移民百年祭
Site map
移民史
翻訳
---- 移民百年祭 目次 ----
- ホームページ
- 青木カナ・ド・ブラジル
- ありあんさ通信
- 憩の園
- イタケーラ植民地
- 宇江木リカルド作品集
- 岡村淳のオフレコ日記
- Quem e Quem
- 紺谷君の伯剌西爾ぶらぶら
- 笹井宏次朗のアリクイの目
- サンパウロ人文科学研究所
- 在ブラジル原爆被爆者協会
- 熟年クラブ連合会
- 水耕栽培プロジェクト
- たこ焼きマンが行く
- 炭素循環農法【無施肥・
無農薬による自然農法】
- 続木善夫 / 私の科学
的有機農業論
- トッパン・プレス
- 南米漂流
- 伯国東京農大会
- PAISAGEM
- 福博村
- ブラジル沖縄県人会
- ブラジルの植物
- ブラジル日和
- 北海道ブラジル協会(旧
北海道日伯協会)
- マツモトコージ苑
- マツモトコージ写真館
- ユバのホームページ
熟年クラブ連合会
--- 熟年クラブ連合会 目次 ---
- トップページ
- 熟年クラブ連合会について
- 事務局だより
- 活動報告
- エッセイ
- 俳句・短歌・川柳・詩
- FOTO
- スナップ写真
- 自分史
- 生活・健康
- 関連報道
- 創立三十周年記念
エッセイ
(最終更新日 : 2019/02/15)
--- エッセイ 目次 ---
- 2005年4月号
- 2005年5月号
- 2005年6月号
- 2005年7月号
- 2005年8月号
- 2005年10月号
- 2005年11月号
- 2005年12月号
- 2006年1月号
- 2006年2月号
- 2006年3月号
- 2006年4月号
- 2006年5月号
- 2006年6月号
- 2006年7月号
- 2006年8月号
- 2006年9月号
- 2006年10月号
- 2006年11月号
- 2006年12月号
- 2007年1月号
- 2007年2月号
- 2007年3月号
- 2007年4月号
- 2007年5月号
- 2007年6月号
- 2007年7月号
- 2007年8月号
- 2007年9月号
- 2007年10月号
- 2007年11月号
- 2007年12月号
- 2008年1月号
- 2008年2月号
- 2008年3月号
- 2008年4月号
- 2008年5月号
- 2008年6月号
- 2008年7月号
- 2008年8月号
- 2008年9月号
- 2008年10月号
- 2008年11月号
- 2008年12月号
- 2009年1月号
- 2009年2月号
- 2009年3月号
- 2009年4月号
- 2009年5月号
- 2009年6月号
- 2009年7月号
- 2009年8月号
- 2009年9月号
- 2009年10月号
- 2009年11月号
- 2009年12月号
- 2010年1月号
- 2010年2月号
- 2010年3月号
- 2010年4月号
- 2010年5月号
- 2010年6月号
- 2010年7月号
- 2010年8月号
- 2010年9月号
- 2010年10月号
- 2010年11月号
- 2010年12月号
- 2011年1月号
- 2011年2月号
- 2011年3月号
- 2011年4月号
- 2011年5月号
- 2011年6月号
- 2011年7月号
- 2011年8月号
- 2011年9月号
- 2011年10月号
- 2011年11月号
- 2011年12月号
- 2012年1月号
- 2012年2月号
- 2012年3月号
- 2012年4月号
- 2012年5月号
- 2012年6月号
- 2012年7月号
- 2012年8月号
- 2012年9月号
- 2012年10月号
- 2012年11月号
- 2012年12月号
- 2013年1月号
- 2013年2月号
- 2013年3月号
- 2013年4月号
- 2013年5月号
- 2013年6月号
- 2013年7月号
- 2013年8月号
- 2013年9月号
- 2013年10月号
- 2013年11月号
- 2013年12月号
- 2014年1月号
- 2014年2月号
- 2014年3月号
- 2014年4月号
- 2014年5月号
- 2014年6月号
- 2014年7月号
- 2014年8月号
- 2014年9月号
- 2014年10月号
- 2014年11月号
- 2014年12月号
- 2015年1月号
- 2015年2月号
- 2015年3月号
- 2015年4月号
- 2015年5月号
- 2015年6月号
- 2015年7月号
- 2015年8月号
- 2015年9月号
- 2015年10月号
- 2015年11月号
- 2015年12月号
- 2016年1月号
- 2016年2月号
- 2016年3月号
- 2016年4月号
- 2016年5月号
- 2016年6月号
- 2016年7月号
- 2016年8月号
- 2016年9月号
- 2016年10月号
- 2016年11月号
- 2016年12月号
- 2017年2月号
- 2017年3月号
- 2017年4月号
- 2017年5月号
- 2017年6月号
- 2017年7月号
- 2017年8月号
- 2017年9月号
- 2017年10月号
- 2017年11月号
- 2017年12月号
- 2018年2月号
- 2018年3月号
- 2018年4月号
- 2018年5月号
- 2018年6月号
- 2018年7月号
- 2018年8月号
- 2018年9月号
- 2018年10月号
- 2018年11月号
- 2018年12月号
- 2019年1月号
- 2019年2月号
2006年10月号
2006年10月号 (2006/10/09)
人間性の大切さ(中)
カンポグランデ老壮会 成戸正勝
日本人に欠けている気短さ、余裕の無さ、ユーモアの無さなどの、こせこせした日本人の特異性を最初に気付いたのは、ブラジルの滞在中であり、根底から考えさせられたのはインドであり、最後の磨きをかけてくれたのはアラブ諸国だと書かれています。
ブラジル人は人間性を犠牲にしてまで、時間を厳守しません。日本人は人間性を犠牲にしてまでも、時間を守ります。これは本末転倒した考えです。世の中のすべてのことは人間を幸福にするために存在しています。究極の目的は人間にあるのです。ですから人間を犠牲にするということは、できるだけ避けなければなりません。
日本は人間性を犠牲にして、戦後の発展を成し遂げました。確かにそれはそれでよかったと思います。しかし現在は繁栄で生じたひずみを直さねばならない時期に来ています。人間性を取り戻さねば、世界中からつまはじきになるかもしれません。
日本の家族主義は個人の犠牲の上に構成されたのです。家を継ぐ長男を家長として、次男以下は長男の使用人のように仕えました。戦前の日本の社会ではそうする必要があったからだろうと思います。しかし現代では家の繁栄よりも個人の幸福を求める方向に変わってきました。
ブラジルでは次男も長男と同じ権利を要求しますが、そんな日系の家庭を私は見聞してきて、それがもっともなことだと私も納得しています。
それを認めない日系の家庭では、一家は崩壊していきました。日本移民の子供らが都会に出て大学を卒業した後、田舎の親の家に帰らない現象について議論されたことがあります。ドイツ移民の子は学校を出ると親の元に帰ります。どうして違うかといいますと、ドイツは個人主義で、家庭のなかには自由、平等、博愛の精神がみなぎっています。ところが日本人の家庭は家族主義で、家長が威張っています。都会で個人主義の洗礼を受けた二世は、自分の育った家に変えれば再び家族主義の環境に戻らねばなりません。それが二世たちには耐えられないので、家には帰らないのだといわれています。確かにそうでしょう。二世は家族主義に反発心を抱いているのです。心からなじめないのです。
これはヨーロッパ文明の近代精神から来ています。夫婦も兄弟も自由と平等を味わう、同等の権利を保持しています。雇い主も使用人も契約上の関係で、いったん仕事を離れると同等の人間です。序列というものは職務上の上にだけあって、身分の上では序列は存在しません。つまりタテ社会は日本ではいまだに存在していますが、時代遅れの代物です。現代はヨコ社会ですから、会社から外に出れば、君と僕、あんたとわたしの付き合いで十分なのです。
この精神がブラジルにあるために、人間性が失われていないのではないでしょうか。曽野綾子さんはブラジルに来て初めて、日本社会での人間性の少なさに気付いたといいます。わたしも十六歳でブラジルに来て、日本社会の人間性の無さに気が付いたのです。ですから出稼ぎの人たちが日本になじまず、ブラジルに帰りたがるのはもつともなことなのです。確かに日本には治安はあります。ブラジルは治安の点では住みにくいところです。日本の人はブラジルは危険だから行かないと断ります。もつともなことで、私もサンパウロには住む気にはなれません。わたしが日本に住むとしたら、東京は避けるでしょう。もちろん治安のことではありません。人間性のことです。
日本人は建前を大事にします。本音を表に出しません。日本の技師たちがブラジルに数年滞在して友人を作りますが、日本に帰るととたんにその友人たちを忘れてしまうのか、はがき一枚よこしません。ブラジル人は唖然とします。うわべだけの友情だったのです。日本の技師たちにとって友情は会社の仕事だったのです。ブラジル人は会社を離れての真の友情で日本人と付き合っていたのですが裏切られたのです。
出稼ぎの人が日本の親戚に会いに行きますと、親戚は恥ずかしがって会いたがりません。親戚が政治家であったならばなおさらのことです。選挙の票に悪影響を与えるからだそうです。これは極端な話ですが、これほどブラジルの日系人を腹立たせる話はありません。なんという非礼な、無礼な行為はないと我々は思います。日本人は出稼ぎを賎民とでも思っているのでしょうか。それならば民主主義を忘れた階級主義者だと言われても弁解はできないでしょう。これも人間性の無さの証拠になります。(つづく)
日記をつけよう ⑤
サンパウロ中央老壮会 鈴木紀男
日記をつけようと題して早くも五回めになりました。ここらで日記の原点をさぐる知的冒険の旅に出てみようと思います。飛行機や他の交通手段の発達で、途中は無視して目的地に直行するのが最近の旅行の型になっています。それにならって私達も一気に一三〇〇年ほど日本歴史をさかのぼることにして、日本で最も占い書物をさがしてみると「古事記」にたどり着きます。
「古事記」は時の天武天皇が今まで伝えられている天皇家および諸氏族の系譜・歴史・神話・伝説・歌謡などを正しく後世に伝えようと選び、記録し、編さんを命じて出来上がったもので、上・中・下の三巻からなる現存する日本最古の書物です(西暦七一二年)。
この時代より以前には日本語には文字がなかったので言菓や事柄を記録する方法がありませんでした。五、六世紀頃、中国から書物や経典などと共に漢字が入ってきてやがて・ひらがなや力タカナが発明されてやっと日本語を文字で表すことが出来るようになりました。
余談になるのですが、日本の初代天皇は神武天皇で和名は(カムヤマトイワレヒコノミコト)と言い、日本国はこの天皇の即位の年から数えて今年で二六六六年(皇紀)ということになっています。
現平成天皇は第百二十五代で天皇家は血統のわかっている世界で最も古い家系ということになるでしょう。しかし、初代から二十代位までの時代は文字の記録がなかったのであまり信頼はできません。事実、この間の二十天皇中十二天皇が百歳を超えていて没年令百四十三歳もの天呈が二人もいるのには驚かされます。これも皇紀二六六六年とつじつまを合わせるためでしょうが、こういうことは聖書やモーゼの書にも見られることなので、気にしないことにしましょう。
さてその後、聖徳太子の大化の改新後の大宝律令という法令に天皇の動静、言行、宮廷の諸行事などを日記に書き残すべしという条項が盛られて、多分これが記録に残る日記の原点でしょう。
これ以後、公務の日記ばかりでなく私的記録としての日記もたくさん書かれたので、一千年以上も経た今日でも私達は日本歴史のかなり詳しいことまでも知ることができます。ひらがな、カタカナの発明、普及によって日本語の表記が自由に出来るようになった九、十、十一世紀には公務の日記以外に、私的な自分の身の回りの事を書き留めた日記、物語りなどが盛んに書かれ、それらは記録としての意味もさることながら今日、文学として二十一世紀の私たちに様々なことを語りかけてくれます。
殊に女性の手なる日記として、蜻蛉(かげろう)日記、和泉式部日記、更級日記など。またそれからの発展したものと思われる物語、随筆である源氏物語、枕草子などその時代のものとしては世界に類のないものです。印刷技術やコピー機などなかった時代のものが今日まで残されたのはそれらを読んで感銘を受けた人たちが写筆などをして優れた作品を後世に残そうと努めてきたからです。上にあげた代表的な作品は原文でも現代語訳でも日本古典文学全集などに収められていますので七万冊の蔵書を誇るという文協図書館で簡単に探すことができます。
同窓会
サンパウロ中央老壮会 栢野桂山
本棚から捜し出した古い「小説新潮」に吉行淳之介の小説が載っていた。内容は随筆を沢山集めたような少し変った形式の小説で、その中に「坂田山心中」というのが眼についた。
坂田山心中は、華族の大学生と資産家の美貌の娘が一緒に死んだーというもので、至って平凡な心中事件だった.それを東京日日新聞がとりあげて「天国に結ぶ恋」という見出しをつけて報道したので、純愛物語として世間の人々の心を掴んだ。
映画界もこれを見逃さず映画にして、そのままのタイトルで封切りした。その上この映画の主題歌は人気作家の西条八十で
二人の恋は清かった
神様だけがご存じよ
死んで楽しい天国で
あなたの妻になりますわ
という滅法に甘いもので、これはレコードにもなって大ヒットした。そしてこの甘い歌を聞きながら映画館内で昇汞水を飲む心中が流行した。また「天国に結ぶ恋」で有名になった坂田山でも心中が続出した。だがその後、心中の名所は映画館や坂田山から、三原山の噴火口にうばわれたがー。
この事件があった頃はまだ「男女七歳にして席を同じうせずという儒教道ばかりでなく左翼思想や軍国主義の気配も大きく世をおおっていた昭和七年だった。この黴の生えた古い心中事件をぼくがなぜ持出したかと言うと、女房がこの心中した資産家の美貌の娘の妹と、女学生のとき同級生だったという因縁があるからである。
女房の古い写真帳の中に、セーラー服のこの妹と二人で撮った白黒の写真がある。セピア色に褪せてはいるが心中した姉が美貌だったどいうだけあって、目鼻立のはっきりした器量良しの娘である。この姉妹の実家は女房と同郷の静岡であるが、姉の方は東京に出ていて華族の息子の大学生と恋に落ちたのであろう。おそらく華族の方の両親が二人を許さなかったので、心中という思い切った手段に出たと思える。坂田山というのは神奈川県内にある、低い平凡な山であるという。
その後、女房は女学校を中退して渡伯したので、あの美貌の妹がどうなったか、それきり縁が切れてしまったという訳である。
一九八六年に訪日して、鎌倉の虚子忌句会に出席した後、女房の生れた富士山麓の町裾野を訪ねた。その町には彼女の親戚が居て、新幹線の列車の窓からは見ることの出来なかった、雪を被った富士をすぐ身近に仰いだ。この町に女房の女学生時代の同級生が何名か居て、同窓会を開いてくれることになった。
会場は町外れの豪華な料理屋の広間で、昔教師だったという頭の禿げた老紳士と、同級生らしい十二、三人のお婆さん(失礼)が集っていた。その人達は女房と同年の筈であるが、中には腰の曲った方が居り、その話しぶりも婆さんじみていて、戦中戦後の苦難をくぐり抜けて来た世代の女という様子がうかがわれた。これらの人は同じ町に住む顔見知りで、同窓会と言っても珍しくもなく、五十余年ぶりに帰郷した女房に注目するのは当然で、女の幹事さんがぼくに挨拶するようにと催促した。
日本では大学の受験にその母親が従いて行くと言うことですが、それと同じように女房の尻に従いて参りました。地球の裏側にあるブラジルの政治や経済の話をしても、女の方には輿味がないと思いますので、アマゾンの話などさせて頂きます。
アマゾン河は太古は海であったのが、地殻の変動で河になったという事で、色々海の魚介や動物がそのまま淡水に慣れて生息しています。イワシ、クロダイ、イシダイ、エイ、スズキ、デンキウナギ等で、動物ではウシウオ、イルカ等がそれです。
この中で淡水イルカは珍しく、世界でも揚子江に少数とアマゾン河のみに生息するということです。このイルカには灰色とピンク色の二種類が居り「アマゾンコピトイルカ」と申します」
この内のピンクイルカが好色で、河辺の風物詩である洗濯女を誘惑して子を孕ませるーと言います。アマゾンは年中裸で暮せるし、食料の魚介は豊富で、あくせく働く必要はありません。
そういう所で日本人のように生き馬の目を抜くような稼ぎ方をすると「あれはイルカの間の子だ」と言われます」。
聞き手が女ばかりなので調子に乗って、こんな話やその他のことを喋べった。女房の同窓生達は、珍しかったのかご愛想にか、盛んに拍手をしてくれた。
だが、ぼくが期待したのは、昔の坂田山心中の美貌の娘の妹のことでその人も居なかったし、その人の噂も出なかったので、この同窓会には失望した。
思い出に残る歌い手たち
名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑭ 岡本敦郎
岡本敦郎は北海道小樽の産、父親は女学校の校長先生だった。武蔵野音楽大学卒で、デビューの「朝はどこから」(昭和二一年)からも察し得るように、清潔感に溢れた明るさと伸びのある声に特徴がある。その後、NHKのラジオ歌謡の常連歌手の}人として歌っていたが、昭和二五年の「白い花の咲く頃」が大ヒットとなり、翌年の「リラの花咲く頃」につながっていった。両方とも寺尾智沙作詞、田村しげる作曲なのだが、「白い花の咲く頃」誕生の際のエピソードがほほえましい。構想が成った寺尾が、実は初恋の人を思って作ったのだ、と告白したところ、夫人の田村はすぐ作曲にとりかかり、あの拝情的な美しいメロディーが生まれたのだという。また、「白い花の咲く頃」は、当初藤山一郎の吹き込みが予定されていたが、彼が多忙であったことから急遽岡本に変更されたものというから、運命は面白い。
このほか、「チャペルの鐘」「ピレネエの山の男」「青いガス燈」「みおつくしの鐘」「みどりの馬車」などを出した後、「あこがれの郵便馬車」「(二六年)、「高原列車は行く」(二九年)とヒットが続く。両者とも作詞は後年「高校三年生」の大ヒットを飛ばした丘灯至夫、作曲はベテラン古関裕而のコンビである。ジャズ、ブルースからお座敷ソングと、刺激的な流行歌が多くなっていく時代に、オーソドックスな歌唱で叙情風な曲を歌い続けて異彩を放った岡本だが、一線を退いた後は音楽教師として活躍している。
私がカラオケで歌うのは「白い花の咲く頃」「リラの花咲く頃」そして「あこがれの郵便馬車」である。「チャペルの鐘」も良いのだが、未だにカラオケ曲を見つけきれないでいる。
民話と伝説 ④ 「西岩代の伝説より」
サンパウロ鶴亀会 猪野ミツエ
◇扇山
「朝日さす 夕陽かがやく その下に 黄金千両 後の世のため」
西岩代の伏山にある「扇山」にはこのような短歌が残されています。この扇山のどこかに黄金が埋められているというのです。
黄金を埋めた人は湯川直春といふ今から四百年ほど前、日高地方を治めていた武将です。湯川直春が豊臣秀吉の軍を迎え撃つため、この扇山に城を築き戦いました。そして戦に破れて逃げる時に短歌に歌われている場所に黄金を埋めたのだそうです。
◇しととの藪
西岩代の赤坂に「しととの藪」と呼ばれている竹薮があります。この竹薮について、次のような伝説が残っています。昔、神武天皇が大和(奈良県)の郷族「長髓彦」を征伐するため船に乗って熊野(新宮方面)に向かいました。船が岩代沖まで来た時、一羽の鳩が一本の矢を船の上に落して飛び去りました。
天皇は「これは熊野の神が戦の矢をこの地で作れというお告げに違いない」と思い、岩代の立ち寄った所、赤坂の丘一面、矢を作るために育てられたような見事な竹が生い茂っていました。この竹薮が今に伝えられている「しととの藪」なのです。天皇の軍がこの竹で作った矢の威力で長髓彦を征伐できた事は言うまでもありません。
私のペット物語 ⑤ 「地底のうめき声」
レジストロ春秋会 宮本美津子
ギャーギャーと地の底から聞こえてくるような悲しい苦しいようなうめき声に私はパッと目が覚めました。時計を見ると、午前二時半。何の声?人間?
その夜は運悪く、主人も姑も留守で、私は長女をお産してまだ十日と日が浅く、お茶畑の中の一軒家でたったひとりでした。
辺りは真っ暗ヤミ。恐怖が先に立ちましたが、そんなことは考えている暇もありません。その時私は、まだ二十一歳でした。今から約七十年も昔のことです。そのころは電気も懐中電灯もなく、手提げランプを頼りに部屋中をくまなく調べましたが、何の異常もありません。どうも外のようです。わが家は裏に出ると井戸があり、その中からのうめき声とわかりました。ランプの灯をかざして覗き込むと、大きなギラギラとするものが光っていて、すんでのことで灯を井戸の中に落としそうになるほどびっくりしました。あまりにも驚いたためいっぺんに血が逆上して、頬から頭にかけて急に熱くなり、めまいがして倒れそうになりました。これは大変。怪物どころではありません。
母から「産後に頭に血が上ると、あぶない」と言われていたことを思い出し「自分の命が大切」と、もうろうとしたまま目をつぶり一身に神様や両親の名を呼びながら念じておりました。
うめき声は次第に弱まり細々と聞こえてくるようになりました。どれぐらいの時間がたったのでしょうか。
私の目の前をすーっと白いものが横切ったような気がしたと同時に意識がはっきりしました。私は「どなた?」と声をかけましたが、何の反応もなくお茶畑でガサッ、ガサッ、ガサッとねずみでも走っているような音がしました。不思議と私は正気に戻り、あの生物(怪物)を引き上げてやろうと思い釣瓶を下しました。すると怪物も水と一緒にバケツに飛び込んだらしくその水の重いこと。やっとの思いで引き揚げたバケツを井戸の外に放り投げました。水と一緒に一個の物体が転げ出ました。ランプを照らして見ると、なんと私の家の飼猫だったのです。「何だ、お前だったのかぁ」。何時間も死ぬほど恐ろしい目にあわせて、本当に憎らしい猫だと恨みました。でもまだ生きていたので、乾いた布でよく拭いてから、別の布に包んでやりました。猫はそれでいいとしても、井戸はこのままでは使えないと思いました。幸いこの井戸はたいした水量はないはずと思い、私は再び勇気を出して一杯一杯汲み上げては捨て、十四、五杯は汲んだかと思う頃、バケツがガタンガタンと音を立てるので、「これでやっと井戸もきれいになった」とホッとしたとたんに気が緩んで座り込んでしまいました。
しばらくして、子供の頃に何か変わったことがあったら、お塩で清めることを親から教わっていたので、茶碗に一杯の塩を井戸の中に振りまきました。これできれいな水がわいてくると安心していました。
猫は?と見ると、目をぱっちり開けています。ミルク(レイテ)がなかったので、母乳が足りない時に母親が重湯で補っていたことを思い出し、早速与えてやると、ペロペロと舐めていました。
夜があけ東の空には紅バラを散りばめたように何とも言いようのない美しい光景に私は思わず合掌しました。四、五日してからその場所から出て歩くようになりました。その後、猫は大変元気になり、私の行くところにはどこでもついてきて、死ぬまで私から離れませんでした。
犬は三日飼えば三年の恩を忘れず、猫は三年飼っても三日ぐらいしか恩を感じないとか。時々、猫の姿を見かけますと、ありし日を思い出して懐かしくなります。
日々雑感
カンピーナス明治会 塩飽博柳
いつも老壮の友への拙作、投句させて頂いております。移民には、ブラジルの選挙権はありませんが、世話になっている国の選挙という事で気掛かりなものでございます。
破産につぐ破産のような政治で、どうにか良くならないものかと思いながら、私は七十五年もブラジルに世話になっており、渡伯した頃のことが懐かしく蘇ってきます。
子や孫の代の事を思いながら、日々を送っている現今です。皆さんのご健勝を祈ります。
前のページへ
/
上へ
/
次のページへ
熟年クラブ連合会 :
Rua. Dr.Siqueira Campos, 134, Liberdade, S?o Paulo, Cep:01509-020, São Paulo, Brasil
Tel: 11-3209-5935, Fax: 11-3208-0981, E-mail:
Click here
© Copyright 2025 熟年クラブ連合会. All rights reserved.