切り、熟連三十周年記念に際しては、コロニア文学賞の顕彰賞を賜り、優良出版物発行者として表彰も受けました。
 日本内地に比べてもはるかに広大なブラジル。その各地に散在する加盟クラブ会員たちの心をつなぐ大切な『ひろ場』を提供しているものとして、あらためて第五〇〇号の刊行をお祝いしたいと思います。


熟連四十周年祭つつがなく開催

 一九七五年八月八日に創立されたブラジル日系老人クラブ連合会は昨年に熟年クラブ連合会と名称を改め、本年四十周年を向かえた。
 八月八日には午前十時から熟連の前庭に安置された百年地蔵尊前で、根石啓史南米浄土宗別院日伯寺開教師による先没法要が行われた。約四十名が焼香を行い、その後、サロンに場所を移し、記念式典が行われた。
 式典の司会は中川浩巳援護理事で、中前隆博在サンパウロ総領事、菊地義治援協会長、山下譲二文協副会長、吉安園子救済会会長、塩野彰日本民謡協会会長、芸能関係者など各団体と各教室の先生方、支部クラブの代表が出席。
 最初に日伯寺根石開教師による講演が約四十分行われ、その中で師は「人間は年月を経ると大事な事でも忘れてしまいます。節目、節目を祝うことで、立ち止まり、それを思い出し、次へ伝えていくことが大切かと思います」と自身の経験をふまえ語った。
 その後、五十嵐会長の挨拶があり「式典は『我が会の守り本尊の前で行いたい』と当会サロンで行う事に決めた」と、他の会場を借り、大々的に行わない理由を説明し、つつがなく四十周年を迎えた喜びを語った。
 続いて祝辞に移り、中前総領事は「着任して二か月になりますが、日系社会の礎を築いた人たちに大変感謝しています。今日、皆様に接して領事という心の鎧が取れた感じです。熟連のモットーである『友愛』『健康』『奉仕』を見習って、私も全身全霊でこれからの業務に臨みたいと再認しました」と話された。続いて、菊地援協会長、塩野民謡協会会長からも祝辞を戴き、芸能関係では、熟連の司会などを担当して下さる藤瀬圭子さんが「長いお付き合いですが、夢のような四十年でした」と移ろいの早さとチャリティーショー当時を振り返った。
 功労者の表彰は、杉本正相談役、戸田房子第二会計理事、原沢和夫アルジャー親和会相談役、小坂誠第二副会長、重岡康人顧問、内山卓人監査役と金籐泰子事務局次長に表彰状が贈られた。
 昼食は今回はじめてサント・アンドレのビフェ・クリナリア・オリエンタルに頼み、参加者で日本食を楽しみ、その後、アトラクションに移った。
 石原吉三氏の詩吟「春望」、舞踊の部では多川富貴子さんと相沢絹代さんの「熟年讃歌」、モジ老壮部・新田邦子さんの舞踊「南部せみしぐれ」、サウーデ老壮部の皆さんの「川は流れる」。民謡の部では滝ヶ平功さんの「宮城馬子唄」、林節子さんの「新相馬節」。歌謡は今年のミニカラオケ大会スーペルエストラで優勝したサン・ベルナルド松寿会の藤本のり子さんが「ノラ」を歌った。
 最後に熟連クラブのシニア・ボランテイアの与那覇博一先生が「岸壁の母」を歌いながら手品を披露。参加者の笑いを誘って、熟連四十周年の式典はつつがなく終了した。
【祝儀ご芳名(順不同)】
 サンパウロ鶴亀会、みずほ福寿会、ピニェイロス親睦会老壮部、リベロン・ピーレス錦友会、リベロン・プレット壮寿会、文協、ジュンジアイ睦会、援協、日本民謡協会、サンパウロ中央老壮会、イタケーラ寿会、モジ中央日会老人部、インダイアツーバ親和会、サンベルナルド松寿会、抒情歌の集い、プラッサ・ダ・アルボレ老壮クラブ、山下譲二文協 第二副会長、福本千賀人、藤瀬圭子、小島花子、故・小畑博昭氏御家族、林アンドレ亮、 川添敏江、田中礼子、寺田洋子、会田郁子、杉本正、五十嵐司、玉井須美子、上野美佐雄、中川浩巳、玉田伯夫、長山豊恵、大庭千代子、 浜田輝男、永田久、戸田房子、山田かおる、辺原良子、滝ヶ平功、宮坂玲子、与那覇博一、西一人、相沢絹代、岡たつみ、池渕信子、畠中和廣、金籐泰子。


海上自衛隊練習艦を訪問して

熟連会長 五十嵐司
 八月七日、各地のクラブ員九十八名と同行してサントス港に停泊中の練習艦「しまゆき」を訪問して乗組員たちの温かい歓迎を受けた。
 同艦は三隻編成の練習艦隊に加わって五月に日本を出発、七月二十八日にペルナンブコ州のレ シフェ港に到着、二手に分かれてリオ、サントスを訪問、修好百二十周年を祝して表敬・親善の後、八日にはウルグアイ国のモンテヴィデオ港 に向かって行った。
 練習艦隊の当国訪問は移民百周年のサントス寄港以来で七年経っており、久しぶりに見る勇壮な軍艦の姿を眺めて心が弾んだ。
 私たちが始めて渡伯に乗った船は客船で白く塗った優雅なカモメのようであったが、「しまゆき」は軍艦らしく、全艦灰色で角ばり鉄の塊のようであるが、思えば昔の軍艦行進曲の「♪守るも攻めるもくろがね(鉄)の、浮かべる城ぞ、頼みなる…」という歌の文句のように、見るからに頼もしい姿である。すべてのスペースが戦闘に備えての装備に使われて無駄の無い配置になっていると感心した。この艦の大きさは旧海軍の駆逐艦に当たるものであるが、武装仕様はその頃の砲門数を別とすれば上級の巡洋艦よりもむしろ戦闘能力は高いと見られ、イージス艦に準ずるものといえる。レーダー(電波探知機)、ミサイル(誘導弾)システムの装置が完備しており、駆逐艦時代の主要用務であった 対潜水艦等への爆雷投下は廃止され、空中を飛翔する誘導魚雷が装備されていると説明された。空中・海面の前後左右に向けられているミサイルの弾幕を逃れるのは容易ではないと思われた。すべての作動は最新のコンピューター制御を用いるハイテクノロジーを駆使して行われるもので、対艦・対空・対潜と何処から現れる敵に対しても備える索敵・攻撃・防御が考えられているのに驚かされるとともに、心強く感じた。
 さて、このように新鋭の軍艦を目の当たりし、詳しく話を聞いてサンパウロの本部に戻った八日後の十五日、連合会では終戦七十周年記念日の追悼イベントとして特別映画会を催した。実写の記録ニュース映画「学徒出陣」「特攻隊出撃」「終戦の日」の三本と特攻隊員の生死を描いた劇映画「永遠のゼロ」が上映された。兵士の究極無私の愛国心に頼らざるを得なかった非情な特攻作戦の 実情をあらためて見、もしあの時に「しまゆき」に装備されているような誘導兵器が開発されていたら、あたら六千数百人の若い命を散らさなくて 済んだものを、と口惜しさに耐えず、暗然とした思いに打ち沈んだ。


「しまゆき」見学雑感

 八月七日、七年ぶりにやってきた海上自衛隊の練習艦隊三隻『かしま』『しまゆき』『山霧』のうち、サントス寄航となった『しまゆき』『山霧』を見学した。
 当初、領事館からは見学は六日と連絡されていたのが、急きょ七日に変更となり、参加者全員に日時の変更を連絡するなど、慌しい一幕もあったが、モジ、アチバイアからバス各一台、本部から二台と計四台、約二百名弱が見学に参加した。
 思えば、一九九八年の移民九十周年の時は老ク連関係でバス十三台、約五百四十名が見学に参加。二〇〇〇年の時はその半分六台、約三百名。そして今回はその半分と一世の減少と共に減っている感じだ。
 参加者の中には「兄が最後の予科練生で、出撃を前に終戦で無事、帰ってきた」というY・Kさんやご主人が学徒出陣で『かしま』に乗船。電探の任務に付いていたというK・Kさん。真珠湾攻撃の時、夫が航空母艦に航空整備兵として乗船していたY・Tさんなどがおり、夫や兄から聞いた当時の様子を語り合い、さまざまな想いで見学に臨んでいた。
 しかし何と言っても制服姿の隊員さんは格好いい。ぴしっと挙手の礼で迎えられるとこちらまで何となく返礼をしたくなるほど。以前は担当の当直士官さんが船内を案内してくれたが、今回は各所に担当仕官さんがおり、その場で質問することに。艦前に取り付けられた六十二口径の七十六ミリ単装速射砲は十五キロメートル先の的も一発で狙えるとか。
 また、ミサイルなども装填済みとなっており、イザという時はすぐに作動できる様子。入隊二年目という若い士官さんが火災などの時の防護服が取り付けられた場所におり、もしもの時はその面倒な服やマスクを一分以内で着ける事ができるという。
 一〇〇〇℃の温度にも耐える服だということで、先の釧路のフェリーの火災の時もそばにそんな服があれば、あの乗員さんも亡くならずに済んだかもなどと思いながら、艦内を一周する。艦尾・甲板には練習用の朱に塗られた銅鉄の標的船も積まれており、どこかの洋上で練習するのだろうか。
 あちこちで隊員さんを囲んで記念撮影がされている。
 現在、海上自衛隊には女性隊員が二千四百人近くおり、そのうち、約三百二十人が艦艇の乗組員として乗艦しているという。今回、自艦が停泊した港はブラジル海軍の軍港内という事もあり、ブラジル海軍の女性仕官さんも見学に訪れており、日本の女性自衛官もブラジルの女性軍人さんもどちらも共に素晴らしい。
 見学後の感想では、「もう少し艦内の生活空間や操縦室も見たかった」という意見や「はじめにパンフレットなどをくれて、説明者が付いて回って順次説明して欲しかった」という声もあった。


真鍋次郎さんを偲んで

イタケーラ寿会 岩佐光子
 次郎さんは一九一五年二月十九日、長野県伊那市箕輪に生まれました。家はお爺さんが松本城に勤めていた士族だったとかで、鷹揚(おうよう)な反面、きちっとした人でした。
 私が次郎さんと知り合ったのは、五月一日のイタケーラ・コロニア運動会の時で、知人に紹介されました。あの時の次郎さんはすごく元気で明るくて、話をすると面白く、頓智(とんち)も効き、すぐに交際を始めました。
 息子さん、娘さんたちもとても良くして下さいました。私は親戚が少なくて、急に親戚がたくさんになり、本当に嬉しく思いました。私の息子にもとても良くして下さって、私は喜んで次郎さんとの結婚に踏み切りました。一九九一年七月七日のことです。次郎さんは三度目の結婚でした。時には夕食に恋人みたいに連れて行って下さったり、優しくして下さいました。次郎さんが老人クラブの会長だという事は、後で知りましたが、老人クラブの事になると、とても一生懸命でした。
 あの頃の老人クラブは杉本さん、上原さん、金藤さんたちがおりました。杉本さんと金藤さんはまだまだ元気で、今も熟連を支えて下さっています。
当時、事務所が手狭で、新しい会館を持ちたいと皆、一生懸命でした。朝、事務所に出かけると、事務局の人が「今日はどこどこにお願いに行って欲しい」とか「どこからは寄付を頂いた」とかの報告を受け、毎日毎日、杉本さんたちと歩いていました。その甲斐あって、募金もたまり、ちょうど事務所の隣の建物が売りに出ていて、買う事が出来ました。
 次郎さんがいつも「会館建設は老人クラブ員のために、本当に良かった」と言っていました。その時の全老連からの運営資金のアジューダ(手伝い)が基になって未だに熟連の経済を支えているなんて、私は本当に嬉しいです。
 その後、次郎さんが高齢と病気で頭が混乱し始めた頃から私と次郎さんの子どもたちとの間がうまくゆかず、結局、離婚をしてしまいました。とても残念です。
 二〇一一年九月二十三日、食道ガンと胃ガンで次郎さんは旅立たれました。
 杉本さんが一番の仲良しで、次郎さんはいつも褒めて、「学者」と言っていました。酒と野沢菜漬け、魚、刺身の好きな人でした。日本へも五回生き、全老連からも表彰され、日本からも勲六等を頂きました。今は何もかも懐かしいばかり。楽しかった頃のことを一つひとつ思い出しています。


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