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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2018/12/14)
2007年1月号

2007年1月号 (2007/01/03) 新年の御挨拶

老ク連会長 重岡康人
 老ク連加盟クラブの会員の皆様、明けましておめでとうございます。ご家族そろって良い年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
 新しい世紀に入って早や七年、平成の御代も十九年を迎えました。昨年、母国日本では国民等しくお待ち申し上げていた皇孫、悠仁親王様のご誕生があり、久々ぶりの景気回復の喜びに花を添えた慶事となりました。
 併しながら世界の政治・経済そして軍事情勢は刻々と変化、予断を許さないような深刻さで、各地にも影響を及ぼしており、私達が安住してきたこのブラジルの社会もその余波を受けて昔とは大きく様変わりし、老人には何かついて行けないように思うこの頃です。
 そんな中にあって、私達の連合会も時代環境に合わせて、知恵と工夫を重ねて運営していかねばならず、現在大過なく過ごしているのも、この会を育てられた先輩方のご指導や、遠く近くから心を合わせて守り立てて下さっている各クラブの皆様のお力によるもの、とあらためて感謝しております。
 昨年は特別大きな事業も持たず比較的平穏な年と言えますが、一昨年八月挙行された老ク連創立三十年記念祭の記録である記念誌の発行については、以前十周年、二十周年に記録を作成しなかったこともあり、初めての集大成となるため資料収集と整理に手間取っておりますが、今年半ば前には発行に漕ぎつけて皆様に頒布できる予定に致しております。
 この二〇〇七年はいよいよ一年後に迫った移民百周年の準備年として、もはや迂闊には過ごされない重要な期間として位置づけられています。私達のクラブを構成する会員、一世・準二世・準一世はこの新しき天地で土地を開き家族を養い、今はいずれも老境に入った隠居の身の上であり、記念事業の主動的な役割は遠慮させて頂いていますが、若い者達の真摯な活動に対しては喜んで応分の協力はしたいと思い、また、今までの長い経験を生かして色々の助言はできるものと考えられます。
 次に当老ク連も日本の全老連同様、年齢意識の大きな変化の趨勢によって、高齢化が進んでいるにもかかわらず、参加する会員数は減少という事態が起きていますが、これに歯止めをかけ、更に進んで会勢力の増大を計る年としたいと望んでおりますので、皆様方の更なるご尽力をお願い申し上げます。
 終りに臨み、すべてのクラブ会員、ご家族の皆々様のご健康とご多幸をお祈り申し上げ、新年のご挨拶と致します。


年頭所感

(在日本)全国老人クラブ連合会 会長 長尾立子
 新年あけましておめでとうございます。ブラジル日系老人クラブ連合会の会員の皆さまには健やかに新しい年を迎えられたこととお慶び申し上げます。
 老人クラブ活動を通して、仲間づくり・健康づくり・生きがいづくりを推進し、各地域に根ざした活動に積極的に取り組まれ、ブラジル社会に大きく貢献している皆様のご尽力に対し、母国の仲間たちも大きな声援をおくっています。
 新たな年が、平和で心豊かな社会となることを祈念いたしますとともに、高齢者の英知とパワーが、福祉増進に寄与・貢献されることをご期待申しあげます。
 日本では六十五歳以上の高齢者が、はじめて総人口の二割を超え、二千五百万人になり、中でも七十五歳以上の後期高齢者が増加し、一人暮らし高齢者も十年前の約二倍の勢いで増加しております。このような急速な高齢化に伴い、介護・年金・医療など高齢者の生活に大きな影響を及ぼす社会保障制度改革が進められています。
 また、昨今、児童を巻き込んだ悲惨な事件や高齢者を狙った犯罪や悪質商法が頻発していますが、地域の人間関係の希薄化が犯罪の抑止力低下を招いていると感じております。こうした中、老人クラブでは「見守り活動」や「友愛活動」を通じて地域の「人と人との絆」を深めていくことが安全・安心のまちづくりの第一歩と考え、地域の関係者と連携して活動を行っております。
 二十一世紀の社会は、さまざまな困難が予想されますが、ブラジルの仲間と手を携え、平和であたたかな心の満ちた世紀を築く一翼を担いたいと存じます。
 年頭にあたり、ブラジル日系老人クラブ連合会の一層の発展と会員各位のご健康とご活躍を祈念いたしまして、新年のご挨拶といたします。


新年のご挨拶

在サン・パウロ日本国総領事 西林万寿夫
  二〇〇七年の年明けに当たり、皆様に謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
 二〇〇七年が世界が平和に向かい、お一人お一人にとり希望に満ちた一年になります事を心より祈念いたします。
 昨年、ブラジル日系老人クラブ連合会が国内外からの多くの来賓の方々をお迎えして創立三十周年を盛大に挙行されたことは、記憶に新しいところであります。
 日本における老人クラブは、戦後早々の昭和二十五年、社会と経済の混乱、家族制度の変革の中で、高齢者自らが集い新たな役割を求めんとして誕生したと言われております。ここブラジルにおいても日系社会の高齢化に伴い、日本から老人関係の専門家を招くなどしてクラブ設立を視野に関係者が研鑽された結果、自助、相互扶助をモットーに各地に老人クラブが誕生したとうかがいました。
 今日までのブラジル日系老人クラブ連合会の活動の軌跡を見聞きしますと、お一人お一人が現役意識をもたれて極めて意気軒昂であり、誠に多岐に亘って活動してきておられます。そのようなブラジル日系老人クラブ連合会の活気に満ちた事業運営に対しまして心より敬意を表する次第です。
 更にブラジル日系老人クラブ連合会は、当地日系社会への貢献のみならず日本との親善交流を含め、日伯両国にその存在感を示すに至っており、誠に慶賀に堪えません。
 先日の新聞報道に日本女性の平均寿命は、今後も伸び続けるものと予測されるとありましたが、日本人の長寿は世界的に広く知られており、その食生活が世界中から注目されているところであります。その日本の食生活や伝統・文化をブラジルにもって来ておられる皆様は、今後も健康に留意され、それらを伝えてブラジル社会を一層豊かなものにしていただきますよう期待しております。
 遠く日本を離れ、お一人お一人が様々な経験をお持ちと思います。本年も人生経験豊かな皆様がお元気で楽しくお過ごしいただきますよう願っております。
 最後に、皆様に二〇〇八年のブラジル日本人移住百周年及び日伯交流年事業には積極的に参加していただくことを希望するとともに、ブラジル日系老人クラブ連合会の今後益々のご発展と会員皆様のご健康を祈念しまして、私の年頭の挨拶と致します。


年頭のご挨拶

国際協力機構ブラジル事務所長兼サンパウロ支所長 小林正博
 ブラジル日系老人クラブ連合会会員の皆様そして役員の皆様に、新しい年のお喜びを申し上げますとともに、心より皆様のご健勝とご多幸をお祈り申し上げます。
 ブラジル日系移民百周年を来年に控え、二〇〇七年は様々な関係者が協力し合い、日本とブラジルの関係をさらに密接で友好な関係とする年となります。二〇〇五年の小泉首相のブラジル訪問と二〇〇六年のルーラ大統領の日本訪問により、両国は二〇〇八年を日伯交流年とすることに決定し、現在、日伯双方の官民を上げ、その取り組みが始まりつつあります。
 地球の反対側という「遠い」地理的状況にありながら、百五十万日系人が両国を結び、大きな貿易投資関係をもつ、ブラジルと日本の伝統的に「近い」友好関係は、移民百周年を来年に控えて、まさにあらためて高く評価されるべき時期に来ています。今日、新聞テレビの話題となる四つの新興経済大国、ブラジル、ロシア、インド、中国のなかでも、中国が近くて遠い国と形容される一方で、ブラジルは遠くて近い国と言われ、日本人の多くが最も親近感を抱いている国に違いありません。そして、この両国関係は未来に向かって、さらに重要さを増しているものと多くの人々が確信しています。さらに、その歴史を振り返るとき、この緊密な両国関係は、ブラジルに苦難を越えて移り住み、日系人としてブラジル社会からも大きな信頼を得、各界で活躍されてきた先輩諸兄のお陰であり、その努力の賜物であると、改めて実感されるしだいです。
 ブラジル日系老人クラブの会員の皆様は、これらを成し遂げ、今日の日系人の地位を築き上げたまさに先輩諸兄であり、我々はそのことを十分承知しておりますが、さらに引き続き次の新しい世代にこのことを伝えていく必要があります。このため、会員の皆様にも百周年をひとつの節目として、ご自身の日系人としての豊かな経験や知見を次の世代にその言葉で伝え、継承する役目を担っていただければ、まことに幸甚に存じます。それが、移民百周年という新たな日伯関係を実り多い形で発展させるためにも必要であり、私ども国際協力機構(JICA)も微力ながら、日系老人クラブ連合会の活動や各地における継承日本語教育へのご支援を、今後とも継続してまいりたいと存じます。
 最後に、改めて会員の皆様のご健康とご活躍を祈り、新年のご挨拶とさせていただきます。


年頭に際して

ブラジル日本文化福祉協会 会長 上原幸啓
 「老壮の友」をご愛読の皆様、そしてブラジル日系老人クラブ連合会の皆様、新年明けましておめでとうございます。
 二〇〇七年の新しい年を新たな気持ちでお迎えのことと存じます。一夜明けた朝は普段と変わらぬ朝でございますが、新年となりますと気分が引き締まるものでございます。
 二〇〇七年が人類の限りない繁栄と、世界が平和であることを期待したいものでございます。
 昨年度は秋篠宮家に親王殿下の誕生という誠に喜ばしい慶事があり、日本国のみならず、当地日系社会にとりましても等しく喜びとすることでございます。男尊女卑のそしりを受けかねませんが、皇室に男子継承者がおられる事はなにかと心強く感じられるものでございます。
 さて、ブラジル日系老人クラブ連合会と聞きますと、まず思い浮かびますのが、老人とお呼びするには誠に失礼な、元気溢れる精神的には若者と呼ぶに相応しい集団としての存在感でございます。事実、日々の活動を拝見しておりますと、一層その感が強く、年を重ねた暁に誰しもが、かくありたいと願う理想の姿を見る思いが致します。
 このブラジル日系老人クラブ連合会の中核をなす機関紙が「老壮の友」であることは言うまでもないことです。一九七四年の創刊以来、一回の欠号もなく発刊され、現在では毎月千八百部の多くがブラジル全土はもとより、日本、中南米の読者に読み継がれていることは誠に輝かしき歴史という事ができるでしょう。
 「老壮の友」紙を通じて、日本語による会員間の相互啓発を行うことは、日本語離れが何かと話題になる昨今においては貴重なことであり、常に研鑽を続け向上してゆきたいとの各自の思いが一つとなり、継続との快挙に結びついているものと思います。
 日本語は日本の文化、伝統芸術を学び理解する手段としてだけの存在ではなく、日本人の精神構造を理解するにも不可欠の語学であると思います。
 この貴重な日本語で書き、読み、話す会員の皆様の更なる精神と、ブラジル日系老人クラブ連合会の一層の活躍を期待しております。
 年頭にあたりブラジル日系老人クラブ連合会、会長・重岡康人様はじめ会員の皆様の今年のご多幸、機関紙「老壮の友」のご発展を祈念しまして新年のご挨拶と致します。


新年を迎えて

サンパウロ日伯援護協会 会長 酒井清一
  二〇〇七年の年頭に当りまして、ブラジル日系老人クラブ連合会の会員の皆様に謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
 皆様にはご健勝にて新年を迎えられたこととお慶び申し上げますと共に、旧年中に皆様から寄せられました温かいご理解、ご協力に対し心から感謝申し上げます。
 お陰様で予定通りの活動を行い、医療と福祉の面で困って苦しんでいる人達の為にいささかでも手を差し伸べ、支えることが出来ましたことを喜んでおります。
 高齢化に加えて、社会情勢の変化は益々早く、厳しくなっていく昨今、貴連合会におかれましては、益々活発に巾広く活動を展開されていらっしゃいますことは、私共、サンパウロ日伯援護協会にとりましても心強い限りであり、皆様方の前向きの姿勢、共に手をつなぎ合う強い姿に深甚な敬意を表します。
 ブラジルもサンパウロ州以南は六十歳以上が全体の一〇%近くを占めていますが、若い世代が相当数外国に出稼ぎに出ている現在、日系社会における六十歳以上の人口比率は一五%以上になるものと推定されます。
 元気で充実した老後を送っており、又、そのように送ろうとしている高齢者が増えている反面、社会と交わらず一人で淋しく暮らしている高齢者も増えております。
 毎年、高齢者間題の相談が増加している状況を援協では非常に懸念しており、前年には福祉センターの建設プロジェクトを立ち上げました。高齢者問題の増加に前向きに対応しようという援協の姿勢、決意を表したものですが、医療と福祉の向上には日系社会のご協力、ご支援が欠かせません。
 高齢者がお互いに手をつなぎ、社会との交流を促し、老後の生きがいづくりに精力的な活動を続ける貴連合会は、今後益々必要とされる存在であり、当援協としても今後一層共に協力し、日系社会の高齢者の福祉を担っていきたいと思つております。
 新年に際し、貴連合会のご発展、並びに会員の皆様のご健勝、ご活躍を祈念致しまして、私の挨拶とさせていただきます。


年頭にあたり

ブラジル日本都道府県人会連合会 会長 松尾治
 謹んで新年のお慶びを申し上げます。
 旧年中はいろいろとご支援をいただき、心より感謝申し上げます。
 ブラジル日本移民百周年まで残すところ一年となり、二〇〇八年の祭典に向け、海外最大の日系人集団地であるブラジルで、皆さんと祝うために、大いなるご理解と協力、支援をお願い申し上げます。
 ブラジル日系老人クラブ連合会の発行する機関紙『老壮の友』が、日本語で読み・書き・話す会員の啓蒙と親睦のために、一九七四年に創刊されて以来、一号も欠けることなく三十二年間、日本や中南米の国々の関係者の方々に送られ愛読されておりますことに敬意を表します。
 老壮のパワーが日本はもとより中南米のすみずみまで行き渡り、近隣諸国との交流を重ねておられますことは、私ども県連が同じく同胞の地を訪問し交流を重ねております『移民のふるさと巡り』にも通じるものがあります。この移民のふるさと巡りも、これまで参加者の最高齢者は八十四歳、平均年齢は七十を超えていますが、参加される方々の元気さには驚きを感じ、このパワーを日系の若者に与えてやりたいと思うほどです。
 県連では、この移民のふるさと巡りの他、恒例の行事として毎年七月にフェスティバル・ド・ジャポン(日本まつり)があり、この催しも日本の郷土の料理、郷土の芸能をブラジルは勿論、諸外国からの参加を呼びかけ開催されるものです。開催期間中、郷土料理を食べながら、また歌や踊りを見ながら日本の心を伝えたいと思っています。そこにはただ単に日本に郷愁を感じさせるだけのものではなく、この催しを通じて二世、三世、そして四、五世へと父母、祖父母の祖国日本の郷土食、伝統芸能が受け継がれることを願っております。また、同時期にサンパウロで海外日系人大会が開催され、多くの方々が海外から参加を表明しており、第十回というフェスティバル・ド・ジャポンとともに、ブラジル日系人の姿を、同胞の方々に見て頂きネットワークを結ぶことが必要です。
 ブラジル日系老人クラブ連合会におかれましては、同じ心を持つ多くの老壮年の方々が交流を末永く続けられ、ますます交流の輪が広がることを期待し、また私ども県連を構成しています各都道府県人会の行事、活動にも参加して盛り上げていただきますようお願い申し上げます。
 最後に、貴会ますますのご発展を祈念します。


新年のご挨拶

(在日本)『百歳万歳』編集長 植松紀子
 明けましておめでとうございます。
 いよいよ二〇〇七年の幕開けです。皆さまご健勝にてよい新年をお迎えになったことと存じます。
 日本では今年は二〇〇七年問題といわれ、大きい社会問題となっています。それはベビーブームの年に生れたいわゆる「団塊の世代」と言われる人々が定年退職を迎える年だからです。
 大量の定年退職者を出す企業側は、熟練した技術をどうしたら次の世代につなげることができるかと頭を抱え、経済的には団塊の世代の退職金をどのように使うかに興味が持たれています。銀行・証券会社でも様々な商品を用意し、旅行会社は世界一周旅行など豪華な旅を企画、建築会社は別荘や、田舎暮らしブームに乗って地方への移住を勧めたりしています。また、地域では企業戦士だった多くの人々が地域に戻ってくると期待しています。
 老人クラブではこの地域に戻ってきた六十歳の方々を老人クラブ会員になってもらうための様々な工夫がなされています。若い年代人たちが入りやすいサークル活動を増やしたり、老人クラブの名前を抵抗感のない名前に変えたり……。
 ブラジルの老人クラブの皆さまも積極的に活動を展開されておられることと思います。
 ブラジルに移民して、長い年月をその地で暮らした苦労や喜びを互いに語り合える仲間と生き生きと交流することができる老人クラブの存在は、その活動を通して、生きがいを持ち、健康を保つことができることはもちろん、会員の皆さまの心の支えとなっていることと思います。
 今年もますますブラジル日系老人クラブ連合会が発展されること、そして、会員の皆さまにとっても健康で幸多い年でありますよう、距離は遠く離れているけれど心は近い日本からお祈りしております。


両親と正月

健康体操教室 戸塚マリ
 ♪年の初めのためしとて~ 終りなき世の目出度さを~ 門松ひっくり返して大騒ぎ~ 芋を食うこそたのしいけれ♪
 東京は大森の我が家の前で、近所の子供達が歌っているのを聞いて、北京の小学校でも男の子達がふざけていたのを思い出した。そして改めて「あぁ、ここは日本なんだなぁ」と思った。それは中国から引き揚げて、初めての正月だったからかしら。
 食糧難でふすまや芋の粉のパンばかり食べ、正月もまた芋かと歌を聞いてげんなりした。でも父がどこからか調達した羽織袴で近所に挨拶回りに行くのを見て、「何だか、改まっていいなぁ」と感じた。十五歳の春だった。
 おせち料理など殆どなくて、母が「お頭付きよ」と言ったのが、鰯だった。ところが父の友達がやって来て、なけなしの酒を二人で飲み、いい気分になって「帰る」と言った友に「君、飯食っていけよ」と父が言ったものだから、母は私を台所へ呼んで、客間の方を睨みながら「父さんはいつもああなんだから」とぼやき、「マリ子、頭の方?尻尾の方?」と私に聞いて、二人で小さな鰯を半分ずつにして食べた。母親と長女って、何だか損だなぁと、今でも時々そう思う。
 次の年の正月だったかしら、やっと甘いものを売り始め、父があんころ餅でお酒を飲んでいるのを見た母が「気持ち悪いー」と嫌な顔をしたのを思い出す。その母も私たちがブラジルへ来た次の年に亡くなってしまった。父はその後再婚し、八十歳位の時、「大病している会いたし」と手紙がきたので、とるものもとりあえず飛んで帰ったら、父はピンピンしていた。三度目の奥さんと喧嘩して、どこかへ行ってしまい帰らないとの事。
 「マリ子、おせち料理を作ってくれ」と言われて、ちょこっと作って、二人でお酒を飲みながらお雑煮を食べていたら、「マリ子よー。おっ母ちゃんの味がするなぁ」としんみり言うので、私も大分きこしめしていたので「お父つぁんよー。お前様みたいに三度も新しい女房を持てるという幸せな人は少ないんだよ。早く仲直りしなよ」なんて、柄にもなく父親に意見して、ブラジルに帰って来た。
 父と最後のお正月は本当に忘れ難く候。


一年の計

書道教室 若松如空
 「一年の計は元旦にあり」と教えられている。新しい年を迎えて何を計画するかという事だが、私は数ヶ月前に腹を決めた目標がある。「書道で脳を活性化しよう」という運動を展開することだ。
 実は一昨年前から健康を害して、この辺が私の限界かと考えた事があった。私の祖父は六十三歳で他界。父は三十六歳で死亡した。短命の家系である。実のところ、私の身体はガタガタである。糖尿はすでに二十年。みんながお饅頭を食べるのを横目に悲しくせんべいをかじる。強度のアレルギー症で、人工の色素を食べると全身に斑点が出来る。特に黄色が悪い。緑も危険。だから寿司のわさびが駄目。アレルギーを起し易いヒスタミン系の食物は極力避ける。じゃが芋、トマト、ナス、一部のきのこ、とうもろこし、豚肉、牛肉、鶏卵などが食べられない。だから家内の苦労は一通りではない。夜も眠れない。
 一昨年、肺炎を病んで、その後、気管支喘息が起こった。いよいよ体力が弱まって、アレルギーが気管に入った事を知ってがっくり。医者が詳しく検査したら、胃から食物が喉へ逆流する「レフルクソ」という現象が出て、更に喘息を強めているとの事で、胃の手術をすることになった。弛んだ胃の入り口を絞りなおす手術だ。ところが後が悪い。一ヶ月間、喉を通るのは牛乳だけ。その後の二ヶ月間は幼児食。体力の消耗は激しく、体重は五キロ減った。その手術も完全とは言えず、なお少ないながら逆流があるので、喘息止めの薬を一日二度使わねばならない。こんな身体では…と、先行きを悲観したのが、前述の限界感である。
 その後、くよくよしないで開き直れと自分に言い聞かせて、「気力だ!気力だ!」と連呼する事にした。何かやろうという目標を持たないと気力は生れない。夢を持つことも良いが、現実味のある決まった目標が良いと考えた・ そんな時、NHKの放映で、手で字を書く事とコンピュータで字を打つことの脳の働きの違いを説明するニュースに出合った。手で書く方が数倍脳を活性化するというのである。私はこれまでコロニアでのラジオ体操の隆盛をうらやましく思い、書道と健康を結びつける材料がないか、と探しあぐんでいた。「これだ!」と思った。
 老ク連の授業で、新年は書道で脳を活性化しようというキャンペーンを始めると言ってしまったが、皆が手を叩いて喜んでくれ、嬉しかった。


開きまして?おめでとう

民謡教室 纐纈蹟二(喜月)
 年末、ちょっとした事故に遭った。事故といってもエレバドール(エレベーター)の故障である。
 私の住むアパート団地は八つの十六階立ての建物が並んでいる。一階ごとに六家族である。二基の大きなエレベーターがあり、十二人乗りのものである。
 日曜日には近くに大きなフェーラ(青空市場)が立ち、アパート群の住人や近所の人たちが一週間分の野菜や果物を買う訳で、皆、買い物車を曳いてフェーラへ来るので、大混雑である。
 その日も十時半頃に買物を終え、アパートに着くと管理人がエレベーターの扉を開けてくれたので、買物車を曳いて家内と乗り込んだ。すると、外人の女性がひとり急いで乗ってきて、九階のボタンを押した。私は八階なので、八のボタンを押すと、エレベーターはゴーっという音を立てて上昇した。いつもより長い時間をかけて昇っているなと思った途端、エレベーターの扉が開いた。十六階の最上階で一メートル程昇り過ぎている。外人の女性が急いで九階、八階のボタンを押したが反応なし。
 さぁ、困った。非常ベルを押すと十六階の廊下に響き渡るが、地階の管理人には判らない。
 その女性は根気よく二分ぐらい鳴らし、少し間を置いて、また鳴らす。が、誰も来ない。私たちは少々不安になり、非常ベルを鳴らし続けた。
 その内に十六階の住人の老婆がうるさいので怒って出て来た。私たちが宙ぶらであることを認めるとすぐに管理人に電話をしてくれた。
 その間、十五分ぐらい。また十分程すると、赤いシャツを着たボンベイロ(消防士)が一人来て、「事情は分かったが、自分ではどうすることも出来ない」と言う。
 テクニコ(技術者)を呼んだが、今日は日曜日で、プラントン(休日担当者)が来るので、「しばらく待て」と言って、行ってしまった。
 騒ぎ立てると酸素不足になると、以前何かの本で読んだのを思い出し、三人で足を投げ出して腰をおろし、休む形にして静かにしていた。外人の女性が小声で身の上話をし始めたので、それを聞いていた。彼女は四十三歳で、十年前に亭主と死に別れ、二人の子供を抱えて掃除婦として毎日別々の家へ働きに出ているという。今日は日曜だが、老人二人暮らしの家に行き、フェーラの買物と台所の掃除、鍋などを磨いて、昼食前にアイロンをかけて、二時に帰宅するつもりだったが、今日は遅くなると言っていた。一時間程たってやっとテクニコとボンベイロが来て、扉を開けてくれ、家内が抱かれて下に降り、次にブラジル人の女性、買物車をおろして、最後に私も若い人たちに抱かれるようにして降ろされた。
 機械の故障だから文句を言うことも出来ず、家に入って胸を撫で下ろしたが、十二時過ぎても二人共に食欲はなく、半日はぼんやりして過した。
 今まで一戸建てに住んでおり、アパート住まいになって、初めてこうした事故が起こるのを経験した。一時間三十分程の箱詰めだった。
 何はともあれ、無事、開きましておめでとう!である。


楽しい人生

盆踊り教室 玉井須美子
 十二月十七日、タボン文化協会の日語学校の終業式が行なわれました。
 私は舞踊教師として、壇上に立たせられて、可愛い幼稚園の生徒たちから大きな花束を贈って頂き、感激しました。この子たちが踊りを通して、日本の文化に興味を持ち、親しむ事に役立てたら、こんなに嬉しい事はありません。
 五歳から八歳までの日系の子供六人ですが、ブラジル生れのせいかリズム感がよく、週一回の授業ですが、すぐに覚えてしまいます。「さくらさくら」と歌いながら、一生懸命練習しています。五歳ですから日傘を持たせると、「先生、ペザード(重い)」などと言いながら、傘に振り回されています。日頃のやんちゃはどこへやら。本当に可愛い子供たちです。
 芸能祭当日は美しい振袖に花かんざしを挿して、うれしそう。どこから見ても日本人。お母様方も美しい我が娘に見とれておりました。
 このように小さな子供たちから老ク連の仲間まで、日本舞踊を通して、多くの友人に恵まれ支えられて素晴らしい人生に感謝しております。
 二〇〇六年も楽しい思い出を残して終わりました。新しい年も夢と希望を持って、よい年であるよう念じております。
 本年は猪の年。真っ直ぐにハリのある年になるよう期待しております。


新しいもの

絵画教室 森田冨久子
 ある人が「ゲーテは独創的でないよ」と言った。しかしゲーテはそれに対して「人間、独創的なんてあるものか。自分は生れた時から母親に育てられ、皆に教えられ成長した。そして死ぬまで色々な人から刺激されながら、教えられながら、ハッと自分で感じて生きているだけだ。人間は自分のものというものはない。すべては借り物ばかりだ。そんな非難を自分は気にかけない。気にかけたら切りがない。人間は自分を知ったらそう気にかからない」と言った。
私もこの頃、絵の世界や芸術界一般について考えさせられる事が多くある。
 新しいものを目指せ、目指せで、馬鹿なこれ見よがしの作品が山のように出る時代になった。私はあのように奇妙奇天烈なものを作ろうとは思わない。自分の絵は非常に平凡で、人生の一情景を描いているに過ぎない。でもそれが私の人生なのだと思って描いてきた。それなりに良かったなぁ、とこの頃思っている。
 聖書の伝道の書にもこう書いてある。「空(くう)の空(くう)、いっさいは空である」。先にあった事はまた後にもある。先になされた事はまた後にもなされる。日の下には新しいものはない。「見よ。これは新しいものだ」と言われるものがあるか。それはわれわれの前にあった世々にすでにあったものである。……。
 本当にその通りで、ゲーテも同じように考えていらっしゃったのだなあと懐かしく感じられた。新しい、新しいとそれが叫ばれる時代になったけれども、つまらない事だと思う。
ビエンナーレ展でも余り不思議なものが並ぶようなったので、見に行く人も減ってしまったようだ。企画する人にも考えて貰いたい。もっと我々にも分かるものであったら…と思う。
 健康な庶民の感覚は大切だと思う。変なものはやっぱり変なのだ!


子供移民の人生雑記

俳句教室 栢野桂山
 小学校五年生で渡伯した子供移民の非力な労働力でも父母にとっては頼みになったのであろう。配耕されたリンスの大きなコーヒー耕地で、その収穫に、除草にと苛酷な労働の毎日が続いた。
 移民の義務農年は満一年間(二年間の所もあった)。我が家は配耕が正月の始めだったので、コーヒー園のすべての仕事を経験することになった。
 そのコーヒー収穫のペネイラ係は子供移民の僕の役目になって、袋詰めしたコーヒー袋を集めに来る車の通る道まで担ぎ出すのも父の手を借りず、十三歳になっていた我が背の役目とした。
 一袋六十キロはゆうに合った袋の両耳を掴み上げて背負い、重みに耐えながら遮二無二に歩いた。同じ十三歳の年頃の者よりもチビだった僕は四十キロあとさきの体重だったであろう。「まるでコーヒー袋に足が生えて歩いているようだ」と皆からはやされた。その格好を後から見ると袋から足が十センチほどだけ見えたということだ。
 そういう耕地生活では新聞雑誌もなく、日本語の活字を目にすることはなく、日曜祭日は黒ん坊の子供と遊び呆けたり、少し成長すると耕地の広場で催される嫁選びを見に行ったりした。嫁選びとは娯楽の少ない奥地の広場に集って、女性は右へ、男性は左へ回り、異性を物色する風習である。
 こうして十七歳になった時、日系の植民地に転耕して、父に従って俳句会に入会して、五年間の耕地生活で漢字はおろか仮名文字さえ忘れていた日本語で俳句を作る楽しみを覚えた。
 かくして三十歳の頃、念腹先生の門下生となり、写生俳句と写生文を覚え、以後七十余年間、作句作文を百姓の余技として没頭してきてもうすでに米寿を超える老齢となった。一人の子供移民だった僕のお粗末な雑記である。


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