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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2008年7月号

2008年7月号 (2008/07/15) 母の日

ジュンジャイ睦会 長山豊恵
 娘の家に行く途中、ルス駅の近くにあるピナコテッカに寄ってみた。
 薄暗い部屋に江戸時代の着物や鎧(よろい)などが飾ってある。一六〇三年から一八六七年の着物がつるしてあった。江戸時代によくこんなにきれいな着物ができたと思う。一針(ひとはり)一針、手の込んだ念入(ねんい)りな刺繍(ししゅう)がしてある。ガラス越(ご)しなのでまるで新品のように見える。徳川(とくがわ)や秀吉(ひでよし)の鎧もあった。よくこんな重いもので戦争ができたと思い、近づいてよく見ると革のようなもので細かく縫(ぬ)い締(し)めてある。
 奥の方へ行くと、いろいろな陶器(とうき)の焼き物があった。大きな壷(つぼ)やきれいなお皿に丁寧(ていねい)な細かい細工(さいく)が凝(こ)らしてあり、色とりどりになっている。行ってみなければ説明のできないたくさんの品物があった。昔、腰(こし)に下げたという珍(めずら)しい印籠(いんろう)もあった。右の方へ行くと、富士山の浮世絵(うきよえ)が三十枚ほどあった。
 ひとまわりして娘の家へ行くと、婿(むこ)の弟たちも子供たちとにぎやかに集まっていた。
 「今日は母の日だからすき焼きでごちそうするわ」と支度(したく)にかかっている。ゆっくりと坐って休んでいると、娘が「ママイが作った方がおいしい」とおだてられて、結局や野菜切りから味付けまでしてみんなにサービスすることになってしまった。でも、みんなが「おいしい、おいしい」と言って食べてくれたし、お腹もいっぱいになって母の日のプレゼントまでもらって帰り、ロドビアリアまで送ってもらいとても楽しい一日だった。


現今の世相に思う

サントアンドレ白寿会 宮崎正徳
 現代の世相を見ますと国民の幸せのために働くべき国会議員(ぎいん)は保身(ほしん)と勢力争(せいりょくあらそ)いに汲々とし、国民の生活を守るべき社会保険庁の役人が国民の血税を平気で横領(おうりょう)してしまう。
 また服用(ふくよう)すれば別の病を患(わずら)い本人は苦しむことを知りながら平気で薬害を見過ごす厚生労働省幹部(こうせいろうどうしょうかんぶ)など、人の上に立つ者が狂乱(きょうらん)の体をかもしています。
 また親が幼い我が子を殺し、子供が老いた親を殺す悲劇(ひげき)。さらに民族間の抗争(こうそう)や宗教的対立によるテロも頻発(ひんぱつ)し、そのたびに多くの人の命が奪(うば)われています。まさに仏法で説くところの四悪道そのものです。
 四悪道とは何か。仏法では最も不幸な状態は、地獄、餓鬼(がき)、畜生、修羅(しゅら)と説いています。仏典を開いて見ますと、まず一番罪の軽い修羅界について、正法念処経には「きょう慢(まん)を以っての故に即ち廻り復返りて天と闘はんと欲す」とあります。修羅界の衆生は、わがままで増上慢のため、常におごり高ぶって他との争いが絶えず、自分よりはるかに力の強い高貴な帝釈天に向かって繰り返し闘いを挑(いど)むというのです。この修羅界に落ちる原因は、他人の物を奪い取ったり、外道の人に供養したり、邪悪な心で持戒(じかい)のものに施(ほどこ)すことによると説かれています。
 次に畜生界とは、鳥獣魚虫など動物界の生きものすべてが畜生です。その共通点は弱肉強食。すなわち自分より強いものに襲われ、餌食(えじき)となる世界であり、常に命の危険におびえながらわが身を養うために他を襲撃し殺し合う世界です。この畜生界に生まれる原因について「成実論」八巻に「善に雑(まじ)へて不善業を起さば、この故に畜生に堕し、また結使が熾盛(さかん)なるが故に畜生に堕す」とあります。通常の善行に悪行を交えたり、煩悩(ぼんのう)が強いと畜生に生まれるというのです。ちなみに「成実論」の続きを紹介しますと、意欲が盛んなる者は雀(すずめ)や鳩(はと)などの鳥になり、瞋恚(しんに=怒り)が強い人は蛇やサソリ、物の道理がわからない愚癡(ぐち)の人は猪や豚、羊。わがままで驕(おご)る心の強い人は虎やオオカミ、放逸にふけ遊び呆ける人は猿、けちん坊で妬みの強い人は犬になるとあります。いずれにせよ社会的弱者といわれる子供や一人暮らしを襲い、財産や命を奪う行為が横行する現代は、人間がそのまま畜生になっているといえます。
 ユニセフ(国連児童基金)などの統計では世界六十五億の人口のうち、十三億の人が栄養を十分に受けられない状態にあります。そして六千万人の人が餓死(がし)寸前の状態なのです。すなわち地球上いたるところで餓鬼に苦しむ状態が生まれています。
 最近の新聞によれば日本国民の七割の人が生活に不安を持っているとのことであります。一見、幸せそうに見えてもその実、皆、苦しんでいるのです。生活用品の値上がり消費税の増税など日本は世界第二の経済大国と言いながら七十五歳以上の老人からの医療費の天引きをするなど大変です。国民の上に立つ政界や役人どもは平気で公金を横領し、国民も餓鬼界に陥(おちい)り盗みや強盗を犯す者が出ています。社員に給料を払わないで私服を肥やす経営者などが次第に多くなっていることがその証(あかし)と言えます。
 その点ブラジルは結構なことで、年金生活に入ると老人は自分が住んでいる市内バスは無料。地下鉄やサンパウロ市外の電車も無料です。高額年金でない人は、家屋税も半額になるし、日本の高齢者のように日本の再建のために一生懸命働いてきた今の高齢者から通知もせずに年金からの天引きということはありません。日本国民の上に立つ政治家どもがそうしたことをするとは、弱肉強食そのものではないでしょうか。これでは老いてからの人生が本当に幸福とは言えないのではないでしょうか。


百周年を迎えて


皇太子殿下をお迎えして ―友への手紙―

サンパウロ生涯現役クラブ 大友五子
 京都の美しい墨絵の葉書をありがとう。
 今日は六月二十日、ブラジルは本年が日系移民百周年に当たり、皇太子殿下がご来伯され、私たちは沿道で殿下をお迎えしました。
 八十周年の折は、天皇皇后お揃いでご来伯され、万歳の声が渦(うず)のようになって会場に響き渡り、その時の感動を手紙で伝えましたね。今回は式典の行われる会場が遠く、私は老ク連の方たちと一緒に沿道でお待ちしました。街も一応清掃され、道行く人、お待ちする人、それぞれが何となくお祭り気分の雰囲気でした。
 待ちに待ってパトカーの後に何台かの車、それに続いてお召しの車が通過しました。曇りガラスの中で殿下が手を振られているのが影絵のようになって見えました。あわてて「万歳」と叫んだものの後の方は声も低く、ア~と失望(しつぼう)の声でした。
 せめて窓だけでも色なしか開けておいででくださったのなら、皆さんも喜ばれたろうに…と思いました。殿下ご自身もそのことを望んでおいでだったのでは…と車窓の中のご様子からそう思いました。
 治安の悪さから万全を考えての今回のご通過でしょうが、いつか再びご来伯頂ける時には、沿道で迎えられる人にも直接声がかけられ、握手もできるような平穏(へいおん)なブラジルになるよう、ブラジル日系人も心しておきたいと思いながら帰りました。このことは皇室に限らず、ですね。
 百周年を迎えて思うことは、想像もできないほどの困難(こんなん)に遭遇(そうぐう)しながらも祖国(そこく)を思い、日本の精神文化を伝えてくださった先人の方たちに敬意(けいい)と感謝をせずにはおられないということです。止まることのない文明文化の現代にあって、この大切な精神文化を失わずに残し、伝えるのが今の私たちに残された役割(やくわり)でもあると思えてならないのです。どうかお元気で。また、いつかお会いしたいです。
 乱筆乱文(らんぴつらんぶん)にて。草々


天まで届け大合唱

サンパウロ中央老壮会 桑原寛太郎
 私たちコーラスグループ総勢三千人による「さくらさくら」「アクアレーラ・デ・ブラジル」の大合唱は日本移民百周年記念式典会場に響き渡りました。
 私たちは皆、揃いのTシャツでブラジルと日本の両国の小旗を振りながら歌いました。観客の方々も手拍子をして一緒に歌ってくれました。
 私は歌うにつれ気持ちも高揚(こうよう)し、万感(ばんかん)胸に迫る思いでした。そして歌いながら幼くしてまた、志半ばにして逝った同胞の方々もこの私たちの歌声を聞いて下さっているのではないかと感じました。
 一九〇八年に第一回移民船「笠戸丸」がサントスに入港して百年の月日が経ちました。そして今や百五十万人ともいわれる子孫がブラジル社会に溶け込み、繁栄しております。
 この今日の日系社会の繁栄は百年の間の数多くの人々の汗と涙によって築かれたものです。移民の希望や信念、勇気や忍耐(にんたい)によるものです。百年という節目に当たり、先人たちの並々ならぬ業績(ぎょうせき)に感謝しつつ歌いあげた次第です。その歌声は観客の声援と共にうすら寒い六月の夕暮れの空の彼方へとのぼっていきました。先人の皆々様ありがとうございました。


移民妻

サンパウロ中央老壮会 香山和栄
 六月十八日のアニャンビーにおける百周年移民祭の仏式法要(ぶっしきほうよう)の席で、若い日本人女性に「移民妻とは何ですか」との質問を受けてしばし口ごもった。読んで字の如(ごと)しなのだけれども辞書に載っていない言葉でもある。
 私が敬慕して止まない念腹(ねんぷく)先生に、潔子夫人を詠まれた「移民妻わらびを干して気品あり」「汽車を見ぬ三十年や茎(くき)漬ける」という句があると答えておいた。茎漬(くきづけ)とは蕪(かぶ)や大根の茎葉を塩または麹漬(こうじづけ)したものである。
サントスへ上陸、移民列車で奥地へ。すぐにコーヒー園での労働。妻にはその上に家事、育児がある。土地になっている青マモンをもいで漬け、アゼジーニャを摘(つ)んで漬けると味も色も梅に似ていて、これは今でもおむすびに入れると梅干しよりかえって美味しい。草梅と和名で呼ぶ。創意工夫をして食卓に載せるのも妻の知恵である。
 夫を助けての野良仕事、病弱の夫の代わりに六十キロのバタタを担いだ人も知っている。生きておられたら、みな百歳を超えている明治生まれの方々である。ひたすら家族のために身を砕き、辛抱強く喜んで生き抜いてこられた移民妻たちの姿を、そして六世を数えてなお連綿(れんめん)と続く移民の絆(きずな)をしみじみと心に刻む昨今である。


移民百周年

星霜百年夢と過ぎ
思へばはるか一世紀
星は流れぬ人去りぬ
先人の夢汗の跡
日系の民今安すし

南国の空青き春
山野に緑今深かし
思いも遠くしのぶれば
夢は今なをめぐりきって
嗚呼先人の跡いずこ

見よ南国の新天地
雲煙万里見よ広野
父祖が築きし今日の春
サビアーひた鳴き椰子しげる
今日日系の夢安すし
【名画なつメロ倶楽部 阿部志郎】

上塚周平氏の墓参り

サンパウロ中央老壮会 内海博
 ニッケイ新聞紙の記者が特集した座談会記事に上塚周平氏のお墓についてと、その周辺の事が記載されていたが、氏が亡くなちれて七十三年になる。当時葬式に参列された人はもういくらも残っていないであろう。そのいくらも残って居ない参列者の一人として当時の事を思いだしてみたい。
 私はその二年前の一九三三年父と共に農業移民の子供として、プロミッソン駅バラマンサ植民地の坂本律造氏のコロノとして就動していた。そして二年後、お葬式があった七月はコーヒー採集の一番忙しい季節であったが、坂本氏は親友であり、同志である上塚氏の葬儀に「何を置いても参列するように」それも村を挙げての総出動の号令。勿論父も叔父もほかのコロノの人も皆その準備をし心がまえをしていたが、コロノに雇われて二年の父はこのコロノの本分のコーヒー採取を大切に考え、「博、お前が行け。おれは明日も仕事をする」言い出した。言い出したらきかない父を知ってる母は「お前がお父さんの代わりに行きなさい」と言い、十二歳の私が父の代わりに、お葬式に行くことになった。いくら何でも、十七、十八歳ならともかく十二歳の少年に葬式の代理は無理だが、それ程農家の一日の労働力は大切な時代であった。そして母はいくら子供でもシャツのままでは恰好(かっこう)が付くまいと急きょその晩、自分のセルの羽織(はおり)をほどいて上衣を仕立ててくれた。
 母はそうした事の出来る人だった。その上衣の出来は決して悪いものではなかったが、何分にも未だ半分恥ずかしさの残る私はそれをいやいや着て、大人達と共にカミニョンのカロッサリアにのって葬式に行った。今どんなに思いだそうとしても、お葬式をどのようにすませたのか分からない。隣りの叔父さんのやるのを横目で見ながらお焼香(しょうこう)をすませたのだけは覚えている。何故かお葬式がすんですぐには帰らなかった。みんなあちらの方へ歩いて行くので、私はいやでたまらなかったが上衣をさっき乗って来たカミニヨンの縁にひっかけて、皆のあとを追った。しばらくして帰りとなり、皆カミニョンの方へ行くが自分がさっき上衣をおいた車と違う方向だ。
 「アッ、しまった。車をまちがえた」追いかけたが、その車はもうはしりだして子供の足ではおいつかない。呆然と見送るだけ。帰って母にお説教(せっきょう)を食らったのは言うまでもない。「お前が馬鹿な事をするから」と。上衣を失った事より自分の大切にしていた、日本から持ってきていた思い出の羽織が無くなった事への思いが強かったと、母の気持が解るのであった。
 この上塚氏の墓の近い所に運動場が有り、これが「コロニアの陸上発祥の地」という記録が残されているという。この競技場(けいしゃじょう)ははじめは傾斜(けいしゃ)の有る広場をそのまま使っていたのだが、それをプロミッソン管内の各青年会が勤労奉仕(きんろうほうし)をして、今のようにした。
 トラクターなど思いもよらぬ頃の事、エンシャーダやスコップで掘りおこした土を高い所から低い方へ運ぶ重労働で、各青年会は毎週毎週六週間位やったと思う。私は青年会でも年下の方で力も弱かったので水酌(く)みや土ならし等をさせられた、一緒に働いた人は数えてみたら、皆九十歳以上になっていて、述べ三百人位いた青年も今はいくらも残っていないであろう。もちろん上塚氏の葬式に参加した人も当時二十三歳でも九十六歳だと考えると、随分(ずいぶん)長い年月を過ごしたものだ。
 蛇足(だそく)だが今も植民地に在って、墓守りをしてくださっている、安永忠邦さんは当時盛んで有った青年会弁論(べんろん)部の雄弁家(ゆうべんか)でお互い弁舌を戦わした仲である。


百周年こぼれ話

☆百周年委員会から式典への申込用紙が送られてきた。「やっと来た!」とすぐに友人と六人分を書き込んで申し込んだ。配布日に受け取りに行ったが貰えず、結局六回も足を運んだが、何だかんだでダメ。とうとう式典には行けなかった。なぜ?思い出すたび腹が立つ。(佐藤)
☆「式典には行きたくない」とか「あんなのには行かない」と馬鹿にしていた人たちが大手企業に勤めている子や孫、某政府機関、某新聞社、福祉団体の有力者、委員会関係者に「入場券がいっぱい余っているから行かないか」と言われ、「あまり気乗りがしなかったけれど、「それなら行ってみるか」と行った所、「一番良い席だった」と自慢する。子の自慢、手づるの自慢、あ~ぁ、悔しい。(田中)
☆ガルボンで殿下をお出迎えしたがぜんぜん見えなくて残念無念。今度こそ、一目なりとも拝みたいと式典に勇んで行ったのだが老クの席はこれまたなあーんにも見えず。大写しのテレビ画面に手を振り、「皇太子さま~」と呼びかけた。あぁ、むなしい。その上、真ん中のブロックなので、アトラクションだけはバッチリかと思いきや、両脇(りょうわき)から出てきた目玉の芸能は右と左にわかれ、ほとんど目の前は空っぽ。でも、でも、多分、これが最後の移民祭だと思うが、海上自衛隊の堂々とした行進や吹奏楽にテレビの中の殿下の笑顔に、涙しつつ手がはれるほど拍手をした。(山崎)
☆百周年祭の団体舞踊に参加しました。当日、貴賓席の前だけは輪踊りすることになり、みんなの後ろについて緊張しながらも一生懸命踊りました。踊り終わり、軽くお辞儀をして顔を上げると偶然にも殿下と目がバッチリ合ってしまいました。殿下はニコッと微笑まれ、私はあまりの嬉しさに舞い上がってしまい、退場の方向を間違えてアタフタしてしままいました。朝、家を出て東洋会館で着物に着替え、一時にはバスで会場に向かいました。そして、出番までずっーと待って、待って、五時に踊り、夜、家に帰ったのが十時過ぎ。長いながーい一日でした。床に入っても責任を果たし終えた安堵感と偶然の幸運に興奮してしまい、なかなか寝付かれませんでした。皇太子殿下、素敵でした。(花田)
☆S・A老人会のM・K会長、自分が貰った一番いい席の入場券を老人会の高齢者に譲り、自分は奥様と一番悪い席の方に座っていたそうです。会員の老人が感謝してました。なかなか真似できないことですよね。(栗原)
☆百周年祭に裏方の一人として参加しました。私達の担当は、場外ということで六百人の仲間と共に出場者の人数確認、登場入口の案内と整理でてんてこ舞いでした。祭典が行われた二日間は朝六時半から夜八時半まで十四時間の間、会場に詰めました。雨にたたられて一日中レインコートを着て立ちっぱなしという結構きついものでした。舞台袖で見た自衛隊の行進にはよく来て下さいましたと感無量でした。私達六百人のボランティアの内、約四分の一が日系人でした。あとはブラジル人でその働きを大いに期待していたのですが、来ない人もいました。その点、日系人はきちんとしていて、やはり真面目さや責任感という資質が受け継がれていると強く感じたものでした。実際、前日まではどうなることかと心配でしたが、今はよくこれだけの事が出来たと裏方を務めた達成感と共に参加して良かったと心から思っています。(遠藤)
☆六月十八日、アニェンビー国際会議場で行われた移民大法要に老クの仲間と貸切バス三台で参加しました。いつもの事ながら、あの仏教歌の歌詞の意味を知りたいと思いました。そして、一緒に唱和して御霊(みたま)をお慰めしたいと思いました。できれば、読経も一緒にあげたいと思いました。毎年、法要に出席していますが、御焼香(ごしょうこう)だけでなく、みんなが一緒に読経したり歌ったりして参加する法要ならば、もっといいのにと思いました。プログラムを作り、その中に歌の歌詞やお経を入れてくれたのなら、誰もが一緒に唱え、歌えると思います。式典の前に少し歌唱指導などしてくれれば、滞りなく進むと思います。先人の苦労を思い法要に参加しながら感じたことです。(近藤)


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