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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2007年3月号

2007年3月号 (2007/03/08) 日系の少年少女諸君に贈る言葉

老ク連副会長 五十嵐司
 今年の一月十七日、「日本語ふれ合いセミナー全伯少年少女交流合宿」の集まりで、日本語を熱心に勉強している君たちの元気な姿と優しくそして力強い言葉を聞いて、私たち一世の年寄り達は大変嬉しくそして心強く感じました。それで、これなら私たちが日頃心に思っている将来への望みを話しても判って貰えるだろうと考えて筆をとりました。君たちは孫と同じ三・四世で若葉のような、夢で一杯の人たちです。向かい合って話をしていると、私たちが日本で幼かった頃、お爺さんやお婆さんから古くから伝わった昔話や、それぞれの思い出などを聞かされたことを思い浮かべました。これは、ちょっと難しい言葉でいうと世代をつなぐ伝承というか、民族の持っている思想(こころ)の申し送りのようなもので、今の日系社会で一番大切なことではないか、と思うのです。特に来年は日本移民百周年ということで色々な計画が発表されていますが、何よりも大事に思うことは良い風習や固有の優れた文化を守り、そして私たち日系社会の歴史を大切にすることであって、この機会によく考えを練って、これから先の百年に向けて進んで行かなければならないと思います。
 さて、百年前に始った日本人のブラジル移住ですが、人々は大きな夢と希望をもって故郷を離れ、地球で一番離れた土地にやってきました。それぞれが自分のできることでその力を試し、成功したいと張り切ってサントスの港へ上陸したのです。もちろんみんな自分自身や家族の生活をもっと豊かなものにしたい、と思いました。しかし全くそれだけではありません、それと同時に新しい土地で前からいた人たちと、言葉はよく分からなくても仲良くし、南米の新天地と呼ばれる若い社会の発展のためにも一緒に働けたら、と思ってやってきたのです。家族一同がよくよく考えて自分たちの強い意志で決めた渡航であったので、決して故郷からはみ出されたり、捨てられたり或いはアフリカからの奴隷のようにかどわかされたりして、労働だけのために連れられて来たのではありません。私達は腕だけではなく頭脳とハート(心)でこの国に役立とうという気持ちを持ってきた移住者なのです。労働力とともに自分達の文化も持ち込んで来たことは、アメリカの初期移民がイギリスのキリスト新教文化を伝える使命感をもって移住し、アメリカ文明の形成に役立ったのに少し似ています。繰り返しますが、この豊かな自然を持つ国で食べ物やお金だけを求めたのではなくて、地域の開発に対する見識を持った移民たちの、君たちは誇りある子孫であることを忘れないで下さい。
 日本で古くから伝わる文化の根底は「和」の精神であり、これは七世紀に聖徳太子という皇子が作った日本で始めての憲法(国の基本法律)の第一条で「和をもって貴しとなす」といっています。みんなで心を合わせてよい社会を作ろうということです。そして実際、日本の国は小さな島国でその上、台風・地震・厳しい寒気などの自然災害が絶え間なくあり、正直に力を合わせて働かなくてはみんなが生きては行けないようなところです。それで正直で働く習慣ができ、「働く」は「はた(そばにいる人のこと)楽」ともいわれ、他のものにそれだけ楽をしてもらおう、というボランチア精神も生まれたのでした。私たち一世は皆この慣れない土地でも同じように夢中で働き、子供を育て、できるだけ真面目な家庭を築いてきたのです。大部分の日本移民は貧乏はしても誇りは失わず、人を裏切ったり、不正なことなどは一切せず、ただ黙々と正直に努力して人々の信用を得てきました。ですから、私たちが子孫である君たちに伝えたいこと、そしてこれからも持っていて欲しいことは、無理して作る大きな財産や、人を押しのけて獲得する地位などではなくて、別のもの、自分の周りにいる多くの友人であるブラジル市民に愛され、頼りにされ、そしてみんなの役に立てる能力と心豊かな人間性なのです。そして「信用」これこそわが日系社会の持っている、目に見えないけれども最大の財産です。それからもう一つ、古くから伝わる日本のお侍の魂、それは、他のものには優しく思いやりがあるけれど、自分には厳しく、どこまでも責任をとり、義を守るためには勇ましく戦う、これが日本の侍の心がけ「武士道の精神」といわれるものです。君たちは侍の心を伝える立派な日本人の子孫になって下さい。
 ブラジルは前に述べたように大きく、自然の環境では世界で最も恵まれた国です。そこに生まれた君たちは小さくて何の資源もないような日本の少年少女よりずっと幸せなはずです。北アメリカと同じように多民族の若い国ブラジルは各移民の故郷である諸外国の優れた文化をそれぞれ取り入れて上手に経営すれば、世界の何処にも負けない素晴らしい国になれるのです。君たちはその得意な日本語の知識を生かして日本から文化・技術の良いところを選び出してこの国に紹介する力をもっています。私たち一世は大きくなってからこの国に来たため言葉に不自由し、習慣にとまどい、多くの時間を費やしました。そのためついに果たせなかった大きな夢を君たちがやり遂げてくれることを期待しています。これからのすべては、若い君たちの肩にかかっているのですから。


思い出話 「見合い結婚」

アチバイア清流クラブ 纐纈久雄
 十数年昔になると思いますが、私の友人の子息の結婚披露宴の席で隣に座って居た未亡人で、宮城県出身の年輩のお婆さんが、自分が昔、結婚した当時の思い出話をしてくれました。
 日本で結婚したのは、十八歳の時のことだと思いますが、その結婚は私の父親が仲人の持ってきた縁談を勝手に独りで決めたようなものでした。
 形式的な見合いを私の生家の応接間でしました。当日は仲人夫婦に連れられてきた青年の座っている前へ私がお茶を持っていって挨拶しただけで、私は応接間を出ました。
 こんなお見合いの後で、父親が「これは良い縁談だ」と言って、その見合いをした隣村の青年の処へ嫁にやることにしたから、そのつもりで準備しなさい」と言われ、決められた日に嫁入りして、結婚式も終り、披露宴には新夫婦が正面に座り、まるで夢を見ているような気持ちで終始うつむき加減で過しました。
 一夜が明けて、翌日のことでしたが、田舎の農家ではあまり広い倉庫が無いので、住宅の前庭にバラッカ造りで臨時の結婚披露宴会場が作られていたのですが、その会場の後片付けに、翌日、近所の青年が集って来て、働いていました。その中に私のお婿さんもいるはずですが、私には見覚えがありませんでした。私は朝から炊事場で片付けや昼食の準備の手伝いをしていました。
 やがて、昼食の時間になりました。姑さんが私に「お前の亭主を『昼食だから』と言って、呼んで来なさい」と言われ、困ったことになったと思いながら炊事場から外へ出て、働いている青年達を見てもどの人が私の亭主かわからないのです。知らない人に訊くわけにも行かず困りきって思案していると、ちょうどそこへ仲人さんの奥さんが来て「どうしたか?」と言われるので、事情を話すと、笑いながら私の亭主の所へ連れて行ってくれました。
 このお婆さんの思い出話です。
 戦前の日本での見合い結婚はどこでもこんなもので、結婚して一夜が明けても自分の亭主の顔がよく分からなくても珍しくはなかった。
 今から考えると、ばかげた笑い話ですが、昔、特に田舎の見合い結婚にはこんな事が多かったようです。


小さな旅がしたい

サウデ老壮会 林壽雄
 私はサウデ文協、老壮会の一員ですが、毎月会館に集って、軽い食事をした後、雑談をしたりしている。ふと、周りを見渡すと殆どが女性会員だ。未亡人であろうか。それともご主人はいても老人会には出てこないのか。
 そこで考えられるのは、ただ集って雑談をしているぐらいではさっぱり面白くない。そこで、一言申し上げたいのは、一つ思い切って小さなピクニック旅行で外を歩いたり、他の老人クラブと交流したら、もっと楽しみが増えるのではないだろうか。あまり金のかかることはしなくても、小旅行ぐらいなら貸切バスでゆっくりと遊ぶことが出来る。
 私は若い頃、世界をまたによく旅行したものだが、だんだんと年を取ってきて、そんな事も出来なくなった。でも小旅行ぐらいなら今でも付き合えると思う。
 そこで人生の生き甲斐なども考えて、よりよく老後を生きる道を探すことも必要ではないだろうか。人間の幸せとは、金でも地位でもない。天職についているという気持ちで、元気に生きている満足感である。
 世間にはあちこち老人クラブがあるから、ひとつ世話人が連絡をとって近くのクラブなどに行って、意見の交換などをやったらとても有益なものになるのではないだろうか。
 同じ顔ぶれだけより、違った人たちの意見を聞くのも時によっては楽しいことではないだろうかと考える。
「木は旅が好き」
 木はいつも憶っている。旅立つ日のことを…。
 一つの所に根をおろし、身動きならず、立ちながら、花を開かせ、虫を誘い、風に吹かれ、結実を急ぎながら、そよいでいる。
 そこで、どこか遠くへ行きたい。ようやく鳥が実を啄む。野の獣が実をかじる。
 木はある日ふいに旅立つ。空へ。ポトンと落ちた種子が「いい所だ。湖が見える」と。小さな苗木が根をおろす。幹に手を当てれば、痛いほど分かる。木がいかに旅好きか。放浪へのあこがれてかも…。
 立木だって、旅が好きだろう。まして人間様だ。連れ立って仲良しが旅をする。これぐらい楽しい事はないだろうから…。


春子ちゃんと犬

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
 春子ちゃんは動物が好きです。特に犬が大好きです。同じような年頃の子供が犬を連れていると羨ましくてたまりません。野良犬や野良猫でも頭をなでてやります。「飼い主のいない犬や猫は注射をしていないから、病気になっているかもしれないから、見るだけにしなさい。人の犬でも、断わってから『いいよ』と言われてから触りなさい」とおばあちゃんが教えました。
 春子ちゃんは犬を連れた人がいると、「触ってもいいですか」と断わってから頭を撫でてやります。時々、犬を抱かせてくれる人もいれば、『駄目よ』と怒ったように小走りに行ってしまう人もいます。春子ちゃんはがっかりします。
 かわいそうに思ったお父さんが子犬を持ってきました。だけれどもアパートには昼間は誰もいません。
 遠くに住んでいるもう一人のおばあちゃんが預かりました。
 「私が面倒を見るのだから、この犬は私のだよ」と、おばあちゃんがからかいます。
 「お父さんが私にくれたのだから、私の犬よ。早く大きくならないかなぁ」。
 春子ちゃんは犬を散歩に連れていける日を夢みて待っています。


南の旅

サンパウロ中央老壮会 内海博
 カルナバルの休日に南大河州ヘ行くツアーに参加する機会があった。バスは階上が三十八席、階下の前が十二席、後ろには荷物置き場のある二階建て五十人乗りのセミレートで参加者は三十人だったので、皆、足を伸ばしてゆっくりした旅になった。
 サンパウロを十六日の午後十一時に出発。サンパウロ州を抜けてパラナ州サンタカタリナ州そして目的地のリオグランデドスール州のグラマード市をぬけて隣りのカネーラ市についたのは十七日の夜、午後十時であった。
 サンパウロのカルナバルをさけて南の方へ行くツアーの飛行便が不足するという新聞やTVの報道をきいた旅行者が、バスや自家用車に切り換えた為、サンパウロを出てすぐ街道はひどい混雑だった。ジュキチーバを通り越すのに三時間もかかったので、通常二十時間足らずで行ける所を二十三時間もかかり、途中から予約をいれてあるホテルに長距離電話で夕食が遅くなるのを連絡するなど、交通渋滞の為ツアーの係も大変な気のつかいようだった。
 私たちが行く目的のグラマード市は昔から観光地として知ちれた所で、旅行者目あてのホテルや旅館などが割高で、僅か二十キロ程の隣り町カネーラ市はベッドタウンとして宿泊代が約二〇%は安いので、目的地を通り越して宿泊した。
 とにかく一日バスにゆられて疲れた者は何はともあれ寝る。翌日は朝から霧雨でちょっと出鼻を挫かれた感じだったが、間もなく天気も晴れて有名な古代イギリスのゴシック調のロウルデス教会を参拝。その周辺の商店街で買物などをした。町を歩いていて気がついたのは、先ずピルが無い事。建物は総べて四階建てまでで、中心街を外れると殆どが平家で全く垣根が無い。住宅も商業用の家もサンパウロのような垣根やセルカが無く、街路は信号が無い。通行人が渡ろうとすると自動車はその人が渡り終るまで待ってくれる。バスが十字路を横切る時は、反対方向の車はその大型バスがゆっくり通るまで待っている。追い越し追い抜きなど絶対にしない。もしそんな事をする車があったら、それはナンバープレートを見なくても、きっとサンパウロから行った車だろう。
 もう一つ、町にゴミが無い事にも驚いた。たまにゴミ捨て用の篭がおいてあるが、中身は枯れた花や小枝などで、紙やボール紙、プラスチコの袋や空き缶、空きビンなどを見ない。それらは皆、廃品回収のため、きちんと別処理されているのだ。サンパウロのように雑多な人種でなく、住人の七〇%がドイツ人だという事を聞いて「なるほど」と思った。
次ぎに食事の事。十七日から二十日まで、丸四日計八食の内、ホテルでの夕食二回は別に変わった事もないし、街道のロドヴィアリオの食事も話すことはないが、十八日の昼はガウショのディナーショーを聞きながらのシュラスコ、その夜はフォンデュというスイス料理だった。ケイジョ(チーズ)やチョコレートを熱々に熔かしたものにパン、薄きり肉三種、その他を付けて十四種の変わり調味料で食べる。十九日の昼、鶏肉と変わりマカロン。夜はイタリア料理のカフェーコロニアル。パンとボーロ二十種の夕食でご飯らしき物はない。二十日の夜もイタリア名物だというマカロン料理十五種以上の変わった味付けで、「これが本場のイタリア料理か」と、日頃ご飯と味噌汁に慣れた者には四食もご飯が出なくてちょっと困ったようだった、。
 この度の旅行はグラマード市だけでなく、周辺のペントゴンサルベス、カルロスバルポザカシアスドスール等も周遊。ケーブル椅子で四百五十メートルもつられて滝見物や昔懐かしいマリアフマッサの蒸気機関車でヴィンニョを飲み比べる一時間半の旅。食器生産で有名なトラマンチーナの工場即売展示場見学と買物など興味の尽きない旅だった。。話しが長くなって紙数がつきたので終わりにする。


愛読した作家たち

名画倶楽部 津山恭助
① 石川達三 「移民の体験者」
 昭和五年、石川達三は単独移民としてブラジルに渡航し、サン・パウロ州奥地で一か月ほどコーヒー園に就働した後帰国、この時の体験をもとに書き上げたのが「蒼氓」で、「改造」誌の新人賞選外佳作となり、これに多少手を加えたものが、昭和一〇年の芥川賞第一回受賞作に選ばれた。「そうぼう」という難解な題名の意味は(人口の多い農村から、人口の少ない農村に移住する農民)というものらしい。作者自身の言葉を借りると「これら農村出身の移民集団を描くことによって、政府の移民政策に抗議する」意図を持つ作品だが、事実国家権力に対する庶民的な抵抗という姿勢は、この人の著しい特徴であるとともに、大きな魅力にもつながっている。「蒼氓」は数少ない移民文学の傑作であることには間違いないが、反面ブラジルへの日本移民のイメージを著しく暗く悲惨なものに印象づけてきたことは否定出来ない。
 昭和十三年に発表された「生きている兵隊」は軍部を批判した書として筆禍事件をひき起こし、禁固四か月、執行猶予三年の判決を受けたもので、作者の信念に殉ずる硬骨派の面目躍如たるものがある。日本の純文学の主流は私小説だとする伝統は文壇には根強く残っており、そういう特殊な社会において、健康な常識家と評される彼の合理主義的な生き方は歓迎されなかった。反面そのジャーナリスティックな抜群のセンスと男性的な骨っぽい筆致により、新聞小説の常連作家として文学とは余り縁のなさそうなあらゆる階層の人達に年代を超越して愛読されつづけた。彼がいかに一流の風俗作家たり得たかは「望みなきに非ず」「四十八歳の抵抗」「青色革命」「風にそよぐ葦」「充たされた生活」「悪の愉しさ」「傷だらけの山河」等のタイトルはその時代の流行語として普及した事実が、作者の時代に対する鋭敏な照応性を雄弁に物語っている。それに、この人はモラリストとしての警句、箴言じみた表現に素晴らしい才能を発揮し、人生の断片を裁断する独自の見解は、いわゆる大人の鑑賞に耐えうる魅力を備えている点も特筆すべきであろう。私がまだ高校生であった頃に「妻とは性生活を伴った女中にすぎないのか」というショッキングなテーマを提言した「幸福の限界」に驚きを隠せなかったことなどを懐かしく思い出す。
 作品数はかなり多いが、好きな作品をあげるならば、やはりまず「人間の壁」だろう。政治と教育のからみ合いを多角的な視野で書き上げた労作で、教師も労働者であるとのテーマに貫かれたもので、私は昭和文学でも指折りの名作だと信じている。ほか、戦中戦後を通しての激動の世に翻弄される自由主義者の悲劇を描いた「風にそよぐ葦」、弱い人間を踏み台にして実業界にのさばっていく典型的な企業人の生態をあくどいまでに浮き彫りにした「傷だらけの山河」、貧しさゆえに充たされぬ野望をもって社会に挑戦した青年の悲劇を描く「青春の蹉鉄」、敗戦により社会の組織から因習、愛情までも一切のものが崩壊して去っていく混乱期に、没落海軍大佐の家庭を中心に、次々と起こる悲喜劇を通して戦後日本の俯瞰図を鋭く表現した「望みなきに非ず」などが印象に残っている。
 晩年になって、「私ひとりの私」「心に残る人々」「経験的小説論」等、自伝的な作品を残し、昭和六〇年に八○才で他界。画家としての才能も広く知られていた。


私のペット物語 ⑧ 「我が家の犬猫たち」

ビラ・ソニア老壮クラブ 畔柳道子
 我が家は常に犬猫屋敷だ。物心がついた時から猫も犬も常に身近にいた。
 現在飼っているのは、大人になった猫が四匹。もう一匹いたのだが、急にいなくなった。白くて大きな猫で、おっとりしていて、名前を呼ぶとニャンと答える。餌を食べる時は、必ずニャニャンといってから口をつけた。突然いなくなったので、いつも仲良く遊んでいた兄弟で、もう一匹の大きいシロは一時、寂しそうだった。
 あとの三匹のうち一匹は、この兄弟の母猫で、もう二匹はこの母猫の姉妹である。この四匹でもうたくさん。これ以上は増やすまいと思っている所へまた誰かが仔猫を庭において行った。
 その灰色の仔猫も人懐こくて、その日からもうウチの猫のように振る舞いレイチとラツソン(餌)でお腹一杯になると、いつの間にかソファに上がって、ぐっすり眠っていた。
 犬は三匹いたのだが、ドギという犬は老犬になり、最後は寝たきりとなって死んだ。
 もう一匹のラッキーはこれも誰かがウチの庭において行ったのだが、なかなか貰い手が付かず、そのうちにすっかりなついてしまい可愛いので結局ウチで飼う事になった。
 もとからいる茶色の大きいチヤチヤは気が荒く、最初はラッキーを苛めたが、だんだん馴れて喧嘩をしなくなった。でもラッキーは元々丈夫ではなく、一年程で死んでしまった。
 それに私共ももう老齢という年になり、犬との別れを考えると、もう若い犬は飼えないと思っている。
 今度の仔猫も貰い手がつかないまま居ついてしまってミューという名が付き、遊び回っている。
 去年のペットシリーズでの森田様の愛犬ファのお話、別れの日の好物のハンバーガーも食べなかったファの事を読んで、涙がこぼれそうになった。
 思えば私も今までにかかわりのあったペットたちの思い出は尽きない。


虱の引っ越し

名画なつメロ倶楽部 田中保子
 混血のジョンは黒人の母親の意向で、生まれたときから頭髪を切ったことがない。父親が白人なので、髪の質はかなり縮れ毛ではあるが、大人になったジョンの髪は肩を覆い背中に達するまでになっている。
 子ども時代は母親が洗髪をしてよくブラシをかけてくれたので清潔であったが、成人してからは本人任せなのであちこち毛ダンゴが出来て、おまけに不精な友人たちのアジトに潜り込むので、いつのまにか虱が湧いてきた。
 次第に数を増し、虱の長「オサ」は移住を考えるようになった。
 そんなある日、ジョンがメトロに乗って、背中合わせの椅子に腰かけたら、後ろに座っていた長い金髪の毛先とジョンの毛が触れ合った。
 虱の長は「今だ」と判断して、近くの幼虫大の虱たちを金髪に急いで移動させた。そして、自分もその後に続いた。虱の長のおかみさんも続こうとした時、金髪の主が立ち上がって、電車を降りていったので、虱の長のおかみさんと残った家族は、ジョンの頭髪に残されてしまった。永久に…。
【教訓…髪の長い人と背中合わせに座ることなかれ。】


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