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(最終更新日 : 2019/02/15)
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2007年6月号
2007年6月号 (2007/06/11)
老人力
サンパウロ中央老壮会 栢野桂山
昨年の文協主催の「コロニア文芸賞」の受賞式の折の進行係、総領事の挨拶、その他の様々な挨拶のほとんどがポ語であった。
「ブラジル日本文化協会」(旧)の名を持つコロニアを代表する会がこのように日本語離れをしている現在、他の様々な文協等の団体の運営なども大方が右へ習えのようになっているのではないか。
日本生まれの世代が減少して、二、三世の世代になっているコロニア、日本語が難解な事もあって「仕方がない」と見逃してしまえばそれまでである。だが、数少ない日本生まれの世代としては、それに抵抗を感じるのである。
この国の生活環境や文化は、原住民や奴隷のもたらしたものの影響は多少あるにしても、ポルトガルを始めヨーロッパの文化が主流をなしているブラジルと見てもよいと思う。そして、全く異質なものの日本の風習文化を、この国に持ち込む事はブラジルの生活環境や文化を多様化することで進歩に役立つと思う。
すでに日本的な誠実、勤勉、礼節、家庭生活を大切にする精神的な文化を、この国に定着させることは日本移民の将来のためというより、そういう気風の欠けていると思われるこの国にとって貴重だと思う。
こういう時「日系老人クラブ」は毎日のように書道、絵画、百人一首の会、コーラス、民謡、俳句、踊り等の教室を開いている。また、月刊ではあるが「老壮の友」には短歌、俳句、川柳、詩、随筆、意見など掲載していて、高齢者も壮年と言える層もこれを楽しみ、心の拠り所としている。
また、書籍の無料貸し出しやビデオカセットの貸し出しも喜ばれているし、その他「名画友の会」は毎土曜日に映画を上映している。
その「老ク連」が創立三十周年を迎え、「老壮の友」が四〇〇号となった。
「老人力」という言葉があるが、高齢になると体力では若い層に及ばないにしても、長い移民生活の中で苦労を重ねてきた体験を生かして、些細ながらも老ク連を通じて、一〇〇周年を迎えんとするコロニアにこの老人力をもって、何か寄与したいものと、この稚拙な文章を書いた次第である。
山びこの怪
サンパウロ中央老壮会 宮原敏夫
私がまだ七歳の頃に聞いた話。余りにも恐ろしかったので、八十年以上経っても未だに鮮明に覚えている。
或る寒い晩だった。所はモジアナ線の奥、裏の土間で台所。当時のコロノの家は大抵がサーラもコジンニャも土間だった。その土間にレンガを積んで薪を焚き、五、六人の青年たちが話していた。二人の姉も話しに加わり、私は姉の横に座って目をキョロキョロさせて聞いていると、一人の青年がピンガを片手に「コラ、子供は早く寝ろ」と言われた。私は姉にもたれて目をつむり寝たフリをしたが、耳はピーンとそばだてていた。一人の青年が話し出した。
「俺がな、エンシャーダの柄にする木を切りに山に行った。入口から十メートルくらいの所で真っ直ぐで細い木を見つけた。ファッカで削ってみると硬い。『あ、これは良いな』と下の方からマッシャードで切り倒し、もう少し奥へ行くとまた同じ木を見つけた。『あ、ここにもある』と、三本切って用意してきた縄で束ねて持って帰ろうとすると、ずーっと奥の方から『コーン、コーン』と大木を切る音が聞こえた。
「はてな。この山はどこかのファゼンデイロの持ち山で、木を切ってはならぬということは俺も知っていたが、今日は日曜日で誰もいない。不届きな奴が切っているな。よし、誰か見てやろう」と、その方角に行きかけると、ガイジンが一息入れる時によくやる『アーホー』いう声がする。
大声あげて木を切るなんて随分、ずうずうしい野郎だな。ますますそいつの顔が見たくなり、声のする方へ行ってみると声は聞こえなくなったが、『コーン、コーン』というマッシャードの音はまだ聞こえている。
近づいて、確かこの辺だったがなあ、と辺りを見まわしたが誰もいない。また奥の方で『コーン、コーン』と音がする。耳をすませると、その音は今自分がいた山の入口のあたりから聞こえる。
ああ、これは山びこだ。なんだ、つまらぬことで時間をつぶしたと、さっきの所に戻ってみると置いていた三本の木がない。確かこの辺に置いたのにと辺りを探していると、今度は先程の場所から『コーン、コーン』と聞こえだした。何だか薄気味悪くなり、ゾーッとしてエンシャーダの柄も持たず、後ろも見ずに逃げ帰った。
後で物知りの古い移民のおじさんが教えてくれたのには、あれはあの山切りのカマラーダの霊だという。何十年か前、ファゼンダのパトロンが悪人で、多くのカマラーダに山を切らせたが、賃金を払いたくないので山に呼び寄せて鉄砲で撃ち殺し、あの山のどこかに埋めたそうだ。そのため、誰かが山に入ると、亡霊たちが地主を恨んであのようなマッシャードの音と叫び声を出すらしい。
私は子供心にゾーッとして、姉にしがみついたのを今も覚えている。
自分史を書かない理由
サンパウロ中央老壮会 安本丹
老荘の友四〇〇号特集の原稿を募集中と聞きましたので、投稿させて頂きます。
最近は自分史ブームであり、今のように長生きをするようになれば、余った時間に昔の自慢話や苦労話を書くのは有意義であり、立派な自分史を書ける人を羨ましいと思う。しかしながら、私白身は白分史を書かないことに決めている。その理由は基本的には三つある。先ず第一に、自分は平平凡凡な人生を送り、人に自慢するようなことは何もしてこなかったことだ。一流大学にも、一流会社にも入れず、課長や部長にもならず、未だに一人住まいで、家族はなく、恋愛も失恋もしたことはない、定年退職した今になって過去を振り返ってみれば、現役中は退職後を心配して節約にこれ努め、大きな失敗をしないように小心翼翼とし、人生を何と細々と平凡に生きてきたものかと自分ながらあきれてしまう。唯一の取り柄は、他人の世話にならずに、僅かな年金及び投資でまあまあの生活が出来ることくらいだろう。
第二の理由は、自分は小心で陰欝な性格であり、予供の頃から現在に至るまで、僅かな失敗や、恥ずかしい思いをしたことをいつまでも忘れず、時々思い出してはくよくよと考えている。そして時々大声で叫んだり、物を壊して欝憤を晴らしている。自分は時々異常性格ではないかとさえ思うことがある。気を紛らすためにボランタリーサービス、太極拳、新しい語学などをやっているのだが、それでも頭にこびりついた嫌な思い出はなかなか消え去るものではな
い。従って、昔を思い出すのは苦痛なのだ。
第三の理由は、過去を忘れて、未来志向を願うからである。米国のある著者は、人問はなるべく過去と断絶し、将来を考えるべきであるという本を出版した。従って、人生の終わりに近づいているとは思わずに、残された時間を有効に利用して、昔勉強したかったことや、やりたいと思った夢を少しでも実現するように努めたいと願っている。それがすこしでも老人ボケの防止になれば幸いである。従って、不本意だった過去とは異なり、将来の夢ならば書くことが出来ると思う。
以上が私の白分史を書かない理由である。しかしこれはあくまでも自分だけの考えであり、皆様には大いに自分史を書いてもらい、自分が経験できなかったような話を楽しく読ませていただきたいと思っている。
愛読した作家たち
名画倶楽部 津山恭助
④ 石坂洋次郎 「青春文学の大家」
青森県、津軽は過去にも葛西善蔵、太宰治、石坂洋次郎、三浦哲郎などの作家を育んだ風土である。作家の作風を、自らの日常生活周辺に題材を求める型と、純粋にイマジネーションを羽ばたかせて空想の世界に身をおく型に大別するならば、この人などは旧本では数少ない前者のタイプに属しよう。自伝的な要素の強い「霧の中の少女」「麦死なず」「わが日わが夢」「草を刈る娘」にもその傾向が読み取れる。
石坂は慶応大学卒業後、郷里の弘前市で女学校の教師として十三年間勤めるかたわら、こつこつと小説を書いていて、この時の体験を軸とした「若い人』でその力量を認められて作家生活に踏み切った。「若い人」は作者の代表作の一つに数えられようが、この物語には後年になって発表された数々の青春小説の原型というか、エキスがたっぷり詰め込まれている。
戦後間もなく朝日新聞に連載された「青い山脈」は日本文学に初めて生まれた青春謳歌の文学として世の絶讃を博し、今井正監督によって映画化された作品も大ヒットしたものだった。以後、石坂の新聞小説は、発表と同時に映画化されるのが常となり、いずれもが興行的にも好成績をあげており、「青い山脈」のごときは、その時代における新進スターの売り出し用として飽きることなく改作が重ねられて、鮮度が落ちていったものである。「丘は花ざかり」「河の
ほとりで「陽のあたる坂道」「あいつと私」「光る海」等も同じような運命を辿ることになるが、これは面白い映画づくりには不可欠である書きおろしの脚本を使わずに、名の通った原作ものの安易さに頼り過ぎた日本映画の製作者側の怠慢さにもつながるものだし、後年の日本映画の斜陽化にも無関係ではあるまい。
二三年に「小説新潮」に連載された「石中先生行状記」は、おおらかな滑稽艶笑譚として読者の爆発的な人気を呼んだが、おそらく臼本の風俗文学の最高峰の一つといっても過言ではあるまい。
石坂文学の魅力は、無論その会話のうまさも定評のあるところであるが、やはりモラリストと評される作者の良識ある生活環境を反映した健全な文学ということに尽きると思う。「私が若い文学好きな人々に望みたいことは文学の名のために諸君の私生活が乱されることがないように、文学が諸君の市民としての人間を鍛えるように受け取られてほしい。若い人々が破滅型の作家や作品に憧れるのは、平凡な日常生活を送っている人々が西部劇や犯罪映画などで渇を癒しているのと似たところがあるのではないだろうか。私共は思想に対しても、芸術に対しても謙虚な気持で臨むことが何よりも大切だと思う」と説く作者は、「私は気鋭孤高な文学者である前に、まず善良な一人の市井人であろうと心がけている」と自分の哲学を披露しているのも興味深い。反面、流行の波に乗ったことで新聞小説ばかり書き続けているうちに、文学者特有の反骨精神を失い、作家的に停滞してしまった、という批評もないではなかったようである。
もう一つ彼は従来ひめごととされ、不潔で隠微なものとしてタブー化されていたセックスの問題と取り組み、「光る海」「水で書かれた物語」等にも窺がえるように、極めて進歩的で大胆な発言は、そのモラリストとしての真骨頂を表しているものといえよう。
ともあれ、これまでは世間のごく一部の読者にしか存在を認められていなかった文学というものを、新聞小説の分野を通して百万の読者を開拓し、その大衆化を実現させた国民作家としての石坂の功績は大きなものがあり、昭和四一年に菊池寛賞が贈られたのも当然の成り行きといえよう。
閑歩つれづれー犬
名画なつメロ倶楽部 桜団子
のら犬が集まる時期となった。今朝も一匹の雌を中心に四、五匹の雄が隊を組んでアンシエッタ広場に集まった。雌は夜を徹しての疲労のためか、座り込んでしまっている「気の毒に」と私は遠くから視線を投げかけた。が、よく見ると、そのまっ黒い犬は小型犬ながら艶やかな毛並み、しかも首には首輪ならぬ銀の鎖を着けているではないか。一見、飼い犬、しかも良家のお嬢さんなのであった。
彼らがたむろしているのは、私の進み行く方向。失礼ながらチラリ短い脚の股間に視線が…「オヤオヤあんなに膨らんでしまって」またまた舅根性が独り言。とその時である、座り込んでいたお嬢さんがいきなり「ワンワンワン」と私めがけて吠えかかってきた。勿論まわりにいたヤクザな雄犬たちもだ。驚いたのなんの、逃げ出しはしなかったが、そ知らぬ顔で足早に退散した。
私は子供の頃から犬好きで、今はアパート住まいのため飼ってはいないが、狂暴な犬さえも私にはおとなしくなるほどである。ところが今回は、さすがの犬好きもさんざんであった。
しかし考えてみれば、人と犬とて平等(福沢諭吉先生が言われたかどうか?)いくら畜生の世界とはいえ、侵してはならぬ心の世界はあるのであろう。
私のペット物語 ⑬ 「マリネッチ」
サンパウロ鶴亀会 玉井須美子
マリネッチは子犬の名前です。身長三十二センチ、足の長さ八センチ。細長い尾をいつも振っています。目の上が黄色でいわゆる四つ目です。
体は真っ黒でつやつやしておりビロードのよう。抱くと取っても気持ちが良いマリネッチは、ロンドリーナに住む三男清のペットです。年に二回サンパウロに清と一緒に来ます。頭が良くて、何でも良く覚えていて、家へ来るなり私に飛び付いてきて甘えます。
清はロンドリーナの大学でレストランを経営しています。九月十五日がマリネッチの誕生日で、ボーロを作り、シュラスコでレストランのフンシオナリオを招いて祝ったそうです。マリネッチは皆のマスコット。お正月はソロカバのシチオ(別荘)へ行きました。年に一度家族が揃っての楽しいお正月。夜はサーラにコルションを敷いて、皆でごろ寝です。
真夜中にマリネッチがウーウーと唸り声を上げて、台所へ飛んで行き、激しく吠えるので、皆、目を覚ましてしまいました。実は夜中になると野猿がマンゴを食べに来るそうで、マリネッチはちゃんと感づいて知らせたのです。そのうちに静かになって皆眠りましたが、マリネッチは長い耳を上下させて、気張っています。皆が眠りについた頃、マリネッチは寝ている人の顔をなめて回ったので、また大騒ぎ。マリネッチは慌てて清の布団に潜り込みました。
別荘からは三日の朝に帰りました。一月四日にはパラナへ帰ることになり、車で来ていたので、私も送りがてらにパラナまで行って来ました。マリネッチは車の中でも遊びまわって疲れるとひっくり返って寝ます。ロンドリーナで一泊して、アラポンガスに行きました。アラポンガスは私の実家です。親は居なくても家へ帰ったような気になります。午後、親戚や友人を招いてシュラスコで祝いました。清もロンドリーナから青年を四人連れて来て、賑やかなお正月でした。夕方雨が降り出して、急に寒くなり、私がサーラに居ると、清が「マリネッチが居ない」と、探しに来ました。私も探しましたが居ません。そうしたら青年の一人がマリネッチを懐に入れて抱いていて、胸から顔を出してキョロキョロしていました。
マリネッチは皆に愛されて幸せな犬です。
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