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(最終更新日 : 2019/02/15)
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2006年9月号
2006年9月号 (2006/09/06)
人間性の大切さ(上)
カンポグランデ老壮会 成戸正勝
日本は規律正しい国で、その点ブラジルはかなりだらしない国のようです。日本の人は、ブラジルはやばいから行かないと言っています。だいぶ前に、日本の大使がブラジルはカオスだと発言しましたら、時の大統領が抗議を申し入れました。カオスとは混沌、無秩序を意味します。
内緒で言うならかまわないでしょうが、公(おおやけ)に言われると、癇(かん)に触るのでしょう。バグンサとも言われていますが、乱雑、混乱の意味を持っています。二世に言わすと陽気で快活なんだと弁解します。
共和制革命を起こしたベンジャミン・コンスタント陸軍中佐は、王宮の家庭教師をしていたときに、王子らの様子を見て、ブラジルには共和制が必要と痛感したそうです。こんな王子らに国を任せられないと決意したそうです。あのころは皇帝の親政で、議会の力が弱かったからだろうと思います。
ところが共和国になっても、大統領が皇帝同様の権力を授けられたから、ずいぶん無茶なことをしでかしました。今に至るまで、大統領の権力は莫大で、国民は悩んでいます。議会主義政治が理想だと思うのですが、それでも大統領主義政治が国民に好まれているのは、ブラジル人の心情に合っているのでしょう。大統領に直接投票できるというのが国民の好みに合っているようです。
ベンジャミン・コンスタントは国旗に「秩序と進歩」という言葉を入れました。ヨーロッパの開明派の思想家が唱えた思想で、ブラジルには必要だとの見識でしたが、現在のブラジル社会を見れば、そんな標語がぜんぜん当てはまっていないのは、誰でもが認識しています。現実から程遠い理想に過ぎません。それよりも「自由、平等、博愛」の民主主義の思想がこの国には有り余るほど見られます。どちらかというと、節度を越えて極端には走っています。
日本はどちらかと言いますと、「秩序と進歩」が十分にありますが、「自由、平等、博愛」の精神に欠けているのは、われわれ移民でも気がつきます。戦後は民主主義を採用したはずだのに、建前だけで本音は戦前とはそんなに変わってはいません。どこから日本とブラジルとの間に、こんな差が出て来たのでしょうか。
これは人間性の違いだろうと私は感じていますが、この点について、作家の曽野綾子さんが鋭いところを突いた感想を述べています。彼女は日本財団の会長を長年務めていますが、無報酬で働いておられる方です。
今話題になっている「ドミニカ移民」についても、彼女はよく熟知しておられます。「リオ・グランデ」という小説を書かれたのです。余計な話ですが、大多数のドミニカ移民は大変な苦労をしましたが、ごく一部の家族は多額の補助金を受け取って自分の懐に入れ、その一族は裕福な生活を送っていると何かで読みました。ありそうな話です。
曽野綾子さんがブラジルに始めてこられたのは一九六〇年です。そうして「ブラジル時間」を知られました。戦前には大阪には「大阪時間」があり、大阪の人間は時間にだらしがないと言われていましたが、戦後言われなくなったのは、東京が政治だけでなく商工業の方でも日本の中心となり、大阪が影が薄くなり、東京の影響で大阪時間が消えたらしいのです。
曽野さんは一九七三年にもブラジルに立ち寄られました。そして時間を非人間的な有様で扱っている日本人の感覚が異常であると認識されました。ブラジル時間は人間性にかなっていると思われたのです。(つづく)
日記をつけよう ④
サンパウロ中央老壮会 鈴木紀男
先月号本誌にはからずも上原編集長が「八月十五日前後を想う」と題して、まつやまふみお氏の終戦前後の日記を掲載して下さったので、日記なるものがいかにその当時を活き活きとよみがえらせてくれ、読む人にあらたな感激を与えてくれるものであるかを改めて教えられました。
一日の労働の後で時間をさいて書き続けることは大変なことですが、その日の内に書かれた日記はやはり細かな事までくわしく書き込まれていて、後日思い出をたどってまとめて書いた文章などとは比較にならない生々しさを伝えて来れます。「八月十五日前後」の日記の筆者はその日々に起った数々の出来事の中から丸太運搬とそれを指揮した軍人とまわりの人々のささやき、敵機来襲などに焦点をしぼり巧みに表現しています。そ
れが後日、激動の日々の国民生活を証言する貴重な歴史資料となって一般に公開され私達の目にふれることにもなったわけです。
日記でも最初からうまく書こうと思うと筆が止まってしまいます。
次に紹介する日記は、明治二九年(一八九六年)栃木県足利尋常小学校第4年生・茂木まんさんによって書かれたものです。平凡な日々、子供らしい表現のなかにもその時代が記録されています。
八月一日 朝は、ながしをかたづけ、さうじをしました。読本は七のはじめから十五枚さらいました。あとはもり(守)をしました。
八月二日 朝ごぜんをたべてから作文を。はじめからしまいまでよみ。読本は十五枚より四十枚までよみ。あとは、かみをあらいました。
八月三日 朝、はたはぬひ(機端縫)をし、それからはすこしつつ用をしました。
八月四日 朝、かざり(織物の飾)をこしらへ、ひるからも亦こしらへ、つかひ(使)ともり(守)をしました。読本は:二日共に出来ませんかった。
八月五日 朝、かざりをこしらへ、ひるをたべて、なべとはちをあらひ、すこしあそび、修身は一課より十一課よみました。
八月六日 朝、ざしきをはき、ぞうきんがけをし、かざりをこしらへ、ゆをあび、かみをゆいました。ごぜんをたべ、よなべをし、まだ(未)する人にか(蚊)をおってあげました。
八月七日 朝、そうじをしてきんかざりをこしらへ、かわら(河原)へ反物をもってゆき、ふのりをかってき、ひるをたべ、ながしもとをし、ばんがた米をとぎ、なべをあらいました。
八月八日 朝、くさむしりをして、いとのうわがみとり(糸の上紙取)、あとはもりをして、ゆうがた友だちとすこしあそびました。らい(雷)でたまげました。(以下八月三十一日まで)(日本の大雑誌・明治編)より
これはおそらく夏休みの宿題の日記でしょう。勤勉で父母の手伝いもよくする少女のおもかげが浮かびます。
毎日が同じような日々の繰り返しでありながら、日々はまた微妙に移り変わってゆきます。秋は、冬は、春は、また筆者の成長とともに、書かれる内容も大きく変わります。当時の足利は織物の町。時代の移り変わりとともに家業もまた大きく変わってしまったことでしょう。人や囲りが変わっても書かれたものは変わらず、後の誰かが読み、書き連ねなどして記録として残っていきます。
子供の頃の思い出
レジストロ春秋会 中川操
昭和九年二月、祖父母、父母と私達四人兄姉、それに叔父夫婦の大家族で渡伯して来ました。父は日本政府のきれいな移民募集の広告にすっかり乗気になり、急にブラジルに行かうと云ひだしましたが、母はとてもその気になれず、うろたえるばかりだったといふことです。
父はその夢の様な広告を信じて、短い年月で帰って来られるのだからと、皆を納得させてブラジルに来たのです。父は三年頑張れば望みは叶へられるのだと、希望に燃えていました。
そして六十日あまりの長い船旅の後、やっと憧れのサントス港に着き、初めてブラジルの土を踏んだのです。そこから汽車と馬車に乗って配耕地のファゼンダ「サンタカタリーナ」という所へ連れて行かれました。
そこには久保田さんという日本人の通訳がおられ、皆がお世話になったようです。そのファゼンダのコーヒーの倉庫に、私たちは日本から一緒に来た十家族の人たちと、しばらく一緒に暮しました。
その大勢の人達に毎日、食事を作って持って来てくれる人が居て、御飯とフェジョンの初めてブラジル食を頂いたのですが、そのフェジョンの美味しかったことが子供心に焼き付き、今でも思い出します。
そこで、二年契約でコーヒー園の仕事を与えられ、その仕事を教えられたのです。やがて二年の契約の義務も果し、自作の棉作りに移りました。でも、日本を出る時に抱いてきた夢も希望も遠のき、親戚の人達と頻繁に交わした手紙の往復も次第に薄れ、諦めに似たような月日が過ぎました。
渡伯三年目に祖父が亡くなり、また次の年には兄や弟がマラリア病に罹り、不便な田舎で悩んでいた時、ブラジル政府の援助でベラクルスの町で血液検査や薬を無料で下さることを知り、その町へ診察をしてもらいに行き、薬もいただき、すっかり良くなりました。
そういう色々な愁いの中にも、初の二世誕生の喜びがあり、だんだん異国の土に親しみ、祖母は庭先に草梅や色々な花を植えて楽しみました。
私は九才で初めて上(かみ)バタリヤという日本語学校に入学しました。学校まで五キロメートル近くもあり、姉と私は隣のお友だち二人を誘い、その学校へ通いました。
その当時は、その位の道程を通うことは当然のことで、誰も不平も云わず元気に通いました。雨の日など、どうしても学校に行けない日は、夜、兄からカンテラの明りで日本語を教えてもらいました。学校へ行く道はミーリョ(とうもろこし)畑や棉畑、コーヒー園と続いていて、鉄道の踏切りを渡って行くのでした。
ある日、学校の帰りにその踏切りの所に、一人の背の高い真っ黒なお婆さんが立っていて、「お前たちはゴヤバが好きか」と尋ね、紙袋いっぱいのゴヤバを「皆で分けなさい」と云ってくれました。私たちはこの見たこともない不思議なお婆さんにお礼を云って受取りました。お婆さんは「また、持って来てあげるよ」と云って去っていきました。それから私たちは毎日、その踏切を渡る度にお婆さんを待ちましたが、お婆さんは二度と現れませんでした。私は何だか、御伽話を地でいったような不思議な気持ちでいっぱいでした。
また、私達の通ったミーリョ畑には道がなく、無造作に畑の中を通ったのですが、ある日、友達の一人が西瓜のなっているのを見つけ、「オーリャ(見てみろ)、スイカ」と大声で叫びました。みんな飛んで行って、その西瓜に手をかけようとした途端「コラッ!」と大声で怒鳴りながら走って来る人があり、私たちはびっくり仰天。とっさに地面に置いた鞄を握りしめて、一目散に逃げ走り、ミーリョ畑を抜け出しました。そして後を振り返って見ましたが、もう後を追って来る者がいないのを見届けると、皆地面にヘナヘナと座り込み、お互いに顔を見合わせてワッワッと笑い転げました。
今思い出しても、子供心で悪意などなく、ただそのスリルを楽しんでいたのだろうと思います。子供時代の懐かしい一コマです。
思い出に残る歌い手たち
名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑫ 林伊佐緒
プロの歌手で、作曲も手がけるケースは平尾昌晃(わたしの城下町、瀬戸の花嫁、恋のしずく、霧の摩周湖、カナダからの手紙等々)をはじめ、先例がなくもないが、決してその数は多くはない。林伊佐緒はその中の先輩格であり、ヒット曲も少なくない。その中で「高原の宿」(高橋掬太郎作詞)、「ダンスパーティーの夜」(和田隆夫作詞)は自分がオリジナル歌手で歌っているのだ。特に「出征兵士を送る歌」は、陸軍省が公募した歌詞(生田大三郎)にキング・レコードの作曲家、林伊佐緒(当時、多岐英二)が曲をつけたもので、林を含む男三人、女三人が歌っている。ほか、ヒットしたものでは「長崎の女」(春日八郎)、「りんご村から」(三橋美智也)等がある。
林のデビューは「もしも月給が上がったら」(昭和一二年、新橋みどりとデュエット)で、戦時には「出征兵士を送る歌」(一四年)を出している。戦後になってからは、「麗人草の歌」(二四年)、「愛染草」(二四年)、「ダンスパーテイーの夜」(二五年)「高原の宿」二九年)、ユニークなものでは民謡をジャズ風にアレンジしたものとして「真室川ブギ」(二七年)が広く歌われたものだった。
「麗人草の歌」は私の最も好むカラオケ・ナンバーの一つとなっている。
⑬ 竹山逸郎
竹山逸郎と言えば、やはり「異国の丘」であろう。垢抜けしないところがあるが、高音にやや安定さを欠くものの、その男性的な豊かな低音には魅力がある。ところで、「異国の丘」(昭和二三年)には有名なエピソードがある。そもそもこの曲は、後年にはムード歌謡曲の作曲家として不動の地位を築いた吉田正が二二才の時、満州の野戦病院に入院中、軍馬の苦労を愛しんで作詞、作曲した「昨日も今日も」が病院で愛唱され始め、それがシベリア抑留所では増田幸治の詞で「俘虜の歌」となり、さらに「異国の丘」と改題されて、抑留者の間でひそかに歌われていた。その後、昭和二三年に「NHK素人のど自慢」で復員兵・中村耕造が歌って鐘を三つ鳴らし、レコーディングでは中村が二番を、プロの竹山が一、三番を歌ったものだと言う。吉田はこの歌が流行している頃復員し故郷の日立にいたが、二年間の抑留生活で疲れ果てており、NHKに出向いたのはずっと後のことだった。
さて竹山は戦後二二年、「泪の乾杯」でデビユーした歌手であり、続いて同年「誰か夢なき」、「月よりの使者」(何れも藤原亮子とのデュエット)で売り出し、翌年には「異国の丘」引き続き「熱き泪を」「流れの船唄」「別れの夜汽車」「今日われ恋愛す」等と活躍したが、その後早々と引退、晩年には闘病生活を送り、昭和五九年に六五才で他界した。
私自身、「異国の丘」も悪くないが、カラオケ曲では「誰か夢なき」が大好きである。
転ぶまい
イタニャエン 稲垣八重子
よく、あちらこちらで転んだ話を聞きます。私は九十二歳の高齢ですが、まだ一度も転んだことはありません。
歩行にも杖をしっかりと握り、車の往き来に気をつけて、決して急ぎません。「二階に住んでいるのは危ないでしょう」と皆さんから注意されますが、階段を下りる時も一足ずつゆっくりと下りて行きます。
娘とスーパーに行っても、左右を見定めながら、決して急ぎません。階段の下でよく転んだ話を聞きますが、あまり、せかせかするためかも知れませんねー。
年寄りは足許にいつも気をつけて、危ない事はしないことです。いくばくもない短い余生の身なれば、余計に注意に注意を重ねて、人生終末を明るく楽しく、生き抜きたいものです。
お互いに転ばぬよう気をつけて、健やかな余生を過しましょう。
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