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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2008年5月号

2008年5月号 (2008/05/10) ふるさと

レジストロ春秋会 小野一生
 古里、故郷、古郷、郷里、郷土、ふるさと、と言うようにこの文字ほど日本人にとって郷愁をさそう言葉は他にないようで、生まれ育った所を遠く離れれば離れるほどその感懐(かんがい)が深まるもので、幼い日の記憶(きおく)と別れ難(がた)く結び付いている。そしてなるべくは遠くにありて思うものであった方がよいし、又その方が時折の想い出や時折りのふれあいなどにより、鮮烈なイメージとしてよみがえるのではないでしょうか。
 私たちが俗(ぞく)に言う古郷とは生まれた所のあの山、あの川、またそこの風景をイメージしての想い出を感じるものです。殊に日本人にとってはブラジル移民百周年を迎えた歴史の中で、一世にとっては勿論(もちろん)祖国日本が第一のふるさとですが、しかしブラジルに移住して来られた方には、当国内に於ても第一古里、第二古里と言う様に幾つかの想い出の古里を持ち、また二世、三世にも同じだと思います。こうしてあらゆる角度から場所としてのふるさとに触れて見ましたが、考えるにサンパウロあるいは東京のような大都会の中で生まれた人、又都会でなく農村で生まれそのままそこで育った人たちにとって「ふるさと」と言うものはどんなイメージになるのでしょう。
 これに付いて作詞作曲家であり、音楽評論家の伊藤強先生の書かれた論説によりますと、「そうした場所としての古里を持ち得ない人たちにとっても心の拠り所としての古里は必ずある。それは『うた』だ。幼い日、無垢(むく)のままに生きた日々、覚えるともなく耳についた歌の数々、それらは何時だって聞く人を過去の日に連れ戻してくれる。うたが『タイムマシン』だと実感するのはそんな時だ。そしてそのような懐かしい歌のメロデーを聞くのに音はなるべくシンプルの方がいい、しかも比較的手近にあると言う感じの楽器の演奏であることが望ましい。なぜならその方がより親しいものとして受け取られることが出来るからである。例えば『赤トンボ』『花嫁人形』『ゆりかごの歌』『通りゃんせ』など、いずれも心の内に沁み入ってくれる懐かしいメロデーである。これらがそれぞれの楽器の音色にのせて流れ出る時、これはもう無条件に聞き入ってしまうからである。しかもその楽器の音色からはその作詞家、作曲家の人柄がにじみ出る、そうした時『やわらかな心』が人々を一時幼い項に連れ戻し、世の中の様々な汚れは洗い流してくれる」と、説かれている。
 まことに伊藤先生の言われる通りすべての人々に夫々の古里はあるでしょう。例え生まれ育った所の環境が一人一人違っても時の流れによって年齢が重なるに従ってその感懐が深まって行くのです。田舎の辺鄙な所で育ち数キロの道程を歩いて学校に通った思い出を持った人、又都会の中で生まれ育ち、すべて乗物で通学された人それぞれの異なった想い出がある事が知らされました。このように各自が歩んでこられた中で、単なる故郷の想い出だけでなく長年の生活の中で感じた事、体験した事を子孫に遺(のこ)すのが我々の務めではないかと思います。
 それには自分史を書いて置くのがよいと思います。それによって父母、祖父母更に遡(さかのぼ)って曽祖父母の「ふるさと」を知り、どのようにしてブラジルに渡り、あの人跡未踏(じんせきみとう)のブラジルの大地を開拓した事までも私たちの子孫に伝えることが出来る唯一(ゆいいつ)の遺産(いさん)であると思うからです。


【遺稿】 陽気な未亡人(十)

カンポグランデ老壮会 成戸朗居
 ます子さんは四十五年前に未亡人になった。夫はかなり大きな牧場を残してくれたので食うには困らない。夫は十人兄弟の末っ子であった。父親が死んだ時に広大な耕地を十人に分けるように決めていたので、兄弟の間では何の問題も無かった。
 ただ、分けるときに長兄から順番に選んでいったので、良い土地から選ばれていったのは仕方が無い。当時は米作が盛んだったので、米に適する土地から選ばれていった。最後にはかなりな土地が残った。誰も要らないという。何も出来ないと思われる痩地である。ます子さんの夫はその痩地を全部自分のものにした。
 時代が変わり、森林が伐採されてしまって、雨が降らなくなり、米が出来なくなり、農家は雑作に転向を余儀なくされていった。ます子さんの夫は痩地に牧草を植えていった。当時この辺の土地に適したアフリカ渡来の牧草が発見され、それがどんどん発育していって、立派な牧場を形成していった。現在では痩地を貰った末っ子が兄弟の間では一番の金持ち、成功者になってしまっている。運命の皮肉さである。
 夫が亡くなってからは子供たちが後を継いだが、百姓の生活を嫌がり、倉庫を借り、町で建築材料の店を経営し始めた。何年か経って儲けた金で少し離れたところにかなり大きな店を建て、事業を拡大して積極的な経営を始めた。ところがそれが当てが外れたのである。
 最初の店は場所が良かったからはやったのである。後の店は場所が悪かった。売れ行きが悪く店は寂れていった。頑張っても店の売れ行きは良くならなかった。ある日、税務署(ぜいむしょ)の監督官(かんとくかん)が現れ、五年間にさかのぼっての帳簿(ちょうぼ)を調べ、莫大(ぼうだい)な罰金(ばっきん)を払えとの通達(つうたつ)をした。
 子供たちは頭を抱えた。結局、どうにもならなくなり、罰金を払うよりも店を閉めた方が良いとの結論(けつろん)に達した。長年の商売を止める羽目になり、元も子もなくなり、別の商売をする気力もなくなり、日本へ出稼ぎに行ってしまった。
 このような例は数限りなくある。農業の変遷(へんせん)で農家の浮き沈みは激しいと同じように、商業の変動も目まぐるしい。特に二代目になってからの商店の流行り廃(すた)りの激しさには、目も眩(くら)むばかりである。二代目が必ずしも初代と同じような商才を持っているとは限らない。かえって持っていない場合の方が多い。ます子さんの牧場の方は順調に行っている。ブラジル人の娘婿が後を継いで、まじめに経営している。しかし、息子たちは皆日本にいる。ブラジルへ帰ってくる風ではない。ます子さんには置いていった孫の面倒を見るのが、ただ一つの楽しみになってしまった。(了)


85年前の結婚式

レジストロ春秋会 宮本美都子
 私の叔父は生まれつき体が弱く、ブラジルへ来てからも激しい労働は出来ず、いつも叔母が先頭で働いておりました。
 その娘の久子さんが年頃になりました。叔父は自分の代わりになって働いてくれる真面目な青年がいれば、娘の婿にと探していました。幸い、隣耕地に独身の青年が一人で住んでいるのを知り、本人に話もせず親の一存で結婚を決めてしまいました。
 「善(ぜん)は急(いそ)げ」と、一ヶ月も待たず、二週間目の土曜日が結婚式と決められました。近所のおばさんたち四、五人が食事係りでその頃は手打ちうどんが一番のご馳走でした。
 うどん作りには少しでも重いほうがいいと、一番目方のあるおばさんが私を背負いました。うどん粉を水でこねて丸めたものを広げた布巾(ふきん)の上において、さらに布巾をかぶせてその上を叔母さんが踏んでのばすのです。ある程度のびたところでうどん粉をまぶし、四つ折にしてまた踏み、それを四、五回繰り返したものを十数枚作り、仕上げは一枚ずつメーザに広げ麺棒(めんぼう)で満遍なく薄くのばしてから幾重にも折りたたんで、五ミリほどの細さに切ってゆでれば出来上がり。それを大きなバシヤいっぱいに作りました。
 その間、別のおばさんたちはうどんの汁を作るために、近所のブラジル人から鶏を三羽ほど買ってきて身をはがして粗骨(あらぼね)だけを煮て出汁(だし)を取りました。さて、下地の味付けにハタと行き詰りました。味噌もしょう油もないし、塩だけでは真っ白だ。困ったものだとおばさんたちは思案していました。その時、私の頭にある考えがひらめき、「母ちゃん、しょう油の代わりにカフェに砂糖と塩を入れたら」と言いました。母はいっぺんに顔を輝かせ「なるほど、良いことに気付いてくれた」と早速カフェを沸かし始め、下地に混ぜ合わせました。なんと、しょう油そっくりの「だし」が出来上がりました。おばさんたちは「なるほど」と感心して試食し、「これは美味しい」と、大喜びでした。幾品(いくしな)かの御馳走(ごちそう)は「野草」を材料に一通りの用意はできました。
 時間は迫りそろそろ花婿さんがみえるだろうと、私は従兄弟たちと木陰で今か今かと待っていました。「あっ!来たぞ」と、従兄弟が叫びました。見ると、向こうの方から一人の男がカバン一個だけを下げて、テクテク歩いて来るではありませんか。近づくと背の低い顔のあさ黒い醜男。「こんな男が久子姉ちゃんの婿さん?久子さんは素晴らしい美人なのに…」と、私たちはがっかりして家に入りました。
 叔父たちは大歓迎。夜になって、三・三・九度の盃を取り交わし、式も無事に済みましたが、花嫁の久子さんは始めから終わりまでうつむいたままで顔も上げませんでした。
 いよいよ披露宴に移り、食卓には御馳走が並べられ、いの一番に「手打ちうどん」を食べ始めました。私の父が一口食べて「この下地はしょう油じゃないか。どこから買ってきたのか?これは美味しい。少しカフェの匂いはするが香ばしく何とも言いようのない風味だ」と、大喜びでした。お客さんたちもお茶碗に二杯も三杯もお代わりをしました。
 お酒は辛いピンガですから、すぐに酔いが回り、新移民の人たちは芸人ぞろいですから、歌えや踊れやと大変にぎやかです。父は三味線が得意で、私も五歳の時に習った踊りをして皆さんに喜ばれました。花嫁さんはすぐに座を立ち、台所で母にヒソヒソ話をしておりました。
 私は聞くともなしに久子さんの声が耳に入りました。「伯母さん、あんな男の声を聞くのもゾッーとして嫌です」。母は「そんなことを言わず、お父さんは体が弱いので、丈夫な良い婿養子が来てくれたと喜んでいるのだから、気を取り直して我慢しなさい」――後の話は聞こえませんでした。
 結婚式が済んでからの久子さんはずっと沈んでおり、深刻な顔をしていました。叔父さんたちは困ったものだと心配していました。
 それから一週間目に久子さんが珍しくニコニコと明るい顔で現われました。「まぁ、久子さん。朝早くから上機嫌で、昨夜は何か嬉しいことでもあったの?」と、母もほっとしながら久子さんの話を待ちました。
 「あったもあった。大ありよ。実はあの男、とうとう逃げ出したのよ」
 「まぁ、逃げたんですって」
 母は聞き間違いかと、開いた口もふさがらず、ぽかんとして久子さんの顔をみつめていました。
 「私はあんな嫌な男に貞操を奪われたら、舌を噛み切って自殺する覚悟でした」
 「まぁ、恐ろしい事を…」母は後の言葉が出なかったそうです。
 「一週間、処女を守り通してきた私は恥ずかしいことはありません」
 「本当にそんなに嫌いだったのね。これは周囲の人たちの責任だわ。気の毒なことをしたわねぇ」
 それから一年後、久子さんは今度は日本で戦前の中学校を卒業してきたという良縁に恵まれました。結婚式に並んで座った二人を見て、美男美女で似合いの夫婦だとお手伝いのおばさんたちが皆で誉めそやしました。その後二人は円満な家庭生活を送り七人の子宝にも恵まれ、ご夫婦共々天寿をまっとうしたということです。私も従兄弟は何十人といましたが、今では私ただ一人となりました。
 日本移民百周年をお迎えする今日まで生かしていただき、この上も無い幸せと心から感謝しております。今後の残り少ない人生を自然の赴くまま、楽しく送りたいと思っています。


趣味とは

サンパウロ中央老壮会 纐纈喜月
 以前、日本人会日語書記を引き受けさせられた。理由は俳句でもやる人間は少しは日本字が書けるだろうということで、まったくの頼まれ書記である。
 何年も日語の先生が担当していて、毎月会報も出していた。その先生が問題を起こしてパラナ州のどこかに引っ越してしまったのである。
 十二月の役員の改選(かいせん)で会長以下留任(りゅうにん)となった。どうにか書記役も無事(ぶじ)につとまっていた。百二十家族ぐらいの団体でも年に一回の運動会(うんどうかい)演芸会(えんげいかい)敬老会(けいろうかい)日語校の学芸会(がくげいかい)の後援(こうえん)もやっていた。
 横書きの張り幕も字の上手下手にかかわらず書記の役としてやらねばならず、祝儀や寄付の張り紙も書く役目を全部果たした。
 その後、書記を八年間つとめてイタケーラ方面にムダンサ(引越)した。
 ある年、百二十家族をもっと増やしたいということで、会員倍増の運動が行われて、私も担当区の三家族の新入会員を作った。隣地区の責任者が私に「君の同県人の人が近くにいるが、私が行ってすすめるより君が行けば入会してくれるかもと思う。当たってみてくれ」ということで出かけた。
 同県人ということで、非常に喜んでもらい、県人会が会館を購入したこと、来年は県知事が来伯されることなどを伝えた。そして日会への入会の意思を確かめようとすると、奥さんが「あなたの言われる書道にも俳句にも主人は行く気がないのです。一人静かにしている事が好きな人で趣味はタバコを吸うことぐらいです」と言われて、仕方なく家を辞したのであった。タバコを吸うのが趣味なら、酒を飲むのも趣味、ビッショを賭けるのも趣味かと変な気分になった。
 もう四十何年も前のことで、俳句会は夜だった。皆が帰り、残りの四人がビールを飲んで分かれるのが習慣になっていた。世間話をしているうちにタバコを吸う趣味の話をすると、辞書を取り出して調べるものがいた。「趣味(しゅみ)」は「面白い味わい。風致風流(ふうちふうりゅう)を解(かい)する力、また、感興(かんきょう)をさそう状態。美的な感覚の持ち方、専門化としてでなく楽しみとしてすること」と色々でてきた。
 すると仲間の一人が大声で「俺たちがここでビールを飲むのは趣味ではないぞよ」と言い、皆で大笑いして帰途に着いたのであった。


一枚の年賀状

スザノ福栄会 杉本正
 二〇〇八年、今年も早々に丁寧(ていねい)な年賀状を日本から頂いた。現在、千葉県成田市に在住する藤田廣雄氏からである。
 藤田氏とは一九九六年四月に個人でブラジル旅行に来られた時、ふとした出来事に遭遇(そうぐう)された折、面倒(めんどう)を見てあげた事が縁となって知り合ったもの。当時、彼は二十七、八歳ぐらいであったかと思うが、以後、珍しいと思うほど律儀(りちぎ)な方であればこそ、毎年年賀状を欠かすことなく頂いている。
 また、私も欠かすことなく返信している。
 以下、日誌と記憶(きおく)を辿りながら…。
 一九九六年四月二十二日の事であった。前日、所用があって家内とサンパウロに出て来て婿のアパートに泊まった。そして、翌日、帰宅すべくロードビアリアのオニブスの発着所への階段を下りかかった時、下の方から大きな日本語の声が聞こえて来た。日本から来たばかりと見える若者が気忙しく上がって来て、「バスに乗って荷物を一切盗られてしまったので大使館に行きたいのですがどこにありますか」と言う。
「大使館は千二百キロから離れた首都ブラジリアにあり、サンパウロには総領事館が在りますが…」と言うと、「そこへはどのようにしたら行けますか」と言われた。
 簡単に説明出来る訳もなく、とにかくどうしたのか事の仔細を聞くことにした。
 若者も日本語が通じるのでようやく安心したのか、落ち着いて話始めた。
 日本で勤めている役所から二週間の休暇をとって、ブラジルのイグアスの滝を見て、ボリビア国まで行く予定で、今朝、飛行場に着いた。そのままここに来てパラナのクリチーバまでのバスの切符を買いバスに乗った。ところが荷物を足元に置いて座っていると、一人の外人が側に来て、良く解らないが手まねで荷物を上の棚に上げろと言っている様で、荷物を上に上げた途端にいきなり窓から荷物を放り出し、下にいた他の外人が荷物を持って逃げ出した。驚いて、泥棒、泥棒と叫んだけれど、下には警察もおらず、とうとう荷物を持っていかれてしまった、と語った。
 更に悪いことには、暖かかったので脱いだオーバーのポケットにお金から旅券、飛行切符、富士銀行のクレジットカードまで一切を入れており、それも持っていかれてしまったと言う。
 事が事だけに放うっておく訳にもいかず、家内には先に帰るように言った。
 ――― ☆ ―――
 そして、メトロでリベルダーデに行く事とし、車中注意話をしたものだが大事な物はオーバーのポケットなどに入れておくべきでなく、自分も日本に行った折にはお金は腹に巻きつけて持って行ったものだがと話したところ、急に腹を叩いて、あった、あったと大声を上げて立ち上がった。突然の災難に気も動転していて、腹に巻いていたお金のことなどすっかり忘れていたらしい。
 「日本金で三十万円あります」と言われた。レアルに両替しても相当な金額になる。私にしても一応ホットした。
 さて、リベルダーデで下車し、相談に乗ってもらうべく、知人を訪ねたがどこも留守。そうこうしていると、当時パウリスタ新聞の副社長をしていた中野さんにバッタリ出会った。中野さんに事情を話したところ、今そこでツニブラ旅行社の人に会うから一緒に行こうと言われた。旅行社の人に事情を話したところ「何もかも盗られたのでは話にならんな」という。旅行社ならもう少し言い様があるはずだと気に障ったものだったが、とにかくツニブラの事務所に行くことになった。
 そこで初めてお互いに名乗りをあげ、若者は藤田廣雄さんと言った。日本では銀行に勤め貸付関係の仕事をしていると言う。
 間もなく先ほどの旅行社の方が来たので、再度事情を申し述べたところ、今度は本店に行って相談してみてくれと言う。早速、本店に行き話しをするとこれこれの書類を総領事館に行って貰って来るようにという事になった。
 そのまま総領事館に赴くと受付は午後二時からとの事で昼食をとりながら語り合う。なかなか好青年だなあとの感じを持つ様になった。
 二時になって係員に経緯を説明すると、これこれについて記入するよう書類を渡された。書類記入は全て日本語なので、旅行社に書類を持って行って、金を払って作ってもらう必要等もなく藤田君が全て出来た。同じビル内にある写真店で旅券用の写真を撮り待っていると四時ごろになってやっと呼び出しがあった。むっつりとした館員が入ってきて、この件はてっきり老人である私の事と思ったらしく、充分注意しないからこんな事になったのであろうといったので、むかっときた事であったが、いや、私ではなくこの日本から来た若者が盗難に遭い、通り合わせた私が総領事館に行けばと伴って来たもの。と話したところ館員は「申し訳ありませんでした」と、それこそ平身低頭して謝った。館員は早速、外務省旅券課に電話を入れますからと言い、同時に日本の家族の方にも外務省に赴いてもらい説明をする様にと言われた。更に一週間以内に旅券は出来ますのでサンパウロ市内から外に出ないようにといわれた。これで旅券の件は心配がなくなった。
 時計を見ると午後五時少し前、南米銀行は富士銀行と業務提携をしていると前に聞いたことがあったので、急いでクレジットカードの件で行くことにする。私もそのころは七十歳代だったので藤田君とともに駆け足で銀行に駆け込む。引け際の女子行員に藤田君の件を話すと気軽に相談に乗ってくれ、帰りかけていたほかの行員四人も一緒に加わって意見を出し合ったり、あちこちに電話をかけたりしてくれた。ようやく六時過ぎとなって富士銀行の事務所から連絡があり、案内されて行く。
 事務所では本社に連絡確認を取り、紛失クレジットカードの無効手続きを手配してくれた。時間外にもかかわらず最後まで私たちのために親切に世話をしてくれた南米銀行の女子行員に厚くお礼を申し上げた。
 宿を池田ホテルに決め、ガルボン街で夕食をとる。余り飲めもしないがビールで無事の解決を祝す。
 藤田君にはブラジルの治安の悪さを高い代償で体験させてしまったが、この事でブラジルに愛想をつかさないで、また勇んで来て下さいと付け言葉をする。「大変お世話になり、何かお礼をと感謝し恐縮する藤田君に「もし、貴方がどこかで困っている人を見たら力になってあげてください」と話し、別れた。
 さて、サウーデの婿のアパートに帰った途端、娘百合子より一喝を食らう。パパイの帰りが余りにも遅いので何かあったのではないか、と皆が心配してスザノの家からは何度も電話がきて今も来たばかり。何で電話をかけなかったのかと散々油を搾られる。それを見ていた当時三歳半の孫娘が「ママイ、じいちゃんを叱ってはだめ」と仲裁に入ってくれ、娘もそれ以上怒る訳にも行かず矛を治めた次第。
 その翌年、日本から年賀状が送られて来た。差出人は藤田廣雄とあり、年賀の挨拶とともに書かれた文面を見て、あの時の藤田さんであったかと思いを馳せた。別便でお礼にと、文庫本も届いた。司馬遼太郎著の「翔ぶが如く」十巻であった。
 以後、毎年早々に年賀状を頂いており、律儀な藤田君のこと、私運在って在世である限り、年賀状は送られてくるであろうと、こんな勝手なる思いを記して是にてとする。


おひさしぶりです

百歳万歳社 植松紀子
 お元気ですか。
 今日は四月二十九日、日本は「昭和の日」で休日です。昭和天皇の誕生日でした。明日に原稿締切が迫っているので今日は出社しました。百年前の昨日最初の移民船笠戸丸が神戸を就航したのですね。
 そちらでも百周年の行事がいろいろあってお忙しいと思います。「百周年に一緒に行きたいね」と言った三〇周年記念祭参加のメンバーもそれぞれ年を取り、私も日々仕事に追われています。あのとき、「あと三年ね」などと、すぐにでもまたブラジルの皆さんに会えるような気がしましたが、そう簡単なことではないですね。
 でも最近新聞やテレビでブラジルの名前が度々出るようになり、出るたびに心はあのサンパウロの日本人街、そして老人クラブの事務局、そして老人クラブの会員の皆さんの顔を思い浮かべています。なつかしいです。ではまた


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