移民百年祭 Site map 移民史 翻訳
熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2018/12/14)
2006年11月号

2006年11月号 (2006/11/07) 近づく移民百周年祭

老ク連副会長 五十嵐司
 移民百周年記念祭への準備が行われている。ただ、その進捗があまりにも遅々としており、当地の人々はもとより日本の関係者たちからも歯がゆく、且つ不審の目をもって見られている。
 前回まではブラジル日本文化協会が取りしきって挙行され、特に皇太子殿下をお迎えし、八万人の日系人を集めて行われたパカエンブー競技場での七十年祭は、記憶に残る盛大なものであった。
 今回は世紀の祝典ということで、計画は記念行事と記念企画の二つに分けて練られ、行事の方は式典・講演・アトラクションなど、企画の方はいわゆる箱物とよばれる建造物で、提案のすべてを取り入れたため膨大な予算が計上された。二年間、この机上の計画が推し進められたが、実現のための資金と土地の手当てに全くめどがつかず、コロニアの現状と将来を愁うる人たちの胸を痛めさせている。
 行事の方も移住とは関係のない、人集めのためのアトラクションや売り込み出演なども多く、それらの整理や費用捻出の方法についてもはっきりとせず、早急に全面的な練り直しによる実行可能な新しい計画の発表を望む声が大きい。
 記念協会執行部は、社会的に有力な二世達の主導で形成され、強力なイニシアチブを保ち、一応安定した運営が行われている。若い者達にバトンタッチをした我々高齢者は、この動きを温かく見守り、必要によっては応分に協力するというのが穏当としている。我々はこの国に移り住んで生活の基礎を築き、さらに子弟の教育に将来の夢を託して私財をつぎ込んできた隠居者であって、寄付集めに奔走する財力も体力も残されておらず、中枢でのお役には立てないことでもあり、老ク連としても行事・企画双方とも何らかの提案も現在までさし控えてきた。とはいえ今後とも我々にできることは、日系社会への愛情と生活で得た経験そして豊富な知恵を使って色々の相談に応ずることであろう。
 これからはコロニアのご意見番としての働きはさせて貰いたいものである。方針や行動の理非を正し、良いものは大いに推奨し、その反対に危険な方向に走ってコロニアの将来を危うくさせるようなことに対しては反対意見や助言をするのが我々に与えられた義務ではなかろうか。あせって一歩誤れば高額な借財を残して多くの善意の人々に迷惑を及ぼすようなことになり、内地の同胞からは憐れみを受け、ブラジルの国民からも笑われる事になりかねない。これからも積極的に意見を述べ、老人なりにコロニアのために役立ちたいものである。 
 我々一世にとってこのブラジル人の一般市民は、長年生活をともにし日頃親しくしている隣人であって、これからも大切にしなければならないが、内地の同胞は「ハルとナツ」のような切っても切れない兄弟姉妹の関係である。我々は一世紀を生き抜いた分家として、自助努力による質素ながらも誇り高き祝典を成功させて、この兄弟や隣人たちからの祝福を受けたいと思う。出稼ぎ者の数二十六万人を見てもコロニアの財政状態は決して安楽のものではない。さりとはいえ、遠い昔、故郷を遠く離れた異境の地で苦労を重ね、今日の日系社会を築き上げた先達方をあらためて顕彰し、母国より遥々ご出席下さる皇族方はじめご来伯の人たちへの応対には充分礼を尽くし齟齬のないように努め、規模は小さくとも内容の充実した、心に残るような祝典が行われるよう望むものである。


人生は美なり

サンパウロ中央老壮会 田中保子
 過月、日本語新聞にて「参議院議長扇千景女史が来伯される」の記事を読んで、女史が宝塚のスターでありし昔を思い出した。亭主が宝塚のお膝元で生れ育ったので「色紙にサインをしてくれるかしら」と聞いたら「喜んでしてくれるよ」とのこと。有力なツテはある。
 色紙を用意して、折角のチャンスだから私だけでは勿体ないと友人・知人にカクカクシカジカと電話をかけまくった。いずれも同年輩だから飛び付くと思いきや「そんなもん持ってたってしょうがないよ」「ムカンシーン」等など皆、さめてるね。
 数枚の色紙に機嫌よくサインをしてくださった。若かりし日のブロマイドというおまけ付きではあったが。達筆・流麗な草書に変体仮名まじりである。さて、なんと書いてあるのかな。
 最初は「人生は」と読める、さあ次が読めないよ。「ナニである」う~ん、そのナニがナニなのかわかんない。次は散々苦労して、頭を絞って漸く「愛である」と読めた。それから暫くの間、会う人ごとに「ネエ、人生とは何よ」とアホの如く聞いて回った。
 「う~ん、人生は石を背負って歩くが如し、かな」それって徳川家康でしょ。
 人生って墓場よ。それは結婚じゃよ。仕方がない。聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥。書道の大家を訪ね歩いた。ためつすかしつ、辞書を何冊もめくって、結局、誰々さんに聞かれたら、と、盥回しとなった。とやかくしている間に書道展示会の記事が目に入った。
 コレコレ、これだ。第一人者のW氏が必ずいらっしゃるに違いない。身の程も顧みず、早朝ノコノコと出かけて行った。幸運にも知り合いのK氏とご一緒にいらっしゃいました。臆面もなく紹介して頂き、議長先生の色紙を読んで下さるようにお願いしました。
 「さあ、僕にわかるかな」とおっしゃったが、一呼吸の後「びですね」「はあ」と私。「美しい、ですよ。」「はあ、人生は美なりですか」私の恥行脚終了の巻。
 この時の一枚に関心がおありの方には差し上げます。老ク連の事務局までどうぞ。お申し込み多数の時はカラーコピーして差し上げます。


集まろう! 元サンタローザ同和村の人たち

レジストロ春秋会 大岩和男
 日本からの友人がレジストロまで訪ねて来てくれた。名は佐藤馨さん。彼の父親はその昔、オンダベルデのサンタローザで分散教授という特異な日本語の教え方をして下さった佐藤真二郎先生だ。オンダベルデを知る人なら誰でも知っている有名な指導者であった。
 サンタローザ青年会をオンダベルデきっての優良株に育て上げたのもこの佐藤先生、鳥井稔夫先生、吉田秋男先生らの力であった。
 終戦後六年目に弟の清三郎さんと清五郎さんの三家族を引き連れて日本に帰られた。戦勝を信じて戻った日本の現実は、日本の敗戦という悲惨極まりない後遺症で、未だ復興もままならない惨状に唖然としたという。
 しかし先生は「よし、それなら戦後の建て直し、復興に協力するのが日本人である自分の務めだ」と気を奮い立たせ教育事業に挺身した。
 ブラジルに二十年間いる間も止めなかった好きな弓道を通じて、子供や青年達を指導し、さらには一般社会人向けにも日本全国を回って普及に努めたという。一九九七年に仙台のご自宅へお訪ねするとその記念だと古代の弓を初め、地方地方の弓矢を山のように見せて下さった。
 先生はこの時すでに八十九歳のご高齢であり、弓道八段師範の称号を得ていた。その先生が今年一月、九十九歳の天寿を全うされたと、馨さんから聞いた。心からご冥福を祈っている。
 さて、馨さんと一緒にサンジョゼー・ド・リオプレットに同窓の鳥井亮一君を訪ね、三日間もお世話になった。同窓の高荒(旧姓・高橋)八重子さんがご主人と来て下さり、さらにパラナグワに住んでいる永井(旧姓・石川)久子さん、花岡(旧姓・桑原)つるえさん、そして藤敬君が私たち二人が行くと聞いて待っていてくれた。
 みんな六十五年ぶりの邂逅で懐かしさいっぱい。半ズボンの少年、お河童の少女が皆、お爺ちゃん、お婆ちゃんである。感激し、感無量であった。思い出を手繰りつつ、懐旧談に花が咲いた。知友人の誰彼の消息からお互いの現状まで話は尽きなかった。
 ここで馨さんから提言があった。我々だけでなく、元サンタローザおよび同和村に住んだ生き残りの者たちで合同同郷会を催してはどうか? というのである。その場に居合わせた前述の人は皆大賛成。ぜひやろうと言うのである。提案した馨さんは、「もし本当になるのなら自分はまた来年、日本から来るから、開催は来年にして欲しい」という。しかしどこに誰がいるのか皆目見当も付かないので、その連絡の方法に行き詰った。
 そこで私が提案して、新聞に「同郷会をするから、サンタローザおよび同和村に住んだ人、または知人がこれを読んだら、名乗り出て下さい」という記事にしようということで、この一文を書くことになった次第である。皆さんの協力をお願いします。連絡先の電話番号はリオプレット方面の方は、鳥井亮一(017)3225・2478、高荒八重子(017)3224・5705。サンパウロは山中博道(011)5667・3409。パラナは藤敬(021)3422・6590、レジストロは大岩和男(013)3821・5031または(013)3821・6050。
 以上の所へ御連絡下さい。


思い出に残る歌い手たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑮ 平野愛子
 中学生になってからは、ラジオを通していろいろな流行歌に接するようになった訳だが、最も強く印象に残っているのは、何故か「港が見える丘」なのである。ブルースタッチの曲をウエットな歌声で、いかにも気だるいような独特の歌い方で官能をくすぐる平野愛子は、当時は「若きブルースの女王」とも呼ばれていた。平野は「旅笠道中」「野崎小唄」「お駒恋姿」「小判鮫の唄」「明治一代女」等の作曲者として知られる、大村能章の日本歌謡学院で歌を学び、昭和二一年にビクターの新人歌手コンクールで優勝、翌年「お妙子守唄」でデビュー、次に出した「港が見える丘」が大ヒット、一躍人気歌手となり、二三年の「君待てども」も広く歌われた。いずれも東辰三作詞・作曲であり、ほか「白い船のいる港」
(二五年)も同様である。なお、後年「瀬戸の花嫁」、「二人でお酒を」を作詞した山上路夫は東の子息である。
 平野が活躍した時期は食糧難であり、彼女は初任給の全てを食べ物につぎ込んだ、という話がのこっており、あの頃を彷彿させる。平野には気難しいインテリ気質のところがあり、処世術は下手だったらしく、昭和二五年に東辰三がスタジオで急逝してからはヒット曲に恵まれず、五六年に六二才で亡くなった。娘の淑子はシャンソン歌手である。美空ひばりが歌う「港が見える丘」も聞いたことがあるが、さすがの天才歌手をもってしても平野の持つ個性には遠く及ばない。「男はつらいよ⑪寅次郎忘れな草」では、ドサ廻り三流歌手のリリー(浅丘ルリ子)が、北海道の港町の場末のキャバレーの舞台で歌う「港が見える丘」は上手ではなかったが、この曲の持ち味が良く出ていて印象に強く残っている。
 カラオケでも、女性歌手のものとしては歌い易く、私も時々歌うことがある。


私のペット物語 ⑥ 「誇り高き黒ちゃん」

名画なつメロ倶楽部 森田富久子
 長男がある日、アルバイト先のアビコトゥーラから一匹のシャム猫を連れて帰ってきた。
 実に美しい青い目を持ち、私も今までにこんなに美しいシャムネコは初めてであった。さすがにアビコトゥーラのご主人が「たね猫」として求めたのにもうなづけます。しかし、いくらシャム猫のオスと掛け合わせても掛からず、ビララッタとしか掛からないので、とうとう我が家に払い下げになったのでした。
 我が家の隣は空き地になっており、時々、近所中の猫が集まって会議を開いているのです。そこのボスがまた真っ黒のオス猫で、そのオス猫と我が家のシャム猫の間に生まれた黒猫が今回の主人公なのです。
 この母シャム猫は子猫に乳を飲ませ終わって、家の前でゴロリとしているところを美しさの故に誘拐されていなくなり、残された子猫たちは私から哺乳瓶で乳を飲まされて育ったのです。そのうちの一匹がこの黒猫のオスで、体も大きく堂々としていたので、父親亡き後、この黒ちゃんが猫会議でも力を持ったようで、次第に我が家の近辺は、この黒ちゃんの子供が増えて、尻尾の先がちょっと三センチぐらい曲がっている特長が見られました。
 我が家の黒ちゃんには面白い癖があり、どこからかビララッタの猫を連れてきては自分の餌を分けてやるのです。それでいつもご飯の時間になると、近所の野良猫が食事に来るので、私は中庭の隅に野良猫用の茶碗を置いていました。
 ところがある日、三男が帰ってきて、外の野良さんのお茶碗に餌を入れている私を見つけて、「お母さん、うちの黒ちゃんの餌も外にしたらどう?台所の床がいつも汚れているじゃない。野良ちゃんと一緒に置いたらいいんじゃない」と言うのです。
 そこで私は深く考えもせずに早速その日から黒ちゃんのお茶碗をその野良ちゃんの隣に置いたのでした。
 帰ってきた黒ちゃんは、自分のお茶碗が野良ちゃんの隣にあるので、非常に変な顔をし、自分のお茶碗を見ては、私を振り返って顔を見て、また茶碗を見て、もう一回私の顔をじっと見て、プイッと食べずに隣の家の方へ行ってしまったのです。これが私と黒ちゃんのお別れになってしまいました。それっきり、ついに帰らなくなったのです。二回振り返って、私を見つめた黒ちゃんの心の内は「ボクは野良じゃない」という気持ちを訴えたかったのでしょう。
 誇り高き我が家の黒ちゃんの思い出でした。


童話 「ほろすけホーホー」

アチバイア清流クラブ 三木八重子
 花ちゃんのお家の前は、石油のパイプラインが通っています。まわりにはイッペイやクワレーズマ、桜、百日紅、ジャカランダなど、沢山の季節の花々が目を楽しませてくれます。又、色々な果物もあって、お母さんの手作りジャムは、毎朝のカフェーのヨーグルトに入ってます。お散歩の途中、たくさん食べ過ぎて、ご飯が少しだけしか食べられないという事もしばしばです。でもこれらの果物は、ほとんど小鳥達のご馳走です。小鳥達には領分があるようです。雀、はと、ピリキット、ビンチビー、それぞれの場所でいつも見守ってます。家の軒下には、渡りをしない燕が住み着いて居るし、名前の知らない鳥、鳥、鳥。近くに大きな川があり、昼間、水辺で過ごした鶴は夕方には鳴きながらねぐらに帰って行きます。お母さんは、公園で時々お友達とグラウンドゴルフをして楽しみます。
 花ちゃんの夕方はいつもお散歩です。
 桜の木の近くに、ほろすけ一家が、穴を掘って暮してます。目がさめたふくろう家族は、穴の周りで、夜がくるのを待っています。人の足音にいち早く、お父さんほろすけは、近くのフットボールのゴールの上に、お母さんは、電信柱のてっぺんに舞い上がります。そして、ホーホーホー気をつけなさい!今年、生まれた赤ちゃんふくろうは、サーッと素早く穴の中に入ってしまいます。花ちゃんは、両手を大きくふくらせて、ホーホーホー私よ!大丈夫よいじめないからーと、すると、穴から恐る恐る、赤ちゃんほろすけが出てきて体を、大きく右に左に揺すりながらジーッと見ています。花ちゃんは大好きなほろすけの歌を、大きな声で歌ってあげます。
 森のふくろが言いました
 私は森の、お留守番
 こわい狼、きつねなど
 来させないから寝んねしな
 ほろすけホーホー、ほろすけホー
 公園の周りを三回まわる頃、おひさまは、松林の向こうのお山にさようなら。花ちゃんの今日のお散歩もおわり。
 夕焼け小焼けの歌を歌いながら家に帰ります。


百姓もどき

名画なつメロ倶楽部 塩原保男
 私はNAZAREPTにちょっとした山の土地を一九七五年に購入しました。土地は持ちましたが、未だに建物なるものは建てておりません。しいて言うならば、湿地を元に二つの二五m×二五mの池を作ったぐらいがシチオという分類に入るのかも知れませんが、この山に色々な物を植えて、「楽しさも中ぐらいなりおらが春」と人生の最後のページを楽しんでいます。
 今まで重機器の設計、施工などでブラジル全地域、米国、日本、台湾を駆け回っていたものですから、農業のことはさっぱり分かりません。
 昨年、ブラジル種の野生のカンブシイから緑の実を取ったものですから、砂糖、ピンガを混ぜ、一年間醸造して、ちょっと甘いカラオケ用の飲み物を作りました。このカンブシイ酒は喉を刺激して、良い声が出るようです。声わずらいで歌が上手くならない方には最適かと思います。
 今まで、果樹の肥料にはステルコデコドルナを使っていたのですが、昨年はカリウム(ポタシオK)の多い化学肥料を使ったせいか、沢山の果実が付いたようです。やはり農業の知識がないと果物も巧くいきませんね。また、今年はキンカンも多く実りました。
 池の魚の餌のため、一週間に一回、山へ出かけていきますが、一回で五〇㎏のキンカンが取れ、砂糖煮にして保存しています。カンブシ酒、キンカンの甘煮、両方共老ク連本部に置いてあります。お試しを!
 さて、皆様方にお願いしたいのが、食用菊の苗です。もしどなたかお持ちでしたら、お返しに山菜タラの芽の苗木を差し上げたと思います。御一報下さい。


前のページへ / 上へ / 次のページへ

熟年クラブ連合会 :  
Rua. Dr.Siqueira Campos, 134, Liberdade, S?o Paulo, Cep:01509-020, São Paulo, Brasil
Tel: 11-3209-5935, Fax: 11-3208-0981, E-mail: Click here
© Copyright 2019 熟年クラブ連合会. All rights reserved.