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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2006年2月号

2006年2月号 (2006/02/10) コロニアの俳句の将来

老ク連俳句教室指導者 栢野桂山
 大正、昭和、平成の日本及びコロニアの俳句の隆盛は、虚子あっての開花と言える。虚子が主宰したホトトギスで主張したのは、「花鳥諷詠」である。
 花鳥は字の通り、花や鳥のことであるが、これは四季の移り変わりの中で生きるすべての植物、動物、それに人事をも含む四季を、調子を整え十七字の詩に諷詠することを縮めた言葉である。
 これをたたえた虚子のもとに育った高弟の一人が念腹先生で、牛飼いの傍ら、全伯を行脚して、花鳥諷詠を教え、多くの弟子と俳句会を育成した。
 昔の大方の移民はこの国の百姓生活の苦難を味わった。現在のようにテレビ、カラオケ、その他の娯楽もないまま、俳句によってどれほどの生活の潤いを得たことか、それがコロニアの繁栄の基礎を築いたと言える。中には著者のように子供移民として渡伯して、俳句を作ることで日本語の読み書きを覚え、日本的情緒や思想を身に付けたものも多い。
 その念腹先生の一弟子として、この志を継ぐべきと思っているが、現在のように作家の高齢化が進み、平均年齢が八十歳を超えている。これが実情であるのにあとを継ぐ若い作家は育っていない。
 これではコロニアの俳壇があと五年、十年と続いてゆくのか分からないと考えられるので、現在の作家が高齢だという意識にとらわれることなく、一日でも一年でも長く隆盛が保たれるように励まなくては、と思う。
 そして、これを二〇〇六年度の指標にし、更にあと二年に迫っている移民百周年までこの意識を持ち続けて、最も日本的な文学である俳句によって、日本の情緒をこの国に残したいものと思いつつ老壮の友俳壇の支援をお願いする次第である。
 さて、コロニアには様々な団体があるが、大方は二、三世代に移り、日本語の無い会合を持つのが普通となっている。だが、老ク連には書道、絵画、舞踊、カラオケ、体操等などの教室があり、句会にもその芸に熱心な句友が多く、色々代わった話題が百出して、他にない面白く楽しい句会となっている。
 こちらも老人力、老人パワーを発揮して、移民百周年に望みたいと思い、句会でも席を空けて歓迎すべく皆様を待っている。


一時帰国は寒かった!

JICAシニアボランティア 宇野妙子
 赴任半年が過ぎて、健康診断をかねて日本での休暇を一ヶ月程過ごしてまいりました。
 十二月中旬、夏が少し遅れてやってきた暑いブラジルから日本へ着くと、例年にない寒波が一気に訪れた日にぶつかりました。あちこちに雪が残っているのを見て「ブラジルに帰りた~い」の第一声に五時間遅れの到着を待っていた家族に驚かれたり、あきれられたりでした。わずか半年ばかりのブラジル生活の話を目を輝かし、楽しんで聞いてくれました。
 さて、帰国中に私の住んでいる西宮市の友好都市である中国・紹興市(紹興酒と魯迅の故郷でもある)へ行ってきました。友人が外国語学院の日本語教師で赴任していたのです。出発前に友人から、「寒いから、防寒してきてね」と言われ、お互いに着ぶくれた姿での杭州空港での再会でした。寒風が吹きすさび手もしびれ、鼻の奥が痛いほどの中、中国四千年の歴史を感じる名所、旧跡など(蘭亭、魯迅の生家など)あちこち案内してくれました。気温はマイナス数度です。またもや、「早くブラジルに帰りた~い」。
 驚いたのは、彼女の自宅に着いても、マイナス気温!?コートを着たまま食事です。お風呂(シャワー)も入ると、風邪をひくからとのこと。靴下もはいたまま重ね着をして眠りました。
 それでも寒さで夜中に何度も目を覚ましてしまい、大陸の寒気の厳しさを思い切り知らされました。
 そして朝食の熱いスープが体も心も暖めてくれました。そんな風に私はとても寒い冬を過ごしましたが、お陰さまで風邪も引かず元気にブラジルへ帰ってくることができました。
 さて、今年も老人クラブの皆さまと心と体を豊かにし、より楽しく生きる喜びを目指して、ふれあいの多いレクリエーション活動を一緒に行いたいと思っております。今回の帰国でより一層多彩な資材等を調達して参りました。遠近、大小のクラブを問わず、遠慮なく本部まで派遣のお申し出をお願いします。喜んで何処へでも飛んで参ります。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


同姓のよしみ

サンパウロ中央老壮会 纐纈蹟二(喜月)
 十年ほど前、アチバイアの纐纈さんが「是非、お話をして、相談したいことがある。文協にいるから来て欲しい」との事で出向いて対面した。ブラジルに来て、初めて同姓の方にお会いした。温厚な人柄で、心暖まる思いがした。その時の用件は稿を改めて書くことにする、
 俳句仲間がある時、イタチーバのパライーゾ・デ・パッサロに吟行を計画した。そこで道順を詳しく知りたいと、アチバイアの纐纈さんに電話で尋ねて教示を得たお陰で、途中で迷うこともなく目的地に着き、俳句吟行を果たすことが出来た。「さすが喜月さんの親戚だけあって、実に懇切丁寧に教えて頂き、無事に楽しい一日が過ごせたので、もしお会いの節はよろしく御礼を申してくれ」と頼まれた。この時、実は私と彼との間柄を一つ一つ説明するのも面倒だと思い「そうですか」と頷いて誤魔化してしまった。
 民謡の大先生で偉いから、めったに向こうから声をかけない人がいつだったか大阪橋で私を呼び「アチバイアに行って来たが、あんたの親戚の奥様に大変お世話になってきた」と感謝の意を表された。
 この時もまた、説明が出来ぬままになってしまった。
 皆、同姓故に勝手に親戚と決めているのであるが、これも同姓の誼だと一人合点したのである。
 昨年、アチバイアの纐纈さんの奥様の会葬お礼の新聞広告を見た。方々から「御親戚の不幸をお悔やみします」と鄭重なご挨拶を受けた。このときも詳しい間柄を説明できず「ご丁寧に有難うございます」と答えておいた。
 去年の暮れに老ク連の上原さんが「アチバイアの纐纈さんから墓碑名を書いて欲しい」と言っていると、連絡があったが、寸法が判らぬとの事であった。その後、纐纈さんの弟だという方より電話で話が出来て、「一応七十センチと六十五センチの墓碑の字を書いてみてくれ」ということで、二枚の下書きを書いた。ちょうどそこへ長女が来て、我が家のために用意しているモルンビー墓地は芝生霊園であるのに、何のために今ごろ「纐纈家之墓」かと、少し呆れたように言うので、実は知人や友人が親戚だと思い込んでいるアチバイアの同姓の方の依頼で書いたのだと説明した。アチバイアの纐纈様は誠に高邁な人格者であるから、こうした間違いも黙って甘んじても損はしないと思っている。誠に勝手な事ながら、いつだったか、彼が私に「『俳句をやらないのに、新聞にあなたの俳句が載っているのを拝見しました。結構な趣味で、喜月と名乗っておられるのを初めて知りました』という人がおりまして、いくら弁明しても相手が笑って『何も遠慮したり釈明はせんでもよいです』と承知しないので困りました」と言われたことがある。これもめったにない同じ姓の誼だと思いを深めたのであった。


俳句の多様性

カンボ・グランデ老壮会 成戸正勝(浪居)
  私は普段三つの歳時記を使っている。高浜虚子編、稲畑汀子編、山本健吉編で、汀子編のはホトトギス結社中心に片寄っているので飽き足らず、虚子編のは稀代の名著と心に銘じているが、一番利用しているのは健吉編である。何故なら五冊で構成されていて、流派が広汎にわたっていて、随分教えられるからである。
 私は当初からホトトギス派の俳人として句作を励んできたが、他派の句をも機会があるたびに学んできた。狭い視野の幅を広げるのに役立つと意識して、注目してきた。井戸から頭を出して、大海を眺める思いでいる。
 先年、アサヒグラフ増刊の「俳句の時代」に、山本健吉が百句を選んだ中に梶井基次郎の
 桜の樹の下には屍体が埋まっている
安西冬衛の
 てうてうが一匹韃靼(だったん)海峡を渡って行った
 を俳句として採り入れて選んでいた。又「父の恋かわせみ飛んで母の恋」や「桜満開おのが身に皮膚一枚」などの句を推奨する俳人もいるのであるから、到底真似は出来ない。
 人生探究派といわれる加藤楸邨の
 菜の花につかれておればみな昔
 くすぐったいぞ円空仏に子猫の手
 を丸谷才一は、座布団もすすめなければ、お茶も出さず、ただちに用件に入った俳句だと評した。
 虚子は、写生は俳句の大道と言い、石田波郷は、俳句は私小説だといった。
 昔、松根東洋城が大正天皇から、お前のやっている俳句というのはどんなものかと、御下問があった折、次の挨拶をした。
 渋柿のごときものにては候へど
 楠木憲吉は、俳句独特の抒情性は、濡れて女性的な短歌的抒情に対して、比較的乾いた、批評的な男性的抒情であると言えない事はないと書き、飯田龍太は詩は見開いた明るい眼でとらえ、俳句は閉じた瞼の裏に残った映像を示すものともいえると書いている。
 コロニアの著名な女流作家が、日本での第一線で活躍する時実新子流の川柳を作ったが、誰も振り向かなかったそうで、日本で最先端を行く短歌流行作家の俵万智流の短歌を作っても、コロニアではあまり歓迎されないようである。俳句だけではなく、コロニアには独特の土壌がある。


思い出に残る歌い手たち ⑥ディック・ミネ

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
 カタカナの名前だが、ディック・ミネは本名は三根徳一という歴とした日本人である。立教大学在学中は相撲、英語、音楽が好きで、バンドを結成してドラム、ギター、ウクレレをやっていた。
 昭和九年に吹き込んだ思いがけない「ダイナ」のヒットでジヤズ歌手としてデビュー、各地のダンスホールに出るかたわら、三年間にレコードで百曲以上のジャズ・ソングを世に出した。
 日本のラジオ放送(NHK)が開始されたのは、大正十四年であるが、その後全国の聴取者が急速に増えるとともに、都会にはジャズ・フアンも現われて来るようになる。そして昭和三年に堀内敬三訳詞による「青空」「アラビアの唄」を二村定一が歌って評判をとるのだが、これが日本のジャズ・ポピュラーの始まりと言えるだろう。
 ディック・ミネはその路線の継承者ともいえる存在で、彼は生涯に五百曲以上ものジャズ・レコードを吹き込み、その普及に大きく貢献している。
 昭和十一年、日活映画「検事とその妹」竹田敏彦原作、渡辺邦男監督)が作られて、その主題歌「人生の並木路」の歌詞(佐藤惣之助)がテイチク文芸部に郵便で届いた時、封を切ってこの原稿を黙読していた作曲家の古賀政男は、たちまち大粒の涙をハラハラと流し、夢中で傍らのギターを手にとると、涙でギターの胴を濡らしながら一心不乱に作曲した。楽譜を渡されたデイック・ミネは音域が広い上に、得意のジャズ調でもないので、「これは僕では上手に歌えません。誰か適当な人に…」と言うと、古賀は「僕は君のために書いたのだから、歌わなきゃ駄目だ」と譲らなかった、とのエピソードが残されている。
 新譜が出たのは昭和十二年になってからだが、レコードは次第に売れ始め、後にはミネはステージでこの歌をやらないと客が承知しないほど、大切な持ち歌となったのである。ほか、古賀作曲のものでは「二人は若い」(十年)「夕べ仄かに」(十一年)「愛の小窓」(十一年)等があり、ジヤズ曲では「アイルランドの娘」(十一年)がヒットしている。また、「二人は若い」は日活の喜劇映画「のぞかれた花嫁」の挿入歌で、ミネと日活スターの星玲子が掛け合いで歌っているコミック・ソングで、デュエット歌謡曲のはしりみたいなものである。続いて十三年には「旅姿三人男」「上海ブルース」、それにあかぬけたタンゴ「或る雨の午后」(十四年)等を出し、特に「上海ブルース」「或る雨の午后」の島田磐也作詞、大久保徳次郎作曲のコンビは戦後にも引き継がれ、昭和二十二年には「夜霧のブルース」の大ヒットにつながるのだ。この曲は松竹映画「地獄の顔」(水島道太郎主演)の主題歌なのだが、この映画には何と四つの主題歌が作られており、「夜霧のブルース」「雨のオランダ坂」(渡辺はま子)「長崎エレジー」(島田・大久保コンビ、ミネ)、「夜更けの街」(伊藤久男)がそれであり、全部広く歌われている。
 なお、「上海ブルース」「夜霧のブルース」「或る雨の午后」は、石原裕次郎も吹き込んでおり、無論ミネ本人とは比較にもならないが、かなりいい線に達している。カラオケで歌い易いのは、「人生の並木路」「旅姿三人男」「長崎エレジー」である。


日本語のはなし

サンパウロ中央老壮会 内海博
 昨年の末から、いやもっと前から本当は暑くて当たり前の筈が、おくれていた暑さが一気に本格的になった。そこで「今日は暑い」と言う言葉の数々を考えてみた。色々と言いかえれば、これによって、日本語の複雑さやまた面白さがよくわかる。
①暑いねえ、今日は②こんにちは、お暑うございます事ねぇ③きょうは、お暑うござんすね。④暑いなー、今日は。⑤今日は、暑いわねー⑥きょうは、暑いなー⑦こんにちは、おあつうございますな⑧きょうは、お暑いですなー⑨暑いじゃ有りませんか、今日は。⑩今日は暑い⑪きょうは、暑いねー⑫お暑うございますね。今日は。⑬暑い、今日は⑭暑いですねー、今日は⑮きょうは、暑いやー⑯暑いじゃないの、きょうは。⑰暑いわー 今日は。まだまだあるだろうが、ざっとこのくらいの言い方がある。
 ところで、②③⑤⑨⑫⑭⑯⑰などは女性とも共用できる言い方で、特に②⑤⑯⑰は女性専用の言い方である。
 そこで、今度は使いわけが問題。家事手伝いの少女に、主人が③⑦⑫のような使い方をしてはおかしいし、又、その少女が逆に家の女主人に、①⑤⑬⑮⑯のような言い方をしてはまずい。
 会社員が重役にむかって、⑪のような言い方をすると、その重役さんは少し変な顔をするであろう。亭主が女房にむかって、⑦のような言い方をしたら、女房は亭主が冗談を言っていると思うであろう。
 以上で解るように日本語には、「時」「場合」「相手」によって、同じ「キョウハアツイ」でも色々な使い分けがある事を知らなければならない。
 そしてもっと大切なのはこの使い分ができるほどの頭の柔軟さが大切だという事である。
 外国語、英語、仏語、独語ではこんなにいろいろな言い方はないだろうが、表情や発音の仕方では、日本語以上に複雑な表現もできる。
 昔、言葉に喧しい先輩がいて、随分叱られたことがあったが、今、思えばこういうことを言って叱る人がいなくなり、日本語の言葉の変化がなくなり、日本語が痩せてゆくのは寂しい限りである。


峰村康氏、急逝「峰村兄の死を悼む」

名画なつメロ倶楽部 五十嵐司
 峰村さんの急逝を知り、茫然自失した。亡くなる数日前に電話で文協の五〇周年のことなど話し合い、週末に開催される評議委員会に一緒に出席しようと約束した矢先のことであった。靖子夫人によれば、心臓が少し弱かったという由であるが、そのようなことは全然聞いておらず、日頃元気な人であったので、急性肺炎から心臓麻痺とは、人の身の脆さ、世の儚さを思い知らされた。
 峰村さんとの初めての出会いは、リベルダーデ大通りの角にあったボウレヴァール・レストランで行われていた初めの頃の鑑賞会で、それからすぐ熱心に協力して頂くようになった。このレストランは靖子夫人の命名で「街角=まちかど」と名前を変えたが、それから数ヶ月で転業して、そのままの名のビンゴ店となった。運営委員の夫人とおしどりで財務委員を担当し、専門は日伯の資格を持つ土木・建築技師でありながら、面倒な会計の仕事を丹念、正確にこなしてくれた。
 峰村さんは中々の文章家で、静和というペンネームもあり、郷里信州の生んだ文豪・島崎藤村の流れを汲んで詩情豊かな名文も残しているが、時として気分が乗れば、ユーモア溢れるコントなど、そして必要があれば真面目な日系社会の将来の展望についての長い文章など、幅広いジャンルの中で筆を揮える文才があった。また、音楽にも詳しく多彩な趣味を持つ教養人でもあった。それでいて、自分たちの住む社会を守ろうとする強い正義感の持ち主でもあったことは、諸兄姉もご承知のことと思う。
 幽明界を異にし、如何ともしがたい仕儀となるも、いずれ短き人の世、遠からずして再会の日も来らんことと、今はただ友の冥福を祈るのみである。


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