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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2007年8月号

2007年8月号 (2007/08/24) 父の日

サンパウロ中央老壮会 香山和栄
 今年も八月の父の日がやってくる。五月の母の日に比べ、少し影の薄い感じがするが…。
 私の父は明治三十三年四月三十日生まれで、「もう一日早く生まれていたら、日本国中で祝って貰えたのに…」というのが口癖だった。ちなみにこの年は西暦一九〇〇年、翌年の明治三十四年四月二十九日が昭和天皇御誕生の日である。
 さて一九六四年六月二日、私たち一家五人は移民船ぶらじる丸に乗って横浜を出航した。
 当日、小さな子供達三人は船内が珍しく、夢中であっちこっちと駆け回る。母と私は血眼になって海へ転がり落ちはしないかと、手分けして探していた。その間、埠頭に待っている父の事を顧みる暇も無かったのである。やっと父のそばへ戻った母達と別れのテープを交わすのも慌しく故国をあとにした。一週間後、ロスアンゼルス港に先回りして母の便りが待っていた。「貴女が涙ひとつ零さなかった」とお父さんが嘆くので、慰めの手紙を出しなさい、とあった。パラナ運河を越え、赤道祭が催された時、乙姫様の家来の鯛や平目に扮した三人の子の事を面白おかしく父に書き送った。父は三年後、急逝したけれど、私は育ち行く孫達の様子やサンパウロの日常生活、風景の写真も入れて、せっせと便りした。名物のフェイラ(青空市場)は子供達にとって、日本の祭りの縁日と同じで、亀やひよこや金魚などを買って来て飼育し、上機嫌だった。
 また、当地は暑くも寒くもなく、「まるで軽井沢のよう」と、調子良く書いたことである。筆まめな父は喜んで毛筆でその度に返事をくれた。「孫達にはしっかり勉強させて、必ず大学まで行かせる様に」と、いつも記してあった。二十年振り母の傘寿の祝いに訪日した折、母から父は貴女からの手紙に刺激されて、サンパウロを訪ねてみようと楽しみに旅費を貯めつつあったと聞かされた。
 今、私の手元に父の愛用した形見の矢立がある。使い古した小筆もそのまま入っており、墨壷の蓋はハンダで丁寧にくっ付けて修繕してある。物を大切にして使う明治生まれの人の証のような品である。
 幼い頃から私は働いている父の背中ばかり見ながら育ってきたように思う。遠く離れて、初めて深い父の愛を知った。寒も緩み庭の紅白絞りの椿が綻びそめた。父の日の頃には満開になることであろう。


陽気な未亡人(二)

カンポグランデ老壮会 成戸朗居
 ゲートボール場に毎朝、一番早く着くのはさつ子さん。六時半にはもう着いている。三つのバスを乗り継いで、二時間かけての到着である。
 ここに着いて最初にすることは、草むらに住んでいる野良猫に、家から持ってきた食べ物を与えることである。毎朝猫たちはさつ子さんを待っているから、欠かすわけには行かない。最近家族が増えたので忙しくなった。子猫が五匹生まれた。さつ子さんは未亡人歴十五年の古強者(ふるつわもの)で、背はちょつと低いが、背骨はしゃんとしていて、八十を過ぎて未だに黒々とした髪が頭を覆っている。ゲートボールでも主将を務めて、結構人に指図をするが、自信満々で、男でも黙って彼女の言うことを聞く。
 耳も達者、頭も達者、足も達者、ゲートボールの腕も達者、いつもリュックサックを背に担いで往復する。その中には彼女の全財産が入っているらしい。その月の年金と、その他に色んな小間物が入っているのを皆知っている。先ず目薬、毎朝九時ごろには、目薬を眼に垂らすのを欠かしたことが無い。それからちょつとした、色んな薬、絆創膏、鋏、手鏡、櫛、耳かき、手刀、どこに行っても、どんなことが起こっても、困らないだけの物がぎつしり詰まっている。用意周到な未亡人と言う感じで、迷子になってもあわてない準備が、長年の経験で出来上がっている。
 息子に厄介になっているのと、誰かが聞くと、さつ子さんは息子の方が自分の家に住んでいるのだと返事する。夫と二人で建てた家に、息子家族が住み込んできたのだから、自分が家長だとの意識がある。もっとも息子が働いて食わしているのだから、そう威張れないかもしれないが、それでも自分が先に住んでいたのだと言う。
 長男息子はおとなしく母親思いで、母親の言うままになっている。嫁さんも姑を大事にしているから、さつ子さんも嫁とは非常に仲が良い。
 いつも嫁のことをほめる。それこそ和気藷々の家庭である。さつ子さんの誕生祝には、子、孫、曾孫、玄孫など、五十人近く集まることもある。
 その他日本に出稼ぎに行っているのが、これまた十人近い。毎月日本からさつ子さん宛てに色んな物が送られてくるが、さつ子さんはゲートボール場に皆持ってきて皆に分ける。さつ子さんは物惜しみしない。ゲートボールをする婆さんにも困っているのが何人か居るので、それらには優先的に自分で選んで余計に渡す。貰う方もいつもの事で黙って頂く。
 達者なので中々死にそうにもない元気一杯の婆さんなので、皆はさつ子さんを頼りにしている。考え深い人なので、極端なことは言いもしないし、人を傷つけることも言わない。ゲートボールは健康の基(もと)だ。


怪談

サンパウロ中央老壮会 宮原敏夫
 この話は俺の友達が実際に出合った恐ろしい話である。
 ある所に一軒の空家があった。その家には誰も住み手がなく、夜な夜な幽霊が出るとのこと。これを聞いて、五、六人の日本人の若者が「なぁに、幽霊なんかいるものか。ましてケトウの幽霊なんて俺が習い覚えたブラジル語で『オッセ、フィーリヤ プッタ バイ エンボーラ』と追っ払ってやるよ」と言って、その五、六人がある日その空家へ行った。
 まず、サーラの戸にしっかり鍵をかけて、部屋の窓も全てきちんと閉めて、裏の台所で持参した肉を串に刺して焼き、ピンガを飲みながらワイワイ世間話をしていた。
 一人が、「それはそうと、今、何時頃だろう」と聞く。懐中時計を腰に提げていた奴が「まだ、十時だ。幽霊が出るには早い。だいたい十二時は過ぎるだろう」「いや、こう騒いでいたら、幽霊もびっくりして出てこないよ」などと言っていたが、そのうちピンガのせいで、みんなトロトロとしだした。すると、表のサーラ辺りで、「コトリ」と音がした。皆、さっと顔を見合わせると、今度は「ギィー」と戸の開く音。皆が小さくしていたランプの灯を大きくして、手にファッカや木刀を持ってサーラへ。ランプの灯を照らしても誰もいない。一人が「おい、ソンブラソン出て来い」と怒鳴ったが誰もいない。一人が「あっ、あの戸、少し開いているぞ」と言うので良く観てみると戸が十センチ位開いて、風でカタカタと揺れている。
 「おかしいなぁ。鍵はかけたよな」
 「あぁ、俺がちゃんとかけた」
 そばへ行って戸を引っ張ると戸はすっ―と開く。鍵がきれいに外れている。
 「くそっ」。今度は念に念を入れて鍵をかけ、さらに鎚の手木を紐で結び、部屋の隅にあった細長い板の角を利用してつっかえ棒にして、絶対に開かないようにした。
 いくら幽霊でも鍵は外せても、紐が結んであるし、このつっかえ棒には参るだろう。「今度は大丈夫」と、みんな安心して横になって寝てしまった。朝、窓から差し込む陽射しで目が覚め「おい、皆起きろ。俺は仕事に行かなきゃならん。今度は流石の幽霊も出なかったな。あのつっかえ棒には幽霊も驚いたろう。さぁ、みんな今夜も同じ時間に炭と肉とピンガを持って集ろう」と、皆でドタドタ表のサーラに来て、立ちすくんだ。戸が大きく開いて、つっかえ棒は地面に倒れていた。これには若者達もぞっーとして、それ以来二度とその空家へは行かなかったという。
 その空家の主は老人の一人住まいで、大金をしこたま溜め込んでいた。ある夜、泥棒に殺されたが、泥棒はその大金の隠し場所が分からなかった。その後、老人は毎夜のように金に心が残って出るという。その大金はいまだにその家のどこかに隠されているという話だ。


私と百人一首

サンパウロ中央老壮会 内海博
 私の誕生祝いで、叔母に抱かれた古い写真が有る。その初の誕生日の写真を母が私に説明をしたのは、後の六歳の頃だったと思う。「この叔母ちゃんはカルタ取りの名人だよ」と写真を見る度に、何回か繰り返して聞かされた。「ボクだってカルタぐらい上手に取れるよ」。まだ小学校に上がる前から近所の年上の子と争って取っていたことを自慢すると、母は「叔母ちゃんのカルタは小倉百人一首といって、とてもむずかしいんだよ」と、笑って言った。
私はその大人たちがやる、百人一首というカルタって「どんな物?」と、母にたずねたが「お前がもっと大きくなったら教えてやるよ」と言われた。母は百人一首を持っていなかったので、子供の頃はとうとう見る事もなく過ぎていった。
 と、突如、家庭事情が変わって、それこそ足元の鳥が飛びたつように東京市(その頃は未だ市であった)の真ん中からブラジルという世界の、しかもド田舎に移住した。父母や叔父夫婦と共にノロエステ線プロミッソン駅奥地に配耕された。
 幸にして日本人のパトロンで、あのTVドラマのハルとナツのような悲劇もなく、言語の不自由もなく、入植地における苦労というものはなかったが、学業中途の僅か十歳の少年と言えども、父母と共に毎日コーヒー採集の仕事に駆りだされて、半分泣きっ面でコーヒー採りの手伝いをさせられた。この単調な仕事に厭けがさしていた或る日、隣りで母がコーヒーをむしりながら、カルタの一首を口ずさんだ。子供の時のカルタの話しをすぐに思い出して、母に続けるように頼んだ。母は叔母のことを「東京の局内で(電話交換局)鈴木寿美さんといったら名前が通っていた」と言って褒めるが、自分のことは何も言ったことはなかった。それでもかなりな取り手ではあったらしい。
 蝉丸これやこの行くも帰るも分かれては知るも知らぬも逢う坂の関。
 持統天皇春すぎてなどと作者名をあげて、三十首詠んでコーヒーの樹を移る時や何かで中断して、またその続きを詠みながら、あらこれはさっき詠んだよネと詠みかけては止めたりした。私は仕事の片手間に、八十首以上を暗礁した。嫌で嫌で仕方ないコーヒー採りを母の歌に惹かれて手伝ったものだ。それから二年程した頃、本岡という若い働き手の多い家族が、日本から新しいカルタを持ってきた。これが忽ち村の名物になって、といっても限られた家族だけではあったが一大娯楽場のような大賑いを呈して、夜を徹してのカルタ会。昼間の疲れなど何のその、だが悲しいかな十二歳の少年は仲間に入れて貰えず、側で覗いているだけで相手にして貰えなかった。
 コロニアカルタ会で有名な黒田貞徳氏もその頃の仲間だ。十七、八歳から三十歳前の男女青年が十二、三名、熱っぽい顔、キラキラ光る目で闘争を繰り返していた。
 ある夜、読み手がカゼをひいて、具合が悪いから誰かが代わらなければならなくなったのに皆取り手にまわりたがるので、読み手がいない。「僕読めるよ」と思い切って言ったら「チビに読めるもんか」と反対のある中、「まぁ、読ませてやんな」と、手をさしのべてくれる者もいて、初めて大人たちの中で読み手の座にありついた。が、相当にあがっていたのだろう。毎晩来て、読み方は解つていたが、母が読むのと違って作者は言わず、「あさぼらけ~」で、すぐに下の句といった超スピードゲームにしてしまった。勇躍して読み手になったが、外で見ていたのとは大違いで、八十枚を越える頃から声がうわずってかすれてしまった。「だから駄目だと言ったのに…」。「今、これから一番大事な追い込みなのに」と、取り手のお姉さんに叱られて降ろされてしまった。
 何とも情けない結果になってしまった。
 この度、老人クラブ連合会で、カルタ会を始めたが、これは先頃惜しまれて帰国されたシニアボランティアの宇野妙子先生がまだ在任中に日本へ連絡を取って新しいカルタを取り寄せて、老ク連へ下さった。ボケ防止に役に立だろうとのご配慮である。
 私も古いことを思い出しなから、皆さんと勉強をしたいと思っている。毎月第一と第三月曜日の午後一時からカルタ会をしているので、希望者はぜひご参加下さい。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑥ 池波正太郎 「最後の江戸っ子作家」
 池波正太郎は東京は浅草の生まれで、天保年間から七代続いた筋金入りの江戸っ子で、芝居好きの母親の影響で子供の頃から芝居に馴染み、また市井の熱烈な映画ファンとしても知られ、映画評にも独特の見識と味があって私は愛読していた。大正十二年の生まれで、終戦直後読売新聞の懸賞戯曲に入選して長谷川伸の知遇を得、東京都庁に勤めるかたわら伸の主宰する新鷹会などに属して戯曲、小説などの執筆に励んだ。三五年に「錯乱」で直木賞を受賞、戦国物、幕末物、江戸市井物などに数多くの作品を残し、平成二年に六七才で他界した。
 池波には三本の柱とも言えるシリーズがあり、最初が「鬼平犯科帳」であるが、連載を始めた時は一年十二回ぐらいで、火付盗賊改方長谷川平蔵の一生を描きたかったとのことである。これが非常な好評を得て延々と続くことになり、世に数多くの鬼平フアンを生み出す結果となったのだから面白い。実在の人物でモデルはあるらしいが、若い頃には不遇な境遇も原因して、飲む打つ買う三拍子揃っている上に腕が立って喧嘩早いという設定で、人間味が横溢しているところがフアンには何ともいえない魅力である。佐島与力をはじめウサギ、おまさ、彦十、伊三次、五郎蔵、粂八などの部下、密偵たちの生態も生き生きと描かれていて、躍動しているかのようであり実在感がある。
 いわゆる勧善懲悪型でなく、盗人にも三分の理があるという哲学は、下積みの苦労を知る作者の人生感が裏打ちされているものと思われる。余談ながら、熱狂的な鬼平ファンの中には泥棒たちの名前のリストに作ったり、作中に出てくる店の名を片っ端から江戸の地図に書き込んだり、登場人物が食べる料理をまとめて本にしたりする者がいるほどである。
 「藤枝梅安」は鍼の名医で仕掛人という二面性を持つ特異な主人公だが、楊枝削り職人の彦次郎、浪人小杉平五郎との厚い男同士の友情がため息が出るほどに、情こまやかに描写されている。このシリーズの魅力は暗黒の世界に生きる男たちの生態を見事に浮き彫りにしていることと、ストーリーの上手さ、それに何よりも人間通である作者の包容力が伝わってくるのがたまらない。
 剣客父子をテーマとした「剣客商売」も小柄な剣の名人秋山小兵衛が娘みたいな年頃の健康な村娘を妻にするくだりなど絶妙であり、息子の大治郎と女剣士三冬のコンビもひどく新鮮である。
 このほかの作品では父(真田昌幸)・弟(幸村)と兄(信之)が、天下分け目の関ケ原を、徳川方と豊臣方に別れて戦う信州真田家の波乱に富む歴史をたどる「真田太平記」、神出鬼没、変幻自在の怪盗、雲霧の活躍「雲霧仁左衛門」、江戸暗黒街に暗躍する「闇の狩人」、「堀部安兵衛」「人斬り半次郎」「近藤勇白書」等がある。
 背景の舞台で時代小説とは呼ばれるものの、池波文学の醍醐味は新しいセンスを持った粋な外国映画に触れた気持ちにも似ている。実際にこの人は、三日も映画を観ないでいると、生理的に飢餓感をおぼえるほどの映画狂だった由。映画を食べ、映画を呼吸して自分の血と肉にした感覚でストーリーを展開させていくのだから、これは大人の鑑賞に耐えうるものにならぬ筈がなかろう。「人間とは矛盾だらけの生きものであり、人間のやることは歴史のどの時代をみても矛盾そのもの」とか「人間は良いことをしながら、悪いことをし、悪いことをしながら、良いことをしている」という永遠のテーマを追求しているところに、池波文学の真髄があるのだろう。
 もう一つの特徴は、登場人物の酒食のありさまがよく出てくることだが、これは季節感を出すのが目的という。本人自身も食通として有名だったが、今をときめく金に糸目をつけずに食べまくり、食べることの理屈と能書きの多い、不粋で成金趣味のグルメではなく、「季節のものをおいしく食べる」ことを信条とした、という点本物の下町人としての面目躍如たるものがある。
 吉川英治文学賞、菊池寛賞、昭和六一年には紫綬褒章を受けており、多くの読者、プアンから慕われた最後の江戸っ子作家だった。


時代遅れ

名画なつメロ倶楽部 田中保子
 跳んでいる女は進歩的と勝手な解釈をしていても第三世代と呼ばれるようになるとスピードが落ちてきて、めまぐるしい移り変わりの早い世の中に付いて行けなくなります。
 特に日進月歩の機器類には完全にお手上げ。まず、コンピュータ、携帯電話、自動現金出納機、ビデオ、DVD、CDと何べん説明しても分かってくれないお婆ちゃんもいます。デジタルカメラ、FAX、電子レンジもできるだけ使いたくない。ビデオで「チャンバラ劇」を観て楽しんでいると言ったら「時代遅れ」と笑われてしまった。FAXは何とか送受信できる。知り合いのオッサンが息子から「こうして書いた手紙を機械に入れると、パパイが郵便局に行かなくても日本のチチオに手紙が届くよ」と、教えられて、喜んで手紙をFAX機へ入れ、日本の兄の電話番号を押した。手紙は機械の中をくるりと回って出てきた。日本に届かなかったと思い込み、何べんも同じことを繰り返したら、日本の兄さんから電話が来た。「何枚同じ手紙を送るつもりか」と、怒鳴っている。その話を聞いた時、大笑いしたが、他人事ではないと思った。
 ビデオやDVD、ビデオケとテレビの切り替えに手間取る。とどのつまり、ニュースを観るテレビ、DVDを観るテレビ、ビデオを観るテレビと別々にした。
 「時代遅れの頭」はテレビが何台も必要で「高くつく」と笑われてしまった。孫達が来てあちこちいじられると頭がこんがらかって、元に戻すのに大騒ぎである。
 携帯はこちらがかけるのと受けるのがやっとで、残高がいくらあるのか分からない。冬休み中に孫からコンピュータの操作を教わることにした。孫は娘のように「もう忘れたの?」「もう三回目よ」等と怒鳴らないで何度でも同じことを教えてくれる。
 昔、ミシンの無い家庭を不思議に思っていたが、今は持っている家庭の方が稀のようである。
 最近はフォゴン(ガス台)の無い家もあるとか。電気洗濯機、電気釜、電気剃刀、血圧測定器、電気バリカン、ミキサー…。お願いですから、操作を複雑にしないで下さい。どこを押しても鳴り止まない目覚まし時計も困る。ことさら左様に機械オンチの私でも操作が簡単で、小型、廉価な生ゴミ処理機が当国でも早く出回ることを切に願う。


新潟地震に思う

レジストロ春秋会 北川智慧子
 日本時間の七月十六日午前十一時、ブラジルでは十五日の夜、我家の電話がけたたましく鳴った。日本の妹からだった。「お姉さん、今ちょっと前にまたまた新潟県で震度六強の地震が発生したよ」。私はすぐにテレビのチャンネルをNHKに合わせ、大声で父を呼んだ。父は新潟の寺泊町の生まれなので、あちらの親戚の人たちは随分、被害を受けていることでしょう。九十歳になった父は複雑な顔で落ち着かず、ただ家の中を歩き回っているばかりです。地球の反対側からは何もしてあげることの出来ないもどかしさ…。黙って見守るだけです。これでまた多くの人たちが命を、家を、財産を失うことになってしまったのです。
 ブラジルに住む私たちは大地を父母のような存在だと思って、安心しきって暮らしてきているけれども、外国ではあちらこちらで地震が起こっているのです。大地が揺れ動くなんて、こんな心細いことはありません。考えただけでも命が縮まる思いです。
 日本の東海地方には日系ブラジル人が大勢住んでいます。私の夫や妹たち、多くの親戚、それに友人、知人がたくさん出稼ぎに行っています。もしもの事が起こったらどうしたらいいのでしょうか?頭の中は混乱するばかりです。
 私は今、レジストロ市の大地を見渡しながら、足でポンポンと踏んでみます。緑の自然を横切る雄大なリベーラ河。日系人も交えて、のんびりとした市民たち。咲き誇る種々の花々。そのすべてを優しく包んでびくともしないこの大地。ブラジルは天国だ。今朝もまずはテレビにスイッチをいれ、NHKでニュースを見ようとチャンネルを合わせました。なんと、お笑い番組をやっていました。


我が家の料理人

カンピーナス明治会 樋口四郎
 我が家は四人の子供に六人の孫がいる。しかし全員外孫である。そのため考えたのが、三年前、私が七十歳を迎えたのを機に毎週一回、夕食会を開くことにした。週末にはそれぞれ差し支えがあるとのことから、毎週水曜日と決めた。それでも平日は仕事上、早くは来れず、早い者で七時、遅い者は九時頃になる。孫だけ昼間早くに置いて行く者もある。その上、自分たちのクニャード(義理の兄弟??)の子供まで連れて来てくれるので、子供だけでも十数人になる事もある。さらに私の友人や子供達の友人と輪が広がり、かなりの数になる。ちなみに我が家は夫婦二人暮らしなのに月に米が二十五キロは必要なのだ。
 こう言うと、さぞかし奥様が大変なのでは? と、ご心配する方もあろう。だが、心配無用。我が家には凄腕の料理人が常駐している!
 それは七十三歳になった、私自身なのだ。もともと夕食会を言い出したのは私で、その時、家内には迷惑をかけない約束だった。あまり大きな口を叩かなければよかったと臍を噛んだが、男が一度、口にした事。「成せば成る」もので、大奮闘し、この三年間一度も休まず実行している。
 昨年から自家製の豆腐、こんにゃく、羊羹作りに挑戦。未だに「完璧」とは言えないが、それぞれ五、六回ずつも失敗すれば、今では我ながら立派な出来と自慢できるまでになった。
 ちょっと良く出来ると、昔の癖が出て、知人や友人たちに持って行くようになる。食材だけでなく、道具まで新しくしたくなる。
 家族からは自家用にしては少し高く付き、町で買った方が安上がりでは…?なんてからかわれる時もあるが、「お父さんが好きでやっていること」と口には出さず、喜んで食してくれる。それを見ながら、大好きなビールを婿殿相手に祝杯で過ごすひと時は孫たちの騒音など耳に入らない幸せである。
 そんなこんなでこの二、三年、好きな演歌や浪曲のDVD、CD、ビデオまですっかりご無沙汰になった。それでも考えようによっては、料理というのは分量や手順など頭を使い、体も使うわけで、健康にもすこぶる良い。飲み歩きもめっきり少なくなった。一から十まで自分の好きにしたい性分なので、母ちゃんに手出しはさせない。こうなると、妻にとっては炊事はしてくれるし、外出はしないで一石二丁どころか二石三丁ぐらいと妻は喜んでいる。そういえば、妻の表情が柔和になり、美人になってきた。角が無くなったせいかも…。
 さて、恒例の水曜日。全員が帰るのは十一時を過ぎる。また、後片付けがひと仕事。眠るのは午前一時を過ぎてしまう。それでも横になると、来週の献立を考え始める。いやはや、バカ親父もいい所だ。人並みに親バカならぬ、孫バカ爺々のお粗末話でした。


老ク風景

忘れ物
 老ク連には日に一回は必ずといっていい程、忘れ物の問い合わせがきます。
 先日カルトーリオ(役所)にRGを忘れ、取りに行った会員さんがひとかかえもあるRGの忘れ物の山を見て、びくりするやら自分だけではないと安心したと笑っておりました。
 さて、忘れ物のメッカ、メトロ(サンパウロ)ではどうなのでしょう? メトロのアッシャード・エ・ペルジードサービス(メインセンターはセ駅)は月曜から金曜の八時から十八時まで営業しています。忘れ物は六十日間はここに保管してあり、それを過ぎると品物は州の助け合いセンターに寄付され、ドクメント類は発行元に戻されます。二〇〇五年には七九〇〇〇件のアテンドをしましたが(内二〇〇〇〇件は電話)。その内七〇五一点が無事、持ち主に返されました。
 二〇〇六年には六八三〇五件のアテンドがありました。
 忘れ物で多いのはドクメント類で一二七九二点。大きいものではテレビ、スーパーのカヒンニョ、車椅子、自転車など…。松葉杖などもあります。
 変わった所では入れ歯が六〇九一点。その他、携帯や眼鏡、傘、服、財布の順だそうです。
 現金なども時々あり、一ヶ月で一五〇〇点以上が届いていますが、七〇%はドクメント類です。
 メトロだけでこれなのですから、バスや病院等を合わせたらものすごい数になることでしょう。老ク連にある忘れ物箱も取りに来ない忘れ物がいっぱい。忘れた事も忘れているのでしょう。お互いに気をつけたいものです。
 ちなみに携帯等を受け取りに行く時はノッタ・フィスカルを持っていく事。電話での問い合わせ℡0800-770-7722です。

草ゲートボールは楽しいな
 セントロ桜会の宮川頼周さんはバイア州から出聖して二年、ゲートボール仲間の友達も出来、毎日が楽しくて仕方がありません。その宮川さんが近頃、凝っているのがスティックなしのゲートボールです。それはスティックを使わず、手で玉を転がすもので、やってみたら結構面白くて楽しめると悦に入っています。
 日本ではゲートボール人口が減っていると言われていますが、これならスティックを買わなくても出来るので安上がりで簡単に出来るといっています。普通、ゲートボールでは第一ゲートを通った玉が外に出てしまったらアウトですが、宮川さん方式の場合、とにかくゲートを通ったらよしとするとかルールを簡単にするなど友人の中山みのるさんと試行錯誤中です。昔の草野球の三角ベースと同じでどこでも誰でも簡単に楽しめる草ゲートボール。GB愛好者を増やす一番良い方法と確信したと語っています。


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