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(最終更新日 : 2019/02/15)
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2005年7月号
2005年7月号 (2005/07/07)
亡き母へ「思いを寄せて」
バウル福寿会 田所常美
三月十四日、九十三歳四ヵ月の母と別れを告げました。明治生まれで苦しい戦争時代に子供を育てた気丈夫な母でした。食糧不足の時期、子供を抱えての生活は大きな忍耐と苦労があったことと思います。
一九五六年、一家はコチア移民として渡伯。気候、習慣の異なる国で新天地に夢をかけた若い家族の奮闘が始まります。日進一歩の生活が続きましたが、希望に燃えた健全な一家でありました。皆な人一倍に働き、泣き、笑ったこの半世紀でした。
今、得る事が出来た成果は、家族の賜物です。歌の好きな母は細川たかしのフアンで、花と語り、農場の従業員に片言のポ語で語りかけ、皆に「ばあちゃん、ばあちゃん」と愛され、ハウスの中を一周することが、楽しい日課となっていたものでした。
健康管理は「腹八分目」と小食にして、早朝から運動し、手足の血液循環を良くすると言ってマッサージ器をかけたり、手でこすっている姿を何時も見ていましたが、ここ三年間は度々病気をするようになり、その度に看病に行くようになりました。病気になると、私の名を呼んで期待して待っている母、一昨年は骨砕症になり、医師から「骨に小さな穴があり、年齢でもあるので痛みは軽くはなるが、歩行困難と言われ、回復は難しいと言われましたが、母には告げませんでした。でも骨の病気以外は何も悪い処がなく、心臓は良し、血圧平常、糖尿病なしで食欲良好で、痛みが取れると歩行の練習が私と共に始まりました。
日光浴で体を温め、一方の腕は壁に捕まり、片方は杖を使い私が全身の安定コントロールをする。カラオケをかけて一、二、一、二、と根強くやりました。
母はたまたま、こんな事を言いました。「お前がこちらに来ていると、子供等が寂しがるだろうね」。
私に気兼ねしてか、母の言葉に胸一ぱいの私でした。「母さん、直るまでそばにいてあげるからね。頑張ろうね」と元気付け励ました甲斐があってか、母は日に日に快方に向かい、医師である孫まで驚かし、ちゃんと一人歩き出来るようになるまで看病して来ました。笑顔で私の顔を見つめる母の瞳。私の疲れは一辺に吹き飛んだことでした。
しかし、その後何日かたって運悪く転び、足の骨を折ってしまいました。医師の充分な手当てのおかげで金具をつけ、自分で歩くことが出来るようになり本当にホットしたことでした。でも、これは母の心が強かったからだと思います。母の体には力強く生きた曾お爺さんの血が流れています。母の曾爺さんは明治の初期、村長をなさった方で、村の人達に大変尊敬された方だったそうです。
爺さんは亡くなられたとき、「わが死を悲しむべからず。祝ってくれ」と遺書を残されたそうです。それで村の人々は笛、太鼓、神楽を呼んで盛大な葬式を村を挙げて済ませたと聞かされました。当時、奇想天外な話題として、文芸誌に余話として掲載されたのです。
母の教訓は「発つ鳥、後を濁さず」でした。
母さん。母さんの大往生、すばらしかったです。父の命日十五周年目の日に、出迎えられた父に手を取られて昇天して行った母さん。清々しい、安らかな顔立ちのあんな美しい母さんは、今まで見たことがありませんでした。悔いのない人生だったのですね。敬服いたします。
母さん覚えていらっしゃいますか。あれは一九七五年の歴史的に大霜の降った早朝、私は母さんの言葉の力に励まされて運転免許の試験を受けに行った時のことを…。私は小学校の時、右の目の手術を受け、小さな町で医療不足の時代、視力低下でなやまされていた長い時期があり、劣等感を抱いていた自分は運転なんて遠い存在と決め付けていた私に「目が悪いのは自慢にならない」と言われましたね。この一言で勇気を与えられて、「受けて見ようと決心し一発で合格し、一番先に母の家にこの喜びを知らせた時のことを。
もう三十年も前のことですが、お陰様で一諸に遊び歩くことが出来たし、三百八十キロの道のりを走っても疲れを感じることもなかったし、母さんの顔が見たくて忙しい時は日帰りすることも幾たびかありましたが、母さんを見ると安堵したものでした。
母さん、六十三年間大変ご苦労をかけ、お世話になり、感謝の気持ちで一杯です。母さんの子供に生まれてよかった。今度もし生まれ変われるものならば、亦父さん、母さんの子として生まれたい。
この六十三年、幾たびかの人生の岐路に立たされたこともありましたが、両親の暖かい背中をみながら成長したお陰で、くじけることなく前向きの姿勢で臨む意志の強さを身につけられたのですもの。
母さん私は幸せです。この幸せが何時までも持ち続けられます様に、どうか我が家の前途を遠くから見守ってくださっていることを信じながら…。ありがとうございました。
ペルナンブコへの旅
名画なつメロ倶楽部 水村春彦
初日(四月三十一日)
四年半前の十日間に及ぶ北伯、マセイオ、ナタール、フォルタレーザ三都市へのパコッテ・ツアーに味をしめて、今回はペルナンブコのレシフェを拠点にしたツアーに参加することにした。
旅は定年後の単調極まりない毎日に変化を与えてくれるだろうし、気分転換には最適だし、少なくとも鬱病を避けることが出来るためにも、多いに効果があろうというものである。
前回の旅では健康体であった妻が、二年半前に心筋梗塞という大病に罹って今でこそ回復はしているものの、決して安心出来ない状態なのであるが、本人が希望するので決行することにした。この時期にしたのはほかでもない。年間を通じて最も値段が安かったという簡単な理由。
出発はコンゴニアス空港、一五時三〇分発で、休日なので娘夫婦が送ってくれた。TAMで約三時間の旅で、乗り継ぎもない直行便だった。空港に着いて、家のサーラの机にカメラを置いたまま忘れてきたのに気付いて、慌ててロビーの店に走って安い価格のものを買い求める。
少し前からサン・パウロでは天候が一変して肌寒い日が続いており、私はセーターを羽織っていたのだが、機中でレシフェの気温は三十二度とアナウンスされると、乗客から驚きの声が上がった。まずは快適な旅だった。
レシフェ・モンテ・ホテルには一九時前に着く。かなり大きなホテルである。町の様子は全く分からないので、近くのカーザ・ダ・イタリアというレストランで夕食。カマロンのロヂジオで豪華ではあるが、私にはテンペーロがどぎつくて口に合わない。生演奏もついていて、「オー・ソレ・ミオ」、「時計」、「帰れソレントへ」、「マイゥエイ」、「アズ・タイム・ゴーズ」などを流していたが、余り上手ではない。
ホテルへの帰途、大通りの広いカルサードに貧困層の一家が毛布を掛けて横になっている姿を目にした。この町でも貧富の格差は大きなものがあるようだ。
第二日(五月一日)
朝の間は、レシフェ市のボア・ビスタ海岸を歩く。海岸通りは仲々清潔であり、公衆便所の設備も整っている。プライアは砂浜が狭く、海水浴には適していないようだ。有名なオリンダ海岸は、一ニキロほど北になる。少し町をぶらつく。コンプレ・ベン、ボン・プレッソなどのスーパーがある。
一二時四〇分ホテル発、空港に向かう。フェルナンド・デ・ノローニャ島への飛行機は二時に出る。約四〇人乗りの双発機で、一時間半の旅。島の時刻は一時間早めさせられる。早速、潜りのレクチャーが施された。ここはメルグーリョの本場で、若い連中の大半はこれが目的でやって来るらしい。
島にはホテルの施設は一切なくて、観光客は皆ポウザーダ(民宿)に世話になることになっている。我々の宿はマール・アベルトで相客は三組。近所にも同じような宿がずっと名前がついている。近くにはレストランもあり、便利。食費がやや高目なのは離れ島なのだから仕方ないだろう。
レシフェのガイド氏の話だと、飲料水は高いので担いで行くことを勧める、とのことなので、重い思いをして四本持って行ったのだったが、少ししか価格は変わらない。ガソリン・ポストは一軒きりで、リットル当たり三・三四レアルと高い。日没は意外と早く、五時半(当地時刻)には暗くなる。
旅での待ち時間を過ごすのに、いつも本を持って歩くことにしているのだが、今回は「坂の上の雲」(司馬遼太郎)を読み返して楽しんでいる。明治維新が成って、近代日本の輪郭が出来上がるや、露の南下戦略の脅威にさらされた日露戦争前夜の模様が、さまざまの軍人のエピソードによって語られていて飽かせないのである。
それにしても、明治時代の日本陸軍、海軍の将校クラスの人物、山本権兵衛、東郷平八郎、児玉源太郎等は兵隊が戦死することを何よりも怖れて作戦を練った。それが二〇~三〇年後の太平洋戦争を遂行した昭和の軍部指導者の考えはどうであろう。いたづらに神がかり的な作戦を兵士達に強いて、死に至らしめた悪夢のような仕業はどうした変りようなのだろう。そんなことに思いを馳せながら、この本を読みついでいる。(つづく)
いつの間にやら
サンパウロ中央老壮会 畑野ふき(八十歳)
今、人生八十の坂にたどり来て、よくぞ此の齢になるまで生きてこられたものよ、と感無量に浸っております。何故ならば、十人兄妹の中、私だけが只一人生き残って居るからです。只々、何時の間にやらとの感が深いのです。
私は十才で渡伯して、二十才で結婚をしてより三十才までに五人の子供に恵まれ、それからと云うもの、子育てと家業に追われ、四十代、五十代は無我夢中で働き通しの生活でした。
私が云うまでもなく、誰でもそうでしょうけれども、子供移民で来た者は日本語は勿論、ポルトゲースの学校も通わないで中途半端な存在で大きくなり、結婚をして現在に至って居ります。
子育てから解放され、経済的にも楽になった今のお年寄りは、我が世の青春とばかり、ダンス、カラオケ、ゲートボール又は旅行にと楽しんで居られます。本当に良き時代になったものです。
私もようやく、五十代の後半になり、少しずつ楽になって来ましたーと思いましたら今度は老化現象が進み出し、体調の方が思わしくなく、六十代、七十代はシビレ感に悩まされ、ハリ、マッサージにとせっせと通いました。
四年前には心筋梗塞を患い、一週間入院。又、此の世に生き返りました。昨年は一年中、目の治療に検査検査と明け暮れ、そして両目とも緑内障、白内障と続けざまに手術をしましたが、お蔭様でどうにか見えていますが、`かすんでいる状態で困ります。
今までの人生を振り返ってみて、これまでに私にかかわってきた人達は、みんなみんな良い人ばかりで心から感謝しております。只、泥棒だけは苦手なので、かすむ目をこすりこすりギョロつかせて周りには充分気をつけながら歩いております。
八十年間は長い様でもあり、又あっという間に過ぎた様にも感じます。此の分だと、「あらららら、いつの間に三途の川を渡って来たのでしょう」とあの世で思う事でしょうよ。
私のペット物語④「ポルコ・デ・インジャ」
スザノ福栄会 杉本鶴代
「色ねずみキロと名付けて可愛がる孫見ておれば捨てられもせず」
犬を欲しがる八歳の孫由美に「アパートだから動物は駄目」と何ども叱つていたけれど、それでも生き物が飼いたくて、ねだつていた由美が幼稚園から小さいねずみのよ
うな動物を貰つて来た。
「ばーちゃんねずみではないよ、ポルコ、デ、インジアと言うの」
と由美は言い、大切に大切に可愛がつた。
キロは兎の種類らしいが耳は短くしつぼは無かつた。顔は兎のように少し長く可愛らしい目をしていた。キロはおとなしく孫のよいペットとなり、されるままになつていた。
由美は何時の間にか自分の子供と見立てて服を着せパンツをはかせ帽子を被せ勉強する時もそばにおき、話しかけていた。
時々シュベーロにいれセツカドールで乾かしてやる。田舎に行く時はかならず連れて行く。大分大きくなつたのでガイオーラも大きいものに替えてやつた。田舎に行つたらチチオが「おーゴールドになつた、アッサードにしよう」とからかつた。由美は本気にして抱いて逃げた。
娘も「飼つていると可愛くなるものね」と閑があると側に連れて行き撫でていた。
キロの食べ物は粒餌のほかにシコーリア、人参、カタローナ、を好んだ。時々人を見るとないて青菜を催促した。
キロは由美が十一歳までいた。なぜか食欲が無くなり獣医に見せても解らないと言う。一週間ぐらいして娘の手の上で死んだ。
娘と孫は声を上げて泣いた。その悲しみは中々忘れられずにいる。
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