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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2005年10月号

2005年10月号 (2005/10/12) 北方領土(後)

サンパウロ中央老壮会 谷口範之
 故戦友は「一言」の後記に、次のように記している。
 我が国の北方領土が、「火事場泥棒的」に占領されたいきさつがよくわかったと思う。それにしても十七年前に発表されたものが、その間マスコミに取り上げられなかったことが、残念でならない。
固有の領土を不法占拠したのだから、無条件で返すのは常識である。それなのに返す前から、多大の援助をせよとは何事か。これも我が国力のなさでなめられている証拠。
 それでも橋本前首相はエリツィンに愛きょうを振りまく。見ちゃいられないどころか憤りたくなる。
 これで北方領土問題が生じた原因がお分かりいただけると思う。右のあとがきにあるようにマスコミに取り上げられなかったことは、残念の一言に尽きる。長年にわたる四島返還交渉は、日本政府がいいようにあしらわれて、一向に埒があきそうにない。
 ある元衆議院議員は、国費をもって四島のうちの一島に××会館を建て、さらに戦後移住してきたロシア国民に、何らかの援助を与えたと聞いている。お人よしも程々にしてもらいたかった。 一九九一年に瓦解したソビエトも新生ロシアも四島返還に応じる気配は見られない。その民族的思考も、お家芸ともいえる責任転嫁行為も変わらないだろう。
 シベリアに抑留された我々は「諸君はシベリア鉄道経由で、ウラジオストックから日本に帰還する。満州内の鉄橋は終戦時日本軍が破壊したためである」と欺まされ、喜々として牛馬のように貨車に積み込まれて集団拉致された。 
 六十万人が抑留され、六万人が死んだことになっているが、この数字はソビエトが発表したもので日本政府や研究者たちが、その根拠を確認しないで追認したために、世界中に定着したという。もっての外である。  瀧沢一郎(江戸川大学教授)は「諸君」平成十二年八月号に左記の表題でシベリア抑留問題について発表された。
通説 抑留者六十万人
 虐殺六万人を覆す
 シベリア抑留百万人
 虐殺四十万人の衝撃
これによるとソビエト時代の重要秘密文書を渉猟したワレチン・アキーモビチ・アルハンゲリスキー氏は当時のマリク外務次官がモロトフ第一副首相・外相にあてた文書で「日本人抑留者数を初回三十万人から三十五万人。二回目は百五万人。三回目は一九四七年三月二十七日付では七十二万人」と報告している。いくら数字に弱いソビエト人にしてもこれは出鱈目すぎる。
 マッカーサー公文書館の記録では、一九四六年夏にソ連にいた日本人捕虜は百十一万一千六百五十人とある。
 私が所属した歩兵第二五四連隊の生き残り千四百四十名は、チタ州スシャンド山脈(海抜二五〇〇メートルから三〇〇〇メートル)、北緯五十度に三カ所に分けて収容された。一九四五年末までに死んだ兵は三九・九%―五七五名を数えた。
 瀧沢一郎教授が、秘密文書によって裏打ちされた抑留百万人、虐殺四十万人という数字は、私自身の体験からおして素直にうなずくことができる。
 モスクワを訪れた一人のシベリア抑留者が産経新聞記者に語った言葉がある。
 「日本政府は既に解決済みのごとく日露交渉の議題にするのをいやがるどころか、抑留問題担当の役人の中には『ロシアを無用に刺激すれば領土問題解決への障害となる』とほざく者までいる」
 シベリアで四十万人も死んでいるのである。無定見もはなはだしい。なぜ言うべきことを言わないのか。ソビエトも新生ロシアも、シベリア抑留については言及しない。九三年になって僅かにエリツィンが、口頭で謝罪したにすぎない。
 西ドイツがソ連と国交を回復した時、モスクワに乗り込んだアデナウアー首相が、ソ連のブルガーニンとやり合った様子を見習ってもらいたいものだ。(半藤一利著、「ソ連が満州に侵攻した夏―三一六頁、三一七頁)。
 六月二十四日付サンパウロ新聞記事を要約すると、
 「露世論調査によると、北方四島返還に過半数が支持するという結果が公表された。民間調査機関の国際社会学研究センターの世論調査で、北方領土問題の解決策として、五一%が四島返還を支持し、返還反対は二四%であった」
 と、異例な結果が出ている。しかし、もともと四島返還は圧倒的に反対論が多く、プーチン体制下では、民族愛国主義を掲げ、メディア操作を行っているから、日本の希望通り返還というわけにはいかないだろう。
 さらに昨年十一月の世論調査基金による調査では「二島返還にも六六%が反対」と出ている。
 今年末、日露両首脳の会談が予定され、四島返還問題も議題に含まれているという。結果を見守ることにしよう。 (終)


義兄軽部長治郎と三笠宮様の話

サンパウロ玉芙蓉会 軽部孝子
 軽部長次郎(吉晃)は大東亜戦争中は南京の畑俊六元帥の部隊におり、三笠宮様がおられました。
 部隊が大勢出征した時は、軽部は官邸勤務の日で、隊員が二人ずつ二日間交代で勤務していた。
 大勢の出征兵士が全員死亡と悲報が入った。戦後三年南京で残務整理をして昭和二十三年故郷茨城県に帰国した。戦後日本も大変な時代であった。義兄は「私は畑俊六元帥と三笠宮殿下に命を助けられました。このご恩は一生忘れません」と言って茨城で百姓をして自分でもちをつき盆、正月にはご挨拶にお伺いしていた。
 畑俊六元帥は亡くなられた。日本は景気が良くなっており一九六一年には日本でオリンピックが開催された。「ブラジルに行ってまいります」と三笠宮宅にご挨拶にうかがいましたら宮様は、私はブラジル移住五十年祭に皇室の一員として招かれました。ブラジルはとても良いところです「軽部吉晃様も気を付けて行って来て下さい」と励ましの言葉を下さり箱入りのネクタイを頂き有り難がっていた。一九六六年茨城県より移民船最後のブラジル丸で渡航し、サントス港に上陸した。そしてフェイラ・デ・バスコンセイルス(イタリアブドウ発祥の地)に土地を買って、養鶏をしてフェイラに出していた。「わしは何にもいらねぇ、軍人恩給もいらねぇ、年金もいらねぇ、戦友も全員死んでかわいそうだ」といつも言っていた。英霊は靖国神社に祭られていることでしょう。今年は移住九十七年目である。
 三笠宮祟仁親王殿下様、ご健康でお過ごし下さいませ。百合子妃殿下様お元気でお過ごし下さいませ。ブラジルよりお祈り申し上げております。


穴惑

サンパウロ中央老壮会 栢野計治
 先輩俳人の忌日に、その遺族の方々と墓参した。
 A移住地の墓地は、他の墓地のように空けっぴろげで日当たりや風当たりのよい所にはなく青葉の匂いのこもった涼しい風のくる杜の中の高台にある。
 筏かずらの花の明るい蔭をなす下の古いお墓に詣で終えた娘さん(と言っても年配既婚者である)は、墓地脇の原生林に近い所にある納骨塚(墓地を購入しないものは一定期間ののちに集めて合祀する)にもお参りするため、歩いて行ったと思ったら、突然甲高い声を揚げた。
 何事かと、声のした方に駆けつけてみると、太い腕ほどの毒蛇を、そのときは晩秋であったから穴惑であるが、奥さんは息をはずませながら棒切れで、それを打ち据えているところであった。
 穴惑を打って血痕の付いた棒切れを見ると、それは古いお墓の朽ち崩れた十字架の切れ端であった!
 「お前、墓地に居るものは毒蛇と言えども神の子だ。何も殺すことはあるまい…」
 夫君はクリスチャンらしい静かな口振りで奥さんをたしなめたが、義父の忌日であることも、棒切れが十字架の切れ端であることも口にしなかった。
 「いいえ、こんな毒蛇に村の人が何人咬まれて亡くなったことか。何頭の牛馬が斃れたり、片端になったりしたか知れない。たとえ墓地にいても毒蛇は見つけ次第に殺さなくては!.」
 この奥さんは主人が産組の仕事でいつも家を空けている養鶏場を守り、また馬を駆って牛を集めて牧場の仕事も手抜かりなくやるという、男勝りの偉丈夫で少しも感傷的な甘いところがない。
 十字架で打たれて頭を潰された太い穴惑は墓地の裸地を血痕で染めて、横たわっている。近づいてよく見ると尾のところに何と、毒蛇の脂ぎった血を吸って肥え太った牛ダニが二つ付いていて、原生林の木洩れ日にきらりきらり輝いている。
 奥地の手入れの届かぬ牛馬にはよくダニがまびれ付いていたりする。また野良犬の耳の穴が詰まるほども付いているダニはよく見るが、蛇に吸い付いて肥え太ったのを見るのはこれが始めてである。


ペルナンブコへの旅 ③

名画なつメロ倶楽部 水村春彦
 第四日(五月三日)
 観光客四十名ほどのグループにガイドが五名ついて、数台のブーギに分乗してのプライア巡り。バイア・ドス・ポルコスは五〇メートルほどの高さの岩壁に囲まれ、海には小島が二つ並んでいる穏やかな海水浴場である。途中は急峻な山道なのだが、石とセメントで段がつけられているので何とか歩けるのだが、やはり病あがりの者や老人には不向き。妻は「もう二度とこんな島などには来るものか」と憤慨している。
 続いて行ったところは、昨日船で休んだサンチョス海岸の上になっており、この崖を降りるのだ。まず、大岩の狭い隙間に垂直に架けられた鉄製の梯子を二〇メートル降りて、次いで斜めになった十メートルの鉄パイプの梯子、そして急な坂道となる。鉄のワイヤー線の手すりはついているが、かなりの冒険ツアーであり、妻は参加せず休憩所で待つことにした。景色がいいので写真撮りに歩くのだが、ガイド氏は「ブーラ・レイテイラ」という植物には絶対に手を触れるな、と注意。ウルシみたいなもので樹液が猛毒だという。
 昼食後はムゼウ・ツバロンスなどを周る。丘の上に風車が設置してあるので調べてみると、風力発電は全体の五%のみで、残りは全てディーゼル発電だそうだ。
 ボルドロ海岸に次いでサン・ペドロ砦跡まで歩く。この後のスエステ海岸というのが波のおだやかな静かな内海で、潜りには最適地だろう。ここも海水が透明で、小魚の遊泳するのが見える。サントス界隈の海とは大違いである。海藻が身体にまつわりついてくる。
 一時間ほど休む。最後のレオン海岸には五時に着く。丘から波打際まで歩き、艀化した海亀を海に放流する儀式を見学。どこから集まったのか、百五十人ほどの観光客が集まってくる。赤ん坊の掌くらいの子亀が、跳ねるような格好で海へ駆ける姿が可憐である。しかし、そのまま生育するのは僅かな数らしく、あとはほかの魚たちの餌になるのだろう。
 夜はまた少し「坂の上の雲」を読み続ける。 (つづく)


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