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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2008年6月号

2008年6月号 (2008/06/16) 老クこぼれ話

☆燃え尽き症候群
記者「こう忙しいんじゃ、百周年が終わったら皆燃え尽き症候群になってしまうんじゃないでしょうかね。」
職員「何でぇ? ひとつも燃えていないのに燃え尽き症候群になんかなる訳ないでしょう。燃え尽き症候群って何か達成した時に言う言葉でしょう。私たちなんかどこもきちっと対応してくれないから、毎日怒ってばかりよ。アッ、そうか。私たち怒りの炎で燃え尽き症候群だわ。」
☆人気人物アンケート
記者「すみませ~ん。移民の日特集コロニア人気人物アンケートを会員の皆さんにお願いできますか。」
会員「ちょっと考えてみたけど人気人物って難しいわね。後世に残したいというんだから、そこらの人気者って訳には行かないし、コロニアのワーストスリーならすぐ書けるけど。」
☆何地蔵
会員A「お地蔵さん何時できるの。」
職員「八月の予定よ。」
会員B「老人会は何地蔵って言うの。ほら、とげ抜き地蔵とか子育て地蔵とか言うでしょう。」
会員C「そりゃあ決まっているじゃない。ポックリ地蔵よ。」


ラッポーザ地区第五部

レジストロ春秋会 清丸米子
 レジストロは九十四年前に日本人が初めて入植して開かれた小さな町です。植民地にはたくさんの日本人が日本から直接入植して住んでおり、六つの部落に分かれていました。その一つが五部でした。私はその五部で生まれ育ち、五部の小学校に行きました。
 六十年前はその五部は五つの地区に分かれていて、私の住んでいた所は二十三区で、そこには二十三家族の日本人が住んでいました。
 その頃は各区にそれぞれ集会所があり、そこで区の人たちは区会をはじめ新年会、紀元節、天長節(てんちょうせつ)などの慶祝事(けいしゅくじ)や色々な催し事をしたものです。その五部では仁戸田庸吉郎先生が日本語を教えていました。私は幼かったので、お目にかかる機会はありませんでしたが、ものすごく立派な先生だったそうです。残念なことにちょうどその頃、第二次世界大戦が始まり、日本人は集まることさえ出来なくなり、町へ買い物に行くのも大変で、あまりの恐ろしさに山の中で隣近所との交際もなく、ただ働くばかり。何も出来なくなってしまったのです。
 そんな生活が五年近く続いた後、やっと戦争が終わり、私は小学校を卒業するようになりました。
 学校へ行くには三キロほど歩かなければなりません。その頃は自動車もなく、町への用足しに出るには、父や兄たちは馬や馬車で行きました。
 私たちはその馬に乗った大人たちと道で会うたびに立ち止まって腰を曲げて丁寧に挨拶をしなければなりません。そうしなければ、父兄会の集まりの後で、親たちに叱られるのでした。父兄会のたびに親たちは「誰々さんの子供はものを言わなかった」とか「きちんと挨拶しなかった」とか言われて、後で家で厳しく親に叱られたものです。それほど仁戸田先生の教育は厳しかったのだと思います。
 私は五部で大人となり、結婚しました。四人の子供も五部で生まれましたが、この厳しい教えのお陰で家の中では今でも日本語だけで話をしています。今、七十歳を越えて夫も亡き人となりましたが、子供たちと日本語で話をできることを大変嬉しく思います。上の学校へは行かせてもらえなかった私ですが、何とか読み書きが出来ることを嬉しく思い、五部で生まれて本当によかったと、ひそかに誇りにすら思っております。この五部では三十年前から同窓会を始めて、二年おきに開催し、いつも百人以上も会館に集まり、今なお守り続けられ、楽しい一日を賑やかに過ごしています。でも、長い年月が経つにつれ、同窓の方たちも八十歳を越し、外出が不自由な方や病気の方、不幸にして亡くなられたりして、だんだんと参加者も少なくなってしまいました。十年ほど前から同郷会と名前を改め、五部に住んだ人たち、または関係のある人々に集まっていただく場所と枠を広げました。今でも二年毎に集まっていますが、百人は必ずみえます。昼食を頂きながら、先駆者(せんくしゃ)、先輩を偲び昔話に花を咲かせ、カラオケやなつメロで一日を楽しむのです。
 二〇〇七年の集まりには仁戸田先生のお孫さんが先生の写真を大きな額に収めて持ってお出でになり、「自分は知らないお爺ちゃんですが、こうして五部の方々にいつまでも尊敬されて、本当に素晴らしいお爺ちゃんだったのだと、家族一同、心から感謝する次第です」と、挨拶されました。この五部の集まりにはサンパウロをはじめ、遠くはパラナ、サンタカタリーナ、ブラジリアからただこの一日のために駆けつけるのです。いかに五部の元住人が五部を心の故郷として愛しているかの証(あかし)だと思います。
 その五部に住んでいる日本人は、今はわずか七家族となり、就学児童も少なく、学校も閉鎖(へいさ)となってしまいました。昔、私たちが住んでいた所も再生林ばかりとなり、かつての面影(おもかげ)はありません。
 そうした五部の会館に行くには、アスファルトの道ではなく、泥の山道で、雨が降るものなら車は泥に汚れてしまいます。それでも気にせず二年に一度の集まりにはお爺ちゃん、お婆ちゃんを連れて馳(は)せ参(さん)ずる子供さんたち、お孫さんたちは本当に素晴らしいと思います。この意義ある集まりが途切れることなく、いつまでも続くことを切に願っています。


人の名前

レジストロ春秋会 大岩和男
 人間は生まれるとすぐ、男の子でも女の子でもその誕生を喜ばれ、両親は言うに及ばずおじいちゃん、おばあちゃんもそれぞれ名前を選んでおいて名付ける。
 半世紀以上もの昔、私たちが住んでいた移住地には「名付け祝い」と称するしきたりがあった。それはどこの家でも赤ん坊が生まれると、必ず生後七日目には「名付け祝い」と言ってフェスタをしたもので、そこで赤ん坊の名前を披露(ひろう)するのである。
 当主はすでに用意しておいた何らかの物品に「命名・何々」と書いた短冊型(たんざくがた)の名札を貼って、来客に渡すのである。招けなかった家には翌日、一軒一軒に配った。主に出産祝いを頂いた家なのだが、小さな部落でもあり、住人ほとんどがその交際は欠かさなかった。
 さて、その子供の名前だが、おじいちゃんおばあちゃんのいる家ではお年寄りに決めてもらうのが普通だった。中にはその植民地に博学の人がいれば、その人に頼んで良い名前を選んでもらった。それも無い場合は両親が付けたものだった。
 私の長兄の長女が生まれた時は、私たちの父、すなわち祖父が初めての孫と大変喜んで、自分の名前の「春吉」の一字に「美しい
」を合わせて「春美」と名付けて近隣に披露した。次に生まれた長男も次男も、そして次女も隣家に住んでおられた栗田為一翁が博学の人だったので三人の命名をして頂いた。長男は「寿美雄(すみお)」と付けた。漢字がすこぶるめでたく素晴らしいと自賛(じさん)されて選ばれたのだった。ところが彼が成長して自分の名前を書く頃になって、難しい字だと困っていたし、ブラジル語学校に入ったら「スミオ、スミーゥ」と学友たちに冷やかされて泣きっ面で帰って来る始末だった。
 ただ単に字や音が美しいなどで名付けられた子供は、はなはだ迷惑(めいわく)である。
特にここブラジルでは、余程(よほど)気をつけなければ、可哀相である。次男が生まれた頃は、戦後の勝ち負けの論争の激しかった時で、住んでいたチエテ移住地のノーバピラカンジューバ区はチエテ内でも有数な勝ち組(信念派=しんねんは)で八紘一宇(はっこういちう)、日本精神、大和魂、皇道無窮(こうどうむきゅう)、東亜共栄圏(とうあきょうえいけん)といった言葉がやたら使われていた時代である。栗田翁もそれに便乗して「紘幸(ひろゆき)」と命名してくれた。これも難しい字だが、両親祖父母が諒(りょう)としたものである。
 次女である女児も栗田翁が選んで下さって「昭恵(あきえ)」と名付けられた。昭和の御代に恵まれたと年号から取ったものだった。この栗田翁は自分の息子にも変わった名前を付けておられた。一布(かずよし)と読むそうです。故人になられた方ですので、時効の事と思って本名を書きましたが、早くに奥さんを亡くされ、男手一つで二人の息子さんを育て上げられた大変な努力家だったのです。
 さて、同じチエテで生まれた私の次兄の長男長女には私が提言して「清治」「恵子」と、両親も喜んで名付けました。戦前の大日本雄弁会講談社の野間清治社長にあやかりたい。またその当時、世界的に有名な女優・岸恵子に敬意と憧れを持って進言したものでした。
 さらにカナネイアに一大理想の実現にやって来た年には長兄方に三女が生まれ、浜辺に来たのだからと、ハマ子と命名し、同じく次兄方に生まれた子にはカナネイアでの産声第一号だからカナ子と名付けた。共に二親の合意によるものだ。名は体を表すとか、名前負けなどとも言われるが、前述のように「スミオ、スミーゥ」ではあまりにも可哀相。消えた、無くなったでは…。


サンシルベストレ大会の思い出

サントアンドレ白寿会 池田収一
 サントアンドレ市アラマツサン体育クラブの陸上競技場で一万メートルの練習をしている時、突然、陸上部コーチのシルビオ氏より声を掛けられた。
 「おい、池田、お前サンシルベストレ大会に出て、走ってみないか?お前なら五十位以内に入賞できる実力があると見ているんだが…。」と言われ、あまり突然で噂に聞いてはいたがサンシルベストレの競技会もよく知らないので、返事に困っていると、「この競技はガゼッタエスポルチーバ新聞社主催で毎年行われ、夜十一時過ぎから出発し、除夜の鐘が鳴る頃、ゴールに着くようになっていて、外国からも選手が招待されるし、国内の強豪選手が多く参加する大会だよ」と聞いて、闘志が湧いて来た。
 今はサントアンドレ市に来て、あまり陸上大会に参加していないが、ノロエステ線リンス市にいた頃は、ノロエステ陸上連盟に加入していて、その頃一番年の若い一万メートル選手のホープとして活躍していたので、走るのには自信があり、よく聞いてみると十キロメートル足らずのコースを走るということで、「それならこの大会に出て走ってみようかな」と心が動いた。
 コーチに相談すると、アラマツサン陸上部からも三名競技に参加する選手がいるので、一緒に行くように話してやると約束してくれた。
 当日、夜サントアンドレ市駅で待ち合わせ、汽車に乗り、ブラス駅で電車に乗り換えてプラッサ・ダ・セに行き、歩いてノーベデジューリョのトンネル前の出発地点まで行った。時間は未だ少し早いようだったが服を着替えて、参加者を乗せて来た州警の車に預けて、出発地点に行ったが、二千人ほどの大勢の参加者がいて、次第に後ろへ後ろへと押されてトンネルの中に入ってしまった。
 夜十一時となると、昼間の疲れもあり、日本人は一人もおらず、話相手もいないので、ただボンヤリと最後尾で出発時間の来るのを待っていたが、次第に眠気がさしてきた。シューズを脱いで、トンネルの壁にもたれていると、ついうとうとと眠っていた。
 急にがやがやと騒がしくなってきたので見ると皆一斉に走り出していた。急いでシューズをはき、日本人の印の鉢巻を締めて飛び出した。
 最終集団に追いつこうと走っていると、先方が乱れている。よく見ると黒人選手が水たまりに倒れていて起き上がろうとするところを後から来た選手が突っかけまた倒れてもがいている。この水は出発を待つ長い時間と、そろそろ出発の時間だと思う緊張からたまらず一人が小便をすれば、連鎖反応で我も我もと排泄した小便の水たまりらしい。滑っては大変と少し回り道をして行くと二十メートルも最後尾集団から離されていた。
 集団に追い付き、中に入ってもまれながら、ガゼッタ・エスポルチーバ新聞社の前あたりで、この集団五百名ぐらいを追い抜き前に出た。
 次にまた大きな集団あり、これも抜き去ると前を行く集団が二、三十人と小さくなり、次々と追い抜いていくとチラデンス街に来て、いた。この辺りから前を走る選手の走り方も力強く、入賞するために日頃から練習している様子が伺われた。前を走るランナーも少なくなり、ゴボー抜きという言葉があるが、そんな生易しいものではなく、一人一人を追い抜くのが苦しくなってきた。ゴールがどこにあるのか分からず唯前を走るランナーを見て追い抜くことだけを考えて走っていたが、ゴールのチエテクラブが見えた時、自分には選手として走っていた時の教えで、ラストスパートの力を溜めていたが、ゴールで残しておいた力を使い切ることなく七十六位に入賞し、メダルを頂いた。サントアンドレ市から参加した三名も二百番以内に入りメダルを貰った。
 一九四二年、戦争がだんだん激しくなっていく年、日本人でサンシルベストレを走ったのは珍しい事ではなかったかと思い、今思い出して懐かしく思っている。
 移民百周年を迎える年に過ぎ去った過去の色々な思い出を思い浮かべ、感慨無量である。


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑬ 横溝正史「探偵小説界の大御所」
 昭和五一年に製作された角川映画の第一弾「犬神家の一族」(市川昆監督、横溝正史原作)は大ヒット作となり、時ならぬ横溝正史ブームを巻き起こした。横溝の長、短編は次から次へと角川文庫により刊行されて爆発的な売れ行きとなった。この映画でヨレヨレのセルの着物、モシャモシャの髪、黒い型の崩れたソフト帽、そして抜群の推理力の持主であり、間の抜けたところのある飄々とした私立探偵・金田一耕助は俳優・石坂浩二の個性も相俟って人気を高めた。以来市川監督によって横溝作品が続けさまに映画化されることになる。「悪魔の手毬唄」「獄門島」(五二年)「女王蜂」(五三年)「病院坂の首くくりの家」(五四年)と連作され、勿論、金田一探偵には石坂が扮している。
 昭和六一年に刊行された文春文庫版「東西ミステリーベスト」の<日本篇>のベストワンは数多のミステリー傑作群の中から、横溝の「獄門島」(昭和二二年発表)が選ばれている。そして一〇〇位までには「本陣殺人事件」(七位)、「悪魔の手毬唄」(四二位)「蝶々殺人事件」(六九位)と計四本が入っており、日本を代表する推理小説の王者」で」あることを立証している。
 横溝は明治三五年神戸市の生まれ、中学時代から推理小説を耽読した。中学を卒え第一銀行に勤め、大正一〇年に処女作「恐ろしき四月馬鹿」を雑誌「新青年」に投稿して入選した。その後、大阪薬専に入学、卒業後薬種商を営む。一五年に江戸川乱歩の招きに応じて博文館に入社、「新青年」「文芸倶楽部」「探偵小説」の編集を歴任し、昭和七年に退社して文筆に専念した。初期の作品は「鬼火」「真珠郎」など浪漫的色彩の濃い凄惨な世界を描いたが、戦時中は探偵小説が軍部」から圧迫されたため、時代捕物シリーズ「人形佐七捕物帳」の執筆に没頭した。
 戦後、論理的な本格推理小説による再出発を志し、二一年に「本陣殺人事件」「蝶々殺人事件」を発表したが、これらは日本に初めて欧米に匹敵する理知的な正統派の成果をもたらし、後続の推理作家たちに多大の刺激を与え指標となった。「本陣殺人事件」は本陣の末裔の当主とその婚約者が殺されるという密室殺人事件に金田一耕助が
挑戦。日本建築における密室殺人がほぼ完璧な形で構築されていて、その非凡な着想は舌を巻かせるものがある。「蝶々殺人事件」は作者がクロフツの名作「樽」を読み返しながらトランクの移動を考えたという。
 由利・三津木コンビの推理劇。そして手法は明らかにアガサ・クリスティの「アクロイド殺し」の影響を強く受けているもの。
 引き続き、横溝は「獄門島」(二二年)「八っ墓村」(二四年)「悪魔が来りて笛を吹く」(二六年)「悪魔の手毬唄」(三二年)等を発表、論理的興味を中核とし日本の風土、国民性に密着した作風を樹立させた。「獄門島」は瀬戸内海に浮かぶ周囲二里ばかりの小島を舞台に、旧家の網元・鬼頭家の三人の娘、月代、雪枝、花子が次々と殺される。戦友の遺言によって島へ渡ってきた金田一がつきとめた意外な犯人像は…。岡山県の山村に起きた連続殺人事件を描いた「八っ墓村」は何度か映画化されている。謎説きミステリーとして読むと物足りないのだが、後半の大洞窟迷路の冒険はわくわくさせるものがあって楽しい読物。「悪魔の手毬唄」は岡山、兵庫の境にある鬼首村で対立している二大勢力、由良、仁礼の両家。鋭英米のマザーグースをモチーフに使用した作品。二〇年前の殺人の謎を絡めた雄大な構想、複雑なプロット、トリックの面白さ、どこを取り上げても作者の円熟ぶりがうかがえる傑作で、横溝作品のベストワンに推す人も多い。映画では岸恵子が犯人・春江を熱演、湖に入水したラストが印象的だった。
 横溝は昭和五六年、七九才でこの世を去っている。


第13回老ク連親睦カラオケ大会余興 「寸劇男はつらいよ」脚本

出演:嵐五十郎、津嘉まりい(劇団名友)
 「えー、今日は私たち名画友の会の仲間が日頃尊敬している松竹映画の山田洋次監督の作った日本映画最長の喜劇シリーズ「男はつらいよ」の主題歌をご披露いたします。
 映画の始めに主役の渥美清が歌うのを四十八回も聞かされたので覚えてしまいましたので、その真似事です。
 寅さんはテキヤ(香具師)つまりお宮やお寺のお祭や縁日にござを広げ運勢の暦や家庭用の包丁などの雑貨を売る商売をしています。
 渥美さんの声色で男の笑いと涙を歌いたいのですが、うまく行ったら寅さんの文句「結構、毛だらけ猫灰だらけ、見上げたもんだよ、屋根屋のふんどし」と誉めてやってください。
 さて懐かしい名優への早替わりは三十秒、この窮屈なネクタイをはずして、寝冷えよけの腹巻を出し…」
 格子縞の上着、帝釈天のお守り、サンダル、帽子…と素早く身に付ける。
 片手を構えて:
 「エー、周りを囲んだ、おあにいさん、おあねいさん、てまえ生まれも育ちも東京は葛飾柴又、帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、人呼んで、風天の寅と発します。」
 「音楽お願いします。ムジカ ポルファボール!」
一俺が居たんじゃ
 お嫁にゃ行けぬ。 
 判っちゃ居るんだ妹よ。
 いつかお前の喜ぶような偉い兄貴になりたくて。
 奮闘努力の甲斐もなく、
 今日も涙の今日も涙の日が落ちる、日が落ちる。
二ドブに落ちても根のある奴は、いつかは蓮の花と咲く。
 意地は張っても心の中じゃ泣いているんだ兄さんは。
 日方で男が売れるなら、
 こんな苦労もこんな苦労も、かけまいにかけまいに。
三男というものつらいもの、
 顔で笑って顔で笑って、
 腹で泣く腹で泣く。
歌い終わって、しばらく置いて…
寅「あぁ、難しい唄を歌って、腹が減った一。さくら、さくらぁ、何か食わしてくれ一。」
さくら、駆け寄って
 「お兄ちゃん、うちのお団子食べて。」
 と、団子を二串差し出す。
寅「ああ、タンゴじゃなくて、花より団子だあ」
寅一口食べて、「こりゃ、美味いや、旅ではこんなのないよ。」
さくら「そりゃそうよ。帝釈天名物のとらやのお団子だもの。」
寅「あー、一串で腹が収まった。お前も一本お食べ。」
さくら「あらいやだ、調理場で味見しているから、もう沢山よ。」
寅「名物って、赤福じゃないけれど、賞味期限ってのは大丈夫かい?」
さくら「うちのは朝作って、期限は今日限りだから大丈夫よ。」
寅「それじゃあ大変だ。こいつ(他の一本)も頑張って食ちゃわなくちゃ。」
ムシャムシャ、もぐもむ…
「あっ、一つ、餅が喉に詰まったあ。く、苦しいよ」
さくら:「お兄ちゃん、水、水…」
寅「あー、ダンゴはつらいよ、男はつらいよ…」

注・実演ではカラオケ大会のプログラムと出場者が多く、時間不足のため、約三分の二の内容に短縮して行われました。


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