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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2005年12月号

2005年12月号 (2005/12/07) 健康は笑いから ~文協活性化に老人パワーを~

名画なつメロ倶楽部 峰村静和
 最近の科学の進歩は年々素晴らしいものがある。今までは神の領域とされていた宇宙創造の謎や、人間生命誕生の謎解きの解明が現実に成功しつつある。つい先頃、ニュースを見ていたら、日本の宇宙科学研究所が二年前に打ち上げたマイクロ波を用いたイオン・ロケット(電気推進)が地球に一番近い1998SF36という極超新星に到着したと報じた。近いと言っても日本がなんと二年前に、たった五百㎏のサンプル採集用の小型科学探査機をぶち上げた。それが今漸く、大きさ僅か数百メートルの小さな木星の惑星に、着地成功したと言うニュースだった。これから二年後には其処の岩石破片を採取し持ち帰り、宇宙創造の謎を解明しようという壮大な研究である。現代バイオテクノロジー技術では、現実にやろうと思えばクローン技術で、老いた女房を若返らせる事も可能な時代だ。時々、私も老妻とこんな事を話題にしながら、果たして、これが人類の幸せに繋がるのかなぁと深刻な顔して考えることがある。率直に言って私はノンである。だが、家のかみさんは「いい事じゃないの」とのお返事だった。不如帰(ほととぎす)の浪子のように旦那が好きで好きで、千年も万年も生きたいと言う訳でもなさそうで、日頃の行動を見ればお分かりだ。女は実に不可解な動物である。少し前に「繁殖能力を失った者は最早女性ではない」とか何とか言って、裁判沙汰にされた、さる有名な東京都のお方が居ったが、私も全く同感である。
 そう言ったら「あんたのような男に、女心が解ってたまるものですか」との御託義だった。私は女房再生は結構だが、古女房の処置に悩んでいるのである。姥捨山はここにはありませんからねぇ。女は益々不可解な生き物で、それ以来、すっかり笑いを忘れてしまい、ノイローゼ気味の毎日を過ごしている。
 数日後、早朝のテレビで、話して居るのは、NHKでも美人で有名な国谷裕子キャスターが「笑いで病気を治せる」という一寸変わった課題で頑張っている。結論的に言うと、笑いが健康に効果がある、といっているではないか。以下は、それを基にしたクローズ・アップ現代です。インテリ美人の早口だったので、聞き間違えの程は御容赦下さい。
 内容は最近の遺伝子工学の研究で脳の司令塔を携わると言われる六十四ある遺伝子の各々の役目・機能が一つ一つ解明され始めた。どうも昔から日本では「笑うかどには福来る」と言われ、笑いと健康は何か関係が有るのでは?という疑問に着眼した、関西大学医学部のさる教授の統計結果からも、それが実証されつつあるというデーター紹介から始まった。
 大阪府では既に、この研究結果に着目し、補助金交付を決定した。遺伝子工学の世界的権威である筑波大学の村上和雄教授の笑いと、遺伝子、健康と間の相互メカニズムの研究結果は以下の通りである。
 人間の脳には司令塔を司る器官があり、これを素早くキャッチするHBB遺伝子、RPL遺伝子が笑いが起こるとスイラチオンやオンニオルなどの作用で、ホルモン、酵素など人体の活動に必要な栄養素や健康に直接作用する重要な物質を分泌する命令を下す。この機能がどうやら人体の健康を維持する効能に繋がっているのではなかろうかと、この大先生は推測しており、更なる研究を継続されている。笑うと何処にどう変化が現れるか、統計の結果、生活習慣病、睡眠、血圧、血糖値などに関係していることが、ほぼ、彼の研究室や老人ホームの担当医の統計結果で紹介された。特に老人ホームで顎の外れない程度に、大笑いすると二時間後の血糖値に変化が現れる事が実証された。これを糖尿病の治療に応用出来ないかと努力中のようだ。
 栃木県那須市の特別養護老人ホームでは既に、ホーム内に「お笑い学校」を開設して、その為の担当者を養成し、施設のお年寄を如何に大笑いさせるかに、四苦八苦の毎日で、その効果如何にと注目している。日本では最近は、寄席や落語、お笑い劇場が大繁盛との事だ。
 村上龍夫関西大學医学部教授も大笑は互いの信頼関係を育み、複雑なしがらみや、こだわりをぶっ壊す効果がある。一人住まいの老人で憂鯵症気味な方、色々な悩みの持ち主、ノイローゼ・ストレス症候群、淋しがり屋な性格の方に特に効果が有ると言っている。無闇に笑ったからと言って軽蔑しない事、些細な事に腹を立てない事が大事で、日常生活にて笑いを取り入れ、認め合う大切さを強調している。まだ、未知の部分が沢山あり、六十四ある遺伝子のメカニズム解明で、段々に笑いの効果が科学的に解き明かされつつあると言っている。
 そんな訳で、ブラジルの老ク連などもそろそろ「お笑い教室」でも開設する事を提案しようかと思っている。この辺りはUNICEP、FMU、UNINOVE、IPEPなど六大學の新校舎と三予備校がひしめき、学生街にと様変わりしつつある。日語普及センターでは日伯大學建設構想をお持ちのようだが、計画は大いに結構だが万全の計画で望んで欲しいものだ。
 ブラジルでも統計予想では日本と同様、少子高齢化が急激に進む事が予想されている。殊に日系社会では老ク連に顔を出す人はまだ良い方で、孤老一人住まいが増え、老人養護問題の対応策が急務になって来ている。また、若者は親の面倒を見ない事が当たり前の風潮で、政府施設がやる事だと思う傾向になっている。
 下手な日伯大學建設よりは大いに笑わせ大いに長生きした老人に、如何に生きる喜びを与え、生きるからには何の為に、どう生きるかの人生の目的を教える事が大事ではなかろうか。少子高齢化が進むこれからの社会では老人パワーをどう活かすかが、大事な課題ではなかろうか。その為の生涯学習としての"お笑い大學建設構想"をぶち上げてみてはどうでしょうか。
 狙いは停滞する文協活動に頑張っておられる、二世・三世の役員方に老人パワーで如何に貢献し、協力するかが狙いです。此処では争い事は笑いで吹き飛ばすのが唯一の内規です。
 "By the old people, Of the old people, For the old people"をモットーにした総合的生涯学習を盛り込んだ、老ク連の将来構想の構築でもあります。大いに笑い、大いに長生きし、文協の活性化に協力しましょう。


鳩と私

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
 先日、一人で三日間、プライアに行ってきた。
 夕方に着いたが、夜中から雨が降りだして朝になっても降っている。十時頃止んだので、新しい雨傘を買いに出た。五百メートルほど行ったら又、雨が降りだした。急いで店に入り傘を買い、雨宿りをさせてもらった。
 歌の文句に「君と僕とは濡れながら二人並んで歩いたね」というのがあったが、私は傘を小脇に小雨に濡れながら、一人トボトボ、アパートに帰った。
 二日目は、朝早く浜辺を散歩する。鳩の足跡が無数についている。この浜だけでどの位の鳩が居るのだろう。
 黒と灰色の二羽の鳩がドーナツの奪い合いをしている。私はドーナツを半分に割って両方に投げてやる。しばらく熱心に突付いていたが、飽きたのか、黒鳩のドーナツがもっと美味に見えたのか、灰色鳩が横取りに行って喧嘩が始まった。私は又、仲裁に入って二羽を引き離す。黒は熱心に自分のを突付いているが、灰色はすぐに飽いてウロウロと歩き廻た。そのうちに他の鳩に取られてしまった。
 私は鳩を見ながら人間社会に想いを馳せる。人間にも黒鳩と灰色鳩がいて、片方はコツコツと仕事をする。他方は楽をして儲けようとする。私は灰色鳩の方かな、と苦笑いをする。
 雨が降りだしたので、パダリア(パン屋)に入ってポンを買い、小降りになるのを待った。しかし、なかなか止まない。「エエイッ、旅の恥は掻き捨て」とばかり、頭にプラスチコ(ビニール)の袋をかぶり、熱々のポンを千切っては食べながら歩き出したら、軒下に雨宿りをしていた乞食さんが私を見て、感にたえたように頭を振った。
 三日目は霧雨の中、傘をさして出たが百メートルも行かないのに雨が止んで、薄日がさしてきた。「マア、なんて間抜けな私。まるで灰色鳩みたいだわ」と思いながら傘を振り振り歩いた。


酒呑みの弁

サンパウロ中央老壮会 栢野 桂山
 山口瞳の「酒呑みの自己弁護」という本は面白い。
ー―樽酒でもウイスキーでも栓を抜いたばかりの最初の一杯がうまい。もうこれでおしまいだという一杯がうまい。出合った時とお別れの時がうまいー―。
ー―私が初めて酒を飲んだのは、小学生の時で、担任の教師が自分の下宿先で勉強をさせながら酒を飲んで居て、生徒が眠くなると一杯の酒を飲ませた。私はうまいと思わなかったが、私を大人として、男として扱ってくれたのが気持ち良かったー―。とある。
 僕が酒の味を識ったのは何歳であったか。二十二、三歳の頃は戦時中で、米英何ものぞという軍国青年で、弓場村の新婚ホヤホヤの浜村さんから育雛を習い、産青連の鶏を飼っていた頃で、酒の味など知らなかった。
 村の同県人・川上さんが器用で、セードロ板で手製の桶を作り、それに日本酒を醸していた。珈琲採集の手伝いに行き、その『どぶろく』をよばれた。
――私は空腹にウィスキーを飲んだ。何かロにも腹にもゴツンと突き当たる感じで、たちまち天井に引き上げられたような快美感があった――。
 という山口瞳の表現がぴたりの味がしたのを覚えている。本格的な飲み手になったのはラヴイニアに移ってからで、共に住んでいた義弟が酒党で、ピンガ、ビールの味を知った。
 台所の洗い場の下に穴を掘って、それに酒瓶を入れて置くと、多少は冷えるので、その頃、わが家ではそれを冷蔵庫と呼んでいた。電気のない時代である。
――ある飲み屋で、よく同座する人に、よくお飲みになりますね、と言った。「ショッチュウ(一焼酎)です」いまに表彰されますね、と言った。「ノーメル賞です」その人はそれ以上のことは言わない。私は彼を尊敬した――。
――「鍋奉行」と言う言葉がある。Aがその鍋奉行で、戦後まだ食糧の乏しい時代であった。私がこれは私の肉だと考え、目をつけていた奴に箸をのばそうとすると「ああそれはまだ早い」と言う。
もういいかと思って再び箸をのばすと「煮詰まったな、ダシを入れよう」と言う。次に頃合いだと思っていると砂糖をふりかけてしまう。ついに私は肉片を口に入れることなくスキヤキが終った。
こちらは只酒を飲むだけで、本当に奉行と容疑者の関係だった――。
 鍋を取り締まるので「鍋奉行」、日本語というのは誠に味わいのあるものだ。
 僕の友人に藤野さんという余り口をきかぬ物静かな人がいた。この人がことスキヤキになると、人が変わったように、小まめに手を動かして肉を入れ、味を付け、分厚い掌で器用に卵の片手割りなどの芸当を見せて、「アッ、この辺が煮えた。煮え過ぎない内に早く食えよ…」と、上手に鍋を取り仕切った。この人は食べさせる方の奉行で、日本の食糧不足の時代と、ブラジルの物の豊富な国との差がそうさせたのであろう。
 昔、アラサツーバ市に『タケヤ』という飲み屋があった。パラグアイ辺りに入植した戦後移民のイキのよい美人女給を四、五人使い、繁盛した。町の草分けのT老人を連れ、三、四人で飲みに行った。先ず籠に入れたおしぼりが出た。老人は何を勘違いしたのか、バナナほどの小さなオシボリを歯の抜けた口に入れて食べ始めた。我々は笑う訳にもゆかず、イキの良い美人の女給さんの手前、恥ずかしい思いをした。
 僕が昔、盲腸手術をした時、二週間程酒を断った。そして見舞いに来てくれた酒友と、病後初めてのビールを飲んだ。その一杯に滅法に酔った。それこそ「天井に引き上げられたような」快美感に、気が遠くなるようだった。
 間部学画伯は、絵が雄潭な如く風貌魁偉で酒の方もタフだ。はしご酒が好きで、飲み始めると二軒三軒と飲み歩く。画伯の奥さんは女房の幼友達で、俳句も作り、門前の小僧で絵も上手である。僕らが画伯夫婦の仲を取り持った関係で、サンパウロに行った時に会うとよく飲み屋に誘われた。
 二軒三軒とはしご酒をして興が乗ると、黒田節を唄い、女給のバッグから口紅眉墨を取り出し、ハンカチに赤黒二色のアブストラクトの絵を一気呵成に描いて与える。しかも「マベ」の署名入りである。
 その頃彼は数々の賞を立て続けに取り、アメリカからロックフェラーがわざわざ絵を買いに来たという世界のマベであったから、女給にもてる事、もてる事。金も出さず芸もなく酒だけやたらに強いばかりの僕が、少しももてないのは当然であった。


粗大ゴミ

カンピーナス明治会 樋口四郎
 貴方はどちら・・・。母国日本では数年前から「粗大ゴミ」談義が巷で話題となった事がある。勿論、物品の事だけではない。つまり、人間様の役立たず。とりわけ、この場合、高齢になった亭主を指しているようだ。
 日本の報道機関によると、調査ではこれからの人生で頼りに出来る人の順番を尋ねたら、高齢になるにしたがって、一番は男女共に我が子なんだそうな。これ正に然りである。
 さて、これから先が問題なのだ。では二番目は誰だ。男性はやはり当然の事ながら、我が妻ときた。しかし、妻(女性)は違う、百%ではないが、御主人様を二番目にしている人は少ないのである。御主人様はせいぜい四、五番目。お友達より後だそうな。
 ちなみに、我が妻に尋ねてみたら、やはり一番目は我が子だ。すかさず二番目を聞いたら、なかなか笑顔しか出てこない。再度尋ねてみたら、「今さら分かりきった事云うな」ときた。なるほど、二番は俺だよねと云った。ところが、違うのである。「私は世間様と同じヨ」ときた。ならば、俺も五番目なんだと思った。
 しかし、よく考えてみると、自分では出来る限り粗大ゴミにされないように心掛けたつもりだが、つい亭主関白が前に出る。曲がった松の木は一生、真っ直ぐにはならないのヨ・・・ときた。
 正にその通り。やはり我が妻も苦労してたんだと気が付いたが、後の祭りであった。
 皆さんはこの様な方々ではないと思うが、私は若い頃から妻に諭されても事業が少し順調にいくと一人見栄を張り、あっけらかんのからっけつ、どこ吹く風であった。妻の苦言など聞く耳がなかった。それでも歌の文句ではないが、「黙って後からついてきた」。我にとって世界一上出来の女房殿である。
 さて、今日この頃思うには、高齢化の御当地でも考える事はある。移民の私達ももはや世の中のお役に立つ機会は少なくなってきた。さて、どうするか、「粗大ゴミ」になりますか。さあ、大変だ。近頃、妻と私の立場が「さかさま」になった。
 年を取り、気性も気長になった。弱気にもなった。孫の御機嫌を伺うのが上手になったという。しかし、孫には日本語を勉強しなさい、話しなさいと注文をつける。ところが、孫の親が「おじいちゃんがブラジル語を勉強した方が良いのでは」と返事・・・。
 家族から大事にされる近頃、家内も小言を云わなくなった。いや、諦めがついたのであろう。ここ一年程前から毎朝、二、三時間、ジョギングをする。大変ではあるが、家内に云わすと「あなたのジョギングは格好だけ、そこいらをブラブラ時間つぶしではないか」と笑う。其の後、家で掃除、洗濯、買い物、炊事、風呂洗い、草むしり等々、何でも妻の喜ぶ事を出きる限りだがする。
 そのせいか最近、体重も安定、血圧良好、一石二鳥どころか四石五鳥にもなる健康的な日々である。
 どちらにしても目出度し、目出度しである。これで当分は「粗大ゴミ」にならずにすむ。又、お正月が来る。皆さん、お元気で年は取っても、まだまだ必要な人間でありたいものですね。


ペルナンブコへの旅(終)

名画なつメロ倶楽部 水村春彦
第六日(五月五日)
 ボルト・デ・ガリンニャという地名の謂れについて、元はボルト・リコと称していたらしい。一八五〇年になってポルトガル本国からの船は、王侯貴族が好んで食したアンゴラ種の鶏の積荷でカムフラージユして、アフリカ黒人の奴隷を地下船室に乗せて密入国させていた。そして、船が入港すると船員や地元民たちは「新しい鶏が港に着いたぞ」とひそかに噂したものが、ボルト・デ・ガリンニャの地名として固定したものだという。
 ホテルは海に近いせいか、潮騒の音が子守唄のように耳に聞こえてくる。三人でブーギを契約して近くを廻ることとする。まず、昨夕に見たジャンガーダに乗ってピッシーナ・ナツラルに立ち寄る。距離は短い。マセイオで乗ったジャンガーダはカヌーア式のものだったが、ここのは船の上部に蓋がしてあるみたいな形である。
 黒い岩の塊に囲まれた浅瀬の一画が自然で出来たプールみたいになっていて、ここにお大人の掌大の縦縞の魚(タベレー)が群れ集まっており、人を見ても逃げることなく、餌を与えると手に噛りついてくるほど。海水はぬるい温度で気持よし。 東の空が黒くなってきて、しばらくするとスコールがやってきた。旅で始めて出会った雨である。ムーロ・アルトは細長いレシフェ(岩礁)に囲まれたこれも自然のピシーナ。波もなく、泳げない人でも安心して浸かっておれる。思わずカイピリンニャを注文してしまう。
 このあと、マラカイペ海岸のマンゲザルを小船で廻る。船頭がタツノオトシゴ(カバーロ・マリンニョ)のつがいを捕まえてる。説明するところによると、この小さな生き物は何と、雄が出産する唯一のものだという。
 カランゲージョもマンゲには棲息するらしく、これは勿論食して美味だそうだ。
船を出すと黒と白の二匹の犬が泳ぎながらついてくる。船頭マリオ氏の愛犬で、いつもお伴してくるのだそうだ。
 昼食後はノッサ・セニョーラ・ド・オーの教会を見学して三時にはホテルへ帰る。あとはホテルのプールサイドで休息するのみ。夜はちょっと蚊の襲来に悩まされる。クーラーをかけると、いなくなってしまうのだ。

第七日(五月六日)
 貸切りバスは八時半にホテルへ来た。国道を北へ向かって一時間ほど走る。スワッペ海岸に着いて、ブーギ十台ほどに分乗する。カリエッタス湾はおだやかな内海で、小型漁船も七、八艘が停泊しており、地元の釣り人たちが糸を垂れている。しかし、足元の砂が柔らかくのめり込んでいくので、泳げない者には危険だろう。湾の向こう側の突き出た半島みたいのが、カーポ・デ・アゴスチンニョというらしい。
 次に向かったエンセアード・ド・コラールはやはり、岩礁に囲まれた自然ピシーナ。岩に上ると足の裏を切る心配もあるが、無数のい海胆(オウリッソ)が水底にくっついており、見事なほどである。そのまま少し走ってペドラ・デ・シヤレウに立
ち寄ったあと、バーニョ・デ・アルジーラなる泥まみれになって転がり遊ぶ場所で休む。ブーギの運転手が走る砂浜は、潮が満ちてくると車が通れなくなるため、余りゆっくりは出来ないのである。ガイブという町を抜けて昼食をとったのは、べドラ・アルタの海浜のレストランで海老料理。対面にはマンゲザルが広がっており、船着場からカッタマラン(渡しに似た船)で回遊する。
 結構大きな港はスワッペ港で、その横は長い長い岩礁になっている。この岩礁は北はフォルタレーザ(セアラ)から南はマセイオ(アラゴアス)まで続いている(途中で中断されはいるが)。
 左手に白亜の豪壮なホテルらしきものが聲え立っているが、ブルーツリー(青木グループ)という最近建てられたリゾート地だという。ここには三百人からの従業員が働いているとのこと。イーリャ・フランセーズの浜で小休止して水を浴びる。夕方五時前にはホテルに帰着。夕食はまた、寿司にする。

最終日(五月七日)
 一週間の旅で疲れるようでは、私も老人と呼ばれる層に仲間入りしたのかも知れない。正午にはホテルの清算をというので、そのまま休養することにする。
 波打際を一時間歩いて、あとはプールサイドに腰を降ろして何も考えないでじっとしているのみだが、それでも時は過ぎていく。所在ないままに地図を開いてみると、ペルナンブコ州のレシフェからアラゴアス州にかけて、無数の海岸が目白押しに並んでいる。それぞれに由緒あるプライアなのだろう。
 この地域には北から南へかけて、セアラ、リオ・グランデ・ド・ノルテ、パライバ、ペルナンブコ、アラゴアス、セルジッペと小さな州がくっついたようにして続いているのだ。なにしろ、この六州を合わせてもバイア州よりも小さいのである。
 レシフェ空港は七時出発、コンゴニアス空港へは十時半に着く。殆どの旅人が決まって言う陳腐なセリフではあるが、「ああ、やはり自分の家が一番いい」という感想に落着くのである。そして、また暫く逼塞していると、またぞろどこかへ出かけたいという旅心が湧いてくるのも、いつもの通りなのであります。


戦後六十年に思う

サンパウロ玉芙蓉会 軽部孝子
 大東亜戦争中は、国立第十相模原病院には多くの傷病兵がガダルカナル島、アッツ島、ミンダナオ諸島、サイパン島などの戦地より送り返されてきた。
 帰還する船があり、できた人はまだよかった。日本国中空襲で爆弾が降り、家も学校も工場も焼野原となった。男は全部出征、女も従軍看護婦として戦地に行き、国内は老人と婦女と子供であった。
 傷病兵もこの様な時に必死で帰国した。気の毒であった。終戦後たくさんの片手片足の無い傷痍軍人が、松葉杖や車椅子で軍歌を唄っていた。日本も何もかも事情の悪い時で、食べ物を与えたり、献金させて頂いたり、国民も一生懸命であった。お国の為にと出征され戦死された方々、戦災者、原爆被害者、抑留で亡くなられた方々は、靖国神社に安らかに眠られていることだろう。ご冥福をお祈り申し上げたい。
 日本も戦後十五年くらいは大変な時代で、南米等に大勢移住した。以後、日本は急速に発展した。国中外の露を鎮めた。二度と戦争などすることのないよう、世界平和を願う。今年は移住九十七年目。百周年に向って励んでいきたい。


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