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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2018/12/14)
2006年6月号

2006年6月号 (2006/06/08) 天皇皇后両陛下に接見して

元老ク連シニアボランティア 安達正子
 今年の三月一日は私にとって生涯、忘れることのできない日となりました。天皇皇后両陛下に親しくお目にかかることができた日なのです。
 日系社会シニアボランテイアとしての働きが評価されての接見ということだったので、本当にうれしくまた有難く、期待に胸をふくらませてその日を待ちました。
 世界で活躍した、海外シニアボランテイアから五人、日系社会からは私一人の計六人が、緒方貞子JICA理事長、大塚正明JICA事務局長に伴われて、御所に向かいました。
 接見の時間は一時間が予定されていました。天皇皇后両陛下に私達の仕事の報告をし、それに対してのお言葉をいただくというものでした。
 驚いたことに、接見の間はあまり広くなく、テーブルをはさむと、すぐそばに両陛下が居られました。こんな近くで両陛下にお目にかかることができ感動で打ち震えました。 お近くで拝見する天皇陛下は若々しく、また美智子皇后は気品に満ち、まだ冬の装いの御所のお庭を背景に座わられ、終始おだやかに、そして興味深く、私達の話に耳を傾けてくださいました。そしていろいろと質問され、労をねぎらってくださる両陛下の温かいお心遣いが心にしみ込んでまいりました。
 話が弾み、お茶やお菓子をいただきながら、予定時間の1時間を大幅に越え、一時間半も親しくお話させていただきました。
 その折、わたしはなぜシニアボランテイアを志すようになったのかを自己紹介を交えて話させていただきました。
 また、日系の皆様の明るくがんばっておられる様子をお話しすることができましたが、同時に、移民として渡られた初期に、計り知れないご苦労を重ねつつ、ブラジルの地に、立派に日本人として根を張って生活してきた、日系の方達の日本語を話す世代が減りつつあること、その足跡を残したいと思い、自分史を書いていただいた事を話しました。
 そして持っていった自分史をお見せしたところ、両陛下は手にとってごらんになり、大変興味を示されました。そして時代の貴重な証言となるこれらを、コロニア文学として是非、ブラジルでも、日本でも大切に保存するようにとおっしゃって下さいました。
 両陛下はまた、サンパウロの民族資料館を訪れた時の事を懐かしそうに思い出されながらお話しになられ、日系の皆様への愛情溢れるお心を感じることができました。
 緊張し、あとから振り返るとあれもこれも話したかったと思うことばかりでしたが、ひと時はあっという間に過ぎて、無事にJICAに帰ってまいりました。緒方理事長からも、大変良い接見でしたとの感想をいただきました。
 皆様に書いていただいた自分史は、横浜の資料館に保存されることになりました。
 二年間の私のボランテイア生活は、豊かに実を結び、思いがけない素晴らしい体験で締めくくることができ心から感動しております。そして、未熟な私を支え励まし、受け入れてくださった日系の皆様の事を決して忘れません。心からお礼を申し上げます。


思い出に残る歌い手たち

名画ナツメロ倶楽部 津山恭助
 ⑨ 灰田勝彦
 ヨーデル(裏声)を取り入れた、独特ののびやかな鼻にかかった甘い声で、戦中戦後にわたって長い歌手生活を続け、万年青年の感があった灰田勝彦はハワイのホノルル生まれである。十二歳の時に慈善病院長だった父が亡くなって、一家で日本に帰国した。立教大学在学中に、兄の晴彦(のち有紀彦)のひきいるハワイアン・バンドの専属歌手となり、昭和十一年に「ブルームーン」で正式にレコード歌手としてデビューするとともに、翌十二年にはミュージカル映画「たそがれの湖」(伏水修監督)に江戸川蘭子、岸井明らと共演、映画俳優としてもデビユーしている。十三年には「愛国行進曲」をレコーディングした直後に召集令状を受けて、二年間の軍隊生活も送っている。十四年に除隊後に芸能界に復帰、翌年映画「秀子の応援団長」(千葉泰樹監督)で野球選手に扮して、高峰秀子らと共演しているが、主題歌「燦めく星座」(佐伯孝夫作詞、佐々木俊一作曲)が大ヒット、一躍青年歌手として女性のアイドル歌手となった。一方、レコードでも「森の小径」(一五年)、「マウイ・ワルツ」(一六年)、「ジャワのマンゴ売り」(一七年)、「鈴懸の径」(一七年)と順調な売れ行きをみせ、藤沢桓夫原作の映画「新雪」{五所平之助監督}の主題歌「新雪」(一七年)も大ヒット、水島道太郎と月丘夢路が共演したこの映画は、戦時中の佳作の一つとされている。
 また、「加藤隼戦闘機(山本嘉次郎監督)の主題歌「加藤部隊隊歌」(一八年)も歌っている。
 戦後も歌と映画に活躍を続けているが、レコードでは「紫のタンゴ」(二二年)でスタートし、二三年の「東京の屋根の下」に続き、「君と行くアメリカ航路」(二五年)、「アルプスの牧場」「水色のスーツケース」「野球小僧」(何れも二六年)で人気を維持している。
 興味深いのは、灰田の歌の作詞の大半は佐伯孝夫の作品であり、「森の小径」「鈴懸の径」は実兄の灰田有紀彦が、「燦めく星座」「新雪」「アルプスの牧場」は佐々木俊一が作曲したものである。佐伯孝夫は西条八十に師事した人だが、ヒット曲もすごく多く、特に吉田正(作曲家)とのコンビのものが圧倒的な数に上っており、代表的なものでは、「流れの船唄」(鶴田浩二)、「東京ナイトクラブ」(フランク永井・松尾和子)・「いつでも夢を」(橋幸夫・吉永小百合)、「再会」(松尾和子)、「潮来笠」(橋幸夫)等がある。
 なお、灰田は戦後間もなく何本かの映画で共演した相手である高峰
秀子とのロマンスが噂となったこともあったようである。
 この人の歌は軽やかな調子で歌い易いので、私のカラオケのレパートリーとしては「新雪」「燦めく星座」「東京の屋根の下」「水色のスーツケース」「森の小径」と並ぶのである。


熊本小話し

サンパウロ中央老壮会 内海博
★こんごらぁー、あたー税金の高こうしなち、きんにょの休みに箱崎さ参っち、神主さんに、よーとお願いばして来たてん。《ふーんそんなちいたあー安うなったてん。》
 そいがくさ、神主さんな長かのりとばあげなはって、はらいたまえ払いたまえていわはてん、しかたなかばい。
★今度の日曜日にくさ神主さんば呼んで、リベルダーデの老人クラブが敬老のひば記念して公園に記念樹ば植ゆるごつなったち、どげな樹がよかろかい?
 そりあくさ、年寄りの喜ばれるごつ、短かか樹よりも長い樹(長生き)ば植ゆっとよかばい。
★あんたーこんごろ仲人ばしたげなない。うん、したこたあしたばってん、嫁ごん親がくさ仲々ウンていわっさんもんで、そにゃ三三九度(散々苦労ば)ばした。
★こん頃あ、あっちこっち大けなアベニーダばつくらっさるもんで、あそこのお墓も移らっさるげな。
 始はくさ、大けな石墓ばかりじゃけん、はかいかん墓移管ちいいござったばってんこんこらあ墓地ボチいきまっしょげな。
★長こう雨のふらっさんけん、百姓さんな、困っちょらすて、そらーはようー天の神様に応援ば頼んでやい。どげんして頼みああよかとかい。
 雨乞いの応援のこつけん、ふれーフレー降れーに決まっちおろ。


後楽 無責任時代の指導者たち

名画なつメロ倶楽部 塩原保男
 東京の後楽園はもとの水戸徳川家の江戸上屋敷内にあり、黄門様とよばれた光圀公が、武士の心構えはかくあるべし、として名つけられたという由です。それは指導階級である武士は庶民に先んじて生活を楽しんではならない。常に民たちの行う祭りなどがうまく行くように監視して、それを見届けた後で、自分達は楽しむように、と云っています。
 さて、今日本で構造改革を推し進めている小泉さんは後楽の人と陰ながら応援していたのですが、近頃起きているもろもろの奇怪な事件、たとえばライブドアによる株価の不正操作を行った堀江さんの選挙運動を支持してしまい野党に突き上げられたり、何かまったく普通の人のようで、がっかりです。財界の若き英雄として「ホリエモン、ホリエモン」と騒いでいるのに付和雷同したのではミーハー(ミーちゃん、ハーちゃん)だったみたいで、「人格調査不足で不明の至り」の答弁は一国の宰相らしくありませんね。甘い甘い。
 終戦直後〃バカヤロー解散〃を行った吉田茂首相は後楽の人だったなあ、と故人を偲んでいるところです。日本の経済が今日のように発展をしたのは、吉田さんが多くの人たちの反対を押し切って日米安全保障条約を結んだため、米国の保護のもとで、軍事費を殆ど使わずに国の経済力増強に集中できたからと考えられます。吉田さんと云う政治家は人間をよく分析していたようです。例えば「田中(角栄)さんは刑務所の塀の上を歩いているようで、いつ中に落ちるか分からない人に見える」といっていた由ですが、それが的中したのが〃ロッキード事件〃でしょう。
 さて、今日本で話題になっているものに建築法違反事件があります。身体障害者用の部屋を作り、市の検査で許可をうけたあとで直ぐそれを普通の部屋に改造して、市の条例を無視した営業をした、東横インホテル社長の言葉「条例より儲けが大事なんだ。」と、そして、二、三日後、前言をひるがえして謝り、やたら頭を下げる社長。
 また、防衛施設庁の談合事件、定年退職した上級職員を受け入れてくれる会社にたくさんの空調機などを発注した。上級職員は定年の少し前に功労で昇進し、沢山の退職金をもらう権利を獲得した上、高給の民間会社の役員にすべりこむ、というのですから、国民つまり納税者達には踏んだり蹴ったりです。この滑り込みがうまく計画されていて、上級公務員は法律で退職後二年間は関係のあった民間企業に就職できないように決められているので、技術者協会という法人が作ってあって、そこで二年間待機させ、その後民間に天下りさせる、という施設庁全体ぐるみの計画的な汚職です。
 〃お上〃という言葉は久しく聞かれなくなりましたが、お役人様は昔の〃お上〃"の言葉を大事に守って権威をかさに自己防衛に努めているようですね。これが比較的新しい役所である防衛施設庁ですから、古い省庁では揺すぶったらネズミどころかライオンが出てくるかもしれません。
 天照大神が高天原にお降りになった時が天下り(あまくだり)だと思っていたのですが、まだまだ日本は神代の時代で、それも質の悪い天下りに変わり、続いていているようです。どうも最近の日本の指導階級にはこれが日本武士の末窩か、と云いたくなるようなものが目立ち悲しくなります。
 心の問題のほかに日本では一人当たり六百から七百万円もの借金が国債の発行でできているのをみんな知っているのでしょうか。この借金を使って各県に美術館をつくり、世界的な名画を飾っているようですが、入場者が少なく赤字経営で頭を抱えているということです。
 また、同じくその借金で土地改良に多額の出費をし、河原を田圃に作り変えたものの、減反政策に切り替わってその田は使われなくなり、またもとの草ぼうぼうの河原に戻ってしまっている始末です。最近はビルの耐震構造の不足が問題になり国会で議論されているようですが、委員会に呼び出された建設会社の社長などが逃げ腰で答弁、責任回避に汲々としている有様を見て、ああ、みんないつでも逃げ腰ばやりの世の中、これでは本当に地震が来ても人的被害は起きないだろうと思います。なぜなら揺れる前から駆け出すあわて者もいるようですから。ひるがえって、こちらブラジルでも国会で今汚職騒動でごった返し、国民の信頼をなくしているようです。さて、日本の雑誌によると次世代を担う新興国としてBRIC(ブラジル、ロシア、インド、中国)の国々が挙げられており、一番初めのブラジルは農畜産物(大豆、綿、鶏肉、牛肉、豚肉など)に加えて自動車などの二次生産品の輸出でドルが余るほどになって、百年も続いた外債を返し、石油は自給自足で輸入の必要がなくなったと云われ、何かまゆつばのようですが事実とのことで、今まで耐えてきたインフレの長いトンネルに希望の光がさして来たようです。でも過去の例をみても油断は大敵で、喜び浮かれていては危険、とにかく人生は後楽ですよ、どこに落とし穴があるか判りませんから、安心して楽しむのは後にして、そろりそろりと用心深く行きますか。


夢を捨てないで

リベロン・プレット 川口はつ
 永年住み慣れたカンピーナスの地を後にしたのは去年五月でした。夫亡き後、一人暮らしの中で病床の身となり、数年耐えてきました。子供たちは皆、結婚して家庭を持っていましたが、交代で看護してくれました。視力は衰えましたが、家族に守られ、お陰で身体は回復しました。
 また独りぼっちの生活に戻りました。けれども年と共に淋しさが増していきます。身の丈の小さな夢を持ち、叶えられることをいつも願っていました。
 季節は幾度も巡り来て過ぎ去り、過去を振り返る日が多く続くようになりました。泣いたり、笑ったり、怒ったり、悲しんでみたりの暮らしでした。まるで一人芝居のようなものでした。若い頃はこんな思いなど想像もしませんでした。心の迷いはとにかく大きく、リベロン・プレット市在住の娘家族の世話になる事となり、やっと平穏を感じている次第です。場所も私好みを選んでくれ、そこからは平坦な広い街が一望されます。夜影も素晴らしく広い夜空には冴え渡る大きな月。夕刻には野鳥達が群れをなし頭上をチーチー鳴きながら寝ぐらへと急ぐ。とても可愛いのです。夢を叶えられた私は家族の愛に包まれ、感謝し、一日一日を大切に過しております。老いしても、持っている夢は捨てないで下さい。


日記をつけよう

サンパウロ中央老壮会 鈴木紀男
 日記をつけようといってもそれが長続きしないものであることは多くの人たちにとって、すでに経験ずみである。私自身、年始の三ページほどは文字で埋まっているが後のページは真っ白な日記帳が何冊もある。さて、この難しさをどうしたらいいでしょうか?
 思うに、日記とかしこまらずに雑記帳としたらどうでしょうか。一日の終りにこれも一日の終わりとこだわることなく、いつでも気の向いたときに何でも書き込む雑記帳を準備して、それに思いついたことを書き込む習慣をつけるのです。新聞や雑誌からの覚書でもいいし、買い物メモ、料理メモ、自分の体の調子、病気の経過、どこそこに行った、誰それにあった、誰と電話で何の話をした等など。雑記帳と考えれば、書くことはいっぱいあるでしょう。それに日付をつければ立派な。日記になると思います。
 書いて何になるか、などとを今はその効用など考えないこと。なぜならメモや日記は書いた翌日や一カ月後に価値が出てくるようなものではなく、数年数十年してから記録としての価値が出てくるものだからです。書いたときには何気なく生活のメモを知る人にすぎないのに、数年してから読み返すとそこに当時の自分がいきいきと写されていることに気づくはずです。


私のペット物語⑥ 「ファの思い出」

名画ナツメロ倶楽部 森田冨久子
 ある日、隣の娘さん達がパストールアレマンとロボ(狼)のあいのこだと言って、かわいい子犬を連れて来た。犬に目のない私は大喜びで我が家で飼うことにした。
 太い足をしていて、いかにも大きくなりそうだ。頼もしいパストロールアレマンを思い描き、我が家の小さい子供達と毎日散歩に出かけた。
 走るたびにファファと息をするので、ファという名前にした。隣の子達も毎日のように来て遊んでいった。
 一年ほどですっかり大きくなった。しかし、ロボの血が入っているだけあって、目は野生的である。近所の人々は怖がっていたけれど、私はこの野生的なところがとても好きだった。
 動物でも人間でも野性味の無くなったものにはあまり興味を感じない。夜もよく子供達と近くの公園に連れ出して、かけっこをした。近くに住んでいる白っぽい雑犬のオス犬と仲がよく思いきり二匹で公園を駆け回って嬉しそうだった。
 主人が魚釣りの好きな人だったので、よく黒鯛の大きいものを煮てあげたが、実に上手に骨を残して食べていた。
 その後、色々な犬を飼ったが、ファほど骨の事を心配させない犬も無かった。
 ちょっと荒れ果てた裏庭につながれて、今思うともっと遊んであげれば良かったなぁと思う。私も三人の小さな息子を抱え、ゆっくり面倒も見てあげられなかった。しかし、一度もうるさくまとわりつく事もなく、静かに控えていて、良い犬だった。小さい種類の犬だったらきっとうるさくくっ付いていて泣いたに違いない。大きな犬の良さはここにもある。そういう訳で我が家の家の人々は皆大きな犬が好きである。
 ある日、の明け方、カタカタと檻の鉄格子をはたく音がする。どうも遊んでいる音と違う。変だ!私は飛び起きて、犬小屋に駆けつけた。犬は鉄格子に寄りかかり震えている。毒を飲まされたに違いない。私は主人を起こし、犬の口に二人で牛乳を注ぎ込んだ。そして、待った。助かるかしら?どうかしら?三時間ほどして、犬は起き上がって座れるようになった。昼頃には起き出したのでホッとした。
 主人が「君は犬の事になるとすごいね。僕が死にそうになった時もこんな風にしてくれるのかな?」「もちろんよ」と言うと「そうかなぁ」とあまり信じていないようなつぶやき方をした。
 そのうちに主人の仕事が思わしくなくなり、犬の餌代も思うようにならなくなり、お隣のご主人も大変そうだと思ったのか「自分の会社が番犬を探しているから、良かったら会社に連れて行ってもいいですよ」とおっしゃって下さったので、私も淋しかったのだけれども、貰ってもらう事にした。
 車に乗せて連れて行き、会社の庭に繋がれた。私はもうファと最後だと思ったので、隣のバールでありったけのお金をはたいてハンバーグを買ってあげた。しかし、食べようともせず、泣きながら私の手にしがみついている。いつまでも居てもしょうがないので、振り向き振り向き別れた。ファはいつまでも私の後を追って泣き続けていた。それっきり私は二度とファに会えなかった。今でもあの日、好きなハンバーグも食べずに吠え続けていたファの姿を思い出すと、胸がキュッと痛くなる。
 ある日、牧師さんに「死んだら天国で自分の死んだ犬とも会えるのかしら」と聞いたら「犬は人間のように魂というものがないので、天国には行けない」とおっしゃった。「なあんだ。死んだ自分の動物達にも会えないような所なら、私は行ってもつまらないなぁ」と思い、あれから何か天国へ行く事がつまらなくなってしまった。牧師さんのおっしゃったことは本当だろうか?
 私は信じたくない。犬にだってきっと魂がある。私と生活を共にし、先に死んでいった動物達に私は会いたい!


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