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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2006年4月号

2006年4月号 (2006/04/08) 木村健一先生を偲んで

ご指導を有難うございました
老ク連顧問 真鍋次郎
 木村健一先生の御逝去に際し、衷心より御冥福をお祈り申し上げます。
 木村先生は私たちブラジルの老人クラブにとりまして、まさに生みの親であり育ての親でもありました。
 一九七二年に私たちの地元イタケーラにおいても老ク結成の気運が高まり、私もその結成に奔走したのがつい昨日のことのように思えます。
 木村先生は七三年に初めて御来伯され、ビラ・マリアのJICAセンターで行われた創立発足のための研修会、そして七六年にアチバイアの南伯産組会館で行なわれた指導者研修会そのどちらにも参加して下さりました。私もそこで勉強させて頂きました。
 先生はその頃六十歳代とお若く、援協の小畑事務局長とそれこそブラジル全土を精力的に講演・指導に歩かれ、私たちもまたそれに惹かれるように真剣に老クの育成・発展を目指し取り組ませて頂きました。そして先生はご自身が編集長をつとめておられる日本の『老壮の友』誌を「ブラジル老クの育成と老ク連運営資金の一助になれば」と、毎月数十冊を無料で送り続けて下さいました。
 お陰さまで、それらは私たちブラジル老クの指針となり、また老ク連の運営費の一部として活用されました。一時期老ク連執行部として運営に当たりましたものとして心より御礼を申し上げます。
 また著書「うめぼしの詩」も変わらぬ名著として老人会員に愛読され続けております。
 八七年に訪日した折には、奥様にもお目にかかりました。酒を酌み交わしながら話す先生の話題は豊富で、時が経つのも忘れるほどでした。そして穏やかな口調ながらブラジルの老クの話になると、熱っぽく語られていた姿が印象的です。
 田中丑子(つかね)初代会長、宮口義長二代会長が亡くなられた今、老クの草創期を知る数少ないものの一人として木村先生の功績を偲び、感謝の言葉で結ばせて頂きます。
 本当にご指導有難うございました。

御冥福をお祈り致します
援協顧問 原沢和夫
 木村健一先生が二〇〇六年一月二十七日、天寿を全うし昇天なされた報道に接し、心からご冥福をお祈り致します。
 二〇〇四年「ブラジル老壮の友」三十周年記念号に投稿を依頼された時、木村先生を思い出して、援護協会の山下忠男事務局長に電話番号を貰い、早速電話いたしました。
 「木村先生、お元気ですか?」ブラジル老壮の友三十周年記念号に玉稿を頂けませんか」とお願いしましたら、「有難いお話ですが私は現在指が不自由でペンも取れず、ワープロも打てませんので、お許し下さい。ブラジル老人クラブの皆さんにくれぐれも宜しくお伝えください」。
 これが最後の会話となりました。
 一九七二年九月、第一回老人週間に小畑博昭事務局長の交渉により、厚生省森幹郎老人福祉専門家がお出でになりました。文協大講堂は千二百人の超満員で大盛会。以来、老人クラブ作りの気運が高まりました。サンパウロ近郊、奥地に老人クラブが次々と誕生しました。
 続いて一九七三年九月の老人週間に、老壮の友編集長の木村先生がお出でになり、やはり文協大講堂は超満員となりました。そして第一回老人クラブ指導者研修会が工業移住者センター(現日伯友好病院)で行なわれました。
 いつも小畑事務局長と一緒に遠い所まで多くの老人クラブを歴訪し、指導し、実に多くの日系老人の皆さんに元気を与えて下さいました。木村先生はいつも温顔で、微笑をたたえ、やさしい言葉で分かり易く話して下さったことが懐かしく思い出されます。
 今はもう木村先生を存じ上げている人は援協関係では小畑さん、山下さんと私の三人位ではないでしょうか?三十数年の年月の流れを痛感いたします。

ご縁を戴いて
レジストロ春秋会 大岩和男
 前号の老壮の友に小畑さんが書かれた「木村先生を悼む」を見て、愕然としました。木村先生とは、私が九年前に訪日した際、偶然に面識の機会を得たのです。それは松下幸之助さんの肝いりで作られたPHPという雑誌の東京大会に、これも奇しき縁から招待され参加することになり、その日の講師が木村健一先生だったのです。
 百数十人の参加者でした。先生のお話は「高齢化社会の中で老人は老化ではなく老花として生きましょう。自分の殻に閉じこもらず社会のため、家族のために尽しましょう。努力を惜しまず、死ぬまで勉強しましょう。これが老化を防ぐためには大切なことで、自分の健康にも最もよいことです。だから一石三鳥です」と結ばれました。その時のお話の中で、何度か「ブラジルに行った」とおっしゃられていたので、講演が終わってから主催者で東京研究所の三島所長に尋ねたところ、「木村先生はブラジルに何回も行って、老人クラブの結成のお手伝いをしてきた人です」と説明を受けました。
 翌日、三島さんにお世話になったお礼の手紙を出しましたところ、「あなたの手紙をコピーして、木村先生に送っておきました」と言われました。二、三日後、木村先生から直接はがきが届きました。「ぜひ、お会いしたいので、拙宅まで来て欲しい」と書かれていました。しかしその時は所用があってお伺いできず、千葉県野田市の講演会の時にお会いすることができました。野田市は醤油のキッコーマンで有名な町で、講演会場の興風会(こうふうかい)という老人会館もキッコーマンが建てて寄贈したということで、三階建ての立派なものでした。
 木村先生は既に待っておられました。初めて直にお目にかかった先生は、もの柔らかい優しいお方でした。
 会場には九十歳を最高に六十歳以上の方々が百五十人ほどおられました。開会と同時に「ブラジルから来た人です」と紹介された上、不意に「ブラジルの講演を」と所望されましたが、その心算もありませんからと辞退し、自己紹介とブラジルの概略だけを話しました。
 先生の講演は一時間半ほどで、「今年最後の老人大学の終了です」と結ばれました。その後、「どこか二人だけでゆっくりと話そう」と柏駅まで行って、ビールと海老フライをつまみながら二時間以上話すことが出来ました。
 先生はしきりにブラジル老人クラブの最近の様子を尋ねられましたが、その頃の私は老人クラブには関係しておらず、先生の期待に沿えず申し訳なく、ただ自分の住むレジストロの春秋会の活動状況を知りうる限り、お話しました。
 私がPHP誌に投稿した話をしたところ、先生は「大いに書きなさい。貴方が書いたものが新聞なり、雑誌なりに一度でも活字になったら自信が付きます。私がやっていた老壮の友があったら、掲載してあげたいが、惜しいかな、昨年で廃刊してしまい出来ません。ブラジルに帰っても大いに書いて投稿して下さい」と励ましてくれました。先生のこの一言によって、何とか物が書けるようになったことは間違いなく、生涯忘れられない尊い一言でありました。
 帰伯後もしばしば先生にお手紙を出しており、サン・ジョゼー・ド・リオプレットの白寿会なども先生が名前をお付けになったという事も知りました。
 先生のブラジルの老人クラブに対する誠意、熱烈な思いが今、実を結んで立派なブラジル日系老人クラブ連合会となり、重岡会長を先頭にブラジルだけでなく、南米の中心となって活躍しているのでしょう。私も今はこうした縁からかレジストロの老人クラブにも入り、会のお役に立つよう努めているところです。木村先生との思い出話を綴り亡き先生のご冥福を心よりお祈り致します。


老いの春

カンポ・グランデ老壮会 成戸正勝
 「生きることようやく楽し老いの春」は富安風生が、九十歳代の半ばで詠んだ俳句です。そんな風に生きられたら良いなとは、誰でもが考えるでしょう。
移民たち、移民の子供達はそれぞれに苦労して老人になりました。誰か作家が「生きるために老いる。老いるために生きる」と意味深長な言葉を残しています。老いて益々盛んと言われる人もいます。
 老人になって体力は衰えても、精神を立派に保つことは出来ます。貴重な経験で以って、若者に指導も出来ます。若くして死んだ者も大勢居ますが、年取って体はギクシャクしても、頭のしっかりした人を見ると、そんな人にあやかりたいとは、誰でもが感じることです。
 人生の春夏秋冬を観れば、年金生活に入れば、人生の秋であり、体が言うことを効かなくなれば、人生の冬だと人は悟ります。その冬を春に変えることも出来ます。老後の生活を楽しく過ごすに大事なことは、やはり周
囲との円滑な関係でしょう。
 年金生活者には金儲けをする機会は失われています。だから第一にすることは欲を無くすことです。欲が無くなれぱ人と競争することもありません。人をねたむ事もありません。そうすれば敵も味方もありません。全ての出来事は第三者の立場から観察できます。
 欲が無ければ、他人に対して思いやりの気持ちが持てるでしょう。人が間違っても許すことが出来ます。ゲートボールの試合でよくいさかいが起こりますが、欲も無く、思いやりがあれば、人と争う必要はありません。
 日本に比べれば、ブラジルには自由、平等、友愛の精神が豊富にあります。だから日本に出稼ぎに行った人々が、ブラジルを懐かしく想うのです。日本人は建前を尊重しますが、ブラジル人は本音で行動する傾向があります。確かに建前を大事にしなければならない時もあります。老後にはそれにこだわらずに、自分の好きなことが出来る有利さがあります。
 欲が無ければ、人にあまり遠慮をせずに自分のやりたいことが出来るのではないでしょうか。勿論、自分の良心、社会道徳にそむいてはいけません。その範囲内で、思う存分に、自分の本音に従って生きる白由を満喫できるのは、老人の特権だろうと信じています。
 この二、三年の間に、三人の友人が亡くなりました。いずれも八十歳近い方でした。みんな夫婦揃ってゲートボールを楽しんでおられたのです。残された奥さん達の内、二人は一年が過ぎてから再びゲートボールを楽しみに戻ってこられました。どちらも二世ですが、戦前の移民の日本式な習慣を親から習って育った方々です。もう一人の奥さんはひと月過ぎて、やはりゲートボールを楽しみに戻ってこられました。この奥さんは東京の一流の高等学校を卒業して、戦後ブラジルに来られました。才色兼備でどんな役職でもこなす人です。
 三人とも、家に居っては退屈で、何もする事がないと言って、ゲートボールのある日は、欠かさずに出てこられます。戦前の移民の家庭に育った方々は家で、ゲートボールに行きたいのに行かずに、辛抱強く一年経つのを待っておられたのです。これは日本人として建前を守ったのです。戦後の奥さんは建前にしばられずに本音を通したのです。
 簡単に言えば建前はしなければならないこと。本音はしたいことです。
 老後の生活としては、建前に縛られずに、本音を遠慮せずに出して行く方が楽しい毎日を過ごせるのではないでしょうか。
 しかし、物事は思う様には行かないことが往々にしてあります。そんな時は平家物語ではありませんが、諸行無常、生者必滅と心の中で繰り返せば事は済みます。世の中のことは、我関せずと片付ければよろしい。老いの春にも春愁はあります。

縁(えにし)とは絆(きずな)とは春の愁かな (富安風生)
春愁や冷えたる足を打ち重ね (高浜虚子)
春窮や買い手もつかぬ古耕車 (佐藤念腹)
春窮のあまり剃刀研ぎにけり (石川桂郎)

 奉愁はよろしいが春窮にはならないように気を付けましょう。


つれづれなるままに

セントロ桜会 野村康
 遠方の白き花の名知りたくて
 近づけば枇杷の実くるむ紙 
 俵万智のうたである。読んで笑ってしまった。私にもこれと同じようなことがあったから。
 年明けて、久しぶりに民謡教室に出席する。皆さんにお会いできて懐かしかった。中山みどり先生、尺八の先生、三味線の先生にまたお手数をお掛けしながらソーラン節を習いました。
 若い頃、婦人会でソーラン節の踊りを習ったことがあるので大体の節回しは聞いていましたが、いざ、自分が歌うとなると生易しいものではありません。唄い出しから突拍子もない高い声を出さなければならないので、内心怖気づいておりました。いくら私が道産子だからといっても、数えの九つからブラジルの陸(おか)ばかりで暮らして、海なんて見る事もなく育った年寄りなのですもの。
 櫓も櫂も見たことはなし。どうやってヤーレンソーランと勇ましく海に漕ぎ出すように唄えましょうか。この唄は何としても私には向かない、替えて貰おうかしらと思いながら気が滅入ってくるのでした。この時、遅れて入って来られた纐纈先生が始業まで一寸間があったので、つかつかと黒板に寄って行かれ、何事か書かれました。
 夜をこめて鳥の空音をはかるともよに逢坂の関は許さじ  清少納言
 百人一首の一つという。「この唄を上の句を半分も詠まないうちに下の句の札を取るんじゃよ」と言われます。
 まんざら知らない訳でもありません。幼い頃、KK・KKカイコー植民地にいた時、隣の広瀬さんの茶工場の板の間で、正月ともなればカルタを並べて、そこのお姉さん達がやっていたのを覚えています。七十余年も昔の事です。
 話は戻って、いとしい人に夜な夜な鳥の鳴き声を真似て合図を送っても出て来れない。つまり、よに逢坂の関は許さじです。私なんてそんな思いをした事がないから、「大変な事よね」と思って聞きました。
 そういえば、この前習った「ひえつき節」も「鈴が鳴ったら出ておじやれ」それを受けて、「駒に水くりよと言うて出ましょ」とあったが、「昔の人って、なかなか優雅な事をやっていたもんじゃねぇー」と感心する事しきりです。
 月の第二土曜はエスペランサ短歌会があります。その時の話です。
 この前の歌会は私は欠席していましたが、小野寺いく子先生が、題詠のように「『愛』という言葉の入った短歌を見つけて持っていらっしゃい。自分の歌でなくてもよいから」という事でした。
 昔、主婦之友を取っていた頃は与謝野晶子や一葉の話が載っていて、愛やら恋やらとそれらしいものが一杯で珍しくありませんでしたが、今はさっぱりお目にかかる機会がありません。さて、どうしたものやら。もう思案投げ首です。
 自分にそうした経験があれば、一寸綴って持って行けるんだろうけれど、何さま畑焼き跡を跌で走り回っていたような娘だったから、鈴を鳴らしたり、鳥の鳴き声を真似て、合図してくれるような人もなかったしと案じていました。
 時にふと気が付きました。纐纈さんの清少納言のあの唄を持って行こう。愛の字は直接なかったけれど、相聞歌だもの、間に合うよと気付いたら嬉しくなってきました。
 その時、またひらめきました。二十年位前の歌会に入りかけの頃、私は三色スミレが好きで好きで培っていました。蕾をもったら可愛くて、大切にし小さい鉢でもあるし、匙で液肥をすくってやっていました。それを短歌に詠んだのです。たしか「パンジーの蕾もてるが可愛くて液肥を匙ですくいやりたり」
 こんなんだったかしら?ちょっと違ったかしら?でも手ぶらで行くよりはマシでしょう。少し気分が落ち着きました。
 こんばんはゆっくり休んで、明日はヤーレンソーランとラジカセをかけて、少しは勉強しなくちゃと、元気が出ました。


=義父の話= レジストロに生きて

レジストロ春秋会 清丸米子
 主人の父は清丸(セイマル)耕麿(コウマ)、母はキノと言いました。生まれは石川県小松市です。父は大田家の次男でしたが、清丸家に子がなかった為、養子として貰われたそうです。大正七年に父は金のなる木を求め、石川県からブラジルへ移住する十八家族と一緒に海外興業株式会社の世話で、まだ見ぬ土地を買い、大きな夢を見てこのレジストロに入植したのです。
 その頃、このレジストロまで来るには、サントスから薪をたいて走る汽車でジュキア迄、そこからはバポールでレジストロ迄来たのです。そして、KK・KKの移民収容所で一週間ほど入植する土地の地区割りが出来るまで待ったのです。
 ようやく地区割りが出来て、入ったのが第五区のラッポーザでした。道路といっても原始林の中をやっと人が通れるだけで、荷物はめいめいが背中に背負って入ったと言います。入植したその土地には住む家はなく、ジサーラーパルミットの椰子の木を伐って掘っ立て小屋を作り、壁も屋根もみな椰子の葉で葺いて囲った家に住んだのです。
 真っ先に山を切り開き、金のなる木コーヒーを植えました。二年目には花が咲くはずでしたがさっぱり咲かず、三年目も僅かしか咲きませんでした。コーヒー園の中には雑草のカルルーが一杯に生えているので、母はそれを摘んで来ておひたしにして、ご飯のおかずにして食べたのです。四年も過ぎ、五年目となってもコーヒーの花は僅かしか咲かず、そこでコーヒー園の中に米やトウモロコシを植えてお金儲けをしました。
 レジストロは奥地と違って、年に何回でもコーヒーの花が咲き、収穫が大変だという事が分かったのです。
 その頃父はどうしても日本に帰らなければならないので、お金儲けを焦ったそうです。それはブラジルに来た時に二歳になる長女と義理の母を残してきたので、約束通り迎えに行かなければならなかったのです。でも六年目に父はどうやら日本に行くことが出来、一年日本に滞在して、清丸家の大きな墓を建て、いろいろと後片付けをしたそうです。清丸家では一人しかいない身内である母の兄さんに住んでもらって、再びブラジルに戻ってきたのです。
 父の留守中、母は小さい二人の娘と百姓を続け、鶏を沢山飼って待っていたのです。昔の事で、家は荒屋ですから、夜はいつもフォイセを枕元に置き、犬は家のそばに繋いで置いて寝たそうです。電気などない時代で石油ランプのカンテラですから心細い夜を過ごしたそうです。
 一年間も家を留守にした父が帰ってくるなり、家の中は急に賑やかになりました。娘三人、おばあさんと六人暮らしになりました。日本では夢のように思っていた金のなる木コーヒーはあまりにも実が付かず、一緒に入植した人たちは次から次へとサンパウロなどへ引っ越していきました。そのうちに次々と子供も生まれ、八人の子沢山になりました。その頃から父の体は何となく弱って、病院通いをするようになりました。上の娘三人は母と畑仕事に精一杯でした。娘盛りの娘たちは遊ぶどころか父の養生、薬代、家族の生活費に追われ、一所懸命働いたのです。父はサンパウロの日本病院で手当てをしていたのです。その当時、サンパウロまで行くには汽車を乗り継いでも三日もかかりました。そんな家族の懸命な努力と治療の甲斐もなく、父は四十九歳という若さでこの世を去ってしまいました。その時、主人は十四歳だったそうです。父親が亡くなってから、母は主人に「おまえは長男だからこれからは父親に代わってこの家を守ってくれ。娘たちはいつか皆嫁に行ってしまうのだから」と頼んだそうです。
 その母も孫が産まれる度に娘や息子たちの家を回り、赤ん坊の面倒を見るのを無上の楽しみにして、七十六歳で父の元へ旅立っていきました。
 今から二十六年前の一九八〇年、主人と私が初めて日本へ行った時、石川県小松市へ直行しました。小松市には父の家がいまだに残っています。村には石造りの清丸家の大きな墓がそのままにあります。それから十年経って、二度目に行った時には主人の両親とお婆ちゃんのお骨を持って行き、お墓に納め、永代供養をお願いしました。そうして三度目に訪日した時には、主人は「清丸家の墓」をブラジル語で書いたシャッパを持って行き、お墓に取り付けました。もし、日本語の読めない子供や孫が日本を訪問した時に、清丸家はこの村から出たことを知って欲しいからです。
 その昔、このレジストロに一緒に入植した十八家族の石川県人の家族のうち、今残っているのは三軒だけです。池田さん、坂野さんと清丸です。他の家族はみな都会や他の地方へ行き、また一世は殆どが亡くなってその子供や孫たちが成功していて、よく県人会で会います。私も毎年開催される石川県人会総会には必ず参加しております。


思い出に残る歌い手たち

名画ナツメロ倶楽部 津山恭助
⑦霧島昇
 昭和一四年から一年間にわたって、古賀政男はアメリカから南米のブラジル、アルゼンチンの旅に出かけた。日米開戦を二年後に控えた時期だけに、現地の空気はかなり緊迫したものであったらしい。古賀の帰国第一作は「誰か故郷を想わざる」で作詞は西条八十。霧島昇が吹き込んだこの曲は、当初コロンビアが期待した割には全く売れなかった。昭和一五年といえば、レコードの本流は軍国調に移りつつあって、軍部の中には「古賀メロディーは軟弱すぎる。戦意を高めるどころか、悲しくなる歌が多い」と批判する声もあった。コロンビアでは古賀人気をあてこんで、「誰か故郷を想わざる」を大量にプレスしていたので、在庫の処分に困っていた。窮余の一策として、戦地へ慰問品として発送することにしたのだが、戦地では故郷を懐かしむ兵士達の間で広く愛唱され始め、思いがけない反響をよぶ結果となり、国内でも歌われはじめ、さらには霧島の代表作にまでなっていくのである。
 日本の敗戦後、外地で不幸にして戦犯となった日本兵の中には、この曲を友人と一緒に斉唱しながら敢然と刑場へ歩いて行った人々もあったという。霧島の曲の作詞は西条八十のものが多いようで、もう一つの代表曲「旅の夜風」(昭和一三年、万城目正作曲)をはじめ、「純情二重奏」(一四年、万城目正作曲)、「蘇州夜曲」(一五年、服部良一作曲)、「若鷲の歌」(一八年、古関裕而作曲)、「麗人の歌」(二一年、古賀政男作曲)、「三百六十五夜」(二三年、古賀政男作曲)などのヒット曲が並んでいる。
 それと霧島の持ち歌の大半は女性とのデュエット、というのも大きな特徴であろう。一人で歌っているのはよく知られたものの中では「誰か故郷を想わざる」「赤城しぐれ」(一一年)「旅役者の唄」(二一年)を除いては、全部女性歌手とのデュエットとなっている。それも、ミス・コロンビア(のち、松原操)を相手にしたものが多く、「旅の夜風」をはじめ、「一杯のコーヒーから」(一四年)「目ン無い千鳥」(一五年)がそれであり、外では「純情二重奏」(高峰三枝子)「蘇州夜曲」(渡辺はま子)「新妻鏡」(一五年、二葉あき子)「リンゴの唄」(二〇年、並木路子)等々。察するところ、彼の独特の鼻にかかったソフトな歌い方は強烈な個性にはほど遠いため、女性との調和がよくとれたのかも知れない。もう一つ、霧島のヒット曲には大衆小説の映画化の主題歌が多いのは、やはりそれだけのネームバリューがあったせいだろうが、「愛染かつら」(川口松太郎)、「新凄鏡」(小島政二郎)、「三百六十五夜」(小島政二郎)などがある。
 また、ミス・コロンビアは昭和八年「十九の春」でデビュー、「並木の雨」も評判が良く、一三年には「旅の夜風」を霧島とデュエットで歌うのだが、これは空前の大ヒット、翌一四年「一杯のコーヒーから」で再び霧島と組んだのち結婚、以後は本名の松原操を名乗っているが、二人は芸能界でも有数のおしどり夫妻として知られ、戦後には「三百六十五夜」を最後に引退、育児に専念し、二度とステージには立つことはなかった。そして彼女は、昭和五九年に霧島が病死(七〇歳)し、その四十九日忌の一週間後に、あとを追うように他界している。
 霧島の歌には、カラオケで歌うには結構高音のところが多いのだが、それでも「一杯のコーヒーから」「新妻鏡」「蘇州夜曲」くらいなら、まだついていける。


3時間待ってもリオのカーニバルは最高!

JICAシニア・ボランティア 宇野妙子
  「カーニバルにでない?靴のサイズを教えて」と一時帰国していた私に上原さんから連絡が入った。TVでしか見たことがなかったリオのカーニバルに参加できるなんてホント?
 老ク連から上原さんと金藤さんの三人でデビュー予定が、上原さんの突然の足首捻挫という事態になり、代わりにシニアボランティアの加藤さんと三人で参加した。
 二月二十七日深夜、その日はやってきた。
 「マンゲイラのメンバーで踊るので歌だけは頑張って覚えてね」数日前に純子さんが歌詞とCDをくださったが覚えられるはずはない。急きょサビの部分だけ丸暗記。サンバの練習も無く不安だったが、何よりも一番大変だったのはその衣装、自分に合うように手なおしをする。羽のついた冠、道化師のような上下にキンキラの飾りがついたものを身にまとい手には楯。あまりの派手さに前、後ろがわからない。記念写真を撮り終えてから引率役の多美子さんから「みんな後ろと前が反対ですよ」と指摘された。全員、一瞬唖然とし、次に笑い転げながらもやり直して、カメラにおさまる。会場に着くと様々な衣装を着けた人がいっぱいだ。パレードの出発までワクワクしながら、集合してから三時間、ひたすらまった。
 花火の合図とともにようやくスタートと思ったら順番が来るまでまだまだ待つ。暑さで衣装はぐっしょりのなか動き出したチームの一員となり一生懸命踊った。 おおぜいの観客にも驚き、最高の感激にひたりながら、ブラジルでの大きな思い出に残るパレードをおえた。


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