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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2007年7月号

2007年7月号 (2007/07/07) 陽気な未亡人(一)

カンポグランデ老壮会 成戸朗居
 よし子さんがゲートボールから帰って休んでいると、息子から電話が掛かってきて、今日は母の日だからレストランに行こうと誘われた。そうだ母の日だ。一人で住んでいるから、伸び伸びしようとしていたが、そうもならない。息子が祝ってくれるのを断るのも悪い。
 一時間したら来るはずだ。未亡人歴五年のよし子さんはまだまだ達者である。体も達者なら口も達者。時々ゲートボールをしながら、減らず口を叩く。負けていない。言い返されたら言い返す。元気旺盛で言い合いをする。
 しかし根がよい人間だから嫌われてはいない。さっぱりした気性だから、誰とも遠慮なく口を聞く。子供たちと一緒に住まず、一人暮らしをしているのは、やはりお互いに気まずい思いをするのを避けるためで、それは分かりきった話。双方の人格尊重の心遣いから来ている。
 さて息子や嫁とレストランに着いてみると驚いた。一杯で入れない。次のも一杯。五軒ほど廻ってみたがどこも人で一杯。とうとう息子は町の出口の、大分外れたレストランに連れて行ってくれた。列があったが、三十分待って中に入れた。
 こんなにレストランがどこも一杯ということはめったにない。さすがに母の日だとよし子さんは感心してしまった。一年中を通じて、レストランがどこもかしこも客で大入り満員ということは、母の日だけの話で、他の祭日、祝日では絶対に見られない現象。父の日などは普段の日とちっとも変わらないそうである。さすがに母は強い。父なんかは足元にも寄れない実力を、子供たちに対して発揮できる。その証しを見せ付けられたような気がした。もっとも母が未亡人だから、子供たちが面倒を見てくれるのであって、夫が生きている間は、こんなレストランに、母の日に招待されたためしは無かったのをよし子さんは思い出した。
 まあそれで良いのだ。夫が達者な間は、子供達は寄り付こうとしなかった。たっぷりとご馳走を味わいながら、よし子さんは息子を眺めた。
 よく観ると息子の頭には、白髪が点々と見える。もうこんな年になったか。結構苦労している感じだ。
 嫁とは当たらず触らずの距離で会話を保ちながら、これと言っては表立った喧嘩もせずにやってきた。最初は涙が出るほど口惜しい目に合わされたこともある。それもこれも息子のためと辛抱してきた。嫁も年をとって、昔ほどの意地悪をしなくなったので、よし子さんは助かっている。
 すべては年月が解決してくれた。辛抱するのもあと数年。すぐたつだろう。


世のため人のため

サウデ文協老壮会 林壽雄
 先ず自己紹介「私はサウデ文協老壮会の一会員で今年九十六歳。杖をついてのヨチヨチ歩きながら、未だ精神的には全然耄碌していないと思っている者です」。
 長い間、老ク連の皆様方にお世話になり、色々な会合や小旅行にも参加して、皆様方と交友を楽しんでいます。当サウデ文協老壮会は重岡会長をはじめ、金森部長の熱心なご指導により、サントス巡遊の小旅行など楽しい企画があって、心から感謝しております。ですが、これは以前にも投稿したことですが、近隣の老壮会との繋がりを深め、あちこちの老壮会を訪問したら如何でしょうか。
 毎月一回集まって、同じ顔の会員と食事をしたり、ビンゴを楽しむだけでは余りに能がないと思うのですがどうでしょうか。私は老齢で色々な集会でもただ傍観するだけで、催し物には参加できませんが、唯一の楽しみはあちこちの老壮会の皆様方と会って、友好の絆を深めること位が精一杯です。これでも三十年位前までは世界を股に歩き回った者で、今でもあちこちの知友から音信が来ています。
 今後ともただのごくつぶしでその日その日を過してはもったいない。別段、新しいことを始める勇気もないから、何か世のため、人のためになることがあったら教えて下さいと、毎日、神仏にお願いしている所です。
 月日が経つのは矢よりも早く、昔、中国の片田舎で、一青年の魯生という男が一軒の茶店に立ち寄り、食事を頼むと「一刻ばかり待ってくれ」と言われ、店の長椅子で一眠りすることになった。所謂「邯鄲の枕で一眠り」。そして、夢の中で想像もしなかった栄耀栄華の夢を見た。覚めてみると飯の煮える一刻の間であった。
 一九三一年十二月、単身ブラジルに渡航。日本力行会員として、早七十余年。かつて若い頃にブラジル力行会長として二十幾年務めた事もあったが、すべては昔日の夢として、今は鉾をおさめて悠々余生を楽しむ身となった。
 歳月人を待たず。日々衰える身ながら、浮世の殷誉褒貶も意に介せず、一陽来復の時を待つ身となる。はや老ク連でも最年長者の一人かも知れないが、何卒今後ともよろしくお願いする次第である。
 せっかくこの世に生まれた以上、何かこの世のためになる事を残したい。酔生夢死は人間の恥。出来ることがあれば。猪突猛進、切磋琢磨して、世のため人のために尽くしたいと念じつつ、皆様方と末永く友情の絆を保ちたい。筆者の年来の希望を述べて、擱筆する次第である。




レジストロ春秋会 中川操
 少女の頃、祖母に頼まれて灸をすえたことがあります。いつもは祖父がすえていましたが、その祖父がちょっと身体の具合が悪いということで、私が頼まれたのです。
 「灸というものは人の気分にあるもんでなぁ。気の優しい者がすえると大きいんでも熱かぁないし、気性のきつい者がすえると小さいもんでも熱いもんだよ」と、祖母は肌着を脱ぎながらそんなことを言いました。
 私は艾(もぐさ)をフェジョン粒大に丸め、それを祖母の肌着の上に並べました。灸は両肩に一つずつ、背骨の両側に四つずつ。それを同じツボに三回ずつすえるのです。淡黒い色をして昨日の灸ツボの跡があります。
 私は線香に火を点けます。祖母の肌はつやつやとしていて意外に若々しい。私は灸ツボをなめた指でしめらせ、艾が落ちないように置きました。線香の灰を吹き落として、静かに艾に持っていきました。何だか生肌に火を点けるという事に少々迷いためらいました。そのせいかどうか始めはなかなか火が点きません。思い切って強く押し付けると、艾が線香にくっついて火が点いたままあっという間に祖母の腰のあたりに転げ落ちてしまいました。私は慌てて掴み出そうとしましたが分かりません。そこで祖母に「熱かった?ごめんね」と言いますと、「いいや。すぐ消えたから。まぁ気を付けよ」と言われました。
 今度は用心して左手で艾の両側を押さえて、火を点けました。艾は見る間に火になり、淡い細い煙が薄れていくと、火は肉に食い込んでジューとかすかな音がしました。艾の匂い、人間の皮膚が焦げる匂いと思うと、つい、鼻を鳴らしてしまいました。
 最後に腰に三回目の灸をすえました。皮膚が赤く輪を作って、すっかり燃えてしまってから、灰を軽く抑えました。こうすると灸の跡がただれないということです。
 頭のてっぺんにも一ツボだけ三火すえましたが、それが何に効くのか覚えていません。記憶が弱らないためだったのかな?などと、昔を懐かしく思い出しています。
 「こんなことをして効くのか知らん」と私は呟きました。「効かんでか」と祖母は強く言いました。「効いても効かんでも、すえんとなぁ。生きとれば、熱いのも我慢せんならん」と。
 私は最後の灸の火を見ながら「生きとれば熱いのも我慢せんならん」と胸の中に分けもなく繰り返しながら燃えていく艾をぼんやり見つめていました。


花金

サンパウロ中央老壮会 小池誠
 「花金」という言葉を思い出す。今は「死語」になっているようだが、三十、四十年前に日系コロニアでも流行した言葉で、「花の金曜日」を略した意味である。
 その頃、日本から商社、企業、メーカーなど有名、無名の数多くの会社が我も我もとブラジルへ進出し、それらの社員が皆「ドル族」として、料亭AやH割烹などを根城に夜の浮名を流していたものである。
 当時、日系コロニア、伯国の労働社会では週休二日制という考えはなく、土曜日も働くのが常識的だったが、彼らドル族の休みは週休二日が当たり前で、土日は休みだから金曜日の夜は天下晴れて遊び歩ける自由時間であり、花を咲かせる夜でもあった。
 翌日に仕事がある「チョッとの間」の遊びとは違い土日と二日間も活用できる。本当の意味での「一夜妻」となる異性を求め歩く「花金族」に対して、少々の意地を見せたのが、当時隆盛を誇示したバタテイロ、トマテイロたちであった。
 あるバタテイロが風呂桶いっぱいにビールを入れ、「気炎」を上げると、負けじと別のオッサンがシャンパンで風呂を沸かす。ストリップの競艶を見ながら「ニヤついた」と言う。本当のような嘘のような話が聞こえたのもその頃のことである。ともかくあの頃の金曜日の夜は面白かった。
 バールの片隅で安酒を飲む人から、一晩で百ドル、二百ドルも使う人々もいて、ある意味、社会全体に活気があり、人生の縮図を見ているようで楽しかった。
 今になり、四十数年前を振り返り、あの「花金」時代を懐かしく思い出している。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑤ 心優し過ぎた作家
 故・鈴木悌一氏の神戸一中時代の友人ということで一九六八年に来伯、文協で講演会を開き、日本人のブラジル移住史にも深い関心を寄せていた作家・田宮虎彦が、一九八八年に自宅マンションで投身自殺を遂げたのには、やはり驚かされたものだった。
 長年にわたる結核病とたたかい、脳梗塞で倒れて回復した矢先の覚悟の死ということだった。芥川龍之介以来、太宰治、田中英光、三島由紀夫、川端康成等、日本の作家が自ら死を選ぶ前例もないではないが、知名度の高い人だっただけに、このニュースには多少のシヨックを受けた。
 彼の作品群は内容によって歴史小説、自伝的要素の強いもの、女性向の抒情ものに大別されよう。歴史小説は作者自身も語っているように、森鴎外の影響が濃く、「霧の中」は幕末の動乱期に薩長の官兵のために肉親を陵辱され、惨殺された旧幕臣の遺児が、目に見えぬ強大な時代勢力を仇と狙って、明治、大正、昭和の三代を世をすねて生き抜き、終戦を前にした空襲の中で倒れるという、落魄の老剣士の数奇な運命を描いた佳作である。ほか維新戦争の際、奥羽の一小藩全体が絶望的な抗戦を続けて全滅するという悲痛な運命を綴った「落城」、会津騒動に範をとった「寛永主従記」等が代表作である。自伝的なものでは、最も広く読まれている「足摺岬」は、高知の足摺岬の近くのみすぼらしい宿で、結核を苦に自殺を決意した貧乏学生を老いた巡礼や薬の
行商人が死を思いとどまらせようというもの。「絵本」は昭和一〇年前後の軍部の圧政下にある暗い時代を背景に、不遇な家庭境遇にある苦学生、アカの兄を持つ新聞配達の中学生、カリエスを病む少年達の交流を描いた作品。本郷の学生下宿を舞台にした貧しい青年たちの群像をいとおしく写し出した「菊坂」。「異母兄弟」もこの範疇に入るかも知れない。
 こうした一連の作品からも窺われるように、田宮文学の登場人物はおしなべて運命に対して受動的であり、忍従して甘んじるところがあり、従って虚無の匂いが強く印象が暗くなり、崩壊感が漂っている。女性向きの風俗小説としては「別れて生きる時も」「千恵子の生き方」「銀心中」「祈る人」「野を駆ける少女」「赤い椿の花」等がある。
 一時は第一線で活躍していた彼に、その後悲しい事件が続くことになる。その発端は最愛の千代夫人の死(三一年)、翌年出版された夫人との愛の書簡集「愛のかたみに
」は本人も思いがけないことに、記録的なベストセラーになった。これを気鋭の文芸評論家である平野謙が取り上げて、「こういう特殊な、不自然な、変態的な書物が正常な純愛ふうの物語として世に受け入れられている事実に黙っていられぬ」と激烈に批判し、また「妻の死を利用して稼いだ印税
で女と遊んでいる」といった悪質な中傷が流れた。温厚で謬いを好まない田宮は『愛のかたみ」を即座に絶版にし、以後作品の発表も極度に減じ、文壇からも離れていった。
 確かに「愛のかたみ」は他愛ない読物ではあるが、攻撃されるような内容のものではなく、単なる羨望からきた無責任な噂に繊細な感覚を持つ心優しい作家は、深く傷ついたのであろう。


私のペット物語 ⑭ 「出稼ぎ犬」

名画なつメロ倶楽部 田中保子
 日本就労に陰りが見えて久しいが、出稼ぎ最盛期には我が家も私共夫婦に息子が代りばんこに日本へ働きに行きました。
 私は五回、主人は十二年間、息子は十年間働き、次々に引き揚げて、何とはなしに家に落ち着いてしまった今、今度は飼い犬が内国移民ならぬ移犬となって働きに行くことになったのである。
 事の起こりは娘の勤め先の番犬が急死して、その夜から無用心になるとボスが心配して、「一匹貸してくれ」と言ってきた事からです。
 六匹のうち雑種の雄を連れて行くことになりました。ラボラドールは大型ですがボンジーニョ(気がいいの)で番犬にならないし、小型犬では押しが効かない。中型だけどブラボーな「タンゴ」を貸し出すことにしました。
 タンゴは仔犬の時、事務所に迷い込んできたのを娘が家へ連れてきたのです。私は「だんごや~い」と呼んで、娘に文句を言われてたものです。いざ、出稼ぎに行くとなると、裏庭で気ままに育っていたビララッタが果たして番犬になるだろうか?
 ドトールやドトーラさんたちにむやみに吠えて処刑されはしまいか。職人が管理している庭を荒らして、折檻されないだろうか。ボスがお肉を持って来てご機嫌取りをしても、娘が出勤すると大喜びでボスを見向きもしない由。「自分の食扶持ぐらいしっかり稼いでおいで」と送り出しましたが、しきりに気になるこの頃です。
【後日談】
 タンゴが出稼ぎに行って、一ヶ月位経った頃、就労先から無断で脱走したとのウナ電が入った。追跡の娘を振り切って姿を消した辺りを中心に二時間たっぷりお屋敷街を捜し歩いた。人気の少ない街路を「タンゴー」と呼びながらキョロキョロ歩くのは勇気が必要だった。夕暮れ近く、もう諦めようかと思った頃、向うにタンゴらしい姿が見えた。「タンゴ、お母さんよー」と叫んで少し急いだら、走り寄って来た犬は矢張りタンゴだった。「本当にお母さんなの?」と半信半疑な顔をしている。事務所中の出迎えの中で、水を飲み、餌を食べている。「もう、帰るのー」と言いたげなタンゴを繋いで、夕暮れの中を帰宅する。タンゴのおかげで三日分位歩いた。
 ときどき娘の車で、仲良しのおチビのアッピが陣中慰問に行くと、大喜びで転げまわって遊ぶとか。アッピを連れて帰る時のタンゴを見るのが「ちょっと辛い」との娘の弁。ともあれ、いつの世も男はつらいのである。タンゴ頑張れ!


岡山弁

サンパウロ中央老壮会 花土淳子
 私は岡山県の倉敷市の出身です。合併前は瀬戸大橋の付け根のところ、児島と言われた町で大きくなりました。最近、岡山から送られて来る「山陽新聞」を県人会館に行った時に、三日分位ずつもらって来て読むのを楽しみにしています。
以前は会員の一世の方や、我が家に集う県人の方々の会話が懐かしく、ことさら岡山弁を話したものでしたが、今はそれが聞けなくなって少し寂しく思っていました。
 さて、その「山陽新聞」なのですが時々その投書欄に「方言ばあじやあ」と云う欄があるのです。他県の方には珍しいと思い少し紹介してみようと思います。
 岡山弁ゆーても地域によって微妙に違えますからなー、うち等が大きゅうなった児島弁で書きますらー。児島弁は作州(岡山の津山方面)弁に比べりゃーちょんびし(少し)きちー(きつい)いんじゃー。自分じゃーてーねーに云うた積もりで「来られー」(来てくださいね)、「せられー」(して下さいね)となるけん、ほかんもん(人)にゃー命令しとるよーに聞こえるんじゃ。「こけーきねー」(ここにおいで)、「はよーしねー」(早くしなさい)、「ぼっけーきょうてー」(凄く怖い)、「でーれーうめー」(とても美味しい)、「やっちもねー(つまらない)こと云わんではよー(早く)てこー(手伝い)してー」、「あんごー(ばか者)そげーなこと云よーるとべっとこ(どんじり)になるけんなー」。ほんまに外国語みてーじゃろー。へーでも(それでも)児島へけーった(帰った)ときにゃー知らんまにつかよーるんじゃー。
 もちろんTPOはわきまえにゃーおえんけどなー。ほっ、ホッホッ。おはり!


こぼれ話

 宇野先生お疲れさまでした。あっという間の二年間でした。でもとても楽しかったです。ここで、ちょっとナイショナイショのこぼれ話を読者の皆様にも教えてしまいます。
☆ 先生、気が若い
 おはよう!いまね、老ク連へ来る途中、病院があるでしょう。あそこで私、急いでいたから、わき目も振らずにサァーと入り口を通り過ぎようと思ったわけ。そうしたら中から急に車が出てきてキィーっと停まったの。危なかったのよ。それで車からドトール(医者)がパッと降りて来て「ディスクーぺ(ごめん)、何とかかんとか」って謝るの。そのお医者さんのかっこ良かったこと。アランドロンにもひけをとらないぐらい。思わず見とれちゃった。あんなハンサムにならぶつけられてもいいかなぁ、なんてね。
☆ ものは考えよう?
 今日は暑かったわね。Sクラブでのレクリエーションが終わって、喉が渇いていたでしょう。出されたジュースを思わずグッーと飲んだの。そうしたら、喉に何か感じたけれど、そのまま飲み込んじゃったの。それでコップを置いてひょっと見たら、羽根が残っているじゃない。きっとハエを飲んじゃったらしいんだけれど、大丈夫かしら?
職員「大丈夫よ。昔はおまんじゅうやごちそうにたくさん止まっていて、食べてしまった人もいたけれど、誰も具合が悪くなったなんて話聞かなかったもの」
先生「そうよね。たんぱく質を補給したと思いましょう」
☆ 心やさしい一コマ
 ちょっと、このドラ焼き、そこで買ってきたんだけれども熱いうちに食べて~。
 本当はみんなの分買ったんだけれど、角に乞食がいてね、通り過ぎようとしたら目が合っちゃって。それで「食べて下さい」って、乞食に半分あげちゃったから、みんなも半分コして食べてね~。
 ドラ焼きのようにホカホカの先生の心に私たちの心もポカポカ。
☆ オニブスや~い
 地方のOクラブへA理事と出掛けた時のこと。
 オニブス(バス)の途中停車に早速二人はお手洗いへ…。帰ってきてみてビックリ。オニブスがいません。ポルトガル語が苦手な二人、取り残されて、愕然。途方にくれました。
 とにかくタクシーで追いかけようと話が決まり、乗ったタクシーのボロいこと。ガタピシと壊れそう。その上、親切な運転手は何とかバスに追いついてあげようと飛ばす飛ばす。一生分の冷や汗をかいたけれど、何とか次の停留場で追い着いたとか。めでたしめでたし。


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