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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2006年3月号

2006年3月号 (2006/03/10) 木村健一先生を悼む

元援協事務局長 小畑博昭
 去る二月六日、木村先生逝去の報を援協を通じて知りました。「毎年戴く年賀状が今年はこない。変だ」とは思っておりましたが、逝去の報は大変なショックでした。
 先生は今年一月二十七日午前十一時、東京新宿の病院で、家族全員に看取られて享年九十六歳の天寿を全うして、永眠されました。直接の死因は肺気腫、肺炎併発でした。昨年十一月から入退院を繰り返し、健康回復のためのリハビリを続けておられましたが、痴呆的な要素が進行し、記憶回復がないままの昇天でした。
 木村先生は私たちにとって忘れられない大恩人でした。日本老壮福祉協会で雑誌『老壮の友』の編集長を約二十年も続け、健筆を揮われ、老人福祉に対する御造詣の深さは、並み大抵ではありませんでした。
 忘れられないのは、青森弁の訛りのある口調で語られた講演で、大変身近な親しみを覚え、その愛情に満ちた語り口は聞くものに万感迫るものを与え、一度拝聴したら、また聞きたくなる思いを掻き立てる名講演でした。
 七三年と七六年の二度「コロニア老人週間」にお招きし、各地で講演や指導者研修会で活躍。『ブラジル老壮の友』の刊行、新老人クラブの創設とその指導など八面六臂の活躍ぶりでした。八三年には「老人問題の調査研究」のために三度目の来伯。その結果は著作となって、福祉向上に大変役立っております。
 先生の数々のご指導はブラジル日系老人福祉の向上に光を与えてくださり、老後の生きがいが一層向上したもので、衷心から感謝申し上げます。
 木村先生はここ数年、病床にあって「死後も皆様にご迷惑をかけたくない」との気遣いから、「通知や葬儀は控えめに」と言い続けておられたそうで、ご家族のお立場も大変だったことでしょう。
 先生の温顔とお声の陰にある思いやりを肝に銘じて見習いたいものです。最後に天国にある先生のご冥福を衷心からお祈りし、哀悼の言葉といたします。


両陛下とお会いします!

元シニアボランティア老ク連派遣 安達正子
 重岡会長様はじめ老人クラブの皆様、長い間ご無沙汰しました。皆様お元気でお過ごしのことと思います。いま、ブラジルは一番暑い時期を迎えておられることと思います。
 私も元気で毎日を過ごしていますが、今年の冬はあまりに厳しく。風邪を引いてなかなか治りません。
 でも手の骨折もすっかり良くなり、どうにか仕事にもなれて、大変忙しい、やりがいを覚える日々を送っています。
 いつもいつも皆様のことを懐かしく思い出しています。
 先日、二月十三日でしたが、山梨のNHKのテレビに出演しました。「山梨インターナショナル」という番組で、ブラジルでの私の働きを県の皆様に広く紹介するものでした。八分間の生放送でしたが、本当に緊張しました。何を言ったのか覚えていないくらいでしたが、見ていた人たちは「本当に良かったよ」といってくれました。レクレーションの様子や自分史のことなど、よく取材してくれ、よい放送だったと思います。今度もし送れましたら、ビデオを送らせて頂きます。
 実は今日はお知らせがあります。先日、JICAから連絡があり、私のブラジルでの働きが高く評価されたそうです。それで三月一日に天皇皇后両陛下に謁見して、活動の様子をお話したり、天皇両陛下からお言葉を頂くことになりました。
 海外シニアボランティアで活躍した人五名と日系社会シニアボランティアで活躍した人一名(わたしです)の六名がJICA理事長の緒方貞子さんと共に皇居に向かうのだそうです。約一時間くらい懇談する予定だそうで、今からドキドキしています。
 これもひとえに、皆様が私の働きを理解し、様々な面で若輩の私を支えてくださり、応援してくださったおかげと心から感謝しています。本当に有難うございました。
 いつも明るい、蒼い空が広々と広がるブラジルの大地と、そこにしっかりと根をおろし住んでいらっしゃる、温かい皆様のことを決して忘れません。これからもどうぞよろしくお願いいたします。皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします。


朝のひととき

レジストロ春秋会 大岩和男
 店を開ける。すぐ入ってきた半黒の中年男が、朝っぱらから酒臭い(ピンガの)息を吐き散らしながら「サルガジーニョをくれ」と二袋を鷲づかみにしてカイシャで代金を払って行った。
 その時、向い側の歩道を朝の散歩らしく、愛妻を連れた、いや、愛妻に手を引かれたヨチヨチした足取りの二人連れが町の方に歩いて行った。相当の年輩の人だが、二十代前後の若者のような装いは「やっぱり、ブラジルだなあ」と思って眺めている。
 と、その後にこれもまた、もっと年のいった女の人が見るも気の毒なほど弱々しい足取りで静かに、そしてゆっくりと、これも朝の散歩らしい。
 そんな朝の街の光景を何気なく眺めている目の前に、一人の少年(ラパイス)が自転車で来た。そのままの姿勢で歩道(カルサード)から、「テン、エステンソ」と怒鳴った。咄嗟にそのエステンソよりも、自転車に乗ったまま、しかもルア(道路)から物を尋ねる少年の態度が気に障っていた。
 「入ってみよ」と返事をして、せめて自転車を降りてきたら話そうと思った。心中は穏やかではない。それは現代人の姿かも知れないが、これから社会人となっていく少年の不遜でレスペイト(尊敬)の念のかけらも無い態度が気に入らなかった。言葉には出さなかったが「待っておれ。俺も自転車に乗ってから返事をしてやる」と言いたい衝動にかられていた。
 昔、親爺がこんな事を云ったのを覚えている。或る若者が道に迷って、とある家に立寄り、道を尋ねたそうだ。応対に出てきた老人は若者の態度を見て「待っておれ、俺も帽子を被って来てから返事をしよう」と云ったというのである。その若者は帽子を被ったまま、道を尋ねていた。ハッと気付いた若者は非常に恥じ入り、帽子を取って、平身低頭、丁寧に詫びてから、改めて道を尋ねたということだった。
 昔の人だからではない。昔だって今だって礼儀、尊敬ということには変わりはない。それを無くしては人間としての価値はない。犬畜生にも劣る。犬でも三日飼えば、その恩を忘れず、三尺下がって師の影を踏まずと云われたあの気持ちである。
 万物の霊長として、尊敬の念を忘れるということは、先人、先輩、ひいては祖先の恩にも背くことで、人間として恥ずべきことである。いかに世の中が進歩し、月の世界に人間が行き、核の時代になっても、人間としての礼節に変わりはない。特に我々日本人は礼節を重んずることを美徳とし、それを誇りとして来た民族である。
 今、日本で論議されている政治家をはじめ、国家公務員は上から下まで、そして大企業の社長が贈収賄などを摘発されると、ただ「お詫びします」と頭を下げている。その姿が新聞報道されるたびに「何という厚顔か」と腹が立つ。
 修身、歴史を否定して道徳教育を怠り、履き違えた民主主義のツケが今、まわってきたとか。一ブラジル人少年の態度を見て、考えさせられた、朝のひと時である。


移民船の思い出話「船中より消えた新婚夫人」

アチバイア清流クラブ 纐纈久雄
 私等約九百名のブラジル移民を乗せた大阪商船ブエノスアイレス丸(一万トン級)は、一九三七年(昭和十二年)七月二十二日午後四時頃、神戸港を出港し、インド洋廻りで南米ブラジルへ向って旅立ちました。
 そんな航海中のある日、私はコルション、布団、毛布等を甲板に持出して虫干しをしていました。そこへ乗船後間もなく、移民等、特別三等乗客が利用する食堂で知り合った吉野君が訪ねてきました。
 吉野君と私がコルションの上に寝そべって話し合っている処へ、これも特別三等食堂で知り合った山木正子、明子さん(何れも仮名)の姉妹が通りかかって座り込み話に加わったので、私は山木家の再渡航の事情を聞きました。
 それによると、山木家は両親と姉妹の四人家族で、父親が「姉娘の正子が二十二才になったので婿をもらいたい」と考え、婿探しを始めたが、なかなか来てくれる若い男がいません。そこで山木氏は生れ故郷のF県へ帰り「日本で婿をもらおう」と考え、一家四人で日本へ帰っていたそうです。が、日本でも婿入してブラジルへ来るという若者はいなかったそうです。
 そんな時、知人よりブラジルへ婿に行っても良いという若い男がいるとの知らせがあり、早速、見に行ったのですが、娘は気に入らず、それでも、山木氏はこの男以外には婿に来る男はいないと思い、娘を口説いて無理に結婚させて、再渡航したそうです。
 正子さんはさらにブラジルから日本への帰りの船中で起こった事件を話しました。
 山木一家が日本へ帰る時に乗った船がロスアンゼルスを出航して一週間目の夜、若い男が船の後甲板に履物を残して飛込み、自殺をしました。男は久島仁氏(仮名)二十九才で、船室に妻宛の遺書を残していました。
 それによると、六年前、久島氏の故郷である東北のある農村より、久島氏の親友・中岡和行(仮名)一家がブラジルへ移住することになったそうです。中岡氏は交際中の相愛の娘・杉沢照子さん(仮名)と結婚して一緒にブラジルへ行きたいと思っていましたが、杉沢家より断られ、中岡氏は独身で移住することになりました。
 久島氏もその頃、照子さんが好きで、中岡一家がブラジルへ移住してから照子さんに交際を求め、照子さんも中岡氏を諦めて、二人は結婚しました。
 新夫婦は元々ブラジル移住の希望があり、中岡氏からはその後、何時もブラジル移住を促す手紙が来ました。しかし、久島家も杉沢家も皆反対で、それを押し切ってでもブラジルへ移住しようと中岡氏に手紙で相談し、中岡家が借地していた地主が日本人なので、地主の呼寄せで新夫婦はブラジルへと渡りました。
 ブラジルに着いた久島夫妻は、出迎えから借地まで一切を中岡氏の世話になり、中岡氏の近くに借地をして農業を営んでいました。
 それから四年目のある日、日本の久島家より「父親が病死したから遺産相続のため、すぐ帰れ」という手紙が来たそうです。久島夫婦は日本に帰る相談をしましたが、妻の照子さんは「農作物があるから、あなた一人で帰ってほしい」と言いぐずぐすしている間に半月以上も過ぎ、久島氏は仕方なく一人で帰ることにしました。
 彼は妻が帰りたがらないのは、中岡氏に好意を持っているからだと分かっていました。彼は「妻一人ブラジルに残して日本に帰れば、(中岡氏に)妻を奪われる」と苦にしながら日本行きの船に乗りましたが、その苦悩に耐え切れず乗船して一週間目にとうとう遺書を残して飛込み自殺をしました。
 正子さんはこの話を終え、帰りがけに「自殺するなら船の後甲板から推進機の上へ飛込むのが良い」と言い残して、姉妹は帰って行きました。
 その夜も特三等食堂には若者が大勢集って遊び、正子・明子姉妹も来ていました。しかし、正子さんは夜になっても帰らず、明子さん一人で帰ったら船室で父親が「正子はどうした。すぐ呼んで来い」というので、明子さんが特三等食堂へ迎えに行きました。父親は「正子、お前は結婚して夫のある身で、毎夜遅くまで遊んで歩いて、それで良いと思っているのか」と怒鳴りつけました。正子さんは泣き泣き夜の甲板に上って行きました。
 母親は正子さんのことを心配して、妹に甲板上を探させましたが、どこにも見当たりません。特三等食堂に残っていた若者たちも船員も一緒になって夜が明けるまで探し廻り、翌日も一日探したそうですが見当たらず、恐らく正子さんは夜の甲板から投身自殺したものと認定されたそうです。
 正子さんは叱られたと言っても自殺する程のことではないようですが、夜の甲板に上ってみて咄嗟に死ぬ気になって、投身自殺したものと思われます。
 私にとってはこれら七十年も前の話が、いつまでも気に掛る思い出となってしまいました。


おひな様の思い出

「雛人形片付けなかったせい?」
名画なつメロ倶楽部 田中保子
 娘四人の三番目の私は、何となく重要視もされず、特別可愛がられも邪魔にもされず、子供時代は自由気ままに育った(ようだ)。
 毎年二月末になると、古色蒼然とした雛飾りが座敷に出現したが、それは姉達の物と割切って、一寸変った食べ物のお相伴が嬉しいぐらいで、「今日は楽しい雛祭りィーー」など浮かれた思い出はない。
 ブラジルに移住して最初の子供が女の子だったので、義姉にねだってお雛様を日本から送ってもらった。キンランドンスのおべべを着たお雛様を期待していたのだが、届いたのは「鎌倉一刀彫」とかの木製の小さな物。以来、娘の雛祭りは、この「一刀彫」のお雛様を中心に適宜、人形や玩具を並べてお節句のつもりを繰返して来た。
 時に折り紙のお雛様が加わったり、日本土産の「博多人形びな」が彩りを添えたり、大小幾組かのお雛様が「押しくらまんじゅう」の如く並び、肝心の娘はいい加減薹が立ってチラッと横目で見て、「えーっ、もう三月なのー」等と声を上げるだけで請われるまま何組かは知人に差し上げたが、今も細々と雛祭りは続いている。
 唯、知らなかったとは言え、飾った雛人形は一日も早く片付けないと娘は嫁ぎ遅れる由、それを知った時すでに遅し、曰くウバザクラ、曰くイカズゴケETC…になった。
 ところが、どういう風の吹き回しか、昨年末に「久月」のお雛様一式が吾家に舞い込んだ。早速、季節外れの雛飾りをした。年甲斐もなくワクワクしながら荷解きをしたが、未だ一度も箱から出た様子がなかった。かの平安の宮廷も(見たことないけど)かくや、とばかりの華麗さに目を見張って眺めている。
 娘の縁談については母親の責任と詰められた時は、多少応え焦ったが、存分仕事をこなし、活動している娘を見て密かに「これで良かったんではないか」と思うこの頃である。
嫁ぐ気のない
 娘の雛や宵節句(保子)

「写真で偲ぶひな祭り」
サンパウロ鶴亀会 猪野ミツエ
 私の故郷紀州では、木彫で漆塗りの内裏雛が代表的なものです。姉には台込みで二十五センチ位のお内裏さまに五人囃子、官女など小じんまりしたお雛さまがありました。鼻、手足を傷つけないように綿や懷紙で堪念に蔵はれ、出し入れには随分気をつかったのを覚えています。
 三女の私になると、ケース入りの潮汲みとか藤娘が贈られるのが精々でした。紅白のあられ、菱餅、桃の花をお供えしたのも懐かしい思い出です。
 そして娘・妙子の時は、里の母から御殿つきのお雛さま一式を贈られ、親戚、友人から可愛いお人形を祝はれ、私の方が有頂天になったものです。
 妙子が三才で渡伯する事になり、お雛さまは姉に預けて来ました。あれから五十四年、母も姉も亡くなり残されたのは記念の写真だけとなり一寸淋しいお雛さまの思ひ出です。

「貰われたひな人形」
賛助会員 花土淳子
 私は今、私のお雛様を持っていません。(この年齢になって、当然と言えば当然かも知れないけれど…。)でも、覚えています。小学校の五年生位いまでは確かに私のお雛様があったのです。
 私は昭和十二年九月、当時満洲と言われた国の北の方、ロシアとの国境の近くで生まれました。お雛様は初雛の時、おそらく母方の祖父母から送られたのであろう、こじんまりとした内裏様と赤い袴をはいた三人官女だけのものでした。でも内裏様にはちゃんと御殿がありましたし、官女様の両側には薄桃色のボンボリが置いてありました。母が紅絹を敷いて、雛段を拵えて四月の三日(月遅れで祝う)には飾って居てくれたそうです。
 私達一家は太平洋戦争が始まった翌年、つまり昭和十七年のおそらく六月ごろに、故郷に引き揚げてまいりました。父方の祖父の強い勧めがあったのだと聞いています。
 それから、お雛様に再びお目にかかったのは、戦後私が小学校の五年生の時でした。小学校の養護教諭として勤めていた母が夏休みのある日、満洲から持ち帰った荷物の中からお雛様を取り出してくれたのです。
 お雛様は一体ずつ桐の箱に入っていて、お顔はすっぽりと綿と白い和紙に包まれていました。母の手元をじいっと見つめて、そのお顔の現れるのを今かいまかと待っていたのでした。
 でも、その時は時期ではないとお雛様は飾りませんでした。
 そして翌年の三月、取り出したお雛様を見て私は驚いてしまいました。なんと内裏様の女雛の鼻の頭と片方の手の指が鼠にかじられているではありませんか。白いお肌が破れて中の詰め物が少しこぼれていました。
 私は泣きたい思いでいろいろと考えた末、白いチューブ入りの絵の具を絞り出して、欠けた顔と指を埋めて二、三日もかかって、塗っては乾かしを繰り返し、何とか目立たない位に仕上がってほっとしたのでした。その夜、母が私に頼んだのです。『あのお雛様、京子ちゃんにあげて頂戴』と。
 京子ちゃんは家から少し離れた所に住む散髪屋さんの女の子でした。その頃母は、学校に勤める傍ら天理教のおたすけに携わっていたのです。どのような事情があったのか私は知りませんが、京子ちゃんにお雛様を買ってあげられなかったのを知
り、母も又お雛様を買う余裕はなかったのでしょう、私のお雛様をと思い至ったのです。
 私も母のお手伝いが出来るならと、あっさりと『うん』と言って終いました。
 私が九六年に訪日した時、リュウマチで手が上がり難い母の髪を美容師になった京子さんが時々来宅しては、洗髪したり、カットをしてくれていると聞きました。 私のお雛様を差し上げたご縁で、晩年の母を大事にして下さったのだと私は感謝しています。

「雛まつり縁起」
カンボ・グランデ老壮会 成戸正勝
 三月三日は雛祭りで、桃の節句とも言いますが、桃の季節にはまだ早く、田舎では四月三日に行う所が多いようです。桃の口、桃花節(とうかせつ)、雛の節句、重三(ちょうさん)とも言います。
 はじめ宮廷、貴族の間で、美しく着飾って雛遊びをする風習が起こりました。室町時代に、絵の具を塗って作る人形技術が、支那から伝わってから、女児のための節句として、男児の端午と並んで盛大となりました。
 雛壇に飾る雛人形は、親王雛、内裏雛(だいりびな)を主として、官女雛、五人囃、矢大臣、三人使丁(しちょう)のほか、屏風、雪洞(ぼんぼり)、左近の桜、右近の橘、菱餅、白酒、雛菓子などがあり、雛の調度として重箱、箪笥、長持ち、挟み箱、鏡台、針箱、駕籠、御所車など色々なものを飾ります。桃と菜の花を活け、豆妙り、また雛の貝と言って、蛤、浅蜊、いがいなどを調理して供えます。
 雛が立派な坐り雛になったのは室町時代からで、それまでは、家々で質素に手作りで飾り、節句がすむと川や海へ流しました。
 時代により、地方により、変化が多く、室町雛、寛永雛、元禄雛、享栄雛、京雛、木彫り雛、菜の花雛、立雛、糸雛、紙雛、折雛など枚挙に暇がなく、今でも年々変わり雛が作り出されています。
 元禄の頃、雛の使いと言って、蒔絵(まきえ)を施し、朱の総(ふさ)を付けた乗り物に雛を乗せて、親類へ送る風習がありましたが、この乗り物を雛の駕籠と言いました。
 現在、花見の行楽は全国に行き渡っていますが、地方では三月三日、或いは裏節句の四日に、老若男女打ち連れて、見晴らしの良い丘などに上がり、鮨や酒肴をたずさえて、遊山に日を暮らす習慣があり、花見または花見正月と言います。
 都会の花見はただ浮かれ、踊り飲む行楽と化していますが、もとは農作に先立って守らねばならぬ春の儀礼の一つでした。


百万石の城下町金沢

サンパウロ中央老壮会 栢野桂山
 ミランドポリスと姉妹都市の高岡を出ると、目的地の金沢に着く。
 金沢名物は雨だそうだが、その雨が夜半から続き、朝になっても晴れない。春霖の中を駅前より観光バスに乗り尾山神社へ。神社は藩祖・前田利家を祀った、華やかな洋風スタイルの珍しい社である。
 卯辰山に登り市街地や、雨でけぶった日本海を眺望し「エース・金沢」という九谷焼の店に入る。ここでは陶工が轆轤(ろくろ)を廻して九谷焼を作る全工程を見せてくれる。
 次は名のしれた武家屋敷で甲州兵法に依る袋小路、カギ形露路に沿い長土塀がある。この塀も身分により高さ造り等が違うのだ。塀のある屋敷、塀の無い屋敷とあり、その木組の頑丈さ美しさは伝統ある百万石の城下町にふさわしいが、今も人が住んでいて屋敷内は見られないのが残念。
 粒の細かい春霖にブラジルより持参したカッパに身を固め「兼六園」に入る。日本三名園として知られたこの園は広大、幽美、蒼古、泉石、眺望、人力の六勝を兼たものとして名付けられたという。
 あやめがぽつぽつ初花を見せ、岸を固めたつつじが満開で美しい。菊桜は天然記念物で一花に三百四十枚の花弁をつけているという。初めは青みを帯び、満開の頃はピンクに、散る時は赤みを含み、三回色が変わるという。
 巨木の「根上がり松」は丁度章魚の木の如く、くろがねの根を八方に広げ、剛毅な姿にふさわしい日本武命の青銅の巨像が近くに立っている。すでに岡山の後楽園、広島の縮景園と観てきたが、この老松と楓の大樹の蒼古、あやめ、菊桜の華麗との対比は、また別の深い感動をさそう造形美だった。
 町を見て興味があったのは『百万石通り」『味噌蔵町」の名であり、大通りの「雁木一である。雁木は道路へ突ぎ出た雪避けの軒であるが、北海道、青森でも見なかったもので珍しかった。でも今は雪はなく、春森のけぶる中を傘も差さず婦人の買物客が往来していた。
 此処ではかなり繁華な街甲の空き地に、手人れの届いた何枚かの水田に、植凡て色付いた稲が風にそよいでいた。それがいかにも剛健律儀な金沢人らしい風景をつくり出していると思って見た。


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