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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2007年9月号

2007年9月号 (2007/09/12) 念腹忌が近づいて

中央老壮会 伊津野朝民
 今から五十二年前のこと。家の近くの畑にいた私に、妻の静が「号外、号外」と言って、新聞を持ってきた。見ると、俳壇念腹選の入選句の中に私の一句が載っていた。俳誌「木蔭」とパウリスタ新聞の俳壇に投句を始めて五カ月目のことだった。
 現在はアチバイアに住んでおられる東抱水先生に「俳句をやってみないかね」と言われて、木蔭を紹介して頂きパウリスタ俳壇も同時期に投句を始めたのだった。
 俳句とは季語の入った十七字の詩とは知っていたが、それまで作ったことはなかった。そんな私共夫妻が唐辛子選と言われた念腹選に投句したのだから、易々と入選するはずはなく、毎月ボツばかりで「止めようかな」と、思った事もあった。それが新聞俳壇ではあるが、一句載ったのである。
 木蔭誌にはそれから三カ月間、つまり投句を始めてから八カ月目に二人の句が一句ずつ入選した。それからまた、三カ月間ボツ。その後はボツを間に挟みながらポツリポツリと入選するようになった。しばらく経ってから、プロミッソン句会に念腹先生が出席されると聞き、一度は先生にお会いしてみたいと思っていたので、まだ子供だった長女と次女に留守を任せ、ペナポリスの奥から夫婦がプロミッソンへ出かけていったのである。句会は夜だったが先生にお会いすることができた。そしてその翌朝、私たちを泊めて下さっていた亀井杜雁さんのお宅へ先生がお越しになったので、ゆっくりとお話を伺うことができた。その時、先生が「肩をもんでくれないか」とおっしゃった。それまで私は生まれてから人の肩をもんだことはなかったが仕方がない。少しもんで妻と代わった。すると先生が「これはうまい。朝民は下手だ」とおっしゃる。百姓の鍬だこの手でこめかみに力を入れ、ゴリゴリと揉まれて、先生はあまり良い気持ちではなかったのだろう。でもそのことで先生との距離が急に縮まったような気がした。
 それから一年程たって、先生がまたプロミッソン句会へ出席されると聞き、今度は私一人で出かけていった。先生にお会いしたら、「朝民、俳句は静さんのと大分開きができたな」とおっしゃった。つまり「お前が下手だ」ということだ。
 後日、東先生にお会いした時、そのことを話したら、「夫婦俳人は妻の方が上と相場が決まっている。諦めるんだね」と笑いながら言われた。
 私は「そうかも知れない。これからは俳句に関することだけでなく、家庭での関白の座も降りざるを得なくなるだろう」と、思った。
 もうすぐ年腹忌がくる。「朝民、俳句は上手になったか」と、先生のお声が聞こえてきそうだ。


陽気な未亡人(三)

カンポグランデ老壮会 成戸朗居
 かつ子さんはゲートボールに来る時には車で来るが、町の中心を避けて大回りする。車の雑踏が大苦手。そして毎日決まった道順で来る。途中に工事があったりすると、もう完全にお手上げ。道順が狂って、行きも帰りもできなくなり、一度は二時間も遅れてコートに着いた。
 年頃のと言っても、七十代を過ぎた小母さんたちではあるが、車の運転が出来る人と出来ない人が居て、どこでそんなに違いがあるのかと理解に苦しむことがある。頭の良さにはどこと言って違いはない。やはり運動神経の差であろうと思うしかない。もっとも運転を知っている人たちは若いときに既に覚えていたわけである。
 かつ子さんは勝気。何事もぱっぱと決めてしまう。自分で決めると、後は容赦しない。人に自分の決定を押し付け、実行を迫る。それで詰構、皆は従うから人徳であろう。大体において、決定は間違ったことがないからでもある。こういう人が居ると、物事が活発に迅速に運ぶ。そうでないと、いつまでもモタモタするのである。
 かつ子さんは未亡人歴が十年は越すベテラン。癌の手術もしていて、いつ死んでもよいぐらいの覚悟が出来ているような人である。
 しかし、とにかく走り廻るのが上手で、五十メートル競争をしたなら、一着は間違いない。もっとも今では運動会の老人の競争と言えば、宝探しゲームぐらいしかないけれども。
 長らく百姓仕事をしていて大変苦労した。仕事にではない。夫に苦労したとぼやく。夫は文筆が好きで、暇さえあれば俳句を作り、老人クラブの会報を書き、それをまた謄写版で刷り、畑の仕事はかつ子さん任せきり。次に結婚する時は、「もう絶対に文芸家や物書く男とは結婚せん」と誓っている。
 昔の女性は皆、見合い結婚であったから、結婚するまではどんな性格の男性であるか、全然見当が付かないから、ロッテリア(くじ)の札を買うようなものだったのは事実。でもその点は、男性においても同じ条件であったとは思うけれども、やはり男性上位の日本家庭では、妻が夫の言いなりになるケースが多かったので、多くの場合、妻にとっての悲劇の方が多かったのだろう。
 今更ながら夫たちは慙愧を強いられているのが傍から見ていて分かるのである。
 それでかつ子さんは運転を覚えた。野菜を卸屋に持っていくためだった。そして九人の男の子を育て上げた。昼夜兼行で働いたのである。
 うまくいけば一家の野球チームが出来たはずであったがそうはいかなかった。出稼ぎのせいであった。


転ばぬ先の教訓

名画なつメロ倶楽部 戸塚マリ
 これはメトロ・サンジョアキンのエスカレータでの事である。
 誰もいないので、サッと階段のように登って行こうとした所、足が引っ掛かって前にバタン。「痛!」。
 誰も廻りにいないので、そのまま寝転がって手を前に伸ばしたまま上がって行きました。なんだかオーメンアラーニャ(スパイダーマン)みたいな格好だな、と思ったけれども、上に着いたので、サッと起き上がって知らん顔して老ク連の方へ歩いて行ったら、後ろから「先生、見てたわよ~」との声。いやぁ、恥ずかしい。下からずっと見ていたとは…。さぞかし珍妙な眺めだったことでしょう。
 もう一つ、これはガルボン・ブエノ通りのことです。いつもみんなに「胸を張って」と言っているので、両手に荷物を持って颯爽と歩いていました。ところが穴ぼこに引っかかりドデンと転んでしまいました。ぞろぞろ人が寄ってきてワイワイがやがや。恥ずかしくて「大丈夫」と起き上がり、荷物をサッサッと拾って「皆さん、ありがとう」と逃げるように歩いていたら、後ろから、「待ってー。私の荷物、持っていかないでー」と、ご婦人の声。ハッと手を見たら、人の荷物まで持ってきちゃったんです。周りの人はゲラゲラ笑うし、本当に穴でもあったら入りたいぐらいでした。
 最後にもうひとつ。これはピニェイロスを歩いていた時のこと。家から稽古場までだいたい二千歩ぐらいです。これも数えるのが大変で、人に会ってしまったり、水たまりを飛んだりすると忘れてしまい、やっと数えたのです。早く歩くと十五分ぐらいですが、また転んだらばからしいので、この頃は早く出てゆっくり歩いています。そうしたら私の横をサッサと通って行く日系の私ぐらいの年の人がいるではありませんか。「ふん、私も負けるものか」と、その人をさっさと追い越しました。そうしたらその人もまたサッサと追い越して行くではありませんか。二人で追いつ追われつやっていたらその人がハアハア言いながら「あなた早いですね。あたし今まで追い越されたことないのに」って。私もハアハアと「あなたこそ早いじゃないですか」と、それで最後には「お互いにこれからも健康のために歩きましょう」とか言って別れましたが、家へ帰ってその晩足のカインブラ(こむら返り)でひどい目に遭いました。
教訓① エスカレーターは駆け上らないこと。登りたかったら横の階段をゆっくりと。
教訓② ガルボンブエノ通りは下を見て歩くこと。
教訓③ 人とやたらに競争しないこと。早く歩いたり走ったりする前に足のアロンガメント(ストレッチ体操)をすること。
 以上がそそっかしい私の教訓でした。


のんびり、どっきり 北伯初体験

生涯現役クラブ 内山卓人
 八月二十一日より八日間、ジュアゼード・ド・ノルテ、クラット、エシュの各都市を安い飛行運賃が売り物のBRA航空で巡る機会を得て、旅行しました。
 まず飛行切符はスーパーのレシートのように簡単なものでスチュワーデス(客室乗務員)の服装は大きく胸を開け、長い髪もそのままで、ごく普通の若い女性の格好でした。そして、はじめに「自分たちは三ヶ月の乗務訓練をしたベテランだ」と自己紹介し「今は何々市の上空です」とか「何々川の上を飛んでいます」とか説明してくれました。二回の乗り換えは着陸した隣の飛行機への移動で、百五十人乗りのボーイングでしたが、指定席券もなく、飛行機の旅行としては初めての経験ばかりでした。
 帰りはピンゴ・ピンゴという、空の各駅停車の便でした。ジュアゼード・ド・ノルテ空港よりフォルタレーザ、ナタール、ジョンペッソア、ブラジリア、ベロオリゾンテと離着陸を繰り返し、二回乗り換えでようやくサンパウロについたのですが、ブラジリアでの乗り換えは着陸したすぐそばに同じ会社の飛行機があったので、機内アナウンスもなく、みんなそれだろうと押しかけたらそれはゴイアニア行きで、サンパウロ行きは向うのOCEANAIR航空と知らされました。それが三機もあり、いずれも我々を待っている様子はなく、そのうち係りが来て、「これは十二時頃、クンビッカ空港へ行く」と説明。我々はコンゴーニャス空港へ行くのだと説明しても彼らには分かってもらえず、結局、仕方なく待合室で待っていると、この時間はコンゴーニャスに着くことは出来ないとのことで、二十時半にコンゴーニャスに着く筈の予定が、夜中の一時三十分にクンビッカ空港に到着。みんなタクシーを使うので、なかなかタクシーがつかまらず、待っていたら、コンゴーニャス空港行きのバスが来て、残った人は皆、コンゴーニャス空港までバスで行き、そこからタクシーでようやく帰りました。結局、家に着いたのは四時半という思いもかけない遅い時間になりました。
 さて訪問先のセアラ州ジュアゼード・ド・ノルテ市はフオルタレーザ(州都)より五百二十Kmあり人口二十万人の大きな街で、石畳の狭い街通りでした。山丘にはリオに次ぐ大きなキリスト像があり、日系人は四、五家族はいるだろうとの話でした。
 次の訪問先エシュ市はルイス・ゴンザーガの生誕地で十八年前七十七歳で亡くなったのですが、彼の農場の中の博物館には生前、使っていた三つのアコーディオンや沢山の携行道具等があり、大きな邸宅も昔のままで保存されていました。実は私がブラジルで最初に覚えた唄が彼のアーザ・ブランカでその時は歌い易く、北伯の民謡ぐらいと思っていたのですが、これほど有名な歌とは知りませんでした。
 近くに滝がある事を聞き、友達と「行ってみよう」という事になり、モト(バイク)タクシーを探しました。一人は女性のモトタクシーで普通、男は乗せないと言っていましたが、特別に二十キロある土道を十五レアイスで往復してくれることとなりました。道中は遠慮して胴脇を掴んでいたのですが、何回も「しっかり掴め」と催促されました。私はオートバイの後部席に乗ったのも、土道を走ったのも生まれて初めてで、ものすごい埃でした。振動も激しく、何度か度肝を抜かれることもありました。神経がすり減る体験の一つになりました。
 その他、公園の中央には野外ダンス場があり土曜、日曜の夜の賑いは凄く、いろいろ変った体験をしましたが、特筆するものを綴りました。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑦ 林芙美子 「花のいのちは短かくて」
 現在では文庫本がいくつもの出版社、新聞社から出されていて百花繚乱の感があるが、私達の少年時代には岩波と新潮の二つが主なもので、ついで角川文庫が発行されたのを記憶している。文学に対する目が開かれて最初にわが家の蔵書ナンバーワンとして購入した本は林芙美子の「清貧の書」であった。
 林芙美子といえば「放浪記」と連想されるほど有名なこの文壇デビュー作(昭和四年)は正に彼女の分身とも言えるもので、この作品を抜きにしては林芙美子は語れない。林自身は「放浪記」について後年「この本が案外多くの読者を得たことは私としても意外であった。貧しい生活を共にする人達の共感を得たことは感激だった。今日の私の作家生活の根をなしてくれたと言っていいであろう」と語っている。林は暗い出生の影を曳きずって放浪の少女時代を過ごしたが、上京してからも女工、事務員、女給など社会の底辺をさまよいながら詩を発表し童話を書いて、ひたむきに文学に精進した。その当時からの生活を日記体に赤裸々に書き綴った歌とも詩ともとれる作品が「放浪記」であるが、その対象の暗さにもかかわらず、向日性のある健康な文体であり、読者に貧乏もまた愉し、と思わせる明るさが芯に通っており、緊迫した世相の中で必死に生きている当時の庶民の共感をよんだ。いま読み返してみても、そのみずみずしい詩情と、体当たりでぶつかっていくたくましい生活力には圧倒される思いがする。
 作者が呼吸した時代は、文学の分野においてはプロレタリア文学の台頭が著しく、事実彼女とは同じ作家としても非常に親密な仲でもあった平林たい子などは、左翼文学に傾いていたわけだが、その生い立ちからして最も社会主義に染まるような環境の中にありながら、彼女は遂に深入り出来ず、自らの資質に忠実に生きたことが作家として大成していくことになった。当時の知識階層、中産階級出身の左翼作家よりも下積みの庶民の悲しみ、苦しみを身をもって体験していた彼女は、自身の過去を欺くように歌うように叙情的に綴っていって作家の地位を得た。
 林文学を支えているのは、汲めども尽きることのない豊かで新鮮な詩精神だろう。
 文学史的な観点から言えば、昭和文学の収穫の一つにも数えられる傑作「浮雲」、完壁に近い短編と称される「晩菊」は高い価値があるものだろうが、私などはやはり多少の甘さはあっても、詩情溢れる初期の作品群「放浪記」「風琴と魚の町」「清貧の書」「稲妻」などの方が親しみ易い。また、戦後続けて発表した「うず潮」に代表される一連の復員ものも風俗小説として優れている。
 昭和二六年、日本の文壇は林芙美子とともに宮本百合子を失ったが、理性的、理知的で社会派と呼ばれる百合子と感性的、情感的で芸術派の芙美子とは流行作家と遇されながらもお互いに強いライバル意識をもって対峙していたらしい。林のすごいところは「放浪記」一作で終ることなく、その後は一作ごとにすばらしい進境を見せてたちまちに作家的地位を確立したことにあり、流行作家になってからも夥しい作を発表し続けたが、さほど筆も荒れることがなかったが、よほど才能に恵まれていた人だったのだろう。そして、彼女は書くことが心から好きであり、「私はお米を一升買いするような人達のために小説を書くのだ」、そして「自分の喜びや、慰め、生き甲斐も全て文学の裡にある」と語っていた作者の情熱は、どの作品にも色濃く反映されており、生前三万枚以上の原稿を書いたというこの人は、四十八歳という若さで生命を燃焼させたかのように、心臓麻痺でこの世を去って行った。
 川端康成が葬儀委員長を務めて執り行われた告別式には、東京の下町から駆けつけたお内儀さんや、エプロン姿に買物かごを下げた主婦など、驚くほど多数の庶民の参列があったという。いかにも彼女にふさわしい野辺の送りではないか。


私のペット物語 ⑭ 「黒ねこ放浪記」

イタケーラ寿会 小坂誠
 我が家はウズラを飼っている、餌があるのでスズメが来るわ、ネズミが来るわ。それを目当てに猫も来る。
 何年か前のある日、黒いメス猫が現れた。黒猫は縁起が悪いと言われている。昔イタケーラが桃の産地であった頃、カミヨンで桃を運んでいた私の知人は、「道で黒猫を見たらその日一日特に運転に気をつけ、出来るだけ早く家へ帰る」と言っていた。
 この間来た或る仏教新聞の子供欄に「ある日、学校へ行く途中、黒猫に会いました。黒猫を見たら行く先で不吉な事が起きるんだよ、それを消すにはもう一度出直すか白猫を見るしかないんだよと、あっ子ちゃんと優子ちゃんが話しながら学校へ行きました。学校でその日に限って運の悪いことが起きました。黒猫の話を聞いた先生が、そんなときには(ツルカメ、ツルカメ)と唱えるのよと教えてくれました。おばあちゃんから習った縁起直しのおまじないだそうです」と書いてあった。
 話を戻して我が家の黒猫は子を産んで五匹ぐらいに増えた、その中にメス猫が一匹いた。そのメス猫が一人前になると、古いメス猫がいなくなった。残ったオスの兄貴が残りの猫を支配するようになる。群れが大きくなると弟の中でも気に食わない猫を苛める。時々ギャァという声がすると思っていたら苛められた猫は居なくなる、そのうちにメスも居なくなった。しばらくするとオスの兄貴もいなくなって、今居るのは一匹の雄と、時々現れる雄のシャムネコ、それに生まれて四ヶ月ほどになる(つがい)の子猫になった。餌であるネズミの数の関係か苛めの関係か知らないが猫は四、五匹以上に増えないようだ。
 しかし昔居たネコがたまに、もどってくることがあるが、今居るネコが強くて追い返している。
 出て行くネコに行き先聞けば、ちょっと其処までマタタビだ。
鶴亀鶴亀。


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