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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2007年11月号

2007年11月号 (2007/11/10) 思い出の一齣

スザノ福栄会 杉本正
 私たちがこの世に生を受けて以来、歩んできた中において、種々の思い出があるものと思います。特に才能があったわけでもない私も日系諸団体の役職を務めさせて頂きましたが、今、懐古の思いが脳裏を掠める時、「いかなる団体も動機があって結成されたものである」と、こんな思いのもとに、現在、一番関連が深い老ク連、そして福博老人クラブの結成の動機を過ぎにし当時に思いを馳せながら、私なりに記してみたいと思います。
 別に不思議なことではありませんが、「老人」となるのは、生きていれば誰もが避けることのできないもの。年と共に一つ一つ失われてゆく機能、それを心得て、お互いに思いやりを深め、支え合って、喜びも悲しみも分かち合う。そんな温かい心を踏まえて、各地方に老人クラブは結成されました。ただ、指導性を持たないバラバラとした体制ならば、目的があっても限られた範囲に留まってしまうことを考慮され、各老人クラブ活動が円滑に進むように、また相互の仲間意識をより高め、指導者の育成、教養の向上、健康の増進と意義ある方向に推進できるような各老人クラブへの補助役を務める連合会の必要性があったのです。そこで指導性を帯びた中央機関の組織化として、一九七五年八月八日、日伯援護協会福祉部の指導のもとに四十五団体の老人クラブをもって、老人クラブ連合会が創立されたのです。ちなみに初代会長はその頃、援協の老人問題相談員をしていた田中丑子さんが就任されました。
 当時すでに福博には老人クラブも創立されており、老ク連の団体構成支部クラブとして活動に参与することになったのです。福博老人クラブの結成は村の発展活動時代に於いての思い出の一齣ですが、会員ですらその結成の動機を知る由もなく、また、聞かれたこともないままに今日に至っています。
 一九七四年、当時私は福博村の会長を務めさせて頂いておりました。当時、日本でも高齢化が進んでおり、老人問題が課題となっていました。福博村も例外ではありませんでした。
 一九三一年以来、次々と村に入植された親たちは己の事業に、村の造成建設にと、力を注いでいるうちにいつしか老齢の身を迎えていました。六十歳を過ぎると家督を息子に譲られる方もおり、漸次実社会の活動から遠ざかって、婦人共々家庭内に留まり、得てして孤独に陥り、一抹の淋しさから精神的にも肉体的にも萎縮されているのではないかと危惧されていました。村会としても心にかかる問題となり、何か気楽に集って余生を楽しむ会でも設けられれば、高齢者たちの活力の根源となるかもしれないと考えたのでした。
 その頃、すでにサンパウロ日伯援護協会でも老人問題を大きく取り上げており、日本の厚生省の福祉専門家を招聘されて懇談会を開催されるなど、すでに「老人クラブの必要性」を強く説かれていました。
 早速、老人クラブ案を役員会に提案し、問題なく承認されたものの、さて、設立に当たっては「誰が中心となってまとめ、円滑に進めてくれるのだろう」との懸念が出ました。幸いな事に会計を務めておられた黒木松巳さんが自ら「私がやりましょう」と申し出てくれました。但し、条件としては、村会の役員には一切、選出しないようにということで、引き受けて下さいました。誠に助かり、この上もない喜びでした。以来、黒木さんが中心となられ、村を回って一人ひとりの意見を聞き、大変な努力を重ねられたものでした。
 老人クラブ結成にあたっては、準備委員会を設けるなどしました。当時はまだ、老人クラブ活動はブラジルでは真新しい時代で、全伯老人クラブ連合会も設立されていなかった時代に先んじて当会の老人会が出来たのは、ひとえに村会の温かい支援のお陰であります。こうして一九七五年五月二十八日、会員九十三名をもって、福博老人クラブ福栄会が創立されたのです。
 以上、動機と結成に至る経緯について記してみました。三十年の年月の流れは人身共に大きく変貌をきたすものであり、当時のことを知る役員仲間は、私と大浦文雄氏のみとなってしまいました。また創立会員も若松トモさん(九十四歳)のみとなっています。拙稿を終わるに当たり、亡き役員、会員の方々に謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


豚の母性愛

レジストロ春秋会 宮本美都子
 今から八十四年も前、私が七歳の頃に体験した話です。奥地モジアナのバリンニャ耕地という所に移転して、原始林から二百メートル程離れた所にコロノの住宅が七軒ありました。
 私はある日の夕方、畑から帰るなり、原始林の方へ行きました。私は思わず「あっ!」と叫んで、体が動かなくなり棒立ちになりました。そこにはなんとサッペが四方八方きれいに根元から刈り取られ、その真ん中にポン釜のような小屋が作ってあったのです。おまけに人間の子供が出入りできるぐらいの入口まであったのでした。
誰がこんな所に小屋を作ったのか?と、七歳の子供の頭では判断もできません。ただ茫然と見とれておりました。しばらくすると、小屋の中から六十キロもあろうかと思われる真っ白な豚が出てきました。じっと私を凝視していましたが、この人間は自分たちの敵ではないと思ったのでしょう。その豚がブウブウと合図をしますと、小屋の中から親豚に似た真っ白な子豚が十匹ほどゾロゾロと出てきました。私は思わず「まぁ!可愛い」と言って、駆け寄りましたが、親豚が見ているのに気が付いて恐ろしくなり、その日はそのまま家に帰りました。
翌日の夕方、今度はミーリョ(トウモロコシ)を二、三本持って、あの豚の家へ行きました。ちょうど親豚が横になって乳を飲ませているところでした。両手で乳房を押さえながら、さも美味しそうに乳を飲んでいる無心な様子がとても可愛くて、夢中で走り寄って抱きかかえました。親豚には急いで持ってきたミーリョをやりました。今までは野菜だけ食べていたのでしょう。ミーリョは珍しいらしくガツガツと美味しそうに食べていました。
 それでも「どうしてこんな所にこんな美しい小屋があるんだろう?」と、私はまたしばらく思案しておりましたが、ふっとある日のことが思い出されました。それはこうです。畑に往復する道の途中に広い広いマンゲロン(家畜小屋)があり、豚が飼われていたのです。その中央に道路があり、私たちは毎日そこを通っていたのです。ある日のこと、豚がギャーギャーと苦しそうに鳴いているので、ふと藪陰を見ると、木の根元近くで親豚が子供を産んでおり、それをほかの豚どもが片っ端から食べているのでした。その光景を見た私はあまりにもかわいそうで胸がいっぱいになり、思わず顔をそむけ一目散に家へ走って帰りました。そんなことがあったことを思い出し、きっと豚も共食いされる恐ろしさから仲間と離れ、この家を作ったのだろうと思いました。
 それから毎日、夕方になると豚の家を見に行く私に気付き、とうとう父親に「お前は毎日、畑から帰ると森の方へ走って行くがいったい何をしに行くのか」と、咎められました。私は今までのことを一部始終話しました。ところが父はお前が夢でも見ているのだろうと信用してくれません。それで「じゃあ、お父ちゃんもミーリョを持って私と一緒に来て」と現場へ行きました。父はただただ驚いて一言も言わず、じっと見つめるばかりでした。やがて「これは本当に豚の仕業だろうか」と、嘆きながら、「なるほどサッペはきれいに刈ってある」と言い、座り込んで丹念にサッペの根元を調べていました。根元から一本一本咬み切って、重ねて作ったもので人間でもあのような巧妙な仕事はできないだろうと、ただただ感心して頭を傾けておりました。そして「そうだ、これは参考のために若い者たちに見せてやりたい」と父が言ったので、私は驚いて「お兄ちゃん連れて来るのは辞めて。もしこの親豚を殺すなんて言い出したら子豚たちはどうするの」と泣きながら父にすがりつきました。父は「何も心配することはない。お父さんが付いているから」と私を優しく撫でてくれたので安心しました。翌日の夕方、家長さんや青年たちが大勢見にやって来ました。「これが豚が作った小屋か」と皆が感心して、「これなら風が吹いても、雨が降ってもびくともしない。丈夫な家だ」と感心したり、呆れて顔を見合わせたりしていた。そのうち「なるほど親豚はよく太っているし、最近は肉が不足しているから、この豚を殺したらたらふくご馳走になれるぞ」と、青年たちは面白半分に話して騒いでおりました。父は「君たちもこの豚を見習って、この未開地に来ているのだから、何か発明してブラジルの為になるよう心掛けたらどうか」と話していました。「そうだな。呑気にしてはおれん」と、言いながら、みんな帰ってきました。
 次の日の夕方、いつもより余分に餌をもって豚の家へ行きました。いつも小屋の外で待っているはずの子豚も親豚も一匹もいません。私は不思議に思って小屋の中を覗いてみましたが、影も形もありません。私は座り込んで、あの可愛い豚さんたちはとうとう姿を消してしまったと泣きながら家へ帰りました。
 大勢の人たちが見に来たので、危険を感じ、きっと子豚も一人前になったので、自分の古巣に戻ったのだと思います。それから、私は毎日夕方になると石段に坐って子連れの豚を思い忍んでおりました。
二週間も過ぎた頃、畑から帰って家の表を見ると、点々と子豚の糞が落ちているではありませんか。「あぁ、やっぱり日中に会いに来てくれたんだ」とうれしくて、心の中で「ありがとう」とつぶやきました。そして、間もなく豚たちにとっては恐ろしい「ナタール」も近づいてきます。「こんな危険な所からは一日も早く立ち退いて、長生きしてね」と願いながら、二度とこの思い出深いファゼンダへ足を踏み入れることはないだろうと思いつつ、後ろ髪を引かれる思いで、このレジスト植民地へ移ってきたのでした。


陽気な未亡人(五)

カンポグランデ老壮会 成戸朗居
 ふゆ子さんは主人を亡くされてすでに七年、痛手から立ち直って、いつもせっせとゲートボール、老人クラブ、婦人会、日本舞踊、カラオケ、コーラス、生け花などのグループに属して大忙し。日本の高名な高等学校を卒業していて、日系老人女性の中では最高の学歴である。
 才色兼備のリーダーで、夫が死んだ後でも車を乗り回し、年がら年中、世話をするために走り回っている。口も達者なら手も達者、何か筆を使うような時があれば、達者な書道の腕も見せる。演壇に立てば分かりやすく話をし、皆を納得させる。
 ところがやはり寄る年波で、健康にはちょっと問題があり、日に七つの錠剤は欠かせない。彼女のバックには小さなアルミ製の入れ物があり、細かく仕切られてきちんと錠剤が整理されている。
 ご主人は立派な店を経営されていたので、本当は引退される時に一人息子に店を任せようとしたが、息子は全然興味を示さず、商売の才能を持ち合わせてなく、親はがっかりしたそうだ。落胆の末、人を通じて役所に入れてもらい、自分は店をきれいにし、使用人には慰謝料、政府には税金を完納して年金生活に入った。
 ブラジルもここ二十年、経済が不況で倒産が相次ぎ、店を閉める商人が後を立たない。ところが政府がやかましくて店を閉めるのにも相当の金がかかる。そこで夜逃げをしたり、倒産をしたりして商人は自分の名前が汚れるのもかまわずにやっとの思いで年金生活に入り、子供の世話になる人が多い。そんな現状である。その点、ふゆ子さんの亡くなられたご主人は珍しい存在で、皆から褒められた。
 それでも世の中、何もかもがうまくいくというとは限っていない。夫が亡くなってふゆ子さんは日本に一報した。それは二人ともブラジルへ来るまで日本で働いていたので、老後になって年金を貰っていた。日本の役所は折り返し返事をくれて夫のペンソンは貰えるけれども、一人で二つの年金は貰えないことになっているので、ふゆ子さんの年金と夫のペンソンを比較して、多い方だけを今後も続けて払うとの説明だった。
 これは資本主義の日本のやり方で、社会主義のブラジルでは未亡人は夫が死ねば年金の七〇%ぐらいに相当するペンソンと自分の年金も続けて貰えるから、二つの年金で未亡人は悠々と暮らせるようにできている。男は金遣いが荒いが、女性は倹約をするから、だいたいの未亡人は結構、楽に暮らせるということである。だからブラジルは天国だといわれる。仕方がないので、ふゆ子さんは我慢することにした。


木綿雑感

サンパウロ中央老壮会 西沢てい子
 昔洗いざらしの木綿シャツとか敷布やタオル等は、雑巾やおむつに再利用するモノと思っておりました。
 「雑巾のようにぼろぼろになった」とか「雑巾のように汚れて」とか、私には雑巾はあまりきれいなイメージはありませんでした。
 ところがある日、いつも家の中を塵ひとつなく、清潔にして優雅に暮らしているドナ・ベーラの話を聞いて、目から鱗が落ちる思いでした。
 雑巾と言わずパンノ・デ・ションと呼ぶ木綿の袋を開いて、拭き掃除に使う布は、「使用後に真っ白になるまでよく洗うので、使い古した布では無理だ」と教えて下さいました。市販の木綿袋がまだ出回っていなかった頃、パン屋さんで小麦粉を入れてきた五〇キロ入りの空袋を買って来て、カンジダ(=漂白剤)で苦労して漂白して、布巾や雑巾などに縫って使っていました。今はスーパーでも漂白した大小さまざまな掃除用の布巾や雑巾のコーナーがあり、手軽に買うことができます。五、六年前に家の前のフェイラ(市場)でトマトの木箱を寝かせて、その上で十枚ほどのパンノ・デ・ションを売り始めたポルトガル人の小母さんがいました。今では屋根付きの屋台を構えてさまざまな掃除用の布を揃えるほどになりました。大した努力家だと感心しています。
 パンノ・デ・ション専門の卸店があると聞いて、娘がブリュッセル街の一角へ行きました。表向きは質素な店ですが、中へ入ると色々な掃除用の布が束ねて山積みに台に置いてあり、値段も市販の半値以下だったので、ついあれもこれもと要らないものまで袋にいっぱい買って来ました。
 私の所属している教会は二週間に一度七、八人の信者さんが奉仕で室内外の隅々まできれいに掃除して三十枚ほどのパンノ・デ・ションを真っ白に洗って干していきます。ブラジル人は本当に徹底した掃除をします。
 先ごろ訪日した際、日本の従姉に頼まれて、色鮮やかな手描きの絵が描かれ、レースで縁取りした手作りの布巾を三十枚ほど持って行きました。純綿の布巾は今、日本では希少価値だそうです。
 北伯では着色しなくても薄緑、ベージュ色、茶色とかの自然の綿が栽培され、様々な衣料品に応用され、特産物として国内や外国から引っ張りダコだそうです。娘から刺しゅう入りの薄緑のズボンの上下をもらいましたが、不思議なことに夏は涼しく、冬は温かいので重宝しています。木綿のよさをしみじみと肌で感じています。
 次々と新しい洗剤や掃除用材が開発されて迷うほどですが、私の世代はやはり木綿の雑巾が使いやすいものです。欲を言えば、高価なものは別として、庶民が使うパンノ・デ・ションをもう少し体裁よくできないものかと独り言が出てくる今日この頃です。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑨ 松本清張 「社会派推理の創始者」
 戦後の日本文学を代表する作家であるとともに、昭和文学の巨人とも目される松本清張は平成四年に八二才で病気で他界した。九州は小倉市の朝日新聞西部本社に在職中に発表した「ある『小倉日記』伝」で昭和二十七年下半期の芥川賞を獲得、三十一年に新聞社を退社して作家として独立するため一家をあげて上京した。
 昭和三十年代を振り返ってみると、戦前の警察国家的な軍国主義によって抑圧されていた国民のエネルギーが、戦後一〇年を経て経済面にまず現れて急速な工業化を成し遂げ、日本は奇跡的な経済繁栄を謳歌することとなった。工業化に伴って農村の都市集中化に拍車がかかり、特に大都市等の周辺における社会生活の変化は著しく、魅惑的で魅力に富んでいる反面、また極めて不安定で危険に満ちた社会でもあった。正に松本文学の舞台背景にふさわしい時代を迎えたのだ。
 名作「点と線」を発表して一躍文名を馳せたのが五〇才に近いくらいだったのだから、作家としての登場は遅すぎた感じであるが、しかし、世に出てからの松本の文筆活動は獅子奮迅の如き勢いで推理小説をはじめ、時代もの、歴史もの、企業もの、ノンフィクションと精力的に筆を揮ってきた。天性のストーリーテラーとしての才能にも恵まれていたが、四〇才までの不遇の半生は反骨、反権力の精神を育み、創作エネルギーの源ともなっていた。
 その量産ぶりもさることながら、驚嘆すべきは昭和三三年の「点と線」「目の壁」から五十八年の「迷走地図」までの二十六年間に「黒い画集」「ゼロの焦点」「砂の器」「影の地帯」「時間の習俗」「花実のない森」「Dの複合」等をはじめとする二十二作もが、年間ベストセラーのべストテンにあげられているほどの打率を示していることで、ブームとして息が長いことも特徴があり、彼の作品がいかに多くの読者を魅了したかを物語るものであろう。旅行が趣味で日本全国にまたがる地方を舞台に選び、それが作品に幅を持たせるとともに、地方の読者にも歓迎された。
 人気作家として不動の地位を確立してからも、仕事を控えて人生を楽しまれてはどうか、との助言に対しては「冗談じゃないよ。僕は作家になったのが遅かったから、もう残りの時間がない。それなのに書きたいことがまだまだあるんだ」とすごい剣幕だったという。八○才を過ぎても、力量のある新人作家に対しライバル意識を露骨に見せるほどの現役ぶりを維持し、また常に自分の現状に満足しようとせず、功成り名を遂げた安穏な人生などとは生涯無縁で、老年になってからも好奇心旺盛で、人間臭さを捨てなかった。
 ここで、この偉大な国民作家に対して敢えてクレームをつけさせてもらえば、私はこの作家の事件や人生に対する視点の定め方に少なからぬ不満を持っている。自分より幸運な境遇にある者への嫉み、僻みが強過ぎて不快にさせられることが度々ある。確かにプロットを組み立てる上で計算に入れた結果で十分な効果をあげてはいるのだが、こうなると好みの問題で、いわば文学に関する趣向に関わってくるのでどうしょうもない。へそ曲がりな読者としての身勝手な注文なのである。
 もっとも、こういった些細な中傷にはびくともしないほどこの作家の力量は卓越しており、司馬遼太郎と並ぶ国民的作家として君臨していたことは素直に認めざるを得ない。その輝くような経歴の割に文壇との付き合いは薄く、芸術院会員にも選ばれず、文化勲章の対象ともならず、受賞と言えば第一回吉川英治文学賞(昭和四二年)、第十八回菊池寛賞(四五年)朝日賞(平成二年)等のみの無冠の大家で、読者の支持が勲章だったと評されるのも、いかにもこの人にふさわしい讃辞と言えるのかも知れない。


国歌

アチバイア清流クラブ 三木八重子
 以前、派米実習生から聞いた話です。メキシコ人に「メキシコの国歌を歌って下さいませんか?」「いいですよ。歌いましょう」
 いつまでたっても歌わないので、「どうして歌わないのですか?」と聞きますと、「帽子を、とってくれないと歌えません」と。
 とても恥ずかしい思いをしたと言っていました。十年ほど前、ある日本伝統芸能の使節団が来られたときの事、歓迎会の席で両国、国歌演奏で、ブラジルの国歌が流れ出したら、あろう事か、一人の方がサンバを踊りだしました。すぐにやめさせられましたが、ブラジル側の人達は、ヒヤッとしたものです。昨今日本では、国旗、国歌に対しいろいろ問題をかもしていますが、私が小さいころ元旦には、必ず学校へ行き新年の式典に出席し国旗掲揚、国歌斉唱は当たり前の事でした。先生はじめ生徒、誰一人文句言う人などいませんでした。外国に住んでみて、より一層、国旗、国歌が如何に支えになっているかを感じます。国旗、国歌を否定したら、オリンピック、はじめ、あらゆる競技の表彰はどうなるのでしょう? 考えたことありますか?


早起きは三文の…

サンパウロ中央老壮会 佐藤広和
 今朝はサンパウロ市へ買い物です。早起きして五時半に出発しました。まずアグアブランカの農務省で牛の予防薬を購入し、リベルダーデで日本品の購入です。薄暗い道を飛ばしました。国道に入って小一時間も走ったでしょうか?やっと夜も明けてきました。
 あるバナナ園の前へ来ると、いきなり大きな鹿が飛び出してきました。アッと言う間もなく鹿は車の下に入りました。車はゴトンゴトンと軽く音がして、私はすぐに急ブレーキをかけましたが、間にあいません。車からあわてて降りてみると、大きな鹿が横たわっています。即死です。あわてて車に戻り、バックさせました。それから倒れている鹿を積み込むため、足をつかんで持ち上げました。するとザワザワスルスルと何かが私の手を這い上がってきます。よく見ると小さなダニが次から次へと向かってきます。もうびっくり仰天。
 それでもやっと鹿を積み込み、ガソリンポストに車を走らせました。ポストの便所で服を脱ぎ、ダニを払い落しました。
 そのまま無事、サンパウロで買い物を済ませ、飛んで帰りました。家でシャワーを浴びましたところ三か所にゴマつぶのようなダニが六、七匹くっ付いておりました。引っ張っても取れないので、まずは鹿をそのまま車から降ろして使用人に皮を剥がさせ、肉を骨からはずして、全部きれいに片付けました。その後、我が胃袋に納まったその肉の美味しかったこと。ほっぺが落ちそうでした。
 さてその夜、布団が温まった所でまた痒みがやってきました。三か所がものすごく痒いのです。もう、かいてかいてかきまくりました。次の朝早く、大急ぎで薬局へ行きました。薬局の主人は「このダニの薬はないから、タバコの葉でも付けておけば、一週間もしたらそのうち一人でに落ちるから…」というのです。私はかゆみ止めの薬だけをとりあえず貰ってきました。それから毎夜、気が狂うような痒みに悩まされましたが、薬局の主人が言うようにちょうど七日目には一匹残らずどこかへ消えておりました。まったくその痒みは言葉にも表せないものでした。
 さて、あのダニは一体どこへ行ってしまったのでしょう。聞くところによると、動物に寄生しているダニは主人が死ぬとすぐ新しい主人に取り付くそうですが…。


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