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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2007年4月号

2007年4月号 (2007/04/14) オリンピア旅行

サンパウロ東部紅葉会 宿沢豊子
 待ちに待ったオリンピア旅行へ二月三十一日、リベルダーデから出発した。
 車中、会長の門脇さんより挨拶があり、小圷さん、門脇さん、高橋さん、砂入さん、佐久間さんからの差し入れを頂き和やかな雰囲気の中、一路バンデランテス街道を走った。
 オリンピアはサンパウロの北部に位置し、聖市から四百五十キロ離れている。
 途中、ポストで十分間休憩し、また車中の人となり、軽快な音楽を聞きながらうつらうつらと眠る。その後、バスが止まったので前方を見ると灯と建物が見える。もうホテルに着いたのである。外は真っ暗の午前五時。会長が降りてホテルの支配人と話をし、約三十分後にはカバンを下ろした。ホテルの部屋は十二時にならないと空かないとの事で、カバンを事務所に預けて、まずは朝食。洗顔も歯磨きも出来ずの朝食に皆苦笑い。
 その後、水着や半ズボン、タオルを持って、パルケへ向かう。ホテルからパルケまで歩いて約十分ぐらい。パルケは八時に開館で、中では支払いはすべてフィッシャである。フィッシャは首から下げて水の中に入っても構わない。
 広大なパルケで一千米を掘り下げて、お湯が涌き出ているそうだ。
 プールは幾つもあり、それぞれの特徴がある。岩風呂も五ヵ所あり、中に腰掛もあって、ゆっくりお友達と語らいながら、湯船に浸かって体を休めることができる。温度は三五度位で湯加減もちょうど良い。
 次に滝のあるプールへ行く。滝の下で肩のマッサージ。そして下からもお湯が涌き出ていて、足や腹、腰のマッサージもできた。
 前方のプールでは若い人たちが大きなタイヤに乗って、大波小波にひっくり返りながら楽しんでいる。空中から紐にぶら下がって下りて行き、深いプールに飛び込む人もいる。また、大きな笠の形をした頂上まで紐をつかみながら上り、下からは水鉄砲で水を発射し、頂上の人に当てたり、大桶がいっぱいになると屋根を伝って下で遊んでいる人たちに雨を降らせたり…。大小さまざまなプールで子供から年寄りまで楽しめた。
 以前行ったゴイアス州のリオケンチでも大きなタイヤに乗って川を一周したが、同じシステムがサンパウロのオリンピアにもあって、楽しかった。
 午前中、プールで遊んで、日中は暑いから、昼食後はホテルで昼寝して一休み。夕方五時ぐらいからまたプールで遊んだ。夜には夕食後、ビンゴで楽しみ、当たらなかった人にもラーメン一個が配られた。
 二日目の夜はダンス。戸外でのダンスは気持ちが良いが体が汗ばむ。部屋のシャワーより広い「プールのほうが気持ちが良い」という友達の提案で、夜のプールに八人で入浴。大きなプールの途中に腰掛が作ってあり、そこに腰掛けて夜空を仰ぐと、満天の星がキラキラと輝き、前方の木々のこずえの隙間からは上弦の月がやさしく光を投げかけている。ふと、忘れかけていたふるさとを想い出し、郷愁の念にかられる。友達も同じ想いだったのかも知れない。お互いに日本を旅した時の話に時が過ぎるのも忘れ、十一時過ぎに部屋へ戻った。
 翌朝は朝七時半に朝食をとり、帰りの準備をして、九時にはホテルを後にして一路サンパウロへ。行きは夜で景色も見えなかったが、帰りは窓外を楽しみながら帰った。広大な、見渡す限り平坦な土地にはさとうきび畑が青々と広がり、良い収穫が期待される。途中、レストランで昼食をとり、リベルダーデに三時半に到着。
 四日間の旅行中、天気にも恵まれ、雨も降らなかったが、帰った日と翌日からはすごい雨になり、改めて天の恵みに感謝した。
 久しぶりの旅行が心身ともに洗われ、明日への希望の糧となり、夏の楽園を楽しむことができた。いつも旅行の企画をして下さる門脇さんご夫妻に厚くお礼を申し上げます。


長生き良し悪し

サンパウロ中央老壮会 栢野弘子
 一九三六年に十五歳で移住して七十年。
 三月六日には子供や孫たちが集まり、私の八十五歳の誕生日を祝ってくれた。感無量といったところ。
 女学校二年の終わる直前、延び延びになっていた移住許可が下り、両親と兄弟姉妹一家八人で渡伯した。姉兄をはじめ私も妹たちも俗に言う「ペンより重いものを持ったことがなかった」のに珈琲園の重労働は堪えたが一家で励ましあい、一年足らずで皆、いっぱしの労働者になっていた。
 珈琲園の仕事を一年半、次に綿作一年の後、父の念願だった養蚕を始めた。この三年間の収入を元に土地を手に入れることが出来た。
 ブラジルに来て六年後のことであった。二十三歳の時、縁あって今の夫に嫁いだ。その頃は恋愛結婚する者は稀であって、日本移民の社会では年頃の青年や娘がいるとどこからか結婚相手を世話する人が現われて、結ばれることがあたり前の事とされていた。今考えると、現在より在伯日本人がずっと少なかったあの頃、そういうことが成り立っていたことが不思議にも思えるのだが…。こうして結ばれたもの同士、結構、沿い遂げて、二年前には子供たちが私たちの結婚六十周年を祝ってくれた。
 六十年の歳月の中には、さまざまな波瀾もあったが、昔から言う「子は鎹(かすがい)」の言葉通り、六人の子供たちがいたおかげで、「耐え難きを耐え」の心境でやり過ごしたことも幾度かあった。今ではもう肉親のような仲になり、平穏な毎日を過ごしている。
 六十余年の夫婦生活を支えたのは、共通の文学趣味と、夫が独身時代から打ち込んでいた俳句を私も真似て始めたからで、奥地居住の頃から、俳句会には同行して、夫も喜んでくれているが、私が本当に好きなのは歌うことだった。
 幼い頃から童謡、唱歌、流行歌、民謡、浪花節に至るまで耳に入ってくるものはすぐに覚えて、父に叱られても大声で歌っていた。夫は「自分は音痴だから」と全然歌わないので、私もだんだんと歌うことが少なくなっていた。しかし近頃、物忘れが多くなって、呆け始めたようなので、歌うことで少しは予防できるかも知れないと思い、先日からコーラス教室に入れて頂いた。ところが、いざ歌ってみたら、声が出ないので驚いた。年の影響はこんなところにまで及ぶのかと情けなくなった。
 今のところ先生や仲間の皆さんの歌を大人しく聞かせて頂く事にしているが、長生きするのも良いことばかりではないな、と痛感しているところである。


消えたふるさと

ジュンジャイ睦会 長山豊恵
 我が家から遠くない三十キロ向うにちょっとした高山が見える。この山に登れば、カイエーラスが眼下に見えるという。ムルサの山と呼ばれている。この山のふもとが私のふるさとである。
 幼い頃から兄と二人でこの山をかけ回り遊んだものだ。このふもとには誰が植えたのか。ジャボチカーバ、ゴヤバ、マラクジャなどの色々な果物があった。主もいなかったのか、食べ放題、もぎ放題。私と兄は毎日のようにこの木の下で果物を食べながら遊んだものである。
 時たま山豚が群れで果物を食べに来る。群れをなして走ってくる豚の恐ろしかったこと。いまだに忘れない。私が四つ、兄が六つで、父はその近くでバタタを植えていた。バタタが色づく頃、父はキビを植えた。キビが実った頃、よく夜になると山豚が出てきて、ポキポキとキビを倒し、荒らされたものだ。
 父たちはカマラーダや隣家の人たち四、五人で、畑の隅にある小さなサッペ小屋で夜を明かしたものだ。ある夜、カマラーダが山豚を一匹射止めた。その夜、皆で担いで来て、料理してお肉を焼いて食べた。明くる日、母は石鹸を作っていた。その日の夕方、兄が見えなくて皆大騒ぎして兄を探していた。日もとっぷりと暮れて暗くなり、父はランプを取って「探してくる」とランプに火をつけていた。そこへ顔色を変えた兄が
 「チンヤ、メード」とふるえながら帰って来た。
母は思わず「お前、今までどこにいたの?」と甲高い声をあげる。
 よく話を聞いてみると、友達と二人で遊んでジャボチカーバを取りに行くと山豚が群れで突然現れた。びっくりして逃げる間もない二人はジャボチカーバの木に登ったが、山豚はジャボチカーバを食べに来たんだからなかなか帰らない。二人は木の上で声もなくじっとひそんでいたと言う。
 日もとっぷりと暮れて、やっと山豚は遠ざかって行った。兄は暗い夜道の寂しさと豚の群れの恐ろしさに一目散に帰ってきたのだった。
 こんな思い出のある我がふるさとに行ってみたら、何と西も東もさっぱりわからない。家ばかりだった。七十年余り過ぎた昔のことである。
 今は賑やかな町になっていた。どこを見ても家ばかり。昔の思い出は夢のようだ。自分の家がどの辺だったかも分からなくなっている。あの清らかな川の水もセメントに囲まれて、濁った色を見せて流れている。
 消えてしまったふるさと。故郷とはこんなものかと呆然となり、落ち込んだ。目に付くのは、あのムルサの高い山一つ。昔と変わらず今もなお、同じ姿でがんばってくれている。


春子ちゃんと犬

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
 春子ちゃんは動物が好きです。特に犬が大好きです。同じような年頃の子供が犬を連れていると羨ましくてたまりません。野良犬や野良猫でも頭をなでてやります。「飼い主のいない犬や猫は注射をしていないから、病気になっているかもしれないから、見るだけにしなさい。人の犬でも、断わってから『いいよ』と言われてから触りなさい」とおばあちゃんが教えました。
 春子ちゃんは犬を連れた人がいると、「触ってもいいですか」と断わってから頭を撫でてやります。時々、犬を抱かせてくれる人もいれば、『駄目よ』と怒ったように小走りに行ってしまう人もいます。春子ちゃんはがっかりします。
 かわいそうに思ったお父さんが子犬を持ってきました。だけれどもアパートには昼間は誰もいません。
 遠くに住んでいるもう一人のおばあちゃんが預かりました。
 「私が面倒を見るのだから、この犬は私のだよ」と、おばあちゃんがからかいます。
 「お父さんが私にくれたのだから、私の犬よ。早く大きくならないかなぁ」。
 春子ちゃんは犬を散歩に連れていける日を夢みて待っています。


日本は遠きにありて想うもの

カンピーナス明治会 樋口四郎
 書きたいことは沢山ある。しかし何分にも無学の為か、想った事をすらすらと書けない。遅々として進まず、書いては破り、破いては書く。一千字程度の作文に十時間ぐらいかかる。それでも書き上がりは幼稚で、高いレベルの文章にならない。読者の皆様には、前後を読み繋いで理解して頂くより仕方がない。
 十数年前、訪日した際、有名な日本の新聞に、日本の世情について苦言を呈した投稿をして紙上に掲載されたことがある。それは世界一の経済大国、技術先進国、安全な国と何事も最先端の国だと思っていた。日本という国は、天災の非常に多い国とは常々思ってはいたが、その後始末や防災策、処理に対して、余りにも日本人らしからぬご返答があり、さすがに呆れて腹が立ってきた。その後も相変わらず色々な災害が続いているのにいまだに同じ事が繰り返されていて、その度にお偉方は「二度とこのような事態にならないよう、最大限の努力をします」と頭を下げる見事な演出である。過去も現在も将来も同じ事であろう。何と情けない日本になったものだ。小さな国日本は敗戦後、世界の模範となる国、素晴らしい発展を遂げたと謳われてきた。何事も最先端の国と信じていたが、それが何んだ!という思いだ。
 少し古い話だが、松本サリン事件あたりからボロが出てきた。阪神大震災、はたまた地下鉄サリン事件、住専問題、北海道トンネル崩落事故、どれを取っても痛恨の事態で残念、無念、やるかたなし。技術大国とは何なのだ。屈指の資金力、最高の研究施設、最高の人材、すべて国民の血税である。
 事故ある度に「予測をはるかに超えた事態で最善の対応であった」と緊張感のない答弁。尊い人命の犠牲者は数知れず。「二度とこのような事態は繰り返されないよう今後は対処致します」とお役人、会社社長、政府高官は深々と頭を下げる。
 しかし、また起きる。何とかファンドとかいう堀江氏、村上氏の金融事件や証券問題、公共談合問題、不二家の賞味期限切れ問題、パロマガスの不良製品問題、建築士設計偽装事件、北海道ガス漏れ事故、原子力発電所事故報告違反…。責任者はそろって頭を下げる。今までの事故の教訓は頭にあるのか?と言いたい。天災とかで簡単に山が崩れ道路が消える。航空会社も鉄道会社も一生懸命事故防止策は取っているとはおっしゃる。でもまた起きる。
 コンピュータに頼る現代社会。人間本来の頭をもっと使うべきである。日本社会は道徳低下、知能低下状態だと思う。日本語の乱れを叫ばれて久しいが、一向に改善されない。政治家は何をしている!正月草々、柳沢厚生大臣が大失言。野党は揃って「してやったり」と肝心の国会審議をボイコット。国内外の難問題をよそに政府打倒に日夜腐心。誰のための国会か。これでは子供の事件、事故、道徳低下は改善されない。大の大人が模範を示すことが先決である。自分が平穏無事であれば、人様の不幸は関係ないのであろう。政治家や高級官僚も会社社長も皆、部下の責任にできる。少なくても公人として事後処理をきっちり終えて辞任すれば良い方である。何にも責任を取らず、辞めれば棲むという考えがまかり通る世の中になった。
 私はポ語がよくできないから、ブラジルの日常の事はよく理解していないが、少なくても日系人、日本人の方が道徳心はあると自負している。それでも日本の現状を思うと、本当にこの国に移住して良かったと心から思う。日系社会も世代交代で、各団体、各集会のモラル低下が話題になっている。今のうちに各地区の団体指導者、役員諸氏は高齢化した戦前移民の輝かしい偉業を次世代に教え、養国ブラジルの為に役に立ち、社会の発展に寄与できるよう力を発揮して下さるようにお願いし、期待している。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
② 井上靖 「詩情と通俗性」
 二〇代に井上文学の魅力にとりつかれて、夢中で読みふけったのは今になってみると懐かしい思い出である。なにしろ、昭和三〇年代の「オール読物」などにこの作者の名が載らない月はなかったほどの売れっ子作家だった。そし、彼の著わすおびただしい数の短編には手当たり次第目を通し、主に古本だが購入して書棚に飾ったものである。
 井上の文学的スタートはかなり遅くて、昭和二四年」「闘牛」で芥川賞を受賞したのが四三才、「猟銃」を文学界に発表して作家としての出発点とした直後である。それ以前、「流転」(十一年)で千葉亀雄賞を受賞してはいるが、以後、十数年間毎日新聞の学芸部記者生活を経験した後に作家生活に入ったものだが、本を読んだり映画を見たりしていると、その筋に触発されて新しい構想が次から次へと生まれてきたと、後年述懐していることから察すると、天性のストーリー・テラーとしての素質は充分にあったものと思われる。氏自身もそういうところがないと、中々小説は書けないことを自認している。また、井上文学の魅力の根源が詩の精神に潜んでいることも広く知られており、詩作と美術愛好と新聞記者としての仕事が、彼の創作の下地となっている。
 第一作「猟銃」と第二作「闘牛」とは、彼の作品の二つの著しい特徴を表わしており、前者は詩的、好情的作品、後者は叙事的、行動的な作品であり、両者は次から次へと生み出された無数の短編の原型ともなっている、重要な手がかりともいえるものであろう。
 好みとしては、私は「射程」の野心的な青年実業家、諏訪高男の光と影に惹かれた。下山事件にからませた、この作者が好んで描く新聞記者を主人公とした「黯い潮」、新聞小説として及第点に達した「あした来る人」、書きおろしの「黒い蝶」、ほか「氷壁」「満ちて来る潮」「ある落日」「化石」「通夜の客」「花と波涛」等が強く印象に残っている。このほか、数は少ないが「三ノ宮炎上」「春の嵐」などの不良少女の生態を生き生きと映し出して忘れがたいみずみずしい青春小説もある。もう一つ、この人の作品のジャンルで忘れてならないのは、自伝的要素を持った「しろばんば」「夏草冬涛」「あすなろ物語」「北の海」等の一連のシリーズで、特に「しろばんば」の拝情は捨て難い味を持っている。昭和二十七年に発表された「戦国無頼」以来、「風林火山」「風と雲と砦」「淀どの日記」「天平の甕」「額田女王」等歴史小説も少なくないが、いずれも独特の個性が著しく感じられて、良質の読物となっている。また、歴史小説の傾向が、「楼蘭」「風涛」「蒼き狼」「敦焼」「楊貴妃伝」に至っているのは、作者の意識の流れを示すようで興味深い。
 井上文学についてよく聞かれる批判は、「どれを読んでもみな同じ」というもの。これは非難としてみれば、彼の小説には一定の型があって、作家の内的発展も成長も認められない、という考え方になろう。反対の立場から見れば、常に安定してゆるがぬ文学的資質が失われていないのは、とにかく賞賛に価するということだろう。
 徹底的な悪い人間を登場させないのも、井上文学の著しい特徴の一つであるが、この点については作者は「現代小説で一つの小説の世界を設定する時、悪い人間を投げ込めば、当然争いになる。人間の憎しみだとか、愛情というものを悪人を入れない人間関係において追求する方が面白いし、純粋だと思う気持があった」と述べている。しかし、悪人はいないが、虚無的な暗い主人公は結構多く見られるようである。特に、若い女性には最も人気のある作家だったようだ。姦通を描いても精神的なものにとどめて、美しい純潔な印象を与えるものが多く、若い女性が自己がかくありたいと思うように理想化されて表現さている点に魅力をおぼえるのかも知れない。彼の作品が広い層に読まれるのは、従来の特に純文学と称されるものの中に色濃くにじみ出ている「人生いかに生くべきか」という、息苦しい雰囲気を一気に破って、「文学は贅沢な楽しさを持つべき」という概念を打ち立てることに成功したことによることが大きい。
 一九九一年(平成三年)没、八十三年の生涯だった。


私のペット物語 ⑪ 「愛犬カッピーの死」

レジストロ春秋会 宮本美津子
 サンパウロへ行っている留守中に突然、我が家の愛犬が急死したとの知らせにあの賢い犬が…と、私は信じられませんでした。
 急に吐いて苦しみだしたので、早速獣医に診察してもらい、注射を四本もしたそうですが、その甲斐もなくとうとう死んでしまったそうです。
 生後四カ月位の時に孫が友だちから貰ってきたのです。全身真っ黒のオスの犬で、私は
「黒ちゃん」と名付けましたが、孫は「カッピー」と呼んでいました。
 五カ月頃からいたずらが始まり、布は破る
し草履は三足も駄目にし、鉢植えの花は咬み切って枯らしてしまい
子犬とはこんなにも悪さをするものかと諦めていました。
 ところが不思議に半年も過ぎた頃から大人しくなりました。
 今が肝心な時だから、いろいろ躾をするように話し合い、新聞紙を広げてそこに用便をするようにと教えました。他を少しも汚すことなく人の言葉をよく聞き分けるようになったのには感心しました。
 一家の中では孫が一番苦手のようで、お客さんが来るとものすごく吠え立てますが、孫の一声で小さくなって、コソコソと暗い場所に入り小さくなっています。しばらくして「さぁ、出ておいで」とやさしく声をかけると、腹這いになって皆の顔を窺いながら恐る恐ると出てくるのです。そのしぐさがおかしくてよく大笑いしました。
 道から大きなドブネズミが庭に入ってきたので、棒切れを持って追い回していたら、黒ちゃんが「脱兎の如く」の言葉そのままに走ってきて、ネズミに飛びついて殺してくれました。猫の代わりにもなってくれて、本当に助かっていました。しかしそれ以上に感心な事は、毎朝五時半前後には新聞配達がオートバイでやってきます。私は五時前には目が覚めて、庭に出て自己流の体操をしているのですが、黒ちゃんは配達された新聞をくわえて私の前に来るのです。そして何か食べ物を与えないと、絶対に口から新聞を放さないのです。私が台所へ入るのを見ると大丈夫だと思い、入り口に新聞を置いて待っているのです。黒ちゃんが怖がったのは花火と雷でした。臆病な所もあり、無邪気で可愛い犬でした。
 今から十七年前に訪日した時、東京で忠犬ハチ公のの銅像を見ました。耳は短くピンと立ち、如何にも利発そうな犬でした。しばらく飽きることなく見惚れていました。
 今年の正月にサンパウロの娘の家で、「ハチ公物語」のビデオを見ました。皆さまもご存知のようにある大学の先生が子犬の時から可愛がって育て、いつも先生の傍を離れず一緒でした。そして先生が亡くなってからも毎日校門まで迎えに行き、全員が学校から出てしまうまで、今か今かと先生の姿を求めて待っていました。最後は結局、先生の姿をとうとう見つけることができず、トボトボと情けない格好で帰途につくのです。通りがかりの人々が「先生はこの世にはいないのだよ」と言って、頭を撫でている場面がありましたが、本当に可哀想で涙が出ました。
 それでもその後八年間もの間、雨風もいとわず先生を迎えに行き、最後は老衰のため、雪の降る中で死んでしまいました。
 死んだ黒ちゃんも私が外出から帰ってくると、飛んできて、体を摺り寄せて喜んでいました。今はあの賢い犬の姿は見当たらず、淋しい思いをしています。私はもう一度、あの黒ちゃんのように利発な犬を飼いたいと思っています。黒ちゃんは間違いなく私の家族の一員でした。


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