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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2008年2月号

2008年2月号 (2008/02/20) 成戸正勝氏の死を悼んで

カンポグランデ老壮会 上坊寺祐信
 二十年余りの長きに亘ってブラジル日系社会の言論界に重きをなしてきた成戸正勝氏が忽然として昇天されました。
 最近は少し顔が腫れたような感じでしたが、本人は至極元気で、好きなウイスキーをちびりちびりと飲んで「このわしは、まだまだ五年ぐらいは生きるつもりだ」と真顔で言っておりましたが、去る二〇〇七年十二月三十日午後五時、急に容態が変わり、家族たちに見守られながら八十四歳の天命を全うされました。葬儀に際しては三人の孫たちが棺を囲んで号泣していたのが印象的でした。よほど家庭では好々爺だったのでしょう。
 成戸氏は極端なる無神論者で、「この世には神様なんかいるもんか。だいたいこの俺は神様なんか見たことも会ったこともない」と言って、神様の存在を否定していた人でした。
 このたび急に昇天され、今ごろは天上界であれーと苦笑しているかもしれません。ともあれカンポグランデ市の日系社会では、偉大なる指導者を失って、大きな損失だと思いますが、致し方もありません。常に大阪人の誇りを持って生き抜いてきた成戸氏の冥福を祈って筆を置きます。


【遺稿】 陽気な未亡人(七)

カンポグランデ老壮会 成戸朗居
 なみ子さんは日本への出稼ぎの経験は六回に達しているベテランである。帰って来る度に勇気百倍。次の出稼ぎを計画する。「楽しくて堪らない」と白状する。何よりも月給を貰うときの嬉しさ。手にしたときの感動は堪えられない。この嬉しさを味わうために、何度も出稼ぎに行くのだとも言えそうである。
 なみ子さんのこ主入は数年前に亡くなられた。田舎の百姓でかなり成功されて町に出て、市の中心地に大きな店舗を開け、繁盛しておられたが、一人息子が「何か変わった事業をしたい」と言い、銀行からの融資で積極的に始めたのは良いが、事志と違い、うまくいかずに破産に追い込まれ、ご主人は息子の尻拭いをする始末で、店を整理して借金を払ったら何も残らず、貸家三軒だけの家賃で喰っていかねばならない状態に追い込まれ、それも家賃が滞りがちの状態で、月々の生活費にも困る苦しい生活を強いられることになり、追い討ちを掛けるようにご主人が亡くなられ、とうとう奥さんは日本への出稼ぎという始末に追い込まれた。
楽天的な、そして陽気ななみ子さんは、カラオケからゲートボール、釣りが大好きで、機会があれば連れ立って河に出掛ける。喰いきれないときには皆に配って歩く。彼女の釣ってくるパクーの刺身には臭みがなく、友人たちは皆楽しみにして待っているような状態である。たまにはドラードも釣ってくるから、相当な釣り名人といえる。
 ところがゲートボールではとても静かである。どこに居るか分からない。と言うのは、どこのゲートボールのクラブでも、意地悪な女性が居る。ちょっとの事で人をつついたり、皮肉を言ったり、教える癖のある頭の高い婦人が居るから、なみ子さんは口をきかない。馬耳東風と聞き流す。右の耳から左の耳へと通り過ぎるままにする。
 なみ予さんの悩みは孫が居ないことである。自由気儘に育てた一人息子は結婚をしようとしない。大きな家に二人で住んでいるので、時々淋しく思うがどうしようもない。中年の息子には恋人が居るだろうと想像するが、そのことを聞く勇気もない。
 最近、また日本に出稼ぎに行こうかと考え始めている。日本にはいつ行っても仕事はある。自分が行くのを待っている会社に事欠かない。日本での生活は楽しい。友人知人は大勢居る。またどっさり金を持つて帰ろうかとも考えるが、息子のことが気掛かりである。一人置いて日本へ行くのが気が引ける。
彼女は今日も新車を使ってゲートボールに出掛ける。途中で友人の家に寄って乗せて、颯爽と大通りを飛ばす。


年末年始の旅行「豪華客船の旅」

JICAシニアボランティア 貞弘昌理
豪華客船お土産.jpg
お土産に買ったお気に入りのビキニ女姓の缶ビールの取っ手
 初めて外国での年末年始を迎えて、二つの旅行に行った。
 一つは豪華客船の旅。もう一つは最南端の旅だ。仲間六人が一緒で、もう行く前からワクワクドキドキ。どんな楽しい旅になるだろうと、期待に胸を膨らませた。
 先ずは豪華客船。何しろ従業員も合わせると三千人が乗り込む船が二隻。サントス港に停泊している。その名の通り豪華で、見上げるような大きさだ。
 乗り込む前からハプニングが起きた。説明された通りに動いたのに、乗り場が違っていて、違う船の順番に並んでいた。文句を言っても始まらない。諦めて正規の場所に移動して、また、順番を待った。
 乗り込んでみると、何という大きさ。客室の前の廊下が、約三百m。前を見ても後ろを見ても真っ直ぐ。食堂や劇場やプールに行く階段が前後にあり、十四階。屋上まであるので、どこから行くのか、最後まで覚えられなくて、その度にうろうろした。
 女性と部屋を交代した。我々男性二人は一ランク下の部屋に泊まった。女性四人は二人ずつ、いい部屋にしてあげようと思ってしたこと。ところが、これが後に警察騒ぎになろうとは……。
 事務員が来て、我々の氏名と「この部屋の人はどこか?」と聞く。次に女性警官が来た。つまり、申し込みと違う人が泊まっているので、乗船券を盗んだと間違えられたようだ。
 それにしても、男二人のWベットはつまらなかった。
 ディナーの場所と時間が、二人ずつ違っていたのにも困った。一緒に申し込んだのに同じテーブルにつけないとは、何と不親切な。いや、ここは日本じゃないんだ。でも、最後には半ば強引に、何とか同じテーブルに着くことが出来た。
 あちこちでいろんな催しをやっている。屋上のプールには泳ぐ人よりも肌を焼く人がほとんど。女性は超ビキニ、どんなスタイルの人もどんな年齢の人も、みんなビキニ。ワンピースなんて着る方が恥ずかしい。プールサイドでは、ずっとゲームや踊りをやっていた。
 わからんね 日焼け止めして 肌を焼く
 他の場所でも、劇場で歌謡ショーとかホールではダンス・パーティーとか、切れ目なくお客さんを退屈させないようにプログラミングされていた。夜のディナーは船長主催のパーティーや従業員の国別紹介等で楽しませてくれた。十二月二十三日、「ボッー」という出航の合図と共に、サントス港を離れた。
…「船は出て行く煙は残る。」…
 二日目のリオには、残念ながら我々JICA組は、来伯六か月間、治安上禁止のため、下船できなかった。船からはキリスト像も見えたので、ま、いっか。三日目の海上停泊中は、クリスマスパーティー等、色々な行事に参加した。四日目のポートベルには、下船してみんなで観光、ショッピングを楽しんだ。
 五日目はイルハベラで海水浴。救命ボートに乗り移り、地元の船に乗り換えて海水浴場へ。ゴムボートに乗り換えて砂浜へ。しまった。水着を持って来るんだった。ツアー会社の超ビキニの女性、ゴムボートなんかには乗らず、船から飛び込んだ。カッコいい…。
 超ビキニ 鼻下伸ばし よだれ出し
 六日目にサントス港に帰ってきたが、下船前「あの人はA型だ、あの人は絶対にB型だ。え~A型、これは驚き」と、血液型の話が弾んだ。楽しい旅だった。


コロノ時代の思い出話

アチバイア清流クラブ 纐纈久雄
 私たち約九百人のブラジル移民を乗せたブエノス・アイレス丸はインド洋回りで一九三七年(昭和十二年)九月四日朝、サントスに入港し、同日夕方サンパウロ移民収容所に着きました。
 私等一家は同じ北海道四家族と山形一家族の五家族がパウリスタ線サンマルチーニョ耕地に配耕されていて、出迎えに来ていた耕地の通訳の案内で、同耕地内のコロニア・サンタ・ベリジアーナに用意されてあった住宅に五家族が着いたのが九月十日午後五時ごろでした。
 翌日は休み、十二日仕事の手始めに一日カフェザール(コーヒー園)の山散し(コーヒーをとる前に樹下の雑草、ゴミを畝の間に盛り上げておき、コーヒーを収穫してから肥料になるように散らすこと)をすることになった。朝から五家族で働ける総勢二十三名が山散しに使うロードという道具を受け取り、監督と通訳に連れられてコロニアの前のカフェザールで一斉に山散しを始めました。
 カフェザールは雑草が腰の高さになっていましたが、各自、元気を出して競争で仕事を進めました。受け持った一人百本が早く終わった男たちは遅れている女子供を手伝って午後六時過ぎまでに全部の山散しが終わりました。この仕事ぶりを見ていた監督が驚いたそうです。山散し一人百本は一人前のカマラーダ(日雇)の一日分の仕事だそうですから、監督が驚くはずです。
 十三日は、五家族の家長たちと監督、通訳がコロニアより五キロ余り離れたカフェザールへ来て、一農年受け持つカフェーの本数を普通より多めに決めて契約書が出来上がりました。カフェーの収穫が終わるまでの一農年の仕事が始りました。朝は鐘の合図で起こされ、現場へ持っていく荷物を家族が分けて持ち、次の鐘の合図で出発。五キロ余りの道を歩いていき、仕事をし、夕方にはまた同じ道を歩いて帰る。こうしたカフェザール通いを五家族共に一農年続けました。カフェザールのコロノという仕事はかなりの重労働でしたが、私等五家族はいずれも長年の農業経験者だったので、よく働いて、コロノ契約も翌三八年の八月半ば過ぎに終わり、その結果、総決算で五家族共に相当な余剰金があったようでした。
 そのころ耕地で採算の取れない古いカフェーの木を抜いて、アラード(鋤)を掛けて綿を蒔く有利なコロノ契約があるから、私等五家族に「どうか」という話が通訳を通してありました。コロニアからも近いので、既に行く先が決まっていていた一家族を除いて、私等四家族はもう一農年、綿のコロノ契約をすることになりました。
 この年九月中頃、同じコロニアに別の新移民が五家族着きました。その人たちは大阪市やその付近の都市出身の方々で非農業者ばかりでした。戦前のブラジル・コロノ契約移民の資格条件の中に、一家族構成は十二歳以上五十歳未満の働ける者が三人以上いること。十年以上の農業経験家族であることなどが明記してあり、そのことは出身地の市町村が証明書を発給していました。この証明書を都市出身の家族にも発給し、農業移民として渡伯させていたようです。
 この年も仕事の手始めに昨年と同じコロニアの前のカフェザールの山散しをさせたそうです。五家族で働き手は十六人。夕方まで働いて山散しは一人平均二十八本だったそうで、去年は一人平均百本ですから、この年は前の年の三分の一にも達しなかったそうです。これは農業家族と非農業家族の労働力の差となります。
 この年の五家族も昨年と同じ条件で契約書ができて仕事を始めたのですが、あの労働力では草取りなどが遅れてしまい、草が伸びるとカマラーダを入れるので、一農年が終わって総決算をしても五家族共に借金が残ってしまい持って来た手持ちの金でそれぞれが借金を払って、耕地から移転して行ったそうです。
 一方、私等四家族が綿のコロノ契約をした一農年は、条件が良かったので、相当な利益を得て、各々が日系集団地へ移転して行きました。
 この思い出話で、戦前のころの契約移民の中で、農村出身者と都市出身者の労働力の差がコロノ生活の明暗を分けていることが分かります。手持ちの金で決済ができればいい方ですが、決済ができなかった場合はこの生活を続けるしかありません。しかし続けても、借金を返せるめどは立たず、借金が増えるばかりですし、耕地側も借金が払えないコロノの家族へも最低限の生活費を出さねばならないため、双方が困ることになって、いつしか借金を踏み倒して逃げ出すことになります。これが戦前のカフェザールのコロノ契約移民の間に起った『夜逃げ』ですが、夜逃げしたほとんどが農業経験のない都市移民ではなかったかと思います。もしそうだとすれば、都市中心の家族にも「十年以上の農業家族である」という証明書を出して農業移民として移住させた日本側に責任があります。また、こうした移民を受け入れたブラジル側にも迷惑をかけています。しかしブラジルにおいて、この問題で日本側の責任を追及したという話は聞いたことがありません。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑪ 川端康成 「日本初のノーベル文学賞作家」
 明治以来、自らの命を絶った日本文学者の数は決して少なくない。主な例でも北村透谷、生田春月、川上眉山、有島武郎、芥川龍之介、牧野信一、太宰治、田中英光、原民喜、加藤道夫、火野葦平、三島由紀夫、それに近年では川端康成がある。
 川端文学の愛読者かと問われれば、素直には頷けない気がする。作品の中には好もしいのがあることに疑問の余地はないのだが。生まれて間もなく父母と死別、唯一の肉親だった姉も幼い頃亡くなり、その後祖母、祖父を亡くして十六才で孤児となった川端の生い立ちは広く知られていることだが、この境遇は当然彼の人生観に深い影響をもたらしたであろうし、また少年期に古典に深く親しんだ結果、王朝文学の美意識を受け継ぐとともに、その作風は東洋独特の虚無思想にまで昇華されていく。この人の特質である生と死に対する鋭い感覚、特にこの世を空なるものと見、霊の世界に踏み入ろうとした、所謂〝末期の眼〟で写し取ったものの中には、私などにはとてもついていけないところも多いのである。
 例えば「美しさと哀しみと」の妖しい頽廃美の世界、「眠れる美女」のデカダンで異様なエロチズムの幻想、「みづうみ」の不安定で暗い情念、それに己を含めての人間嫌悪の漂う「禽獣」等はどうしても好きになれない。「千羽鶴」では多分に嫌らしさのまさったところが気になる。
 川端の声価を決定的なものとし、近代文学でも優れた香り高い青春文学として知られる「伊豆の踊子」にはその類い稀な資質に敬意を表するものだが、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」という、あの余りに有名なイントロで始まる「雪国」にも惹かれる。
 「山の音」も日本の家庭の老人と嫁とのこまやかな交流を描いて名状しがたい哀しみにひたされる佳作である。「舞姫」「日も月も」「虹いくたび」「女であること」「東京の人」「川のある下町の話」「古都」などの風俗小説も味があって酔わされてしまう。作者自身も気に入っていたらしい「掌の小説」は今でいうショート・ショートだが、いわば散文の俳句とも解釈出来るもので、極めてユニークな創作集といえる。美に対する鋭敏な感覚の持主だった彼は、卓越した批評眼をも併せ持ち、数多くの才能ある新人の発掘につとめ、この人によって見出された作家も多い。
 日本の作家でノーベル文学賞の下馬評にのぼったのは他に谷崎潤一郎、三島由紀夫、井上靖等があるが、一九六八年に川端康成が初めて受賞、日本文学が世界からようやく認められるという画期的な出来事となった。近代百年の日本文学が、他の芸術もほぼ同様であるが、西洋化を目指してきたのに対し、西洋が日本に求めているのは逆のもの、即ち個性と伝統との合一が生んだ美こそが普遍性に到達しているのだ、ということだろう。それにしても、海外で高い評価を得ている日本人作家が谷崎、川端、三島など、日本的な美意識の持主であるという事実は注目されてもいいだろう。
 ノーベル文学賞受賞後の川端は、使命感でも感じたかのように精力的なペン・クラブ活動に終始し、国際親善につとめた。
 なお、一九六〇年七月、リオ・デ・ジャネイロ市で開催された国際ペン大会に参加、三浦朱門・曽野綾子夫妻等と訪伯している。
 川端は一九七二年、仕事部屋で突然ガス自殺、七二才の生涯を閉じた。(なお、一九九四年には大江健三郎が川端に続いて二人目のノーベル文学賞受賞者となった)。


パン男

ジュンジャイ睦会 長山豊恵
 私の友達の娘さんは陶器の焼き物をしている。「一月十日にサンパウロのアヴェニーダパウリスタの美術館マスピでジャンタールがあるから行きませんか」と誘われた。詳しい事は知らないまま行くことにした。女ばかりという事で、老婦人が十人バンに乗って出かけた。「バンデランテス街道は自動車が多くて混むから少し早めに行きましょう」と夕方四時に出発した。しかし、思ったより車が少なくて早々と着いてしまった。
 案内の娘さんが「しばらくこちらでお待ちください」とちょっと照明の薄暗い部屋に案内してくれた。一行はそこのイスに座って待っていると、お客さんがポツリポツリと増えてきた。部屋も明るくなってきた。
 カメラマンが四、五人入ってきて、あちこち写真をうつしていると、突然「エーエー」とにこやかに手を振りながら一人の男性が入ってきた。白髪混じりの長い髪を無造作に後ろで結んだ有名なパン男「オリモトタツミ」氏であった。
 「僕のお母さんは八十八歳です。体が弱っているため、今回一緒には来られませんでしたがその代わり貴女達をお母さんと思って、僕がお給仕をさせてもらおうとお招きしました」と言いながら「皆さん、おいで、おいで、僕の後ろを着いていらしゃい」とさっさと車椅子で来ていた百歳のおばあちゃんの車を自ら押してメーザまで連れて行って座らせてくれた。
 「今年はブラジル日本移民百周年という年にあたり、移民の足跡を振り返り、貴女方を僕のお母さんと思い、ささやかながらもその当時を思い出しながらお給仕させてもらいます」と、一人一人にご馳走をお盆にのせて運んできた。
 友達の娘さんが焼いたりっぱな焼き物のお皿に盛り付けられた、これも見事なご馳走だった。
 有名な芸術家それも男の方にお給仕をしてもらうのは初めてで、思わず手を合わすと「おがまんでもよろしい」とポンと肩をたたかれた。
 箸を手に取ると一斉に大勢のカメラマン達がカメラを向けてきた。生まれて初めて大勢のカメラマンに囲まれてぎこちなく食事をした。顔の横まで来てお茶碗の中の小豆混じりのごはんまで写していた。ふと横を見るとお偉方の男性方が外側に立って私たちの食べるのを見ていた。
 夕食が済むと彼はみんなを呼び、何千枚と並べてある母親の写真を説明しながら歩いていく。その後ろをカメラマンが後になり先になりと写して行く。ぐるっと一回りして下に下りるとタイヤを首にかけた彼の母親の大きな写真があった。
 その前にパンが並べてあった。彼は一人の女性にパンを結びつけて、自分も顔にパンをいくつか結びつけた。「さあ、さぁ、みんなこっちへおいで、僕のお母さんの前で最後の写真を写そう」とタイヤを首に掛けた母親の写真の前に並ばせて記念写真を写し、お別れとなった。


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