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(最終更新日 : 2019/02/15)
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2006年8月号
2006年8月号 (2006/08/15)
「八月十五日前後」を想う
八月に入ってNHKや新聞で、戦争・ヒロシマなどの言葉が頭に残っていたせいか、偶然開いた古い本に、私の生まれ育った地域の人の日記が掲載されていた。当時の様子や信州人の反骨精神が まつやまふみお氏の証言から垣間見えるので、ここに紹介してみたいと思います。(上原)
▽八月十一日(土)晴 暑
本日より義勇隊作業はじまる。南条の水田の中で電柱の穴ほり。サルマタ一つで作業する。(ちょうど出穂期の稲田を掘かえす作業に、その田のあるじの老人が来て、ちょっとは稲をだいじにしておくんなすって、とおがむようにいうも哀れなりき)
稲をぬきて電柱の穴をほりしかば
その田の親父せつながり見にくる
帰途、夕立にあい、下までぬれてしまう。
▽八月十二日(日)晴 暑
山をくりぬいて大本営の御在所を造営したといわれる松代より(注・皇居が万一の場合に備えて、長野県松代に両陛下のお住まいを地下深く作った)、中塩田の大作業地へ電柱用丸太の運搬。浦里と中塩田の中間に横たわるひくい山を中心にしたこの作業地は穴だらけ也。水田其他農耕地のつぶされたる数もおびただし。(松代で丸太をトラックに積む作業中、一人の兵隊があやまって、その現場を指揮していた眼鏡をかけた若い見習士官の足元にころがす。士官怒ってその兵隊を呼びつけてびんたをくらわす。さすがに地方人であるわれわれ義勇隊員には手を出さなかったが、部下の兵隊となると、それが無理矢理に徴集された老兵であるにかかわらずこのちょうちゃくである。これを見てわれわれの仲間の中につぶやく物騒な声あり。ひでえ野郎だ、みんな袋だたきにしてやったらどうずら、と)
▽八月十三日(月)晴 暑
朝食直後、艦載機による上田飛行場の空襲あり。(はじめこれを食堂の窓から人ごとのように眺めていた人々の中に、一人のひげ面のたくましき男あり、ゆうゆうと、てえしたこたァあるめえと笑いながら、箸の先で歯をほっていたが、敵機がにわかにわが方に向って急降下しながら機銃掃射をはじめるや、皆々大あわてとなり。件の大男も、真先に生島神社の境内にとび出したり。皆は思わず土の上に体を投げ出し、両手で頭をかかえたるが、もうその時はすでに敵機は頭上をはるかうしろに飛び去りていたり。そっと顔を上げて前を見るに、例のひげ男はまだ頭をかかえてたまま寝ていて、その両足がこまかく動いてとまらぬ様也、この男はよその村から微集されてきた隊員で、その名も知らなかったが、戦争のこわさに一緒にふるえた仲間の近親さで、忘れがたき男也)
午後、上田の三菱に材料運搬に正門前で敵機の来襲にあう。防空壕に避難して無事なり。
▽八月十四日(火)晴 暑
今日は和村の東入にゆき、上田まで木材の運搬。(谷深い現場で昼食となる。松代で老兵をなぐった将校が、この日も同行で、少しはなれた山腹で弁当をつかう様見えたり。その際若い従卒を谷川まで走らせたり、からの弁当箱を洗わせたり、こき使うこと奴隷の如し。皆々これを見やりて、またまた腹をたてておさまらず、そのため作業がはじまるや、わざと丸太を将校の方へ落したりなど、反抗を示すことしばしばなり)
昨日の空襲は、上田市民の避難、疎開に拍車をかけ、東西南北の沿道には、荷物や病人や子供をつんだリヤカー、荷車、牛車等、陸続として群がる。そこをわれわれが乗った軍用トラックがゆきかい、それを道端によけて、災天の砂塵にまみれている様は、かつて映画で見たる、戦禍をさけて彷徨する支那民衆の姿と異ならず。陽にやけた老農が、肥をかつぎてこの混乱の中を右往左往するも痛まし。かくて畑の手入れも思うにまかせざれば、もろこし、葱、かぼちゃ等、旱天のために赤枯れて気息えんえんたり。正にこれ長恨歌なかるべからず。
▽八月十五日(水)晴 暑
泉田村で電柱の穴ほり作業。
この朝また艦載機の来襲で、古町に被害ありたる由。全町より出勤中の義勇隊員の一人急遽帰る。妻子四名即死という。
正午、天皇の放送あり。降伏か、本土決戦か、どちらかにかけた放送だが、謎を残して妙に森閑とした夏の真昼なり。
(「シリーズ現代史の証言⑤「八・一五敗戦前後」汐文社一九七五年刊)
母の日に思ふ
レジストロ春秋会 小野一生
五月の第二日曜日は母の日として、世界中何処でも感謝を込めてお祝いしています。
この母の日は何時頃、何処から始まったのでしょう。色々な説がありはっきりした事実を知ることが出来ませんでした。が、最近「疑問に答える」という本を手に入れ、調べてみると、「一九〇〇年代にアメリカの田舎町に母さんを亡くした二人の若い姉妹がいて、不幸にして姉のシャーピスさんは盲でした。妹のアンナさんはとても気立ての優しい娘で、母の命日には必ず友達を呼び集めて母を偲ぶ会を開いておりました。そうした事を重ねているうちに、ふと、思い浮かんだのは『こんな事をするよりも誰もが生きているうちに母親を大切にし、母を讃える行事をする方が良いのではないか』と思い、金持ちの実業家ロックフェラーや時の大統領デオドロ・ルーズベルトに手紙を出して問い合わせました。
この考えには誰もが賛成しました。そして、一九〇八年シャートルで五月の第二日曜日を母の日とする事を決め、その後一九一四年には国会でも正式に決定しました。
こうして母の日はアメリカ以外の国にも伝わった」という事を知りました。
日本では第二次世界大戦後に始まっています。
ここブラジルでは、母の日に赤いカーネーションの他にバラの花を差し上げている人もおります。花の種類が変わっていても、母親に対する尊敬や愛情は変りません。
著者は不幸にして五歳にして母に逝かれた為、母性愛という母の温もりを受けることなく育ちました。こうした不幸な方々は、私だけでなく世間には数多くおられると思います。
高齢になられても未だ母親が健在な方を見ると少々羨ましくも感じます。しかしいずれにしても亡くなられてから色々と母を偲ぶといった行事をされてもそれは自分自身の慰めにしか過ぎません。生きており、達者でおられる時にこそ、この若い姉妹シャーピス、アンナが気付いて始めた優しく尊い意志を受け継ぎ、母親にプレゼントをするだけでなく、その日、その日の暮らしの中で老いゆく親をいたわり、労をねぎらい、心温かく迎えて、後日、悔いのない生涯を送ることこそが我々にとって唯一の孝行ではないかと、母の日にあたり思ふのであります。
女・病気・貧乏
サンパウロ中央老壮会 栢野桂山
「女と病気と貧乏は文士の三種の神器」と言ったのは、 作家の吉行淳之介である。彼の言う女とは飯屋のホステス、巷の娼婦で頽廃的な匂いのする「女」であろう。
砕け米のご飯に青いマモンの漬物とその汁で育った子供移民の僕に、この三種の神器の筆頭の「女」には関わりなど無かった。
数え年の七つで小学校に入学したが、新入生担当の女先生は師範学校出立ての少女のような、楚々とした美人だった。
チビで不器用で、字もロクに書けなかった僕に後から手を廻して習字をさせてくれた。その時、田舎育ちの子など嗅いだことのない芳香、体息に呆然となって習字どころではなかった。
十二歳で渡伯中の移民船で、赤道祭があった。その時、龍宮上の乙姫さまに選ばれて仮装したのは、同郷の一歳上の少女だった。
その乙姫様に憧れたまま、十年余り逢わぬまま遠い夕野火のような淡い思い出があり、後年それを小説に描いて何処かに発表したことがある。
これでは吉行淳之介の「女」に比べたら、女の「お」の字にも触れたことにならない。
女房のほか酌知らずおでん酒(桂山)
次に病気であるが、僕は十年余り風邪など引いたことがなく、肩凝りや胸焼けも知らず、米寿という歳としては幸せだと思うが、頭の方はいささか弱体化している。
最後の貧乏であるが、これは先にも述べたように新移民時代は砕け米にマモンの漬物で育ったから、文士として俳人としての資格の一つは得ている訳である。だがそれでは俳句や文章が野暮ったく、かつての美人女教師のような楚々とした芳香のある句や文章にならないのであろう。
子供移民として、半人前ながらコーヒー園で除草やその採集に役に立った。これがもし十歳未満であって、渡伯したのが日系の多い移住地だったら、日伯両方の学校へも行けたかも知れない。
僕の配耕先がブラジル人ばかりの耕地であり、戦前の日語新聞も書籍もない生活になれて成長し、サンパウロより六百キロも奥地で、八十歳まで百姓一筋に生きて来た。そういう準二世にとって、日本の古典「万葉集」や「源氏物語」のような日本民族が一千年にわたって培ってきた言葉、使われてきた漢字に込められた日本の心、渋味、芸というものを、学びたいという憧れのようなものがある。
だが、その憧れは幼い時の憧れのまま人生の晩年を迎えようとしている僕である。
百姓に一生終るおでん酒(桂山)
添ひとげし凡夫凡妻芋茎汁(桂山)
壁が語るもの
サンパウロ鶴亀会 内山卓人
今年一月、ペルー旅行した。「壁」のみ残る街マチュプチュはスペインによる征服の前一三〇〇年頃のインカ帝国の全盛時代の街。現在のクスコ市まで汽車の旅で二〇〇キロメートル、インカ族の集落がある。
クスコのカテドラルはインカ・マンコ・カバック民族に勝利したことに感謝してスペイン人征服者がこの神殿を聖母に捧げたものである。クスコの街にはインカ帝国時代の太陽崇拝の神殿が沢山あり、全て大きな石で精巧に造られている。偶々現地で日本交通公社の「インカ帝国散策五日間、四十二万円」という三十人のツアーと一緒になった。日本からの参加者たちは「世界一の遺産とはどんなものだろう」との思いで参加したそうだ。
また、話は変わって次なる「壁」はマカオ中央教会の壁である。中国とポルトガル文化が融合したマカオ独特の街並み。大航海時代に欧州の列強がアジアを舞台に繰り広げた戦いの跡をはじめ、アジアにおけるキリスト教布教活動の礎となった所である。この聖ポール天主堂は一八三五年の火災でほとんどが焼失し、今は正面の壁が残るのみ。様式は西洋バロックで、幅二十メートル、高さ十九メートルの大きなものである。前の広場はプラッサボアビスタとポ語名で、近くにペンニャ教会、聖ローレンス教会等がある。一九九九年中国に返還され、現在は特別行政区となり、中国の資本主義地域としての新たな一歩を踏み出しており、香港に船で一時間と近い。一五五〇年代にポルトガル人が始めてマカオに上陸、東アジアとヨーロッパを結ぶ貿易の中継拠点として繁栄したが、経済の中心が香港にへ移った後、取り残された形で経た時が、人を魅了して止まない。
地球上のあちらこちらにある「壁」。次はチリ・サンチアゴ大統領府として使用されていたモネダ宮殿の後方にある建物。これは地震で破壊され正面だけ残された壁。一五五〇年に建てられたチリ、カトリックの総本山の大聖堂の付帯物で、今は鉄骨で支えられているが右手に国会議事堂、歴史博物館、裁判所などあり、広々とした憲法広場、チリー人口の半数近い五百万人が暮らす街の憩いの場所でもある。またアルマス広場付近には古い教会、博物館等があり旧市街を散策するのもよし、博物館の街といわれるほど、数多くの博物館があり、街自体も古い時代に建てられた重厚な建物や石畳の道が残り、旧市街などはヨーロッパ的な落ち着いた雰囲気を保ち、南米諸都市にありがちな雑然とした空気とは一線を画している。
その他、「壁」だけが残されている建物としてはサントスの電車博物館の前の旧ホテル通称カザロンがある。これは四面壁だけ残っており、一八〇〇年の建造物で一個三十センチぐらいあるレンガで造られている。四〇メートル四方の壁は、鉄柵で崩れないよう保たれ、傍の近代的なコンテナ港とのコントラストが印象的だ。
遣産として残されていく建物。せめてこれらの壁だけは…という願いなのだろうか。四百年前のヨーロッパ文化が植えつけられたような感じもするし、また、そこに微妙な違いを持った各国の文化が根を下ろしたかのような気もした。
日記をつけよう ③
サンパウロ中央老壮会 鈴木紀男
私たちの記憶というものについて次のような例を考えてみましょう。
例①不治の病で長く病気でいた若い妻を亡くした若者が一ヶ月も経つまで涙一つこぼさないでいたのだが、ある時、街を歩いてふと小さな店のショーウインドウにきれいなドレスがかかっているのを見た時「あぁ、アーリーンの好きそうな服だな」と思った瞬間、どっと悲しみがセキを切って溢れ出た。
例②数年前の自分の日記をペラペラとページをまくって読み返しているうちに「○月○日朝、母が亡くなった」の一行に出会ってワッと悲しみがこみ上げて止まらなかった。
というような経験について考えてみると、私たちの脳はある日の記憶を散らかった部屋のように雑然としまい込んで置くのではなく、きちんと整頓して扉に鍵をかけてあると考えてもよさそうです。そしてある時、鍵にあたるようなものを見たり聞いたりしたときに扉が開いてワッと記憶が取り出されるもののようです。
頭の中にあるわずか一・五キロ程のミソ状の固まりの中に生まれてから今までの毎日の記憶が一体どういう風にしまい込まれているかについては現代の科学をもってしてもよく分かっていません。自分の頭の中の記憶を取り出せるのは、自分しかいないわけですから、記憶の部屋を開ける鍵になるようなメモを毎日日記のようにして書いておくのが一番であろうと思うのです。
また、私たちの記憶というものはあまり当てにならにということもあって、あの日あの場所にいたのは誰と誰であったと記憶しているのに、日記には違うように書いてあったりして、記憶の不確かさに驚いたりもします。そんなわけで頭の働きを補う意味においても日々の出来事を少しずつでも書きとめておくのがよいのではないかと思います。
8月になって
名画なつメロ倶楽部 松本郷
最近、昔のことを懐かしく思い出すようになった。これも老境に入ってきたということであろう。八月で思い出すのが、小学校の高学年のころ、市営プールの中で友達と喧嘩して、したたかに水を飲み、耳にも水が入って中耳炎になったことだ。その痛さが並大抵の痛さではなく、当時はまだ抗生物質などなかったから、耳鼻咽喉科に通って、めん棒で塗り薬をつけてもらっていた。
十回近く通っていい加減いやになっていたある日のこと、医者のやつが悪くない反対側の耳を持って中をのぞき込み、「もうだいぶ良くなってきたなぁ。もう少し通ってくれば治るぞ」と言った。家に走って帰って「あれば籔でうそつき医者だ」と叫んだことを覚えている。支払いはどうなったのか知らない。母が払いに行ったのだろう。
また、八月は終戦の月である。あの頃、母と子供たちは叔母の家に疎開していた。今考えるとおかしくなるが、市内にあったわが家から郊外にあった叔母の家まで、子供の足で歩いて一時間ちょっとの距離だった。あれでは疎開しても何もならなかったのにと思う。
終戦の日、座敷に正座してラジオを聞いた。何を放送しているのか、全く分からなかった。母も叔母たちも泣いてはいなかったと思う。親が泣けば小さい子供は心配になるものだが、その記憶がないからだ。少し大きくなって知ったのが大本営発表の戦勝ニュースはコントロールされていたということ。
本土が空襲されるようになって、大人たちは日本不利と思っていただろうが、直接戦災にあった子供たちは別として、我々のような地方都市の国民学校低学年生には戦局はおろか、戦争の悲惨さ、残酷さなど何も理解できなかった。負けて悔しくも悲しくもなかった。「戦争が終わったよ。よかったね」という感じだった。夜、灯火管制がなくなったのだけは、素直にうれしかった。八月は夏休みだったから、あの年はいつから二学期が始まったのだろう。あるいは、特別招集があったのかどうか。今、思い出せることは、終戦後初めて学校へ行ったら、ゲタというあだ名の(本名は下川)、教練の怖い先生が、ニコニコしていて驚いたこと。赤羽先生という頬の真っ赤な女の先生が生徒の前で泣いたこと。下校途中に進駐軍のジープが何台もすごいスピードで目の前を走りぬけて、怖くて学校へ逆戻りしたこと。しばらくして教科書を教師の指摘する個所だけ、墨で塗りつぶしたこと。二年に進級した時の男の先生はぼんやり、がっかり、へなへなになっていて、しばらくして退職したこと。全校生徒が列になって、先生に連れられて山の方へ歩いていて、食べられる野草を摘んだこと。戦中か戦後は定かではないが、食料の配給で隣組が喧嘩になって、母が「人間あんなに浅ましくなるのか。本当にいやになる」といったこと。
母の親友が満州から引き揚げてきて、家に訪ねてきた。女性は危ないので、男装して逃げてきたと髪を剃って、坊主だったこと。その人の前に母の和服が置いてあったこと。後からの推測だが、あの和服は母から親友に何かの足しにとあげたのではなかったろうか。
裏庭を畑にしてカボチャやサツマイモなどを植えていたこと。サツマイモもカボチャも葉や茎まで食べたこと。定期的に糞尿の汲み取りに来ていた人が来なくなって、庭の奥に穴を掘って、上から土をかぶせておいたら、早朝に野菜泥棒が入って、そこに落ちて大騒ぎになったこと。母がその泥棒さんに「足を洗いなさい」とバケツを貸してやって、父が母の袖を引っ張って、文句を言っていたこと。子供たちはおかしくてふすまの後ろで口をおさえて大笑いをしたこと。その男の気持ちを想像することもできなかった幼かった自分たち。あの時代の辛かったであろう大人たちの毎日。東京から来たと思われる浮浪児が数人駅の前で日向ぼっこをしていた風景。白衣の傷痍軍人が松葉づえをついて歩いていた道。亡くなった多くの人たち。人生がすっかり変わってしまった人たち。六十年以上たって、断片的に思い出すあの頃の出来事。人間の一番愚かな行為は、戦争だと思う。
思い出に残る歌い手たち
名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑪ 伊藤久男
これまでに十人の歌手を取り上げており、何れも甲乙つけ難い才能の持主なのだが、好みの点でいうと私は伊藤久男の男性的な力強いバリトンの魅力に票を入れたい。この人は全国高校野球大会のテーマ・ソングである「栄冠は君に輝く」を歌っているのだが、いかにも彼の持ち味にふさわしい。戦時中の国策映画「熱砂の誓い」(昭和一八年、伏水修監督)の主題歌「建設の歌」(西条八十、古賀政男)も感じは似通っている。一四年の映画「白蘭の歌」(渡辺邦男監督)では、伊藤は二葉あき子と〃馬車は行く行く夕風に…〃の主題歌を歌っているが、こちらはうんと抒情的である。伊藤は軍事歌謡も数多く歌っており、「父よあなたは強かった」(霧島昇、二葉あき子、松原操と一緒)「露営の歌」(中野忠晴、松平晃と一緒)、「暁に祈る」等がある。このほか一五年には二葉あき子と共に「お島千太郎旅唄」、一六年の「高原の旅愁」(関沢潤一郎、八洲秀章)もあるが、後者は思わず旅情をかきたてるような名曲で、今でもカラオケでよく歌われている。
戦後になってからは、NHKのラジオ歌謡の常連としても活躍、二三年の「たそがれの夢」(西沢爽、田村しげる)、二四年の「山のけむり」(大倉芳郎、八洲秀章)、二五年の「あざみの歌」(横井弘、八洲秀章)等がそうだが、特に「あざみの歌」は男女別を問わず広く歌われている名曲である。また、「シベリア・エレジー」(野村俊夫、古賀政男)という「異国の丘」と同系統のものもあったが、戦後の代表的なものといえば、やはり二五年の「イヨマンテの夜」(菊田一夫、古関裕而)であろう。冒頭からアイヌのお祈りみたいな旋律で始まる曲でもあり、会社では大した期待を持っていなかったらしい。ところが、楽譜が出版されると「素人のど自慢」の出場者の中にはセミ・クラシック風に声を張り上げたくてたまらない人がいるもので、日曜の昼過ぎになると決まってラジオから〃アーホイヤー…〃が聞こえたものであった。もともとこの曲は菊田一夫原作の連続ラジオドラマの「鐘の鳴る丘」の中で、山男が登場する場面の音楽として古関裕而がハモンド・オルガンで演奏したのを、原作者がとても気
に入り、のちに熊祭りの歌詞を作り加えてレコード化したものという。この曲の思いがけぬ大ヒットに刺激されて生まれたものに「オロチョンの火祭り」がある。
なお、伊藤は菊田一夫原作になる「すれ違い」のメロドラマ「君の名は」(二八年、三部作、大庭秀雄監督)の主題歌(何れも菊田一夫、古関裕而のコンビ)「君いとしき人よ」(第一部)、「忘れ得ぬ人」「数寄屋橋エレジー」(第三部)を歌っているところを見ると、当時も第一線で活躍していたものと思われる。織井茂子の「君の名は」「黒百合の歌」のみが余りにも広く知られたせいで、存在が薄くなった感があるが、伊藤のものも仲々捨て難いものである。
カラオケで私が好んで口にするのは、「暁に祈る」「あざみの歌」「山のけむり」「白蘭の歌」などである。
春子ちゃんとお小遣い
サンパウロ鶴亀会 井出香哉
秋になり、朝夕肌寒くなりました。
おばあちゃんが団体旅行で温泉に行くことになりました。
その時にはお母さんがお小遣いをあげると約束してあったので、おばあちゃんが「明日お金を取りに行ってもよいか」と電話で聞きました。
お母さんが春子ちゃんに「あなたはおばあちゃんにビアジャー(旅行)のお小遣いをあげないの?」と聞きましたので、春子ちゃんは急いで財布を開けてみましたが、人形を買ったばかりなので八〇センターボしかありません。
おばあちゃんは「いらない」と断ったのですが、お母さんが「せっかくあげようと思っているのだから、受け取ってやって」と頼みました。
翌日、おばあちゃんが春子ちゃんのアパートへ行ってみると机の上にお母さんからのお金と春子ちゃんの八〇センターボが並べて置いてありました。
「やれやれ、これは高いお小遣いになるわ」とつぶやきながらおばあちゃんの眼はうるんでいました。
老ク連風景
老ク宿舎一号室 宮川頼周
「もの言えば くちびる寒し秋の風」
当地サンパウロは唯今ちょっと肌寒く感じられ、自重しなければ風邪を引きそうな気候です。
でも老人会の職員の皆様より若葉の匂いと心温まる笑の中に元気と勇気を戴いております。
「九十歳にして夢と希望を持っていれば青年なり」
昨日も八十五歳の青年より元気を貰いました。
気は長く 心は丸く 立てず 己は小さく 人は大きく
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