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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2008年8月号

2008年8月号 (2008/08/09) 二十一世紀の自然環境に思う「記念日の苗樹」

レジストロ春秋会 小野一生
 二十一世紀に入って早くも八年目を迎えた。二〇〇八年と言えば、ブラジルにおける日本移民にとって意義(いぎ)ある移住百年を迎える記念すべき節目の年である。日系社会はもとより、日伯両国においてもその重要さを認識し、大規模な祭典委員会を組織し、あらゆる記念行事が展開されている。
 日本から皇太子殿下をお迎えして、ブラジルの大統領を始め国を挙げての慶祝(けいしゅく)行事に日系コロニアは湧きあがっている。
 思うに二十世紀の初頭にこの人跡未踏(じんせきみとう)のブラジルに渡ってきて開拓、開墾に奪闘努力(ふんとうどりょく)されあらゆる困難を克服し今日の確固(かっこ)たる日系社会を築かれた先駆(せんく)者に対し、心から尊敬と敬意を表するものである。
 かく言う筆者も今年早や八十才と言う年齢となり、歴史からみて移民二十年目に後続(こうぞく)移民児として、ここブラジルのレジストロ植民地の田舎で生まれ、自然に恵まれた環境の中で成長した。今、静かにその昔を考えると、現在では到底(とうてい)想像も出来ない色々なことがあった。
 原始林の中の細い一本道を通り、学校に通った頃には色とりどりの野鳥を眺めながら、又時には大小さまざまな野生動物が目の前を横切ることもあった。ピリキット、パパガヨ、大鳩小鳩、トヅカーノの群れであったり、猿やリス、鹿とかタツーたまには山豚と様々だった。
 住家といえば、一キロ以上も離れて点々と掘っ立て小屋が見えるだけ。こうした体験を積み重ね六十余年の歳月をそこで過ごし、今では都会生活をしているが両親がブラジルに来て粒々辛苦(りゅうりゅうしんく)の末に購入(こうにゅう)した唯一(ゆいいつ)の土地は今も手放すことなく保持(ほじ)している。今ではあの当時の面影(おもかげ)はなく、野鳥や野生動物は見ることはない。また、晴れた夜空には銀の砂子(すなご)を撒(ま)いたようにぎっしりと見えていた無数の星。南方の空には南十字星が輝き、頭上には羽音を立てて舞い狂うコーモリ、庭の近辺には闇夜を照らすが如き無数の蛍の明かりを見たのも懐かしい。遠い昔の想い出の一駒(ひとこま)だ。
 日本移民百周年という節目を迎えた今、長かったと言えば長い、短かったと思えば短かった。この六、七十年間の社会、全世界の変化は目を見張るばかりである。科学、医学、文学農業に到るまで世界規模の大進歩、大変革は我々の年代の頭では想像も及ばない。同調(どうちょう)しきれない発展ぶりである。
 こうした点から、一方では物凄(ものすご)い進化であるが、その反面では予想もつかない退化ではなかろうか。いかに文明が発達したとしても、生物には備わった自然の環境以外で生きて行くことは出来ないはず。現在の世の中ではその自然環境が驚く程失われているのではないだろうか。そうした事から現在では世界的大問題として、地球環境に付いてのシンポジュームが開かれている報道を見聞し考えさせられる。これまでの百年は何とか無事に過ごす事ができたが、この二十一世紀の新時代を担う我々の子孫に思いを馳(は)せてみた。
 そこで今回、傘寿(さんじゅ)を迎える私と喜寿(きじゅ)を迎える妻の誕生を祝して子や孫達が話し合い、大勢の知人、友人をお招きして誕生祝いを催してくれる事になった。その日にお出で下された方々に何を記念に差し上げようかと色々考えてみたが、中々「これは!」と言う適当なものが見つからず、考えた末、ふと思いついたのが樹木の苗である。色々な種類の樹の苗を差し上げ、庭または鉢植えにして頂く事であった。
 誠にお粗末(そまつ)な物とは思うが、地球上に住む一人の人間として現在の環境の状況から国民の一人一人が一本の植木をすることによって、今後の自然環境の改善(かいぜん)に何万分の一でも役に立てばと思いをめぐらせているのである。
 以上のような思いつきから苗樹を差し上げるわけである。
 ご受納(じゅのう)下されば幸甚(こうじん)の至り。有り難うございました。


ブラジルのオンサ(豹)

名画なつメロ倶楽部 阿部志郎
 ブラジルのオンサはブラジル人に似て怒らせると狂暴(きょうぼう)だが、ふだんはおとなしいヤツらしい。八十年前のブラジルには、そんなオンサがどこにでもいた。
 移民青年たちの回想談。ところはリンス平野植民地。時は一九三〇年代。私はまだ生まれていなかった。
 ある日、青年たち六人ばかりが集まって、「おい、あのクジャトバ山の上に鹿の通り道を見つけたぞ。隠れて待っていたら鹿を撃(う)てる」「それじゃあ、今夜は鹿肉のシュラスコが食える」と、それぞれ鉄砲をかついで出かけて行った。
 藪(やぶ)をかき分けて行ったら、なるほど細い獣道がある。藪の中に隠れて待っていたけれど、なかなか鹿なんてやってこない。「うーん。なかなか来ないなあ」「おい、誰か後の木に登って偵察(ていさつ)しろ」「よし、来た」と、T青年は藪の後の木によじ登って、手をかざして見渡すけれど鹿らしい姿はない。ふと、何かの気配を感じて後ろを振り向いたら、みんなが隠れている藪の後ろにもう一つ藪がある。その中に小牛ほどの大きなオンサが座ってこちらを見ている。とたんに頭から冷水(れいすい)をぶっかけられたようになった。「あいつ、おれの木登りの一部始終を後ろで観察(かんさつ)してやがったんだ。下に仲間が五人もいるもんだから手を出さなかったんだ」。早く降りようと、気ばかり焦って手と足が自由にきかない。
 気がついたら木から滑り落ちて尻もちをついていた。「なんて無様(ぶざま)な木登りをしやがるんだ」と、友達は怒る。T君は口をパクパクさせて腰が立たない。「い、い、いるんだ」「どこだ?」「うしろだ、後ろ」「後ろに鹿がいるのか?」「オンサだ。オンサ。小牛のようにすごいヤツだ」「バカヤロー。なぜそれを先に言わない」と、半分腰を抜かしてモタモタしているT君を抱えたり、こづいたりして、みんな後ろばかり見ながら一目散に植民地まで逃げ帰ったとさ。


村の福博寺由来記

スザノ福栄会 杉本正
 この度、老ク連福祉センター前に私たちの守りお地蔵さんが安置(あんち)されることからふと思いを馳(は)せて我が村、福博寺(ふくはくじ)由来(ゆらい)を書いてみる。
 ブラジル国内には日本の宗教宗派別に寺院が所々に建立されており、スザノ市イッペランジャ区福博村にも福博寺がある。六十四年前からのことであるが、当時の世話役であった方々は全員逝去(せいきょ)され、信仰心が薄く若かった私だけが居残っているということから書き残された記録と自身の記憶とを合わせながらまとめてみる。
 まず福博寺建立(こんりゅう)の動機と過程については、一九四四年、第二次世界大戦の酣(たけなわ)の頃、当村の在住者で大変信仰心の厚い津田彦作氏御夫妻がサンパウロ市ジャバクアラ市在住の榛葉(しんば)開教(かいきょう)僧師(そうし)宅に時折(ときおり)参詣(さんもう)しているうちに親交を深められ、これが機縁(きえん)となった。
 さらにカンピーナス市にお住まいの真言宗(しんごんしゅう)御詠歌(ごえいか)教師・島本菊松師の知遇(ちぐう)を得るところとなって一九四六年、終戦後に島本菊松師が中心となって、津田彦作氏および有縁(ゆうえん)の方々と共に福博村に弘法大師を奉賛(ほうさん)する大師講(だいしこう)を結成された。教師に島本菊松師を頂き、講員も十一人となった。
 ちなみに名前を記す(敬略)と、山田ハツ、小西アサエ、小野イチ、津田タイ、津田彦治、津田しげる、志垣文子、中野五月、高尾タノ、松村スギノ、津田彦作の方々で、御詠歌奉賛の集いの場所は各家庭を宿とされた。毎月行っておられたが、必然的に村内に一定の寄合所(よりあいじょ)が欲しいとの要望が高まってきたのであった。たまたまその熱意ある要望を原田敬太氏が聞く処(ところ)となって、自己の所有地約千平方メートルを寄進されたのである。これが福博寺建立の動機となって御堂(みどう)建立案が具体化された。
 発起人(ほっきにん)として、原田敬太氏、津田彦作氏、島田菊松氏、井上澤蔵諸氏が中心となって一九四八年十月、日本の高野山より真言宗金剛講スザノ支部の正式の認可を得ると共に御堂建設に着手され、翌年八月に完成をみた。
 一九五〇年に高野山本山より弘法大師御影像を下附され、正式に真言宗の寺院として認可されたのである。同時に講員ならびに御詠歌部員も三十一名になったもの。ちなみに現在では、御詠歌を詠ずる方はみな年老いて、若い方の跡継ぎはおらず、わずかに二名程となっている。
 ついで一九五二年八月二十一日に御来伯された東本願寺大谷光惕(こうてき)法王ならびに智子裏方様が福博寺に御巡錫(ごじゅんしゃく)された事が仏縁となって一九五四年五月に京都市東本願寺より南米東本願寺福博布教所の名称を受け、ここに福博寺は真言宗との併設(へいせつ)寺院となり今日に至った。
 さらに一九五七年八月に真言宗(しんごんしゅう)高野山(こうやさん)本山(ほんざん)より前田大僧正が御来伯された折、福博寺に御巡錫された。一九六七年八月に再度東本願寺大谷光惕法王ならびに智子裏方様が福博寺に御巡錫され、これを機会に福博寺には南米東本願寺別院より在住寺導師僧を派遣されたのであった。当時を思惑(しわく)すれば、東本願寺本山では当然種々の規定があったと思われるが、福博寺の如く他宗併設(へいせつ)寺院となったけれど、ブラジル国に日本からの宗教が入った草創(そうそう)時代の事で、あまり問題にしなかったと思われる。
 しかし現在では併設寺院には、寺に在住する導師僧(どうしそう)の派遣(はけん)は廃止(はいし)されている。従って催しごとをする春秋の彼岸祭(ひがんまつ)り、お釈迦(しゃか)さま生誕の花祭り、また個人ごとの法事などの仏事にも真言宗、浄土真宗共に本部から導師僧に来て頂いている。
 以上、福博寺建立の動機と課程について記してみたが、戦後ブラジルにおいて、コロニア農村植民地に仏教寺院御堂建立は嚆矢(こうし)とされ、かつ一寺院に二宗派の併設は、他の寺院には類を見られず、特に村の寺院として宗派的に拘束されることもなく、他村者の方々もあまねく参詣して頂こうとの意思のもと、現在に至っている。
 また当時は老人クラブも無かった時代で、お寺が唯一の憩いの場であり、やさしく社会情勢の話や年寄り向きの法話などをしてくださるお坊さんを中心に楽しく過ごさせておられた姿が浮かんでくる。


コーラス部こぼれ話

名画なつメロ倶楽部 田中保子
 毎週火曜日、早朝より二時間、キビシイ特訓(ホント)に耐えているコーラス部員の息抜き時間に、それぞれの結婚の経緯が話題になり、興味あるテーマなのでメンバー全員からもれなく聞くことになった。
 まずマエストラのMさんから「格別胸を焦がした訳ではなかったが、なんとなく寅さんに似ていたので結婚した。心安まると思ったし…」とのこと。ご主人の顔を見て納得。(オザブトンニナルトオモッタ)。
 Oさん、平凡な見合いの後、意気投合。熱々の大恋愛となり、両親の決めた予定日を待ち切れず早々にゴールイン。(オーアツイ)。
 M・Hさん。昔からの知り合いの息子さんと適齢期になって一緒になっただけ。(ホントカイナ。マッイイッカ)。
 名家の出のTさん。ハンサムな大学生に迫られて迫られて寄り切られた。(コレって、恋愛結婚の部類に入りますカネ?)
 M・Tさん。「平凡な見合い結婚でーす」。(ナゼカイバッテイル)。
 元花形アナウンサーのHさん。彼女の声に恋焦がれて焦がれ死した男性がいたとかいないとか。(広島方面の若い男性死亡率が高いのは彼女が原因カナ?)
 若手のSさん。失恋の痛手に自殺まで考えた末、白い花嫁衣装を着て雪原で死のうと思った。語るも涙、聞くも涙。だがロマンチックだけでは死ねなかった。聞いていた一同(生きていて、ヨカッタネー)。
 胸を燃やした男性に妻子のいることが分かったNさん。振りに振った男性とブラジルに来てしまった。「来てよかった」と言い切る彼女。(ウーン、コレはどの部類カナ?)。
 比較的年長のKさん。「小姑が三人もいては、お兄ちゃんに嫁のもらい手が来ないので、両親がお前はあっち、お前はこっちと、年末の大掃除のようにさっとと片付けられてしまって、気がついたらよその家で子供んでいた私だと…。(ナルホド)。
 T・Kさん。「お見合い結婚です」と言って、逃げて行ってしまった。(アララ)。
 えっ。ペラペラ書きまくっている私ですか?当時、燎原(りょうげん)の火のように吹き荒れていた共産主義の嵐の中で、徳球の一の子分と自称する男に追いまわされて、逃げ場を探していた時、ブラジル行きの同伴者を求む広告記事を見て飛びついて、ブラジルまで流れて来てしまいました。正直のところブラジルでもアフリカでもよかったし、TさんでもXYZさんでもよかった。幽明異(ゆうめいい)にする亭主殿「お許しあれ」。「ウン、分かっちょる、分かっちょる」。聞えたでしょ、皆さん。


私のペット物語 ⑮ 「ミミってお利口」

アチバイア清流クラブ 三木八重子
 昔々娘が誕生祝にと子うさぎをくれました。本当は家族全員怠け者で、自分の事だけをしていたいのに、口のついた生き物の世話なんて、「冗談じゃない」と心の中で思っているのに…心とは裏腹に「あらっ可愛いわねぇ」と、飼う羽目になり、名前をミミと付けました。
 まずトイレのこと。最初のおこぼれを脱衣場の一角に新聞をちぎって入れたところ成功。まれにサーラに1粒なんてことも有りましたが、一日中モグモグしているだけあり、回数が多く夜も二、三回いきます。用足しが済むと、主人の側からベットに爪を立てて飛び上がります。主人は裸で寝ているので、「アイテテテー」という叫び声を何回も聞きます。そして私の側に「ただいま帰りました」とばかりに私の顔を舐め舐めストンと、腕枕で眠るのです。
 食事は、ハム、ソーセージ、肉以外は何でも食べ、今日は一人だからカフェーは抜きと思ってもミミは戸棚の前で「おやつの時間よ」と催促のチンチンの格好をして待っているのです。草はほんのデザート程度を食べるぐらいです。人の話では屋内で飼う兎は虫歯になりがちだそうですが、幸いミミは虫歯になりませんでした。
 サーラの飾り戸棚の後が空いていてミミが通るのにちょうどよい通路となりました。ある日、「ミミー」と呼ぶと、通路の途中でスットンと寝転び、その仕草がなんとも言えないので思わず大声で笑いました。すると、笑って欲しい時は何度でもするようになりました。
 ある暑い日、お客様が見え、話に夢中になっていると、彼の肩に登って顔をなめ始め、兎だったのでびっくり。「猫だと思った」とのこと。後で分ったことですが、人をなめるのは塩分不足のためだそうです。家具、カーペット、レース編みに至るまで、何でも齧(かじ)るのには閉口しました。ある時は新しい靴を買ったらサイズが合わないので、明日取り替えようと思っていたら、朝起きてびっくり。齧られておじゃんです。これは兎の習性で歯が伸び過ぎるからだそうです。
 主人が電話を何回かけてもかからず、「停電か」と思ってよく見たら、何と線を齧っていたのでした。主人いわく「もう我慢ならない。家の中で飼っては駄日だ」。私と娘は泣く泣く、バラコン(作業所)に連れて行き、可哀相なので、同居者を一匹求めると一ヵ月後に子が生まれ、近くの人にあげ、また生まれあげの繰り返し。それも一回に十匹以上生まれるので、最後には皆さん「もういらない」と。
 家の周りで草は調達できたのですが、霜が降り、枯れてしまい、主人はフェイラで、くず野菜集めに翻弄。如何に私でも気の毒で、遠くに住む方が「貰ってもいいよ。食べるから」と。食べる習慣のない私たちはびっくりしましたが、「ミミだけは食べないで」というのを条件にしました。それにしてもミミの知能指数は猫以上でした。


大人も楽しめる紙芝居「~関東大震災~の巻」

 北海道当別高校から送られてきた紙芝居の内の一つです。学校や個人に貸し出しておりますが、老壮紙上でも随時(ずいじ)紹介したいと思います。なお、紙面の都合上、文と絵を簡略(かんりゃく)にしております。

 何十年も前のこと、関東地方に大変大きな地震が起こりました。関東大震災と言われています。震源地が相模湾の海の底だったので、鎌倉、横浜、東京、千葉方面が特に激しく揺れて、何万件もの家が倒れたり壊れたりしました。海外には津波も押し寄せてその地方の何百件もの家が押し流されました。
 大正十二年九月一日の昼少し前、東大地震学教室の今村博士は机に向かって勉強をしていました。ふと、先生の耳にゴオッーという、ものすごい音が飛び込んできました。「なんだろう。あの音は?」先生がそう思った瞬間、そばの地震計の針が急に噴き出しました。その動きはみるみるうちに大きくなって、部屋もガタンガタンと、大揺れに揺れ出しました。「うわあ、たいへんだ。これは大きな地震だぞ」。その時、余りの激しい揺れのために、地震計の針がピート外れてしまいました。地震はますます激しくなって、今村先生は床に叩きつけられました。少しして地震がおさまったすきを見て、急いで外に飛び出しました。そこは本郷の丘の上で、上野や浅草の下町の家並みが一面に見渡せました。地震が起こった時、どこの家でもお昼ご飯の支度をしていました。
 みんなびっくりして、火を消さないで外に飛び出しました。そのため火の上に物が落ちたり、家が倒れたりして、ほうぼうから火事が起こりました。 
困ったことに消火用の水が出ません。火事はどんどん大きくなってしまいました。
 道路は人と荷車でぎっしり。誰も彼も火から逃げようとして狭い道路はいっぱいになってしまいました。後ろから火の粉が風に乗って来て、辺り一面に降り注ぎました。
 そのうち、あちこちでしょっている荷物に火の粉が落ちて燃え始めました。人々は周りを火に取り囲まれて、折り重なって焼け死んでいきました。
 隅田川の橋の上には両岸から荷物をかついだ人たちが押し寄せ橋の真ん中でぶつかって、押し合いへし合いしているうちに、そこにも火の粉がどんどん降ってきました。
 それが人の体に燃え移って、大勢の人が火だるまになりました。
 下町の本所の人々は、早塚の工場跡の広い空き地が安全だと思って続々と逃げ込みました。しかし、ものすごく大きい赤黒い火柱の竜巻が起こり、
 「うあー助けてくれ」「あついよう。おかあちゃん、あついようーっ」
 火の竜巻は空き地にいた人々を一瞬の間に包み込んでしまいみんな真っ黒になって焼け死んでいました。
 上野公園は山の上の広い公園でしたので何十万人もそこへ逃げ込みました。地震が起こったとき公園の中の食堂から火が出ましたが、みんなですぐ消し止めたので、上野公園は最後まで安全でした。その公園から眺める下町一帯の空はものすごい火と煙に覆われて、それはそれは恐ろしい眺めでした。
 夜になると悪いうわさが広まったので、男の人たちは棒を持って、夜通し警戒しました。こういう時にはよくこうしたでたらめな話が乱れ飛ぶものです。だまされないように注意しましょう。
 関東大震災のことが外国に伝わると、アメリカの人もヨーロッパの人も非常に驚いて早速日本にたくさんの見舞いを送ってくれました。
 再び街に水道の水が出るようになり、街に電灯が灯ったのは地震が起こってから五日後のことでした。人々は焼け跡にバラックの小屋を建ててやっと元の暮らしに戻りました。関東大震災はこれまでに世界で起こった地震のうち最も被害の大きかったもので、死んだ人は十四万人を超え焼けた家は四十万戸に及び、潰れた家は十二万戸を上回りました。
 皆さん、もしまた大地震が起こったら、落ち着いて誤りのない行動をとって下さい。中でも火事だけは出さないようにくれぐれも注意をしましょう。
 北海道当別高校から送られてきた紙芝居の内の一つです。学校や個人に貸し出しておりますが、老壮紙上でも随時(ずいじ)紹介したいと思います。なお、紙面の都合上、文と絵を簡略(かんりゃく)にしております。


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