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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2008年3月号

2008年3月号 (2008/03/08) 断食

パルケ・コンチネンタル寿会 山本茂
 十七歳の春のことだった。普段風邪ひとつひいた事のない母がずっとぐずぐずと元気のない日が続いた。病名も分からず、心配のあまり父母が信仰していた天理教に三日三晩の断食の願を掛けて病気の快癒を祈った。
 一日目は空腹の苦しさに腹の虫が騒ぎどうにもならなかったが、二日目には頭も爽やかになり苦痛は感じなくなった。しかし、問題は体力だ。断食を始めたからといって仕事は休むわけにはいかず、雇い人と一緒に先になって草取りをする。
 四十度の暑さの中の重労働だ。何も食べていない体はゴチゴチと音がするように感じ,体全体が痛みを伴い、まるで自分の体でないような気がする。力が出ない。食べ物の有難さが身に沁みる。こんな事で挫折してはならない。神に誓ったのだから。誰にも言えず、天を仰ぎ歯を食いしばってただ一筋神を信じて耐えるのみ。地獄の苦しみとはこのような事を言うのか。
 最後の三日目が来た。食事時、お昼時を避けていたが遂に母に見つかってしまった。「お前、茂体でも悪いのかねぇ。この二、三日昼も夜もお前が食べるのを見ていないが、顔色も悪いしどうしたのかね」と問いかけてきた。
 それもそのはず、三日三晩水だけで過ごし、米の一粒も口にせず、休まずに働いてきたのだ。なんぼ丈夫な体でも綿のように疲れ、頬はげっそりとこけ病人のような顔だったのでしょう。
 このやさしい母の言葉にもう隠すことは出来ない。「お母さん、この三日三晩一口の食事もしておりません。食べられないのです」「なぜだね」「僕はお母さんの病気が早く良くなるように、天理の神様に三日三晩の断食の願を掛けたのです。一粒のご飯も口に入れられません。」これを聞いた母は僕に抱きついて「ごめん、茂。知らなかった。この二、三日お前は私に触れないようにしていたので、今まで気づかなかった、許して頂戴」と泣きながら喜んでくれた。
 この母の喜ぶ顔を見て、「あぁ、よかった。お母さんはこんなに喜んでくれた」と三日三晩の苦しみも消えた。そして母は「頼むから今日は働きに行くのはやめて休みなさい。とてもその体では無理だから」と言った。このやさしい母の言葉に涙にむせびつつ午後は仕事を休むことにした。水風呂に入って体を清め神に母の快方を祈り休んだ。
 あくる日、母は朝早く起き出し韮と卵のおかゆを作ってくれた。このおかゆのうまかった事、未だに忘れない。
 その後、母の病気は肋間神経痛と診断され快方に向かった。
 今でもあの三日三晩の断食行の苦しさ、涙をいっぱいうかべた母親の笑顔が忘れられない。あの泣き笑いの母を思い出すたび少しは親孝行ができたかなあと思っている。


年末年始の旅行「最南端の旅」

JICAシニアボランティア 貞弘昌理
 まだ船のゆったりした揺れが体に残っている。
 団体に子供連れがいる。子供の声が聞こえるのは、いいね~。
 一日目 まず、カミニートで写真・見学・ショッピング。あちらこちらで生演奏・踊り(もちろんタンゴ)がある。踊り子が十五ペソで三枚、一緒にポーズをとって記念撮影してくれる。記念にパチリとにやけた顔で。
 夜は、希望者でタンゴショーに行った。すごい、激しい、切れが良い。初めて見る本格的なタンゴ、一番前のかぶりつきで見たが、興奮した。帰りを予約していたタクシーが来なくて、仕方なく流しに乗ったが、ホテルに帰れるか、不安だった。
* ブエノスの血肉たぎらすタンゴショー
 二日目 空港の待ち時間に子供たちからレクリエーションの指導を受けた。寒い時にやるリズミカルな動きで、面白かった。機会があれば、老人クラブで使ってみよう。ペンギンを見に行ったがバスで二時間。真平らな地形で三六〇度地平線。こんな暖かいところでペンギンを見るとは思わなかった。同僚がペンギンの光景を面白おかしく話していた。
 「オスがどんどん先に行くので、メスが追いかけて『あなた、待って待って』二本足では追いつかなくて、最後には腹ですべって…」と大笑い。
* ペンギンの子育て父母は口移し
* パタゴニア見渡す限り地平線
 恐竜博物館。高さ十m~十二mで百t、世界最大の恐竜の化石。本当にでかい。
 夜は大晦日のため閉店していると聞いて、スーパーで買い物、ホテルの庭で乾杯した。
 そして、午前〇時と同時にあちらこちらで花火が上がりだした。初めて迎えた外国でのお正月だ。盛大にボンボンやってくれ。
* マドリンの花火で祝うお正月
 三日目 アザラシを見た。象アザラシのオスがいなくてメスだけ。強いのは百匹のメスを従える。羨ましい限り。シーライオンはオスもいた。体の大きさはメスの六倍。メス五百kg、オス三t。
* 悠々とシーライオンは日向ぼこ
 妻の前で小さくなっている自分とは違い、ペンギンもアザラシも胸を張って威張っている。
 今日は一月一日、昨日に続いてホテルの庭で食事をした。この二日間、夕食は豪華に安く、腹いっぱい食べて飲んで、良い年末年始だった。
 四日目 空港へ行く途中、バス中から日の出を見た。
* 地平線トレレウで見る初日の出
 二日だから初日ではないが、ま、いっか。
 船で大氷河に近づいた。すごい大音響と共に氷河が崩れる。水しぶきが上がる。大津波が押し寄せる。次第に治まっていく。また大音響、どこだどこだ、今度は氷のきしむ音だ。
* 大氷河崩落の波大津波
 標高七十m、水面下百二十m、光の屈折でブルーがきれい。神秘的。陸からも見た大氷河。
* 大氷河神秘のブルーに魅せられて
 ホテルで、二十二時に風呂に入ったが、外は明るかった。白夜だ。
 五日目 アルゼンチンよ、さようなら。二つの湖が見える。Arzentino湖とViedma湖。今日の午後と明日の午前はショッピング等自由時間。それよりもう一度氷河を見たかった。
 夜はタンゴショー。前回の方が良かった?いや、踊り子が若いだルの曲は違う。「振られたけど、まだ百人いるさ」と明るい。
 六日目 午前中、自由時間。町へ出ると、交差点で外国人が女の子にお金をせがまれて困っていた。一人の子にあげたので、もう一人の子が「私にもくれ、ポルファボール」泣きながら要求。演技なのかどうかは分からないが…。一人の子が傍に寄って来て、自分の左手をつつきだした。関わりたくないので知らん顔をしていた。信号が変わったので、これ幸いと急いで離れた。やれやれ。
 この年末年始は、クリスマス豪華客船、お正月アルゼンチンと、とても贅沢な旅だった。見るもの聞くもの初めてで、とても面白かった。仲間と一緒で、楽しかった。また、アルゼンチンにもファベーラのあることを知った。おしゃれな国に見える国でも、恥部はあるもんだ。ただ、ブラジルのように檻の中の生活とは違って、明るく開放的に思えた。町並みも、店も並んでいるものも、みんなおしゃれに見えた。檻がないだけでも良い。ブラジルはもっと治安が良くなって、檻が不要になることを願っている。


偽りの時代

サンパウロ中央老壮会 星野幸次郎
 二〇〇七年を象徴する漢字として「偽」という字が選ばれた。
 日本の偽装時代が表面化したのは建築の構造計算の改ざんが発覚されてからと思われる。自分の生活を守るため偽装に走った心情は、同様の職業に関係していた者として同情も出来るが、豚肉を牛肉と偽って出荷するのと違い、多数の生命が危険にさらされる一大事であり、何故もっと早く自分の良心に目覚めなかったのかと悔まれる。
 この建築の偽装に対処すべく、建築基準法が改訂されチェックが更に厳重になり、この為に住宅などの工事着工数が急速に低下して、日本・全体の景気の足かせとなっているようだ。我々の住むブラジルではどうかと言うと、時々は太平洋沿岸で起きる地震の影響で、小さな被害をこうむることはあっても、統計上地震皆無のこの国では、建築の確認申請に構造計算書の提出は、義務付けられてはいない。
 さて偽装といっても色々あるが、近年日本でマスコミを賑わしたものにライブドア、コムスン、古紙問題など、食品関係ではミートホープ、比内地鶏、吉兆等など実に多くのメーカーが槍玉にあげられている。この様に、内容物や、消費期限の偽装が相次いで発覚し、日本人の八割以上の人が、不信感で神経をとがらしており、経営者や当事者のモラルが問われているという。
 では私たちの住むブラジルでは、食品の偽装は行われていないのだろうか? 我々消費者は、包装に表示してある生産日と賞味有効期限を見て判断するより他に方法は無いのだが、更に目や鼻を充分に活用する必要があるようだ。
 ブラジルでは昔から横行していた、公金横領、わいろ、不正会計、年金偽装などが近年少しずつ問題になりだしてはいるが、莫大な不浄金が、何時の間にか清浄な金に化けて、海外の銀行に預金されていたりする。更に不思議なことに、こんな連中は罪が発覚しても何とかするりするりと言い逃れ、政界に立候補するとこれを支持する連中もわんさといるということである。
 罪悪に無神経なブラジル人の精神構造=免罰主義(イムプニダーデ)が改革され、国が本当に繁栄する時代が果たして到来するのであろうか。


そよ風

ツパン寿会 林ヨシエ
 一月十日朝が来た。新しい日の始まり。
 空は清らかに晴れ渡り、窓を開ければ涼しいそよ風が吹き込んでやさしく頬を撫でて通り抜ける。何とも言われぬ清々しい気持ちになる。
 朝の空気は実にうまい。立ち上がって窓辺により深呼吸をする。空には一点の雲もなし。「こんなに、こんなに幸せな日々を送っていて、どうしてもっと元気になれないの」窓から吹き込むそよ風は、やさしく私に何かを伝えるかのようだ。
 「がんばって早く元気にならなくては」…と。
 毎朝窓を開ければ一番先に目にするのは、隣家の塀越しに見ゆるザクロだ。
 赤いいくつかの実、毎日毎日もう何年も私の目を楽しませてくれた。ザクロは私に始めての短歌をいくっも作らせてくれた。私にとっては本当にご縁の深い木である事に今朝初めて気がついた。有難う、お礼を言います。
私は人様にも周りのすべての物にも、充分に感謝の気持ちを持っていたと思っていたが、こんなに深い思いを感じたのは今朝が始めて。そよ風さんにつくづくと教えられました。そよ風さん有難う。
 十日は過ぎ、十一日の朝が来た。
 今朝はすごい曇り空。今にも降ってきそうな空模様。
 昨日のようなそよ風は部屋の中には入ってこない。隣家の椰子の葉はユラユラ揺れて外はしきりに吹いているようだが…昨日よくよく語ったから今日はお休みかな…。
 今「しなあー、しなあー」と吹き込んで来たようだ。かすかに窓ののれんが動いている。無言のままで宜しいです。私はそよ風さんの吹きようで判じます。
 「アッラ」今吹き込んだそよ風さんは、珍しく私の頭を撫でて通った。
 「それでいいんだよ、と言わぬばかりに」


【遺稿】 陽気な未亡人(八)

カンポグランデ老壮会 成戸朗居
 るみ子さんは一年程前にご主人を亡くされた。それまではゲートボールを欠かさずにいつもコートに来ておられたが、一年間、ピタッと来るのを止められた。彼女は主将を努めておられたから、チームは困ったが仕方がない。夫の喪に服されたのである。
 二世であっても、夫の死後、家の外での催しごとに顔を出すのを遠慮されたのであろう。こういう習慣はだんだんと廃れていくものと思われるが、昔かたぎの人たちがかたくなに守っているのを、勝手に批判するのは、私的権利の侵害である。
 るみ子さんは二世であっても日伯両語に達者で、色々な団体の役員として社会で活躍されている。何事にも常に先頭に立って、指揮される積極さを持っておられて、皆から頼りにされる存在である。それでいて他人の意見をよく容れる度量をも兼ね備えている、数少ない人望の持ち主であるから、人から敬愛されるのだろう。
 ご主人は立派な工場を持っておられて、行く行くは悠々自適の老後を楽しみにしておられたのであるが、ある時期が来て、息子さんに工場の経営を一切任される決心をされた。だが、息子さんは学校は出ておられたが、実務の経験にいささか欠けておられたようである。
 工場の経営は息子さんの思うようにはならず、とうとう工場は潰れてしまった。ご主人はその後、金貸しなどをして、やりくりをしながらの生活を送られたようである。自信満々の人だったから、政府の厄介にはならないと、社会福祉基金の積み立ては全然していなかったので、社会福祉年金の恩典は無い。
 けな気なるみ子さんはくじけないで、常に笑みをたたえながら、夫の死後の家庭を守り立てながら、社会活動にも精を出して、町中を飛び回っている。市役所の老人部にも籍を置いて、責任ある役職にも名を連ね、貧困家庭や孤独な老人家庭に経済援助にも、彼女は欠かさず先に立って活動している。それが彼女の生き甲斐なのである。
 最近、彼女は子供の一人が出稼ぎに行っている日本を訪問して、すっかり日本に惚れ込み、ブラジル人や日本人を問わず、会う人毎に、日本や日本人の宣伝をして廻っている。
 日本から帰ってからは、NHKのドラマに就ききりで、ドラマのすじを始めから終わりまで、詳しく友人に語るのがるみ子さんの楽しみの一つになっている。
 この頃、彼女は死んだ夫が日本に行かないままに死んだのを非常に悔やんでいる。「死ぬ前に日本を見せてやりたかった」と嘆くのである。子供たちにも「是非日本を見て来い」と勧めている。


桃太郎伝説

サンパウロ中央老壮会 栢野桂山
 僕の通った小学校。岡山県の阿曽尋常小学校であるが、通ったのは五年生までで、父母に連れられて渡伯したのは十二歳の時だった。
 僕は今年卆寿を迎えるが、最近頓に物忘れがひどくなり、昨日の事さえ忘却することが度々であるが、十二歳の頃の記憶は意外に忘れていないので、今のうちに書き留めておきたいと想う。
 僕の生れた村のすぐ近くの所に「城山」があって、豊かな緑に続いて、峨々とした「岩山」がある。その一帯に「温羅(うら)」という鬼が棲み付き「余は百済の王なり」と称えたという。
 百済は四世紀頃の朝鮮の一部の古名で、韓族ではなく北方の中国より移住し、中国の南朝文化を伝承したが、六世紀頃に亡び、多くが日本に亡命したとの謂れがあり、それが温羅である。
 はじめこの一族は、日向(今の宮城県)に流れ着いたが、逐次、温暖で豊穣な吉備平野、すなわち僕の生れた総社市の字の久米(くめ)の裏山に城郭を築いて棲み付き、食料や女を獲ったり悪行を重ねた。
 古代吉備には鉄が産したので、その頃すでに鋳造技術を持っていた彼らは武器、農具、鍋釜などを作ったりして、一方では業績も残したりした。
 さて、その鬼の城山の麓に大きな「鬼の釜」が御幣を張ったみ堂に祀ってあり、錆びて底が抜けていた。彼らは共同生活にその釜で煮炊きをしたものらしい。
 その温羅を退治したのが、第七代孝霊天皇の皇子の吉備津彦命であった。
戦いは壮烈を極めたが、正義が勝ち、首領の鬼が鯉に化けて、鬼が棲み付いた山から流れ出た川を下って、逃れんとしたのを鵜に化けた命が喰い上げて退治した。
 その折、鵜に敗れた鬼が流した血潮が川を染めたのが「血吸川」で、僕が通った阿曽小学校のすぐ近くを流れている。
 その川原に大小碁石ほどの「血吸石」があり、唾で湿らせて唇に付けると、ぴたりとくっついて放れない。僕らは休暇時間によく見つけてその数を自慢しあって、よく勉強を怠けた。
 温羅を退治した命を祭った吉備神社は比翼母屋造と言われ、吉凶の占いとして「鳴釜」の神事が名高い。
 その血吸川の少し下流に「矢喰宮」があることは、村の氏神様の神主からよく聞かされたが、小学生だった頃には興味がなく、訪ねたことはなかった。
 渡伯して五十余年ぶりに訪日した時、懐かしい阿曽小学校を訪問して、よく遊んだ血吸川に行ったが、両岸はコンクリートで固められていて、血吸石のあった川原は無く、流れも細々として川原を飾っていた草花も見られずがっかりしたことを今も思い出す。
 その序に「矢喰宮」を訪ねたが、稲の植えつけ前の広々とした田圃の中に生垣があって、ぽつんと小さなお宮が風雨に晒されて建っている。これは太古川筋が変り、血吸川から放れて吉備平野の中ほどになったもの。
 そのお宮の広場に累々と百キロ近くの岩が何個も重なり合っている。これが吉備津彦命の射た竹の矢と、鬼が投げた石とが喰い合って落下したものと謂われている。
 鋳造技術を持っていた彼らは、薄い鉄板をバネとして、これらの岩を飛ばしたという。その折の命の竹矢とが地中に刺さり、それから芽を出しのたが「逆さ竹」と謂れ、普通は節々の上から枝を出すのが、節の下から枝葉をのばすので、そう命名されたと、これも神主から教わった。
 だが、どこを探してもその逆さ竹は無く、謂れが残っているのみだった。
 血吸川と矢喰の宮を訪ねたあと、僕の父従兄弟の栢野まさる君、戦傷で働けないという彼の案内で、僕ら夫婦は鬼の棲んだ城山に登った。
 その途中にある鬼の釜を五十余年ぶりに再び拝見したが、この辺りは「吉備史跡県立自然公園」に指定されていて「造山古墳」「こうもり古墳」などがある。
 昔、小学生の頃、この辺りの山に松茸狩りによく来た覚えがあり、松林や小川などの記憶を辿りながら、鬼の築いたという城壁らしい石垣の上に立った。
 鬼が棲んだ城や屋形の跡など現在では辺りに無く、眼下に十二歳まで住んだ部落の道や氏神様の森、夏休みによく泳いだ大池やその土手など春霞の中に見えて、涙がこぼれるほど懐かしかった。
 司馬遼太郎によると、温羅が征伐された後、吉備津彦命の慈悲によりその残りの一族は許されて、帰化人として周辺に土着したという。彼等は当時の大和族より文明が進んでいて、鋳造技術、農耕、織物、陶器造りなどについて、広くこの地域の発展に寄与したという。
 さて、この吉備津彦命と温羅との痛烈な合戦物語が「桃太郎伝説」になったと謂われている。岡山県の県花は桃であり、県の古名は「吉備」。桃太郎が家来の犬や雉子に与えたのが「きびだんご」。この伝説の道具立てはすべてが揃っている。


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