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(最終更新日 : 2019/02/15)
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2006年12月号
2006年12月号 (2006/12/14)
本山喜久雄さんを偲んで
在りし日の思い出
カンビーナス老人クラブ明治会 和田茂恵
カンピーナス老人クラブ明治会のシンボル最年長者で百五歳の本山喜久雄様が十月十九日ご逝去なされました。
明治会先輩の明治生まれの方々はほとんど亡くなられて、昔の事を知っている人が少なくなりましたが、私がお礼の気持ちでお話し致したいと思います。私が本山さんを始めてお見かけしたのは、今より四十四年前で、本山さんは映画やラジオ放送をされていました。
私の家族は一九五七年農業移民として来て転々としながら、カンピーナス近くにきたのはブラシルに来て三年目でした。トマテ作りをしていて、一休みの日、シネマ見物に町に行くと「今日は本山さんの還暦祝いだから入場無料だ」と言い、本山さんは六十一才で若々しくご挨拶され、この方が本山さんだと知りました。私たちは新移民で何もない時代で、無料と言うことは大変有難く一日楽しみました。
時は流れてようやく歩合作者がほしくなった時、歩合作者の募集をラジオで放送するのをお願いしたり、時々お宅にもお邪魔しました。
当時は農業組合もいろいろあり、私達はスールブラジル組合員でした。組合に行く度に明治生まれの皆さんによくお会いし、本山さんは何時も居られました。何時も新聞を読んだりお話に花が咲いていました。旅行会と言うような感じの集まりでした。一年に何回となく方々ブラジル中を旅行されて羨ましいような楽しい集まりでした。
その当時は農業組合も色々有りましてスールブラジルの組合が丁度便利な場所でしたので、集まって話し合い、老人クラブを作ることになったのでしょう。明治生まれの方々で発足したのだから老人クラブ明治会と名乗ったのだと思います。
カンピーナス明治会は一時は二百名以上の会員でしたが今は百六十人位です。毎月役員会と例会がありますが、二回共本山さんは出席致します。「俺は欠席はしないのだから出席簿にアシナはしない」と言っていました。
いつもお元気で例会には前に出て、ご自分の健康についてのお話をしたり、また体操指導を今年の三月までずっとされていました。その後、「少しきついから」と言って、引退されましたが、会にはずっと出席しておりました。
私が明治会に入会致しましたのは、一九八五年十月でした。主人が六十六才で脳溢血で半身不自由な生活で毎日愚痴ばかりこぼして居ました。本山さんの奥様もお元気でしたが足が不自由でした。お会いして話している内に「ばあちゃんも連れてキロンボ温泉に行くから、あんたも主人を連れて行かないか」と誘って戴き、明治会の方々とご一緒しました。
本山さんに「お前もその杖をゲートボールのマレッタにして遊べ。明治会にも入会しないか」と言われて、次の月に二人で入会しました。
家族の者に時々車で連れて行ってもらって例会に出席して、カラオケで歌わせて戴いたりして主人も気分が明るくなり、会員として十年楽しく過ごし、皆様方に大変お世話になり、八十才で世を去りました。
当時、本山さんは九十五才にもなられていたと思いますが、遠路カンピーナスより会員の皆様とご一緒にご会葬くだされ、また百歳過ぎても仏壇にお参り戴き、本当に頭が下がります。
老ク連の新館を作る時も一生懸命で、会員にも話し、また協力も惜しまなかったと思います。近年、老人大会など本部の行事にも「誰も行かないのか」と言われ、残念そうでした。 今になって創立者として寂しかっただろうと後悔いたします。私も二年間、本部でカンピーナス代表として行くことになり、二年間本山さんと老ク連の会議にご一緒いたしました。私は五十キロ奥地の町ですので、別々のサンパウロ行きのバスです。朝早く本山さんは百二歳になられても一人でバスでサンパウロにへ行き、メトロに乗り「わしは遊びに来るのだ」と楽しそうに皆様と話されていました。本部に行くのが楽しみだったと思います。
息子さんが電話で、「パパイが行ったから、帰りをお願いします」と云われていました。息子などついて来ると邪魔になると笑いながら元気な足取りでした。「西丸君などわしより足が遅い」と話しながら通ったものです。
私と本山さんでは二十歳の違いでした。本山さん百二歳。私は八十二歳。私が生まれた年に本山さんは移民したと言っていました。私が本部にカンピーナス代表で来るようになった時、大反対されました。遠くから来る女性が何の役に立つかと云う意見でした。本当にそうでお断りしたのですが、私が勤まらないところは会員一同で協力するからという事で二年間だけお受けしたのでした。 今、前の机にある明治会創立三十周年祝賀ボーロカットの記念写真には、前会長一同五人がいますが四人共亡くなられ、私一人残っています。寂しい思いでいっぱいです。
本山さんは耳が遠くなられていたので明治会の役員会では、向き合いの席でいつも石井さんが書記をしてあげていました。頭はしっかりなされて居て、気にいらない協議には意見も述べられ、本当に明治会の宝でした。
チエテのロードビアからは本山さんはカンピーナスに、私はアルツールノゲイラにと別々のバスに乗るのですが、時々はカンピーナス行きのバスで一緒に帰って来る時もあり、二人で飴をなめながら遠い道のりを帰って来たことでした。
三年前頃は会員のお葬式にはほとんど出られて弔辞を述べられました。最近少し足が弱って場所により息子さんに付き添われて車椅子で行かれた時もあり義理がたいお方でした。
最後の一週間の入院中に「もう俺は駄目だから皆さんによろしく」と言い残されたとの事。何とご立派な一生だったと頭の下がるばかりです。
天晴れ百五歳本山翁
有り難うございました。安らかにお休み下さい。ご冥福をお祈り致します。
本山さんへ哀悼の辞
カンポグランデ老壮会 成戸正勝
先日、本部からの知らせで、本山顧問がお亡くなりになったことを知った。百五歳の誕生祝を三日後に控えた日に、大往生を遂げられたのである。
私は本山さんとの付き合いは、そう長くはない。十五年そこそこで、私がサントスの伯寿会の役員を務めている頃に、本部の役員会でその都度会って、本山さんの人柄に惹かれていったのである。
昔は長らく、日本語学校の教壇に立たれて、二世の教育に尽力された方なので、その風貌に厳しさを秘めながらも優しさを湛えていられて、話しながらも相手を納得させる努力を欠かさないだけの包容力を持っておられ、私などは本山さんとのいっときの雰囲気は、楽しい想い出となって心の奥に沈殿している。
私との年代の差を感じさせない十分な理解力を持っておられたので、色々な問題解決には、貴重な意見を聞かせて頂いた。
今年の初めにお会いした時には、まだまだ頭脳明晰な健康さを拝見したので、今回の訃報には驚きと悲しみを隠せない。謹んで哀悼の辞を書かせて頂く。
本山喜久雄氏の死を悼む
スザノ福栄会 杉本正
在りし日の本山喜久雄氏を偲びつつ、記してみたいと思います。
去る八月十三日開催の老人クラブ大会に、今年百五歳の本山さんは、何時もの如く、愛杖と共にカンピーナス市からお元気で見えられました。相変わらず張りのある声で、何かと語りあったものですが、まさかこの日が今生の別れになろうとは知る由もなく、「お元気で」と再会を期して別れました。
十月二十日朝、上原さんより本山さんのご逝去の報に接し、一瞬、愕然としました。天命成りとは云え、凡人なるが故に、世の無常なるを思う時があります。
老ク連も気骨ある持ち味を持った明治生れの創立会員が一人欠け二人欠けと逝去なされ往くものの淋しさは格別のものがあります。「生あるものは死あり」と、何れ私達の人生は遅かれ早かれ落ち着く先は定まって居ることではありますが…。
かつて本山さんは私に「自分はほとんど病気知らずに幸せな人生を送って来た」と言われましたが、ご自身も充分注意なされてこられた事でしょう。健康体であったからこそ、百五歳でも思考力が衰えず、明治、大正、昭和、平成と四世代を歩んで来られたことでしょう。
本山さんはカンピーナス明治会を老ク連創立以前に創立され、人望ある人柄の下に会長職を十八年も務められた方で、一九七五年の老ク連の創立者でもあり、初代理事会構成で常任理事、会計理事を務められた方でした。
私が理事となった折には、すでに本山さんは顧問になっておられました。ですからご一緒に現役として執行に携わったことはありませんでしたが、老ク連の催し事には私の知る限りでは必ず出席された律儀な人柄でした。老ク連に対しては深いご理解を持たれ、ご自身なりのご意見をお持ちで、私はよくご教授受けたものでした。
本山さんには『晩年』という言葉は当て嵌まらないようで、老人クラブ代表者会議が毎月開催されるようになった時には、すでに確か白寿の年でしたが「毎月の会議に来ることを楽しみにしている」とおっしゃられ、相変わらず遠方のカンピーナス市から会館に来られるお姿を見るにつけ、本山さんは一般の人には通用しない『別格者成り』と、思ったものです。
会議の折は、多少難聴のところから、今日の決まった事を書いてくれと言われて、何度か書いてあげた事もありし、何かと私に言いやすかったのかも知れません。
もうその人は
この世にはなし
今はただ、ご冥福を祈るのみです。
本山喜久雄さんを想う
ビラ・ソニア老壮クラブ 山口勝
本山さんの思い出は数え切れないほどである。
月一回の代表者会議にはカンピーナスという遠方から他の誰よりも早く「おはよう。元気かねー。また、遊ばせてもらいに来たョー」と愛用の杖、カバンを肩に大きな声で挨拶しながら入ってこられた。
そして、持参のゆで卵やリンゴ、時にはパステイスなどを「食いない」「食いない」と私たちに勧める。朝のうちなので食欲も無く、遠慮すると「若い者がこれぐらい食べないでどうする!わしは毎朝ポンジンニョに肉やら何かを挟んで二つは食べるよ」と言っていた。
さすが長生きする人は胃袋の出来も違うものだと感心したものだった。
命の恩人だという古びたカバンには、スーパーの裏紙やらなにやらに墨で描いた絵や書がぎっしりと入っており、老ク連の廊下の壁に貼ったり、欲しい人に配ったりしていた。
一日三、四時間はこれらを書いたり作ったりしているというから、根気、気力も人一倍の人だった。
中でも印象に残っているのは、明治記念総合短歌大会に初めて短歌を作り投句し、入選した時の事だった。
いつものように代表者会議に朝早く到着して「あんた、ドエライ事が起こったヨ。わしが生れて初めて作った短歌が日本で当選したんだぜ」「たまげたねー」と興奮さめやらぬ調子で語っていた。百一歳にして、新聞の記事を見て自分も作ってみようと思う好奇心、そして投句する勇気。脱帽である。
渡伯より八十年を過ぎにけり
おろそかなりし一生(ひとよ)と思ふ
本山さんの心情を吐露したこの一句は今でも鮮明に覚えている。天寿を全うした今、ただただ御冥福をお祈りしたい。
本山様安らかに
セントロ桜会 矢野恵美子
小さな体で、いつも役員会の席に顧問として座って居た本山様。大きな声で堂々と発言をして居た人。お耳が遠いので、私とはいつも筆記でお話をして居た人。
絵を画き格言を沢山書いて、老クの廊下にはって有り、私は沢山頂いて今でも箱にいっぱい持っています。ある昼時「長生きの秘訣はありますか」と尋ねると「わしは小さいときから人参とネギが大嫌いでひとつも食べんヨ。人参とネギを食べなきゃ長生きするヨ」と真面目な顔でおっしゃっていました。色々と思い出は尽きません。
老ク連のマスコットとして皆に愛されて居た人。今、大往生をされた本山喜久雄様。御冥福を祈ります。
皆様よいお年を
JICAシニア・ボランティア 宇野妙子
今年もまもなくクリスマス、お正月とやってきます。皆様お元気でお過ごしでしょうか。
早いもので、私が老人クラブ連合会に配属されてからまもなく一年半になります。今では、すっかりブラジルに住んでいる日系一世の方と見間違いされるほど馴染んでおり、老ク連でお会いする方からも「あなたは何年にこちらにきたの?」との質問が何度かありました。また、町を歩いていると道をたずねられる事もたびたびあります。たいていメトロの駅か道の名前を聞かれる訳ですから身振り手振りとわずかな単語で話すだけで「オブリガーダ」と言われます。
先日も出勤途中、信号待ちをしていると車の窓が開き何か尋ねてきます(もちろんポ語で)。私の能力では聞き取れなかったので、側を通り過ぎようとした男性のブラジル人に「あの、すみません」と呼びとめて「道を聞いているので、教えてあげてください」とお願いしました。男性は車に近寄り、指差しながら二言三言。ドライバーは私にも「オブリガーダ!」と言ってくれ、私も「よかったわ」と歩きながら、「アレッ私日本語でしか話していなかった」「何で分かったのかしら」とビックリしてしまいました。いやはや、街に馴染んでも言葉には…。
さて、今まで私は老ク連に派遣されてのべ三十支部の巡回を行いました。そこで共通して感じることは、皆さんがとても明るくお元気なこと。楽しそうに笑顔でお話しされていて本当に仲が良いこと。これもブラジルという明るく人懐こい国柄にお住まいだからかも知れません。それから、なぜか男性会員がちょっと少ないのは残念なことです。
どうぞ皆さん、来年は皆で老人クラブの活動内容を宣伝し、一人ひとりがお仲間を増やしていきましょう。来年もどうぞよいお年をお迎え下さい。
思い出に残る歌い手たち
名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑯ 奈良光枝
戦後の流行歌手では珍しい清純派美人で、その甘く美しい歌声はなかなか魅力的であった。歌手としてのデビューは、昭和十五年の「南京花轎子」だったが、大映映画「青空交響楽」(一八年)の主題歌「青い牧場」の藤山一郎とのデュエットで売り出した。
戦後になって、大映「或る夜の接吻」(二一年、千葉泰樹監督)のヒロインに起用されて、映画初出演。場末のボードヴィル劇場の歌手の役で、詩人の若原雅夫とキス・シーンを演じ、日本映画の接吻女優第一号と騒がれる一方、主題歌「悲しき竹笛」(近江俊郎と)を歌ってヒットさせ、スターの座についた。二三年には「雨の夜汽車」を発表、翌二四年には東宝映画「青い山脈」(今井正監督)の主題歌を藤山一郎と歌って、この明るい曲は
敗戦後の荒廃した国民の受け入れるところとなって、大ヒット、一躍売れっ子歌手となった。その後も「愛の灯かげ」「赤い靴のタンゴ」(二六年、二つとも西条八十詞、古賀政男曲)、「花の心も知らないで」「白いランプの灯る道」等の拝情歌を出して人気を保っていたが、四十八年病気のため五三才の若さで亡くなったのは惜しい。
⑰ 二葉あき子
大正四年生まれ、八○才を迎えた二葉あき子は、現役では最年長の歌手と思われる。もっとも、平成十三年には第一線を引退しているが…。彼女は広島県出身で、終戦間際、広島原爆投下時に、間一髪のところで乗っていた汽車がトンネルに入って、被爆を免れたという強運の持主である。
昭和一四年、映画「春雷」の主題歌「古き花園」を歌ってヒットし、同年には「白蘭の歌」(伊藤久男と)、「父よあなたは強かった」(四人で)を出し、翌 五年にも続いて「新妻鏡」(霧島昇と)、「なつかしの歌声」「春よいずこ」(両者とも藤山一郎と)、「お島千太郎旅唄」(伊藤久男と)、「めんこい仔馬」、いずれも売れ行きが良くて、一躍人気歌手の仲間入りを果たした。二葉の声は戦前はかなり音域が高く、ソプラノに近かったのだが、戦後は音域が低くなり、本格派アルト歌手として活躍した。
戦後はまず「夜のプラットホーム」「別れても」(二二年)で早くも健在ぶりを示し、「フランチェスカの鐘」「さよならルンバ」「恋の曼珠沙華」(二三年)などで、押しも押されぬ地位を築いた。特に、二五年に出した「水色のワルツ」(藤浦洗詞、高木東六曲)は大ヒットとなり、当時多少歌に自信のある女性は、好んで口にした名曲である。
なお、この人はブラジルでも公演しており、コロニア間でもフアンが多い。また、絵画と書道は玄人はだしだという。
広報車
サンパウロ中央老壮会 西沢てい子
十月半ばの水曜日に家の前のフェイラが片付いた頃、「皆さん、今朝フェイラで八十三歳になるセニョール・ソーエイ・イサが行方不明になりました。身長、服装はかくかくしかじか茶色のチョッキを着ています。心当りがありましたら、捜査に協力してください」と広報車が拡声器で町内を知らせて回り、大きく引き伸ばした本人の写真を配っていきました。
ソーエイさんと同じアパートに住む知人の話ではモッカ区に住んでいた時、強盗に襲われ、そのショックで頭がおかしくなり、弁護士の息子さんが用心のよいアパートに奥さんと二人で住めるように引っ越して来て間もないとか。朝、奥さんが魚を買っている一寸の間にいなくなり、家族が心配しての捜索願いでした。
二日たち、三日過ぎても見つかりません。その間、警察はとても協力して下さったそうです。家族の方々の心労は大変でしたでしょう。
月曜日の朝、私は日課の水泳教室に行きましたら、ソーエイさんと同じアパートに住んでいるドナ・ダルシイが「皆さん、喜んで下さい。セニョール・ソーエイが今朝早く、警察に保護されて帰って来ました」と嬉しそうに報告されました。
行方不明になってから五日目でした。ソーエイさんは七粁離れた元住んでいた家を探して、やっと言えるポ語で「ミーニャ カーザ(私の家)」と言いながら歩いているのを保護されたのです。
当人は五日間の記憶はなく、ミステリーとなっています。見知らぬ人たちにお世話になったらしく、やつれもせず、さっぱりとした服装で帰られたそうです。
当日の昼頃、広報車が「皆さん、父ソーエイは今朝、無事保護されて帰ってきました。ご心配してくださった皆様に心からお礼を申し上げます」と町内を巡って知らせました。
サンパウロ市の片隅の町の出来事ですが、広報車での捜査協力は珍しく良い方法だと感心しました。
そして、決して他人事ではないと思いました。
マリーナダイルダ湖畔遊園地旅行記
アチバイア清流クラブ 纐纈久雄
ナザレーのマリーナダイルダ湖畔遊園地はレプレーザ、アチバインニャの湖岸でナザレー町の湖岸より六、七キロ位グアルーリョス寄りの所にあります。このレプレーザは有名な人造湖で、ブラガンサ、ピラカイア、ナザレーの各湖水の水を集め、さらにマイリポラン湖に合流して、サンパウロ市へ水を送り、サンパウロ水道用水の水源湖になっています。
清流クラブがマリーナダイルダ湖畔遊園地へ旅行するのは二度目で、今回の十月十七日の旅行では四十一人が参加。曇り空で小寒い中、朝八時にアチバイア市役所からバスで出発しました。バスはドン・ペドロ街道筋のナザレー町よりグアルーリョス街道に出て、同街道の五十一・五キロの地点を左折。廻りくねった土道を約六キロくらい行って遊園地の真上にある門口に着きました。時間は丁度、午前九時でした。
遊園地のご主人・芥川アルマンドさんと清流クラブ会員の山内一幸さんが出迎えてくれました。二人の案内でかなり急なアスファルト道を足元に気をつけて降りていき、湖畔にあるサロンに着くとアルマンド夫人のイルダさん(山内ご夫妻の娘)と山内夫人の正子さんが歓迎してくれました。このサロンは二階で、真っ青な湖水を見渡せる眺めの良いサロンでした。
食堂には朝のカフェーが用意されてありましたので、一同はカフェーを済ませて湖水周りの希望者二十五人は湖岸に降りました。雨よけの張れる用意のあるモーターボートにアルマンドさんは、二十五人を三組に分けて乗せました。
湖水はしばらく雨が降らないので、きれいに澄み切って気温も涼しく、モーターボートは風を切り波を立てて走ります。時速五、六十キロくらいでナザレー町の湖岸を通り、ドン・ペードロ街道で一番長い橋(約八百メートル)の下を通ってピラカイア町の方角に向けて走ります。
モーターボートでの湖水めぐりは約一時間。残りの二組も同じコースで廻り終了したのが午後一時頃でした。その他の人達も朝のカフェー後、湖岸に降りて来て山内さんの案内で遊園地の施設を見て廻ることになりました。二つの湖岸の釣堀では竿や餌の用意もしてあり、大形の鯉、パクー、チラピア等がよく釣れるそうです。
次は湖岸より少し高い処に造られた自然石を敷き詰めた岩風呂のようなピッシーナと百五十メートル掘り下げた掘り抜き井戸で、地下から湧き出すきれいな水は施設全体の水道に使われています。
次に案内されたのは大きな倉庫で、モーターボートを四、五十台預かって両脇に並べてありました。休日になるとボートの持ち主達が前もって電話で申し込み、家族連れで遊びに来るのでボートを倉庫から湖岸に運び出すこと、そしてボートがすぐに使えるように整備するのが大仕事だそうです。客が多いと、宿泊施設が足りなくなることもあると云っていました。
昼食後は、食堂に二千曲ほど揃っているカラオケをし、その後、ビンゴで楽しみました。三時半に午後のカフェーをご馳走になり、お世話になった方々にお礼を云い、記念写真を撮って別れを告げました。午後五時半には無事、アチバイアへ着きました。
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