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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2006年5月号

2006年5月号 (2006/05/15) ゴムブームの繁栄を感じたベレン

シニア・ボランティア 宇野妙子
 三月二十日、二十一日とベレンの厚生ホームにおいて福祉分野の青年・シニアボランティアが集り、意見交換や施設見学を行う連絡会議に参加した。
 その前後の移動日に自由時間を使って、十九世紀のゴムブーム時代に建てられた立派な歴史的建造物のナザレ教会、パース劇場を見学する。パース劇場には階段にも金を飾り、まばゆいばかりの豪華さであった。四十年間のゴムブームでの繁栄ぶりが、町にある建造物から感じられた。
 アマゾン河口にあるベレンはゴムの積出港で、その名残りは古い倉庫を改修したドッカスとなり、お洒落なスペースになっている。そこでアイスクリーム大好きの私は、多くのトロピカルフルーツの中から紫色のアサイのアイスを選び、「歯がオハグロになっているよ」とみんなに笑われた。
 また、夕食にはアマゾンの産物である泥ガニを食べる。ダイナミックなその食べ方を再現すると、テーブルには石版と石の平たい棒が置かれる。ゆでたカニの足をちぎっては板の上でたたいて身を飛び出させ、手で食べる。みんなひたすら、無言でカニをたたく音だけが広い店内に響いた。でもその味は絶品。今思うと、もう一匹食べておけば良かったなと喉がゴクリと鳴った。
 アマゾンに行かれたら「泥ガニ」をご賞味してくださいね。


先祖の事、家系の事

サンパウロ中央老壮会 内海博
 今、自分史が流行っているようだが自分史。気付いた事、知っていることを記録して残しておくことは非常に大切なことだと思う。
 我が内海家の先祖は島根県だという。神奈川県(当時徳川の始まりとなる三河の国)に移り、次いで江戸にでてきたのが内海繁造で、今の東京都江東区浅草神吉町六番地に居を定めた。繁造は上野の山の戦争を体験したという。
 この繁造は大変長生きで、百三才の天寿を全うした。その息子の周吉は私の祖父で、この人も元気で、職業は建築関係。八十一歳の時に二階の丸太の梁の上を歩いて、職人を指図したという。昔の上野駅の工事に参稼したことを誇りにしていたという。これまた長寿で八十六歳で亡くなった。この祖父の訃報を受けたのは、戦争のほとんど終わりに近い一九四四年のことで、その息子である私の父は、綿畑の隅に腰をおろして何も言わず、じっとしていた。その姿は今も忘れられない。父はブラジルに来る時、ちょっとすぐそこいら迄行って帰るような嘘を言ってきたという。その事をいつもなげいていて、親に嘘をついたと、自分を責めていた。
 周吉の娘、しげ(私の父の姉)も長寿で、浅草清島町の墓には百二才で亡くなったという墓標が建っているのを妹・文子が見てきている。それより十年も前に訪日していた母が知っていたら、生きているうちにあえただろう、と残念であった。このようにもう古い話だが、家族の記録として書いておきたい事の一つである。内海の家紋は「丸に木瓜」である。家紋の有る呂の羽織を母はブラジルまで持ってきていた。そして父の棺の下へこれを敷いたのを見た。
 母方の本家は鈴木家。岩手県岩谷堂に居を構えていた。母の祖父、鈴木右工門は岩木藩のご祐筆職であったというが、その生業は実に貧しく、内職はもっぱら「筆つくり」で、家族もこれに従い、母も父も晩年まで筆を作っていた。それで母や母の妹・寿尾は早くから東京へ出かせぎに行き、その頃では新しい職業であった電話交換局の交換手などの職について居た頃、父と知りあったという。
 母は六人姉妹の二女で、長女の貞女は若くして腸捻転で死去。母は家族の責任者として、年若い家つぎの弟を補佐していたが、弟・敬吾は若くして大病を患い、ほんの暇つぶしのように、地元の警察所に勤めていた。娘・都多子がいて、戦後、間もなく一度手紙をくれたが、今は音信不通である。
 三女の寿美は北海道の斎藤家へ嫁にゆき、二男二女に恵まれるが、ブラジルとは全々交際もなく、便りもない。まだ私が子供の頃、この斎藤の叔父が(北海道には大きな熊がいるが、まさか熊を送ってやる訳にもいかないが、いまに熊のウンコを送ってやるから…と)面白い叔父であった。母といっしょに東京へ出ていた寿尾は後年、武田六三と縁組し、その武田がブラジル行きを提唱して、ブラジルへ一緒に来た。寿尾は子供がなく養女(弘子)を日本で貰ってきて、それが武田の家を継いでいるが、婿は岡本吉春。子供が六人。ブラジルに来た時からずっとプロミソンに住んでいるが、全く便りもなく、子供達も何をして居るか分からない。母の一番末の妹が朝生で一九一一年生まれの九十一才で、母の姉妹でたった一人残っているが、今でも元気にゲートボールへ出かけているという。この叔母の次女「佳子」がブラジルへ手紙をくれるので、こちらからも勤めて便りをするようにしている、その兄弟姉妹がいるが、誰も手紙をくれた者はない。
 この母の実家の家紋は「内藤藤」(ないとうふじ)だというが、母は何もこれに関係する物は持ってはいなかった。先祖は藤原の流れだという事を聞いたが、確かなこと、文献等は何も無い。


小さな旅

ジュンジャイ睦会 長山豊恵
 朝四時、甥夫婦が子供連れで迎えに来てくれた。外は暗く、少し寒さを感じながら自動車に乗った。これからパラナに向って六百キロ、車は走る。
 行けども、行けども夜が明けない。月も無く、闇夜の上に車の窓ガラスは黒であるので、尚更暗い。窓ガラスを開けてみると空はどす黒く、雲に包まれて今にも雨が降りそうだ。ようやくシラシラと明るくなり始めると、雨が降り始めた。
 サンタ・バルバラを通り抜けてマンヅリの町に着いた。そこには甥の父親が住んでいる。朝のカフェーをよばれて、父親も一緒に行くことになった。その頃は明るく雨も止み、車は走るだけだった。
 道の両側に見えるのは、カンナやミーリョばかり。ところどころ糖キビのの花が咲いている。
 昔はカフェーの樹の中を走っていたが、今は低い植物で道は明るく、畠の真ん中のピスタも向うの方まで見える。
 オウリンニョスまで来たので、持ってきた弁当を勧めたが、「もうすぐ着くし、この雨の中では立寄るところもないから行こう」と車は走り続けた。
 目的のローランジアの町には、従兄弟達が住んでいる。家の番号を覚えていないため、「とにかく、町の高いところでカイシャ・ダ・アグアの前に住んでいるから、カイシャを探して行こう」と町に入った。が、今はローランジアも高い建物が出来て、目指すカイシャが見えない。二度廻って来ると、従兄弟がポルトンに立って「こっちだよー」と手を振りながら迎えてくれた。何年ぶりかの顔合わせで、取り留めない話が尽きぬまま、夕ご飯になった。
 翌朝、早々にフェイラに行ってみた。案外、安い物がある。甥は子供達を連れて色々と買い物をしていた。楽しい時が過ぎ、至れり尽くせりの上げ膳据え膳を感謝しながら帰り仕度をしていると、又雨が降ってきた。なかなか降り止まないので、仕方なくこのまま帰ろうと雨の中で別れた。
 雨は追いかけるようについて来る。否、こっちが雨の中に入って一緒に車を走らせていく。行けども、行けども雨の中である。カステロ・ブランコ街道に入ると、とっぷりと暗くなった。それでも雨は止まない。 わが町に近づくとピスタの工事中で、どこもかも掘りおこしている。泥水はどんどん道いっぱい流れているし、狭い夜道をよけることも出来ず車を走らせていると、後から来た自動車が通り抜けたいのか近づいてくるなり、「ピシャッ」とガラスを汚した。
 鏡が汚れて見えなくなった甥は腹を立てて、「シンガしてやる」と窓ガラスを開けた途端、反対から来た車が「ピシャーッ」と車の中に泥水を飛ばしこんだ。「ワーッ」と驚きの声とともに笑い声が起きた。甥は益々怒って、汚れた顔が車光に赤黒く照らし出されていた。
 やたらに腹を立てるとお返しが来ると、つくづく思ったことだった。


端午の節句

カンポ・グランデ老壮会 成戸正勝
 五月五日を端午の節句と言って、男の尚武(しょうぶ)的な気性を養成する日と思われていますが、それは武家時代以来のことです。
 昔、支那の戦国時代、西暦三百年前頃に生きていた詩人で、現在でも民族の英雄として崇められている屈原(くつげん)が、讒言によって王から追放され、淵に身を投じて死にました。その後、支那で五月の初めに弔ったことが行事の起源として伝えられ、日本でも平安時代に宮廷で支那の風習に習い、五月の節句として行われるようになったと言われています。
 でも民間では、田植えとの関係から五月は大事な月とされ、青少年に関係のある行事となったらしいです。それに支那風の習慣が重ねられ、端午の節句となったのです。三月三日の桃の花に対して、菖蒲を節物とするので、菖蒲の節句、菖蒲の日とも言います。東京では新暦五月、関西、その他では六月五日にやっています。
 端午の節句には、軒の上に高い香のある緑色の菖蒲を葺いて、蓬(よもぎ)を添え、邪気を払うという風習があります。この菖蒲は「のきあやめ」と言われる菖蒲で、花菖蒲ではありません。近畿、中国地方では「もぐさ」と「おうち」とをまじえて葺いています。
 又、端午の節句には、古くから邪気払いとして、菖蒲の根と葉とを浮かべた湯に入浴する習慣があり、背銭湯などでもこの日は菖蒲湯にします。美女が水の霊に娶(めと)られて、菖蒲湯に入って災いを免れたという伝説が付いている土地もあるそうです。
 端午の日に使う酒を菖蒲酒と言います。菖蒲の根の二寸近くものを刻んで酒に浸したもので、邪気を払うと言います。あやめ酒とも言います。
 五月の節句に食べるものに粽(ちまき)があります。もち米、うるち、くず粉などを練って、熊笹、菖蒲などの葉や竹の皮で包み、その上を糸、藁、管などで巻き、蒸したり煮たりしたもので、地方によっては正月に食べるところもあります。
 柏餅も端午の節句に供えます。しん粉を練ってしんこ餅を作り、皮の間に小豆餡か味噌餡を入れて、柏の葉に包んで蒸した餅菓子です。
 鯉のぼりには真鯉、緋鯉を真似た一対の五月(さつき)鯉が五色の吹流しを付け、幟竿(のぼりざお)の上の矢車は、風を受けると音をたてて回ります。
 武者人形は、元禄以降は次第に華美となり、内幟や武具などと共に座敷に飾られ、神功皇后、武内すくね、弁慶、加藤清正、坂田の金時、鍾馗などが有名です。


思い出に残る歌い手たち

名画ナツメロ倶楽部 津山恭助
 ⑧ 近江俊郎
 戦後、次第にアメリカナイズされていった日本の社会において、古賀メロディは古風なものとして見捨てられていくのではないだろうか、その不安が日本の音楽界にあったのは当然のことかも知れない。ところが、そんな心配は杞憂に終り、一般大衆は戦前からの映画と流行歌の組み合わせという手法をあっさり受け入れて、「麗人(「麗人の歌」)「ある夜の接吻」(「悲しき竹笛」)「三百六十五夜」(「同名」)とヒットが続くのである。その中で最も売れたのは昭和二三年の「湯の町エレジー」(野村俊夫作詞)で、「戦前と同じですなア」とい
う批評が古賀の周囲から出ていたのだが、予想は見事なまでにはずれ、結果的には古賀メロディ中の名作の一つに数えられるほどになってしまった。
 この歌は当初の巡業では霧島昇が歌っていたのだそうで、レコーディングするという時になって、近江俊郎に代えられたという。近江が起用されたのは、前年(二二年)のNHKのラジオ歌謡で「山小舎の灯」(米山正夫作詞・作曲)を歌って評判となり、このイメージが「湯の町エレジー」につながるとして、彼に白羽の矢があたったもの。低音より高音の方が美声の近江には、曲の初まりの「伊豆の…」「イ」がマイクを通すと「○ズ」となってしまい、二十四回目にやっと録音室からのOKが出るほどの苦労だったという。しかし、発売されるとたちまち日本全国の夜の歓楽街で流しのギター連中に愛奏され、長く大ホームランになったのである。
 近江は戦前古賀がテイチクの文芸部を牛耳っていた頃から、「歌手になりたい」と売り込みに来ていた。しかし、彼の実兄は映画興行界の実力者の一人として知られる大蔵貢であり、「弟は自分の仕事を引き継がせて、実業家にしたい。だから、テストを受けに来ても必ず落してくれ」と命じられていたので、歌手としてのスタートは少し遅れたが、十九年には「月夜船」(藤浦洸作詞、古賀政男作曲)を出している。戦後になってからは二一年に奈良光枝との「悲しき竹笛」(西条八十作詞、古賀政男作曲)などを経て、NHKのラジオ歌謡の常連歌手ともなり、「黒いパイプ」「明るい雨」「想い出は雲に似て」「山小舎の灯」等を歌っており、エキゾチックな感じの「南の薔薇」(二二年、野村俊夫作詞、米山正夫作曲)を出したのち、「湯の町エレジー」につながるのである。二四年の「ハバロフスク小唄」(野村俊夫作詞、島田逸平作曲)は、大陸からの引揚者の多かった世相を反映した外地ソング、「異国の丘」「シベリヤ・エレジー」「ああモンテンルパの夜は更けて」などの流れを汲むものと言えよう。
 三六年の「別れの磯千鳥」(福山たか子作詞、フランシス座波作曲)を最後に、近江は芸能界から身を退いて実業人に転向したが、昭和五十年代の民間テレビ歌謡番組で、奈良光枝と二人で「悲しき竹笛」を歌っているのを聴いて感激もひとしおだったことを覚えている。
 さて、カラオケでは「山小舎の灯」「湯の町エレジー」「別れの磯千鳥」、それに「黒いパイプ」「想い出は雲に似て」もいけそうなのだが、あとの二曲はメロディがないのが残念である。


混血曾孫

イタニャエン 稲垣八重子
 長生きをしていると色んな事に出遭うものだ。喜びあり、悲しみあり、これが自然の現れであろうか。
 つい最近また、一人の混血の曾孫が誕生した。
仕方がないよなぁーと心の中で呟く老。でも昔程悲観はしない。
混血でもいいよ。丈夫で良い子に育ってくれれば一番うれしい。
五、六歳位になると「ばあちゃん」と呼んでくれる。これも移民の宿命か…。
 我等大和魂を受け継ぐお前たちよ。強く、正しく、明るく時代の戦士となってくれ。これからの新しく明るい世界を切り開いていく勇気満ちた前途ある曾孫たちよ。すこやかな立派な人となってほしい。
 混血曾孫ばんざい。


民話と伝説 ④

「暗いな祭り」
サンパウロ鶴亀会 猪野ミツエ
 ふつう祭りといえば昼間に行うものですが、東岩代八幡の祭礼は毎年八月十四日の夜に行われたので、「暗いな祭り」と呼ばれています。
 そのいわれは昔、東岩代八幡宮には社(やしろ)はあったが肝心の御神体がありませんでした。
 村の人たちは何とかして、御神体のある八幡宮にしようといろいろ考えましたが勝手に作るわけにもいかず、困っていました。
 ところがある時、村人の一人が「他の神社から盗んでこよう」と言い出し、村人の皆も「それがよい」ということで、早速実行することになりました。
 「盗もう」と決めたのは、切目王子神社の御神体です。闇夜を選んで出かけ、うまく盗み出しました。帰る道はこんもり茂った森の中ばかりです。昼間も暗い山道を闇夜に通るのですから、それこそ何も見えません。あまりの暗さに、いつのまにか誰が言い出したともなく、「暗いな」「暗いな」という声が掛け声のように聞こえ始めました。
 これが「暗いな祭り」の名のいわれだそうです。
~和歌山県日高郡南部 町の伝説より~

「野尻湖の沈没船」
サンパウロ中央老壮会 大窪正子
 信州の最北の地、新潟とのほぼ県境に近い野尻は昔は北国街道の小さな宿場の一つでした。
 ここに周囲が十数キロの野尻湖という小さな湖があります。湖心には弁天島という弁天様を祭った島があり、湖畔には外人村や別荘が建ち並び、夏には避暑地として賑わいを見せます。
 この湖の底にはヒノキや杉などがそのままの姿で立ち枯れており、その枯木の森にあかがねの船が沈んでいると昔から伝えられています。
 それは上杉謙信の知将、宇佐見貞行のもち船だと言われております。
 ある時、謙信の姉婿でひそかに謀反を企てていた長尾政景を誘い出し、貞行は湖に銅船を浮かべました。そして湖上のモミガ崎というところで船底に穴をあけ、政景をいだいて、水底に沈んだと言われています。
 その後、幾度も銅船を引き揚げようとしましたが、いつも失敗に終りました。水が冷たいのと、巨木の間に挟まっているので、引き揚げられなかったのです。
 近くには政景の具足の一部を祀ったという寺があります。
~長野県上水内郡信濃 町の伝説より~


童話 「春子ちゃんとたんぽぽ」

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
  ある朝、春子ちゃんはお母さんと散歩をしていました。空は麗かに晴れて、気持ちのよい朝でした。
 春子ちゃんは春に生れたので「春子」と言います。
 お母さんと手をつないだり、蝶を追いかけたり、木の幹に抱きついてクルッと回ったりしていましたが、道端に不思議なものを見つけました。丸いピンポン玉くらいで、沢山の棒の先に白い綿毛がのっています。
 「お母さん、これ何?」とお母さんに聞きました。
 「あぁ。それはタンポポの実よ。こうするとね、遠くへ飛んでいって、そこで芽を出して、また、花が咲くのよ」。
 お母さんは説明しながら。フッーとタンポポの実を吹きました。
すると茎から離れた綿毛は風にのってふわふわと飛んでいきました。
 「タンポポが芽を出したら、また、見に来ましょうね」とお母さんが言いました。
 「うん、早く芽が出るといいね」。
春子ちゃんは手を叩きながら、タンポポの消えたお空を見上げました。
 どこかで小鳥がチチッと鳴きました。


老ク連風景

☆カラオケ余話
 男の人はカラオケ教えるのが難しいそうよ。何かちょっと注意するともう来なくなるんですって。でも先に褒めてから後で注意をするといいそうよ。だけどうちの人なんか、褒められたことしか覚えてないわよ。まったく幸せな性格なんだから。

☆東山農場にて
 「これがハルとナツのあの時の場面で使われた場所です。覚えていますか?」
 「さぁねぇ?」
 「これはあの時のあの場面で…」
 「さぁ、さっぱり覚えてないわ。二度も見たのに。年のせいかしらねぇ」
 「何言っているのよ。泣いたり、笑ったり、あら捜ししたり、その上、エキストラに知っている人がいないかなんて見ていて、忙しすぎたのよ」
 「あぁ、そうか。もう一度見直さなきゃね」

☆私って、あわて者?
宇野先生「ブラジルはすごいのね。診察する前に注射をするのね」
職員「えっ?何で?そんなことないわよ」
先生「だって私、肩が痛いからって、診察をお願いして、待合室で待っていたら私の番号を言ったので診察室に入っていったら、いきなりブチューって注射をしたのよ」
職員「そんな馬鹿な。何も聞かなかったの?」
先生「聞いたわよ。痛み止めですかって?」
職員「そうしたら、どうしたの?」
先生「何か言ったけど、ポ語だから分からなかったの。そうしたら注射されて…」
職員「でも普通は○○さんって、名前を呼ぶのよ」
先生「あら、だって私の持っている番号を言ったのよ」
職員「何の番号を持っていたの?」
先生「さぁ、みんなそこで待っている人が番号を持っていたから『それ、どこで貰うのですか?』って聞いて、あそこで貰うって言ったから貰ってきて、待っていたのよ」
職員「ふーん。あっ、分かった。それ、風邪の予防注射よ」
先生「エッー、そうだったのー。でも変な注射じゃなくて良かったわ」


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