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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2005年5月号

2005年5月号 (2005/05/10) 感動した一株のバナナ

レジストロ春秋会 小野一生
 レジストロは、お茶、バナナ、ゴザ、もち米などの生産地として広く知られている日本人が開拓した植民地である。
 お茶の寿命は百年以上と聞かされているが、バナナの寿命はどれくらいか。肥沃な土地で充分な手入れをすれば百年でも保つという説もあれば、植え替えをしなければ、百年はもたないという説もある。
 しかし、私がここで感動した一株のバナナというのは、今から七十余年の昔、父が植えたバナナの事である。
 私も今では七十七才。六十年も住んだ住居を出て町住まいになってからでも、早や十五年は過ぎた。しかし、父母が渡伯四年目に購入した唯一の遺産である土地は、今でも番人を住ませて私の憩の古里として大切に保持している。
 仕事としては何も生産していないが、旧住宅の裏を流れる小川のきわに昔つくった田んぼを再利用して少しの日本米「コシヒカリ」を植えたり、野菜を作っているだけである。また、肥料用に昨年から豚を二、三頭と地鶏カイピーラを少し飼育する事にした。それらの飼料のためにマンジョカを植えることに決めた。
 住宅の裏に小高い山があり、そこには私が物心ついた頃、父が当時では珍しいバナナを一本植えていた記憶がある。「タカバナナ」と言って、背が高いのでそれを表しての名だったのだろう。黄色に熟したバナナを小鳥が来てつついているのを見て、父が急いで切ってきた思い出は今も鮮やかに憶えている。
 私が五才の時、不幸にして母とは死別し、二十五才の時に父も逝った。私が結婚した年であった。それからというものは、子育てと仕事に追われ通しだった。養鶏とお茶、イグサ作りとゴザ工場などを主として、この裏の山には何も植えず放っておいて草木が繁るに任せてあった。今回そこにはマンジョカを植える事に決めて、仕事一切を「ジュリオ」という番人に任せた。私は週に一、二回行って、いろいろ手配するだけである。
 ところが、ごく最近行った時、旧宅の庭先にある野菜畑の近くに一本のバナナがすくすくと伸びているのをみた。「おい、ジュリオ。このバナナは何処から持ってきたのか」と聞いた。彼は「あの裏山にマンジョカを植えていたら、何か黒くて柔らかい所があったので掘ってみると、なんとバナナの古株と分かった。よく見ると小さな新芽のようなのが二つ見えたので、取ってきてここに植えたのだ」という。
 「何それ、本当かい」と驚いて現場まで見に行った。驚いた事に七十年もの昔、父が植えたバナナの子孫であることを確かめた。「ジュリオ。ムイト、オブリガード」とお礼を言いながら握手した時には胸が詰まり、目頭が熱くなった。
 この長い七十年もの間、荒れ果てたマットの中でなお生きる力を失わず、今まで待っていたのだなと思った。「このバナナには、亡き父母の息がかかっているのだなあ!」と思いながら無言でそのバナナの姿を眺めながら、やがては見事に生長して大きな立派な房をつけてくれるだろう。その時は、まず真っ先に父母を偲びながら仏前に供えよう。
 そして、父母亡き後もみんな健在である六人の姉妹兄弟(上が八十五才、末子が七十二才)とともに、その父母を偲ぶバナナを分け合って、しっかりと味を噛みしめていただき合う日を待ち望んでいる今日この頃である。


狸の火

セントロ桜会 出平寿美子
 私の故郷は高知県中村市有岡という所です。昔は高知県幡多郡中筋村有岡でしたが、戦後市町村合併で短い名称になりました。
 今現在、日本一水のキレイな川だと有名な四万十(しまんと)川は中村市の傍を流れています。有岡は中村市の中心部まで三里半あるのです。
 私の家は百姓家で、農作物などを干したりする広い庭がありました。夏は近所のおじさん達が貰い風呂に来て、庭の腰掛けに集り、とても賑やかでした。
 そんな少し蒸し暑い宵には、眞向うの山のふもとでチロチロと火が動き始めるのです。そしてその火は数を増して大きくなり、散らばり燃え上がるのです。皆は立ち上がって「ありゃあ、ありゃあ」と声を上げるのです。
 物凄い速さで火が流れるようにこちらへ来ると、パアッと消えて又燃え上がるのです。二十分近くその火は散らばり、又燃え上がりを繰り返して、パッと消えてしまうのです。
 一同は溜息をついて、「やっぱり、こりゃあ狸じゃのお」と、つぶやくのです。小さい私はただ恐ろしくて、狸とは恐ろしいものだと思いました。
 ブラジルへ移住してからも、母は知人によくこの狸の火のことを話していました。
 昔から村人は狸の火だと決めて語り伝えていましたが、いったい、何の火だったのでしょうか?
 七十七年経った昔の思い出ですが、子供の頃のあの恐ろしい火のことを忘れないのです。


シュミットの告白

カンポ・グランデ 成戸正勝
 ヴィデオで観たジャック・ニコルソン主演の映画で、原作では「シュミットに就いて」と言う題である。映画祭で金の地球杯を二個獲得している。四十数年働いた米国有数の保険会仕の副社長を最後に、年金生活に入ったシュミットのその後の人生の一片を描いている。
 ある日アフリカのタンザニアから、一通の手紙が来た。孤児院を経営しているシスター達から経済援助を乞うて来たのである。黒人の六歳になる孤児の貰い親になってくれないかとの依頼状であった。毎月僅か二十二ドルを送金してくれるだけで充分だとのことで、シュミットは僅かな事だと快諾した。
 家一軒に相当する巨大なトレーラーを買い、夫帰で旅をして余生を享楽しようとした矢先、妻は脳血栓で急死して孤独に悩まされる。妻の遺物を整理していて、親友から妻に当てたラブレターの一束を発見する。頭に来たシュミットは亡妻の衣服全部を車に乗せて、古着用のごみ捨て場に放り投げる。そして親友の家に駆けつけ殴り飛ばす。親友はもののはずみで関係し、その後はラブレターを送るようになった。すまなかったと謝ったが、シュミットはトレーラーを引き出し、放浪の孤独な旅に出る。
 生まれて育った町、卒業した大学、色々な想い出の場所を次々と訪ねながらも、思い出してはタンザニアの六歳の黒人の孤児宛に、白分のむしゃくしゃした思いを書き綴った手紙を送り続けた。他に打ち明ける者がいなかったからである。
 遠方の一人娘から永年の恋人と結婚する決心をしたとの電話を受ける。シュミットは前に娘から恋人を紹介された時、彼の教養度は娘より格段に低いと判断し、恋愛に反対であった。結婚式に娘から招待され出席を承知したが、娘の結婚を止めさせる心構えで出発した。
 結婚式の前夜、シュミットは娘に「彼は夫として立派ではない。教養が低い」と言って、結婚を思い止まるように忠告すると、娘は固い顔付きで、今まで一度も自分を構ってくれた事は無いではないか、一度も心配してくれた事は無かった。なぜ今になって心配するのか、娘を必配するようになったのかと皮肉を浴びせられ、ンユミットは返事につまり、それ以上何も言えなかった。
 結婚式の式場では一人淋しく坐り、新婦の父親として祝辞を頼まれてサロンの真中に立ったが、言葉が出てこない。無理やりに搾り出すように、とつとつと祝いの言葉を喉から吐き出すようにしゃべったが、気持ちは治まらず、祝辞が終わって拍手を受けながら、顔をうつむけて坐るのがやっとであった。
 映画の最後のシーンは印象的で、感動を呼び起こす。タンザニアからシスターが送ってきた手紙には、自分が貰い親となった黒人の六歳の孤児が、絵筆で描いたつたない図画で、シュミットと思われる大人と子供の二人が手をつないで広場に立っている絵であった。シュミットはそのつたない絵を眺めながら、涙が流れ出すのを止める事が出来ず、声を上げて泣き、いつまでも絵を見続けていた。彼を愛する唯一の人間を発見した感激に震えていたのである。


記念日の大安売り

 五月の第二日曜日(五月八日)は世界中が「母の日」である。
 老人会でも五月の例会は「母の日」を祝って、一品持ち寄りであったり、特別のプログラムを組んだりしているところが多い。誠に結構なことである。
 しかし、八月の第二日曜日の「父の日」を祝うところは意外に少ない。「母の日」は覚えていても「父の日」を覚えている娘や息子も、これまた少ないようだ。
 父の存在は大きくて小さい? どうせなら、「母の日」だの「父の日」だのと言わないで、「父母の日」にすれば良いのにと思う程である。
 ところで、ブラジルの記念日だが、祭り好きの国柄か、一年に何と二百七十日、四百七十種近くも「○○の日」というのがある。中でも五月は多くて、二十八日、五十五種も「○○の日」がある。毎日何かを祝っていることになる。日本もこんなにあるのだろうか。 また、「姑の日」四月二十八日、「おばあちゃんの日」七月二十六日、「女性の日」四月三十日、「舅の日」三月十日とあっても、「おじいちゃんの日」「男性の日」というのはないらしい。
 いかにもブラジルらしいのは「ゴレーロの日」や「ピエロの日」等もあることである。全くありとあらゆる日があって面白い。
 尚、九月二十七日は「老人の日」であり、それを祝って私達は文協で 老人週間を開催しているので、是非参加してほしいものである。


私のペット物語「我家の朋友」

内山卓人
 近所の長距離トラックの運転手からピアウイから持ってきたオウムの子を分けて貰って、もう十年程になります。一握り程に小さくて、毛もネズミ色だったのがすぐ大きくなり、綺麗になったので雄だろうと「タロウ」と名付けました。
 タロウは日本語が上手で、朝起きるとまず足の運動をやり、人を見ると休みなしに「オハヨウ、オハヨウ」と言います。昼過ぎからは義母が教えた唱歌「ハトポッポ」の唄や「チョウチョウ」の唄を最後まで歌っています。
 ある日、近所の方が来られ、「お宅の息子さんは唄が上手ですね」と言われ、「オウムが歌っているのだ」と言うと、傍に見に行くとパッと歌うのを止めてしまいます。犬が吠えれば「ワン、ワン」といい、猫の真似も上手にし、ある時など、息子(武)の名前を大きな声で呼んでいるので、息子は飛んで外に出ると誰もいません。オウムが言っていたと分かり、息子はオウムの頭をポカリとたたいたこともある程。
 何時か、義妹(早苗)の名前を何回も云っているので、私が傍に行って「サナエ、バカ。サナエ、バカ」と言うとじきに覚えてしまい、「サナエバカ、サナエバカ」と休みなしに言って困ったことがあります。
 タロウは非常に人懐こく、私が連れて歩けば2m後を付いて歩き、私が止まるとピタッと止まり、私が歩くのを待っています。主食は向日葵(ひまわり)の種子だが菓子が好きで、硬い菓子を与えると側にある水に濡らして食べています。
 ある晩、私の寝室に「タロウ、タロウ」と入ってきた時など、可愛いと感嘆させられました。
 他には亀がいますが、これは四十年前に家を購入した時、庭にいたので亀は長生きするそうなので飼っています。種類は「jabuti leopardo」で、15cmくらいだったのが今は50cmぐらいになり、小さい子供が上に乗っても歩き、昼食時には草陰から出て食べ物皿に来ます。
 一番の好物はマモンで、うどん、みかん等も好きなようです。胃袋が小さいのか小食です。亀は昼中何を思っているのかまったく無芸で、他の動物とは関係なく生活しているようです。小さい植木鉢の花の芽を食べたり、椎茸が木から芽を出しているのを食べたり、いたずらはよくします。
 いろいろな動物を注意してみると、餌に不自由しない鉄柵で拵えた中で人様に覗かれている動物園の動物が幸せなのか、九月に老ク連で観察に行くパンタナールのような自然を自由に飛び回る動物が幸せなのか、各々の考えによるけれど一考させられます。


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