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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2007年10月号

2007年10月号 (2007/10/05) 生姜温灸

レジストロ春秋会 大岩和男
 六十年前、山の中で医者とてすぐには呼べない時代のこと。父は喘息が持病で十余年来悩まされていました。それには灸療法がよいと聞き、今はアチバイアにお住まいの菊地昇平さんのお父さんがチエテで隣地区で灸の施療をされていたので、お願いして最初の一回をすえてもらいツボを教えて頂きました。
 菊地さんとは同船者だったのです。その後、ツボを教えられたので、私が喘息の発作のたびにすえ、夜中でも咳込んで苦しむ時はすえてやったものです。
 七月号で中川さんが書かれたように慣れないうちは線香に艾が引っ付いて、転がったりしたものですが、慣れてくるとその失敗はなくなりました。
 背中はドンの窪から背骨の終わりまで片側十二ツボ。両肩に二火ずつ、合計二十八ツボ。それに三火ずつと、大変な数でした。さらに腹部(胃)の周囲に八ツボ。喉に一ツボと、こちらは計九ツボで、やはり一ツボに三回すえたのです。米粒の半分以下の小さな艾でしたが、何と言っても火です。その熱いこと。すえてあげながら、気の毒で仕方がありませんでした。父はじっと我慢し、歯を食いしばってその熱さに耐えていました。
 何しろ乾期になると喘息(乾性と温性があり、父は乾性)の発作を起こし、特に夜になると咳き込みが甚だしく、息が詰まりそうになります。痰は間断なく噴出するという状態になり、そんな時は夜の夜中でも昼間の労働で眠りこけていても、呼ばれると灸をすえてあげました。もちろん母は付きっきりで、艾を千切ってくれるのでした。
 熱いがそれによって体が温まるのか、咳も止まり、安眠できるのでした。その灸も何十回と続けていると、ツボの皮膚が黒くて、固いかさぶたになり、初めのような熱さはなくなるといっていました。
 ある日、日本の雑誌で生姜温灸という記事を見ました。生の古生姜を三ミリから五ミリくらいで親指の大きさの輪切りにしたものを灸ツボの上に乗せて大火(小指の先位)の艾をその上で焼くというすえ方だと書いてありました。
 父に説明をして、早速、実行に移してみました。大成功でした。
 父が言うには、あのバカ熱い苦痛はなく、ぽかぽかと温かく、何とも言えないいい気持ちだと。三火をすえ終わる頃には、臥したまますやすやと眠ってしまったようでした。
 その本には灸は昔からの伝統ある療法で、効く事は分かるが、あの熱いのと、焼いた跡が皮膚に黒く残るのが女性には嫌われる素である。しかし生姜温灸は絶対にそんなことはないし、生姜の成分が灸とマッチして、さらに効力を高めるとありました。
 ただ、艾は市販の物では間に合わないほど大量に使うので、田舎だから蓬はどこにでもあるので、それを刈り取って乾かし(できれば陰干し)手でしごいて葉だけをよく揉むと綿のように柔らかい艾のもとが出来ます。これをさらに乾かして、昔使った手回しの肉挽きで何回も挽くと、市販の物より上等な艾が大量にでき、思う存分使って、灸をすえてやることができました。今では懐かしい思い出の一つです。


陽気な未亡人(四)

カンポグランデ老壮会 成戸朗居
 さわ子さんは裕福である。数年前に夫を亡くしたが、生前にご主人は自分の健康状態が良好でないのを悟つて、全ての耕地を賃貸された。この賃貸料でさわ子さんはのんびりと暮らしていける。
 五人の娘さんがいるが、男の子に恵まれず、それが唯一の不満であった。しかしこのブラジルでは男の子より、女の子の方が親をみてくれる傾向があるので、その点、さわ子さんは淋しくはない。最高級の日本製の車を使う。自動チェンジなので使いやすい上に、車内では全然何の音も聴こえない。エンジンの音を聴こうとしても不思議に耳に入らないので皆不思議がる。この車にはエンジンが無いのかと聞く田舎者も出てきた。
 さわ子さんは退屈だから、ゲートボールに来る。生まれ付き頭の良い人だから、主将にいつも選ばれる。いつも何か美味しそうな物を持ってくるので人気は絶大。彼女は痩せ方なのでスタイルは抜群。着痩せするタイプであろう。心の中ではさわ子さんに近づきたがる鼻の下の長い男はたくさんいるが、実際には、さわ子さんのようなデラックスな未亡人に近づく身の程知らずのおっちょこちょいはまだ現れない。
 彼女は今でこそ気楽な身分だが、結婚当時は随分苦労をした。広い牧草地帯に一つぽつんと建てられた掘っ立て小屋に住み、夫の帰りを待ちわびながら、子育てに懸命な毎日だった。娘たちはその筈労を覚えているから、さわ子さんを大事にする。当然の恩返しである。
 彼女にも心配事が無いわけではない。一人の孫は生まれつきの身体障害者で、確か死ぬまで介護が必要とされ、毎月かなりの費用が掛かり、さわ子さんが全ての面で面倒を見ている。
 婿さんの一人は出稼ぎに行っていて、家族をブラジルに残している。やはり二人の子供が学校に通っているので、連れて行くことができなかった。このように金はあっても苦労は次から次と出てくる。婿さんの中にも色々いる。成功者もいれば、失敗者もいる。あまり楽ではない娘の家庭にはちょいちょいと寄って、孫に何か買ってやる習慣が出来ていて、さわ子さんも中々忙しい。それでも彼女は楽しく走り回っている。仕事が多いのが嬉しいそうである。
 彼女は健康そのもの。張り切って高級車を乗り回し、他の未亡人たちを催し物に誘いあって乗り合わせ、せっせとボランティアに汗を流している。毎日が楽しい未亡人である。


夢のまた夢

カンピーナス明治会 樋口四郎
 私は若い時から好奇心が人一倍強く、日本では出来そうにもないことをやり遂げる夢をブラジルに求めてやってきた。
 九州の片田舎育ちで兄弟も多く、日本中が貧しい中、特に我が家は貧農であった。それゆえ貧乏には負けない根性はできている自信もあった。
 渡伯当初からブラジルほど住みよい所はないと思い続けて今日に至ったのである。それほど住みよい国、それほど夢の実現可能な所ではあったが、さて五十数年過ぎてみると、反省することばかり。愚痴を言う積もりはないが、「夢はどうしたか?」と聞かれれば、「夢のまた夢」としか言えないのではなかろうか。
 さてそれでは私の夢とは何だったのか?我が夢は大農場主とか、人も羨む大会社の社長になる夢ではなかった。それでも一応、故郷に錦を飾る位の出世の夢はあった。
 それが事業が多少軌道に乗るや否や、妻や周囲の人の言葉も耳に入らず、数ある文化団体に顔を出しては悦に入り、人様の為だとか言い訳をしては、駆けずり回り、周囲のお世辞が嬉しくて跳ね回る。気付いてみたら、日本に出稼ぎという名の御旗で訪日。
 それでは夢は皆目駄目かと言うと、一つだけ自慢したいことがある。私は最初に述べたような事情で、学業も出来ず、学歴では大変な劣等感を持ち続けてきた。そのため、自分の子供たちには勉強だけはと、身を削ってでも進学させるように心がけた。お陰様で四人の子供はあまり上出来でもない頭で、大学に進み卒業した。その子供たちは今では社会人として日系団体に顔を出し、孫六人もまた皆様方に可愛がられて、良い暮らしをしている。
 しかし私は自業自得の年金暮らし。妻からは「あれほど口うるさく言っていたのに」と愚痴られても年金が増えるわけじゃなし。孫たちを集めては、「楽しく過ごすことの方が賢明だね」と言っては嘯ぶいている昨今である。
 夢は大きく外れたけれども、これも人生。成るようにしか成らない。買いもしない宝くじに大当たりでもしないかと、大きな夢は捨てきれていない。


言葉

ピニェイロス親睦会老壮部 中川浩巳
 六月末頃、NHKのテレビを見ていましたら、長崎県島原市で、当時防衛大臣だった人が自分の地元である島原で講演し「アメリカ軍が原発を落としたことは『しょうがない』ことだ」と発言していました。それを聞き私は「『しょうがない』では済まんでしょうに…」と思って、その日を過ごしていました。
 翌日NHKニュースを見ていますと、案の定、自民党内はもちろんのこと地元長崎県では被爆者の人たちが座り込んで大騒ぎになっており、野党は野党でその発言に抗議をするなど大問題の様相を呈してきました。さらにその次の日には、防衛大臣はとうとう自らの言葉に引責を取り辞任が発表され、その後は今までにない女性の防衛大臣が誕生するなど、あっという間に事態が変わり、その後の参院選では自民党が大敗をきたしたことは皆様もすでにご存じの通りです。
 ブラジルに住む私たちには実際に関わるような問題ではないのですが、一言が世の中を騒がせ、また自分の一生も台無しになってしまうということを、言葉がどれだけ大切なものなのかを、テレビを通して大いに感じたのです。
 また、当人が講演された所は私が子供の頃に住んでいました熊本県三角町に近く、地図で見てみますと、長崎まで五十キロ位、島原までは二十五キロ位の所です。今ではその三角町から島原まで観光船が行き来しています。それでますます身近に感じていたのだと思います。
 それに原爆の話で、子供の頃を思い出したのです。六十二年前、私は十歳でした。長崎に原爆が投下された後、長崎と島原の上空は真っ赤に焼けただれたような昼焼をしていました。その焼け方が血の匂いこそしませんでしたが、それはそれは何と言って表現したらよいか、気持の悪くなるような赤でした。そんな赤い空が高く広く染まっていたことを思い出したからです。そして母が「アメリカ軍がとっても強い爆弾を落したんだよ。次は長崎に近い私たちの所にも落とすだろう」と心配そうに言っていた姿と、次は自分たちの所にも原爆が落ちるだろうと恐ろしかったことを思い出したからです。いつまでたっても忘れられない言葉。うれしくなるような言葉。悲しみを感じる言葉。分かっているのについ人の心を傷つける言葉も往々にして言ってしまうものです。言葉は難しいものです。
 私はピニェイロス親睦会老壮部の毎月の例会で十数年間、司会を務めておりました。最初は慣れないで、何と言ってよいかも分からず、緊張するばかりでした。司会が緊張すると、会場の皆様も緊張され、硬い雰囲気になるのです。何気なく言ったつもりの言葉で遠い昔を思い出させ目に涙され、淋しい気持にさせてしまったり、また退屈な顔をされることに気がつきました。硬い話をするよりも面白い話を交え、冗談でも言いますと、皆心が和んできて、その日の例会の時間が終わっても立ち上がりもせず、「また来月お会いしましょうね」と言うまでおられたり、司会を務めさせて頂き、いろいろと勉強になりました。また相手の話を聞くことも我ながら上手になったと思います。相手の人の話し方でその人の気持ちも人格も分かるような気もしました。
 日本の政治には関わりはありませんが、六十二年前のアメリカ軍の原子爆弾投下を「しょうがない」と発言し、時の大臣が辞任した事。また原爆の落ちた後、母が心配そうに言った言葉におびえた事。恐ろしさのあまりに母の体にしがみついた子供の私。思い出をたどりながら筆をとった次第です。今さらながらですが、お互いに言葉には気をつけて、元気で暮しましょう。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑧ 堀辰雄 「風立ちぬ いざ生きめやも」
 堀辰雄の愛読者だと告白することは、何か一種気恥ずかしいような面映ゆさを伴うかのようだ。実を言うと少年時代に文学の魅力に取りつかれて以来、一貫してファンであり、老齢になった現在でも変わらない。
 確かにこの人は一般受けするようなタイプの作家ではないが、詩人として恵まれた資質を生かして美しい叙情的散文を発表しながら歩んできた道は、おもにコクトー、ラディゲ、プルースト、モーリャックなどのフランス文学の伝統を、日本の近代小説に移植しようと試みた実験ともいえ、数こそ少ないが珠玉のような短編の愛読者は意外に多いものと思われる。
 フランス伝統の秩序と明晰さを尊ぶ精神は作品を論理的にし理知的にするが、もともと堀辰雄にはその傾向があり、手当たり次第の言葉そのもので直接にものを考えていく、つまり書くことと考えることが同じであるタイプの作家ではなく、考え尽くした後に言葉を探していく型の作家である。
 本質的に堀辰雄は洗練された都会人であり、その魂の純粋さは生得のものであったらしい。彼の文学はある意味では幸福な少数者を相手にした特殊なものと言えるようだ。
 その特徴としては心理小説としての色彩が濃く、関東大震災による母の死、師と仰いだ芥川龍之介の死による打撃、また自らも肋膜炎を患い身体をいたわりながらの文筆活動の中で、生と死を凝視して魂の内部の現実を描き続けた。
 「死があたかも一つの季節を開いたようだった」との有名な出だしの一行で始まる「聖家族」は芥川がそのモデルとされているが、美しいロマンの小世界である。ほか自伝的な「幼年時代」「燃ゆる頬」「麦藁帽子」の清洌さも忘れ難いものがある。
 「菜穂子」と「美しい村」は中編だが、前者は本能的に夢を見ようとする少年と、反対にそれから目覚めようとする少女、都築明と三村菜穂子が信州で数回の夏休みを過ごし、惹かれ合いながらも、別々の道を歩むという物語だが、心理小説としても優れている。「美しい村」は軽井沢で物語を構想中の若い小説家が、ある小説の想いを練りながら書く、という二重の構造を持ったもので、音楽的な効果を狙った実験的な作品といえよう。
 「風立ちぬ」はポール・ヴアレリーの「風立ちぬ、いざ生きめやも」の詩句をふまえたもので、堀の唯一の長編小説であるが、「普通の人々がもう行き止まりだと信じているところ」から始まるという、生きることよりは死ぬことの意味を問う作品であり、同時に死を越えて生きることの意味を表している。ことに「私」が死者の魂に呼びかける終章「死のかげの谷」は、散文で書かれた最も純粋な詩と讃辞が捧げられているほどであり、昭和文学の一つのユニークな山脈を形成するものとされている。
 堀は昭和二八年、彼の最も愛した地方である信濃追分の家で四八歳の生涯を閉じたが、後年には王朝文学に深く傾倒し、「かげろふの日記」「ほととぎす」「畷野」などを発表している。その穏やかな人柄は周囲におのずと若い詩人達が集まり、立原道造、津村信夫、野村英夫、中村真一郎、福永武彦、加藤周一、矢内原伊作、遠藤周作などがその中から巣立っていったのである。


私のペット物語 ⑯ 「モノって何もの?」

サンパウロ中央老壮会 佐藤広和
 一九五六年に来伯した私は一九六一年に念願の土地を入手する事が出来ました。前面はパスト(草原)で州道が走っており、両横と後は州政府所有の広大なマットビルジェン(原始林)でした。そしてこの三面は十メートル程の崖になっており、一本の滝が落ちているという非常に気に入った地形の土地でした。
 太いパルミットもたくさん生えており、バナナも八千本も植えてありました。大きな家もあり、私はすぐに住むことが出来ました。
 朝はガーロ(雄鶏)の鳴き声で目覚め、小鳥のさえずりの中で顔を洗い、搾りたての牛乳を飲みました。今まで暮らしていた都会の生活がいかにひどい物だったかと思いました。私は自分が買った土地を毎日毎日見て歩きました。ゴヤバ、ジャボチカーバ、椰子の木などが自然に生えています。鳥や小動物もたくさん目にしました。バナナの木に登るクワツチーやタツーフランゴ等など、目を奪われるような出来事でした。早速、牛に詳しいバッケーロ(牛飼)やバナナやとうもろこしに詳しい人間を二人雇いました。皆、近くのマットに住んでいます。私はまず馬を三頭とボーイ(種牛)を買い入れるところから始めました。とにかく私は町に仕事がありますので、家族は町で、私はこの土地で生活です。滝の下には大きな池が二つも出来ており、魚もたくさんいます。釣りキチの私は益々うれしくなりました。
 ですが、家を建てたりバナナ園を囲ったりと作業は山のようにあります。一ヶ月がたち、何とか落ち着きました。コロノも家に住み仕事を始めました。一人のコロノが鉄砲を持っていると聞き、話をしてみると彼の父親の形見で父親は猟師だったとのことでした。
 彼も山の獣には詳しいとの事でうれしくなりました。私は動物と魚が大好きです。一応、鉄砲は勝手に使うなと言い渡しました。
 次の日から土地を回る時、必ず彼を連れ出しました。いろいろな鳥や動物を見かけると彼に名前を聞き、写真に撮りました。土地が大きく周りに人家がないので、本当に色々な動物にあえました。毎日毎日、山を馬で回る私たちを高い木の上からじっと見ているものがいます。高いので色や大きさなどは分かりません。そのうちカマラーダが「あれは『モノ』という猿で、すぐ人間にもなつき、子供たちともよく遊ぶ。もう七ヶ月自分の家族と一緒にいるから、よくなついている」と言うので、私は「見たいから持ってきてくれ」と頼みました。彼の腕に抱かれてきた猿を見ると、まるで人間の子供のようです。毛色はくすんだ黄色です。大きさは四十センチぐらい。二十センチの尾があり、顔は小さく手や爪も小さい。足の方がやや長くがっちりしています。私が手に取ろうとすると怖がって彼の腕にしがみついています。その動作が可愛いのです。もうすぐに引き取らせて貰いました。カマラーダはまた捕れるから「買ってくれ」と言います。どうやって生け捕りにするのかと聞いた所、頭を切ったひょうたんに落花生を入れて置くだけという話でした。捕れたら「見に行きたい」と言うと「いいよ」という返事でした。それから猿は私の子供たちの仲間入りをし、ブランコをこいだり一緒にご飯も食べたりするようになり、人気者になりました。犬はやはり大嫌いのようで、犬を見ると高い所に逃げます。家の中では鎖もいらず、私の四人の子供と遊び、子供たちが学校に行ってしまうと部屋の隅で寝ていて手間もかかりません。便所は必ず家の外でしてくれます。犬より猫より賢い動物にあえたのに感動しました。車に乗せてのファゼンダ行きをとても喜びました。彼の友達の馬や牛にあって、背中に乗ってファゼンダを歩き回るのです。足から上って牛の背中にちゃんと二本足で座る姿が目に浮かびます。そしてこの土地を購入した私はブラジルの様々な小動物にあえる事になりました。


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