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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2018/12/14)
2005年4月号

2005年4月号 (2005/04/25) 民話と伝説③ 「安養寺の黒仏」「有間皇子と結び松」

サンパウロ鶴亀会 猪野ミツエ
 前回に続き、和歌山県日高郡南部町に伝わる民話・伝説を紹介させて頂きます。

「安養寺の黒仏」
 安養寺に昔、「惠心」という和尚さんがいました。大変学問が好きな上、姿形の整った和尚さんでした。近所の人々が朝に夕に寺を訪れたので、この和尚さん、とうとう自分の顔に墨を塗ってしまいました。人々は真っ黒になった和尚さんを見てからは、誰一人寺へ行かなくなりました。やっと落ち着いて学問する事ができるようになった和尚さんは学問のかたわら、自分の像を彫り寺へ残しました。それが今でも残っている「黒仏」さんです。

「有間皇子と結び松」
 最初の結び松は今から八十年程前に枯れてしまい、今あるのは新しく植えられたものです。
 今から一三〇〇年程前に有間皇子は、当時の豪族「蘇我赤兄(そがのあかえ)」のために罪に陥し入れられ、白浜湯崎温泉に来られていた斎明天皇の皇子「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」に厳しく取り調べられました。
 有間皇子は身に覚えがない罪なので、「天と赤兄は知っていても、私は知らない」と答えたので岩代坂で絞め殺されました。有間王子が白浜に連れて行かれる時、岩代の浜の松林の美しさに感動され、また身の疑の晴れるよう神に祈りながら次の句を読まれました。

 岩代の浜松ヶ枝を引き結び
 まさきくあらばまた還り見む
 家に在らば筍に盛る飯を草枕
 旅にしあらば椎の葉に盛る

 岩代の浜松を「結び神」として、このような和歌を詠まれています。「悲劇の皇子」として名高い有間皇子と共に岩代の「結び松」の名も今なお世に知られています。岩代に「結び」という地名がありますが、この「結び松」の伝説から付けられたそうです。


思い出に残る歌い手たち

サンパウロ名画・なつメロ倶楽部 津山恭助
⑤小畑実
 昔の歌手の中で、小畑実は大衆の好き、嫌いが極端に分かれる一人と言えそうである。甘くて、柔らかで、優しくて軽快な歌声と絶賛する者がいるかと思うと、何だかフニャフニャと実体がなく、ベタベタして気持が悪い、軟弱に過ぎるとして耳をふさぐ人も少なくなかった。面白い現象であるが、私などはどちらかというと肯定派である。とにかくその流れるような美声には魅せられるところがある。
 この人は華やかに活躍したのは戦後になってからだが、戦中から歌ってきており、昭和十八年の「湯島の白梅」「勘太郎月夜唄」でヒットしたものだが、あの軍歌全盛期の中にあって売れたからには、やはりそれなりの実力が評価されたのだろう。
 戦後になってからは、まず「小判鮫の唄」(昭和二十三年)。作詞は高橋掬太郎であり、この人は生涯に三〇〇〇曲もの歌詞を創ったが、レコードと結びついた歌謡曲全盛時代を担った一人としても知られる。七、五調の名調子のものが多く、戦前では「酒は涙か溜息か」(六年)、「片瀬波」(七年)、「並木の雨」(九年)、「船頭可愛いや」(十年)、「博多夜船」(十一年)、戦後では「啼くな小鳩よ」(二十二年)、「小判鮫の唄」(二十三年)、「ここに幸あり」(三十一年)等がある。
 作曲の大村能章は「明治一代女」「旅笠道中」「お駒恋姿」「野崎小唄」等の日本調の曲を作ってきた第一人者。なお、「小判鮫」の原作者は三上於兎吉で何本か映画化されている。「アメリカ通いの白い船」は二十四年。昭和二〇年代の初めには日本国民の海外旅行など夢物語であり、最も身近かな外国はハワイであった。この歌とか「憧れのハワイ航路」(岡晴夫)、「ハワイ航空便」(宇都美清)などは当時の大衆の外国旅行への憧憬を反映したものと言えるだろう。「アメリカ通いの白い船」の作曲者である利根一郎は「星の流れに」「星影の小径」「ガード下の靴磨き」「若いお巡りさん」「霧氷」「水色のスーツケース」等々、約一二〇〇曲の作品を残しているが、特に「星の流れに」(昭和二十二年)は、暗いガード下で生活のために身体を売っている、二十三才になる引揚女性の転落の手記を読んだ作詞家・清水みのるが、怒りにふるえる気持で詩を書き、共感した利根が曲を作ったというエピソードが残されている。発売当初には、この暗い内容のレコードは売れなかったというが、夜の女たちに好んで口ずさまれるようになり、次第に巷に流れるようになり、世に広まっていった。「薔薇を召しませ」も二十四年の歌である。
 同年の「長崎のザボン売り」も「のど自慢」でよく歌われていたのを思い出す。二つとも軽快なメロディーだが、「アメリカ通いの白い船」とともに石本美由起の作詞になるものである。
 小畑の代表曲とも言える「高原の駅よさようなら」は二十六年の大ヒット曲で、中川信夫監督によって映画化され、水島道太郎、香川京子が共演しており、小畑自身も特別出演している。
 その後は「山の端に月の出る頃」「ああ高原を馬車は行く」などで活躍を続けたまま、第一線から退いたようで、「思い出のメロディー」などのなつメロ歌謡番組で和服姿で歌っているのを見かけたことがあり、感慨をおぼえたものだった。
 カラオケとして歌いやすい小畑ソングは「アメリカ通いの白い船」が最適だが、「高原の駅よさようなら」「小判鮫」も悪くない。




サンパウロ鶴亀会 井出香哉
 私は花が好きだ。
 花好きは多いが、私は小さい頃から本と花が好きだった。姉は町の学校に行くために家に居なかった。弟と年齢が違っていたためか、引っ込み思案だった私は一人で本を読んだり、庭の花をとってきて遊んだ。
 十歳の時に一家で日本に帰った。小学六年生の春、身体が弱かったので従姉妹の家に預けられた。一つには、学校で皆についていけなかったので、女学校を首席で卒業した従姉妹に勉強を見てもらうためでもあった。
 親元を離れて心細い私を慰めてくれたのは、ツツジや椿の花であり、木犀や沈丁花の香りであった。休日には母へのお土産にチューリップの花を買って、「こんな高価な物を」と叱られた。山に登ると馬酔木(あせび)の花を折ってきた。
 土手に咲く月見草、田圃の畔に咲く彼岸花。摘み草に行くと、ヨモギは採らないでスミレやタンポポを摘んで。未だに妹に言われている。
 若い時は派手な花が好きだった。歳とともに考え方や見方が変わってきて、野の花や目立たない花を好むようになってきた。
 今、私の台所の出窓には、日本スミレ、鉢植えの葱、シクラメン、菊が並んでいる。シクラメンは三年前にフェイラ(青空市場)で買って来て、花が終ったので庭に放り出して置いたが、或る日、蕾が出ているのを見つけて以来、庭に降ろしたり、出窓に置いたりしている。菊も同じだ。
 日本スミレは二十年も前にフェイラで見つけて、姉にプレゼントした。五年前に一株分けてもらった。地味な花で、決して葉の上に出てこようとしない。葉の間をかき分けるか、透かして見ると恥ずかしそうにうつむいている。
 先日、葱坊主が出た。「こんな小さな鉢の中でも、お前は子孫を残そうとしているんだね」と、しみじみ葱坊主が愛しかった。


街かわれば

ジュンジァイ睦会 長山豊恵
 先日、カンピーナスからフランカ行きのコメッタ(バス)に乗って行き、クラビンヨの街の入口に降ろしてもらうと孫が迎えに来てくれていた。
 「街がきれいだね」と云うと、「おばあちゃん、一周りしましょう」と車を走らせた。雨上がりのせいか、街は深閑として何か清々しい感じでした。よく見ると落書きが無い。
 有名なサンパウロやカンピーナスの街に行くと、何と落書きの多い事。やたらと目に付く。きれいな新しい塗りたての家もペンキの乾かない一夜でメチャメチャに荒らされている。これではルア(道路)をきれいに掃除しても、壁や塀を見るとガッカリする。
 「何とか出来ないだろうか」と一人考え入るばかり。ブラジル人はどうしてこんなに落書きがしたいのだろうか?下級人の多いせいでもあろうけれど、それなりに落書きしないように教育出来ないものだろうか。情けないものだ。
 孫が「ちょっと、待って。キタンダ(野菜・果物販売所)に寄るから」と云って谷間のようなビーラ(地区)に下りて行って壊れた塀のところで止まった。そこには日本人が野菜を色々と植えて売っていた。つまり、キタンダである。畠から何でも欲しいものを採り立ててくる。その隣でフランゴ(鶏肉)を売っている。ちょっと上がって道を曲ると豚を殺している。年末の忙しさが目に付いた。まるで田舎に行ったような感じだった。
 「フェイラは無いの?」と聞くと、「有る」と云う。ここで買えばみんな新鮮なものばかり。選り取りで畠で採れるから気持ちが良いという。
 「セントロ(中央区)で日本人のおばあちゃんがバラッカ(簡易店舗)を持っているから、通ってみよう」と連れていってくれた。八十才を過ぎたおばあちゃんは、「モトリスタ・ロッカ(狂った運転手)」とアダ名が付いているそうだ。朝から十二時までバラッカで働いて家に帰り、夕方まで自分の畠で植えたりして、自分で作った野菜を持ってきて売るという。ペルア(商業車)もこのおばあちゃん、自分で運転してくる。この街の人達はペルアが見えると、「ベンビンド(よく来た)、ロッカ(狂った人)」と騒ぐそうだ。
 「ペルアが通る。そこ、のけ、のけ!」とメチャメチャ運転して来るという。カルサーダ(歩道)の上に乗り上げたり、バール(一杯飲み屋)前のカルサーダでのんびり飲んでいる連中のそばに突き当たらんばかりに通り抜けていくので、「モトリスタ・ロッカ」のアダ名が付いたそうだ。
 コンビ(ワゴン車)が見えたら、みんなカデーラ(椅子)を片付けコップを手に持ち、「シェガンド、シェガンド(着いた、着いた)」と立ち退く始末。「よくこれで、リセンサ(運転免許)がもらえたものだ」とみんなが話していた。
 こんな事でおばあちゃんは大変人気者になり、御主人と仲良く元気に毎日頑張っているようだ。このおばあちゃんに負けないように、と私の心も湧き上がり、若がえってきました。かわった街に行くのも楽しいものだ。


子は宝

ツッパン老人クラブ寿会 林ヨシエ
 「子は宝」と申しますが、本当に大事な宝だと思います。その素晴らしい宝物を私は沢山持っている幸せ者であります。
 私の長女が、私によく話してくれた事は、長女がお産の時にお世話になった伯人の産婆さんが「子供は何人いても良いものですよ。皆、一人一人が同じ親から生まれていながらも、それぞれ顔も違えば姿も違う。気性も違っていて、その子でなかったら無い、他の子には無い良さを持って生まれて来ているものすよ」と、いつも言っておられたのを聞かされていたのでした。
 私はその事については余り深く考えようともせず、聞き流しておりましたが、最近、年とともに段々と子供達にも世話を掛ける事が多くなり、どの子にも世話になっている中、ふと、産婆さんに言われた言葉を思い出し、「本当に言われた通りだなあ」と思うようになりました。
 もし私が、若くしてこの世を去っていたなら、子供達の一人一人のこの良さを知らずに死んでいったかも知れないと、つくづく思った事でした。
 昨年の一月、ポンペイア仏教会の三十五周年記念法要に招待を受け、参詣しました折、法要後に法友との話中、私は何も「こうですよ、ああですよ」と語った訳でもありませんでしたが、いきなり「貴女が幸せでなかったら、この世の中で幸せな人は一人もありません」と言われました。私は「貴女のおっしゃる通りです。ですから、私は毎日、感謝感謝の気持ちでいっぱいの日を暮らしております」と申しました。
 私は六人の息子に六人の嫁さん、三人の娘に三人の婿さんに恵まれました。どの婿さんも、どの嫁さんも皆良い人で、息子や娘達と一緒になって私達を優しく労わってくれています。
 それに長男が成功してくれました。お陰で何不自由ない安楽な生活をさせてもらっていて、本当に有難い、この上もない幸せな幸せな事であります。
 私の大事な大事な宝。子供達よ。みんな。みんな・・。ありがとう。ありがとう。
 みんな!身体に気を付けて元気で長生きして下さいね。何処までも兄弟姉妹仲良くして一年に一回でもいい、一ツ所に寄り合って、恋しい懐かしい昔話に花を咲かせたらどんなにか楽しい事でしょう。


秋の浜辺

サンパウロ中央老荘会(イタニャエン在住) 稲垣八重子(九十一歳)
 秋の雨はしとしとと降りつづく。
 もう止んだと思っていると、また暗くなってきて降り出す。
 夜は扇風機を天井で唸らせていたのは、二、三日も前のこと。残暑の寝苦しさも嘘の如く、肌にうすら寒さを感じる今朝の秋。季節の現れは、ちゃんと訪れてくれる。
 窓を開けると清々しい風に乗ってくる波の音。今朝は土曜日と云うのに、海に向かって出掛ける家族連れも見えない。
 屋上に上って見ても、海辺には人影もまばら。白い波の襞が重なり合って、打ち返している。
 自転車を連ねて少年達が渚近くを走らせて行く。人怖じしない鳩の群も寄っては来ない。
 今朝、秋の浜辺は淋しくなり、浜のボテコ(簡易飲食・販売店)もひっそりと樂の音もしてこない。
 やっぱり、海は夏が一番人を呼ぶ。この静かな秋の砂原をちょっと歩いてみたいが、杖を頼りに「さて、歩けるだろうか」と窓辺に佇み考えている足の弱くなった私。


小学5年生の苛め

サンパウロ中央老壮会 纐纈蹟二(喜月)
 古い日記を辿る古里は、低い山並の続いた所の盆地に町らしい商家が続き、街路も碁盤目に近い区画で、呉服屋、薬局、文房具店等が並び、あの地方で一応商業の中心地であった。
 町役場と警察署が向いあっていて、其の横に広い運動場をコの字に囲った木造の校舎が建っていた。校門は石の柱に鉄の扉があり、石柱は「八百津尋常高等小学校」と彫ってあった。
 コの字形の広い隙間に新講堂が建設され、当時コンクリート式の近代建築で生徒達の自慢になり、学生の収容力は一千三百人であった。
 室内体育館では、高等科の生徒が剣道をやり、放課後に勇ましい掛け声で稽古の竹刀の音が響いていた。
 私の町には分教場が二つあり、其の一つは私の生まれた村落にあった。もう一つは町の最北にあたる北山分教場であった。
 小学一年生は分教場に入学した。名称は「杣沢分教場」で、正面入口の左に職員室と応接間、右に大きな大きな教室があり、広い廊下は雨天には体操が出来たほど広いものだった。
 主任訓導は、四年生と一年生を担当した。次席の先生は、三年生と二年生を受け持った。四年の学習が終ると本校の五年生に編入され、毎日四キロ近くを歩いて通学した。男子生徒組が二つと女子生徒組が二つであり、私達分教場の十八人の生徒は、各組に編入されて別々になった。
 本校の同級生は「杣沢猿」とか「北山猿」と蔑み、遊びの仲間に入れてくれない。分校の生徒はことごとく差別されて、苛められた。教室の雑巾がけから便所掃除は、「山猿」連中の仕事になってしまった。
 担当の教師は此の事は全然知らず、すべてを生徒の自治会に一任しているので、学習外の事は口出しもしない。しかし、スポーツに強い者とか、学習の優秀な者は次第に苛めから遠ざかり尊敬されたが、私のような学業も運動も半端な六年生に進級するまで続いたのである。
 六年生に進級すると、教師も一緒に其の学校を担当した。すると、苛めは自然消滅して皆と同格扱いとなり、先生も生徒一人一人の才能や特技を見付け出していて、学芸会のメンバーに選ばれたり、唱歌の独唱にも出た。
 考えると、分校から編入の五年生だけが苛めの対象になったらしい。分教場で学んだ男子生徒は皆、同じ経験を味わったものである。
 女子生徒は其の様な苛めは無かったようであった。これは七十年も前に過ぎ去った古い記憶である。
(付記:私達の学校は高等科三年まであったので、乙種中等学校の資格を得る事が出来た。)


光陰矢のごとし

レジストロ春秋会 大岩和男
 月日のたつのは早いとよく云われる月並な言葉だが、最近はその感がますます強く現実としてひしひしと身に迫ってくる。つい最近と云っても十年程前までは、そう切迫した感じが有った様に思えない。尚さかのぼって昔、そのまた昔の幼少年時代には一年が過ぎ、正月が来るのが待ち遠しかった。その思い出は今でも濃厚だ。ところがどうだろう。今日此の頃では、この間正月だといったばかりの様な気がしているのに、もう三月はとうに過ぎている。一年といわず毎日があっという間に素早く過ぎてしまう。
 責任のある仕事からは遠ざかっているのだが、朝起きて自分なりに「あれをして、これもせにゃあ」と思う。したいと思うことがたくさんあっていいようなものだが、実際にはその思うことの半分も出来ずに一日が終ってしまう。その繰返しである。凡愚の悲しさ、物事に徹底し得ないからだろうか。
 兎に角、「光陰矢のごとし」と云う格言があるくらいだから、古今を問わずいつの時代の人間も月日が早くたつことを感じていることに変りがないようだ。
 大勢の高齢者の中には、何もすることがなくて退屈だと言う人もあれば、タマに「早く死にたい」というバチ当り(失礼!)もいる。仕事をしたくても年寄りだからと使ってくれないという。そういう人に限って至極元気で、毎日ルアを歩き回っている。「それなら、老人クラブ春秋会にでも入って、先輩高齢者のお世話でもしたら」と言えば、「いやー、あんな処に行ってヘンな理屈を言われたらたまらんから御免だ」と。食わず嫌いも甚だしい。
 こういう人もいる。「老人会とか老人クラブと言うと、年寄りくさい。オレはまだそんな年じゃない」と。最初はひどく抵抗を感じ、同調出来ない様に思う人が多い。しかし、実際にそれに入ってまず最初の例会に出席した人の第一声が「楽しかった!」である。老人会や老人クラブではなく、「春秋会」と呼ぶ高齢者の会である。
 年寄りが集まってグチか自慢話、または嫁さんの悪口でも言うとばかり思っていた人達が、そんなことは一言も聞くこともない。会長の話を聞き、会員の中から誰かが体験談、失敗談、クイズを出して正解者には賞品をあげる。係から指名されれば好きな唄をさっさと唄う。カラオケ、コーラスもあり、日本舞踊、ラジオ体操、フォークダンスと楽しむことが目白押しで、時間が足りないくらいだ。
 さらに輪投げ、お手玉遊び、ビンゴ、福引きと、その日その時の企画に従って運営される。そうした一連の遊びには何らかの賞品がある。面白いのは新入会員には必ずそれが当る。どういう訳かだいぶ前からその傾向が続いている。初めて参加して賞品をもらったら誰でも楽しくなる。それなくしても楽しいと思っていた矢先に賞品をもらうのだが、やっぱり入って良かったということになる。


私のペット物語「ランの一生」

サンパウロ中央老壮会 上原玲子
 昨日私の愛犬ランが死んだ。十六歳と五ヶ月の長生きであった。でも私と一緒に暮したのはたったの二年半だけで、私が街に出たため息子が連れて行ったり、農場で留守番させたりした後、生涯の半分位は嫁の実家に居候させてしまった。
 生後一ヶ月で我が家に来た時、うっすらとクリーム色の混じった白い毛が、くるくると巻いている小さなプードルを見て、一発で羊毛を意味する「ラン」と言う名前をつけてしまった。その白い毛が汚れないよう、家の中で飼い日曜日には必ず洗ってやり、夜は手足を洗っては一緒のカーマに寝る、という家族の一員となった。ソファーでの昼食後の一休みは必ず私のお尻がランの枕であった。何時か外に跳び出して長時間いなくなり、夕方になって真っ黒な犬になって帰って来た時には、本当にびっくりでおかしくて、わざと知らん顔をしていたら悲しそうに何時までも私を見つめていた事が懐かしく思い出される。
 私が農場を出てから初めて三ヶ月目くらいに帰った時は、実に感動的だった。一声もなかず、尻尾もふらず、ただ立ち上がって私の身体に取りすがって、じーと顔を押し付けているだけ。どんなに待って待って待ち続けたことだろうと、私まで泣けてきた。主人の都合で置き去りにされて、自分の生涯のほとんどは離れていたというのに、一年に二・三回行き会う時は本当にうれしそうに私から離れない。
 昨日の日曜日、もうだめかもしれないという電話を貰って、用事の合間にとんでいった。近頃はもう耳も聞こえなくて、寝たり起きたりという状態だと聞いていたので覚悟はしていたけれど、行って見ると、手足をぐたーと伸ばして目をつむって横になっていたが、気配を感じて一生懸命起き上がろうともがく。が出来なくて切なそうな声だけ上げて荒い息をしている。あの愛らしい黒い鼻先も乾ききっている。結局日曜日でもありどうしようもないので、お願いして帰ってきたが、間もなく死んだという連絡があった。
 十五年前夫を亡くして農場を出る事になり、一番可哀想だったのは、流浪の身となったランだと思っているが、しかし死後何日もなき続けているという弟分(犬)がいて、結構彼の一生も幸せだったのかもしれないとも思った。
 今月は一週間前に嫁の祖母が急死し、昨日ランが死に、今週は夫の命日で、お寺で秋のお彼岸の法要もあった。日本では卒業式の風景と美しい桜の開花などで、楽しげな春の気配であるが、私には切ない今年の三月となってしまった。


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