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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2008年9月号

2008年9月号 (2008/09/01) 最愛の人を見送って

ビラソニア老壮会 井口たき子
 連れ添って六十二年、いつの間にか経てしまいました。一九四六年に結婚し、四八年に長女、五〇年に長男、五三年に次男を儲けました。その間、夫は第二アリアンサ産業組合に勤め、五六年には出聖し、南米銀行ピネイロス支店に勤めていました。
 五七年に次女を儲け、家事に内職に必死で働く毎日でした。その頃、ポッソ・デ・カルダス、クリチバ、リオデジャネイロ、キロンボと色々な旅行に夫は一人でサッサと出掛けてしまいました。「たまには私も行きたいわ。子供も一緒に連れて行って」と言うと「子供が小さい時は仕方が無いではないか。そのうち行ける時が来るよ」ですって。しょんぼりして、もしも、もう一度生まれ返ってきた時は、もっと思いやりのある人と…と、深く心に決めていました。そして、よその御主人が子供さんを抱き奥様と連れ添っている姿ばかりが目に付きました。
 そのうち我が家の子供も大きくなって、それぞれ好きな所へ行くようになりました。私も友だちに旅行に誘われるようになると夫は「あぁ、行って来い」と、一度も嫌な顔はしません。そのうちにだんだんと私の方が出る回数が多くなってくるに従って「やっぱり、この次に生まれ変わっても主人と一緒がいいかなぁ」と苦笑する始末。
 その主人が庭の手入れも休み、ソファーに寝そべってばかり、テレビも見ているのやら見ていないのやら。それが四、五日も続くので、子供に話してサンタクルースのプロント・ソコーホへ行って観てもらいました。どこを調べても悪い所は一つも無いと言います。「もう、帰ってもよろしい」と、ソーロ(点滴)を二本打って貰って帰ってきたのが土曜日。「二日もしたら治ってしまう」と医者は言います。でも日曜日もさっぱり元気が無く、大好きな新聞も開かないまま。月曜日は六月十六日で、皇太子殿下がブラジル訪問の為に日本を出発する日です。うつらうつらしていた主人がぱっと目を覚まして「今、きれいなお車が止まったので、ジッーと見ていたら皇太子殿下が降りられた」と、目を輝かせて話していました。そしてその日は元気が出て、一人で髭(ひげ)を剃り、引き出しを整理して、夕食はメーザ(食卓)で皆と一緒に食べ、リンゴのジュースを飲みました。「お風呂へ入るのだ」と、丁度帰って来た息子に連れられて、風呂場で洗っているうちにだんだん意識が無くなってそれっきり。呼んでも頬っぺたを叩いてもダメ。息が途絶えてしまいました。
 人間の命って、こんなにも簡単にこと切れるものでしょうか。
 楽しみにしていた二十一日のサンボドロモでの百周年記念祭、皇太子殿下のお出迎えには、主人の写真を持って行きました。ショボ降る雨の中、上着の合間からそっーと写真を出して見せてあげました。写真がニコニコしているようでした。
きっと、今頃は二十歳まで生まれ育った埼玉の生家にいるのでしょうね。八〇年に二人で帰った時は、そこで泊まりましたね。一番上の兄さんが喜んで、そこら中案内して下さいましたね。二百五十年も続いた旧家で、東京大震災の時には庭の金魚はみんな外へ放り出されたそうですが、揺れれば揺れるほど深く嵌まっていく家の造りで、大阪から取り寄せた瓦は一枚も落ちなかったとか。でも、九〇年に帰った時は、お兄さんもおらず、甥も横に新築した家へ移っていましたね。あれから十八年、すっかり変わって、目をパチクリしているかしら。古里を楽しんだら、また、すぐこちらへ帰ってね。そして私たちの側にいてね。私たちはいつも貴方に守られていると信じているのよ。どこにいる時もどこへ行く時もいつも貴方と一緒と心強く心強く思っておりますよ。


お地蔵様開眼式あれこれ

名画なつメロ倶楽部 田中保子
 準備係としては、お地蔵様除幕式は目出度いことと思っておりましたので、紅白の幕を用意したのですが、その筋より「赤はアカン」とのお達しで、急いで白幕に変え、赤いリボンも除きました。
 「美しく花で飾るように」とのことでしたが、花買出し係が選んだ赤いバラの花も取り除きました。
 参列者のお焼香はお香を一つまみだけ一回、「一心をこめて」の由。
 お地蔵様は閻魔様の化身とのお説法でしたが、にわかに信じられない思い。「エーッ」と参列者の間からも声が上がりました。
 仏教関係のこのような行事には「イナグラソン」(開会式)とか「テープカット」等の横文字は使用しないとの事。序幕が済んだお地蔵様に百周年のため、はるばる祖国日本から運ばれた清らかな六甲のお水を参列者一同で掛けました。
 作成した小嶋さんは毎日、精進潔斎して、お経を唱えながら石を刻み続けられた由。「延命・長命・水子供養も先祖供養も全部祈願してあります」と仰った。小嶋さんの厳粛(げんしゅく)な面持を見ては、とても「コロリ地蔵」等冗談にも言える雰囲気ではありませんでした。
 老ク連に出入りの皆様、お地蔵様にお花とおつむにお水をどうぞ。また、おみ足の前に器があります。皆様のお気持ちをどうぞ。


ミステリー蛾

サンパウロ鶴亀会 井出香哉
 三週間前の夜、私の部屋に黒い大きな蛾が飛んで来た。部屋の中を音も無く飛び廻り天井に止まった。逆さにぶら下がった姿はさながら蝙蝠(こうもり)である。
 それほど大きな蛾だった。捕まえるには天井が高すぎるので、手拭(ぬぐい)を振り回したら、階下へ逃げて行った。が、それから毎日、夜になるとやって来る。
 私がテレビを見ていたり、本を読んでいると、目の隅を黒い影がスッと横切る。逃げるかと思って、寒いのを我慢して昼も夜も窓を開け放しておいたら、嫁が心配そうに「どうしたのか?」と聞く。理由を話したら「なんだ、蝶ちょか」という顔をするので、私は「あれは蛾で、私のお婆さんは『蛾は不吉な虫で家の中に入るとその家には悪い事が起きる』と言った。だから外に逃げるように窓を開けている」と説明した。
 すると、嫁は「それなら殺虫剤(さっちゅうざい)で殺さないと」と言うので、殺虫剤を撒(ま)いてみたが一向に効かない。昼間はどこにいるのか分からないが、夜になると現れる。
ある夜、隣の部屋へ飛んでいったので、急いで戸を閉めて息子に電話した。「隣の部屋に閉じ込めたよ」「ふーん」「『ふーん』って、それだけか?」「そー」そっけない返事で、息子が捕まえてくれると思っていた私はがっかりしたが仕方が無い。明日になれば少しは弱るだろうから、捕まえて捨てに行けばいいだろうと、明日を待った。
夜中に戸にぶつかる音やカサカサという音を聞いた。朝になって、そっーと戸を開けて、部屋中を探したが影も形もない。息子に「居なかったよ。あれは悪魔だよ。蝶ちょはどのくらい生きるのだったかしら?」と聞いたら「知らん。そのうち死ぬからほって置いたらいいよ」というのんびりした返事が返ってきた。何となく納得。
今でも夜になると黒い影が音も無く目の隅を横切って行く。


ピアーダ(ジョーク)

レジストロ春秋会 大川徳次郎
 ある家庭のパパイは犬を飼わせないので子供達は不満。今日はパパイの誕生日。みんなでレストランへ行って、多いに飲み食い。
 いざ、帰ろうとした時、残り物があったのでパパイはガルソンを呼んで「犬に持って帰るから、全部包んで」と…。
 それを聞いた子供達は「わーい、わーい。パパイが犬を飼ってくれる!」。ビーバ!万歳!


息子健介が遺していったもの ① 「全てをスナオに受け入れ、『ありがとう』」

サンパウロ中央老壮会 徳力啓三
 長らく病気療養中であった次男健介が急に亡くなりました。二十一年前に発病して以来の闘病生活でした。
 昨晩までいつもと変わらぬ状態であり、朝、私が目が覚めた時も大きないびきが聞こえていて、何ら変わったところはありませんでした。
 一月十五日火曜日、九時半頃、妻が健介を起こしに行ったところ、口中に茶色っぽい液体があり、異常を感じた妻は階下で働く家族を呼びました。駆けつけた時には、もう呼吸も出来ない状態で、皆で「健介」「健介」と連呼しながら、救急車が来るまで心臓マッサージをしたり、背中をさすったり、手足をもんだり、脈をとったり、知っている限りの看護を尽くしました。おろおろしながらも必死の介抱を続けましたがそれが最後の別れになってしまいました。病院で誰にも看取られずに逝ってしまうより、健介にとっても私達にとってもまだ温かかった体に触れ、看護出来たことで諦めのつく良い別れとなりました。
三十七歳という普通なら男盛りの年で逝ってしまいましたが、彼は生まれた時より片目は見えず、他方も強度の弱視、十六歳の時、神経腫瘍の発症以来、十九歳の時に最初の大手術を受け、それより数度手術する度に後遺症が残り、耳が聞こえなくなり、その後一つ又一つと五感がなくなっていく恐怖と戦いながら、本当によく生きぬいたと思います。普通の人と比べたらその生き方の密度において何倍も生きたことと思います。
 最後の手術は昨年九月、四月頃より徐々に痩せ始め体から肉の部分が消えてゆきました。少しでも栄養をとり体力をつけるようにとの外科医の判断による胃ろうの手術でした。脳内の腫瘍がまたまた大きくなって来ており近々の大手術の準備でした。口を通して食物をとらぬようになったら、今度は話も出来なくなってきました。だんだんと話せなくなり、看護をしている私ら親でさえも何を言っているのか分からなくなってしまいました。体は更に細ってゆき、息を吸うことさえいつも痰がからみ、ゼーゼーと痛々しくなっていったのです。 健介はそれでも不平不満を言わず、看護する人に文句も言わず、すべてを素直に受け入れ、その中で、看護する人に「ありがとう」と言い続けました。寝る時には三度も四度も「ありがとう」を繰り返し、言葉が使えなくなってからは、手話で幾度も幾度も「ありがとう」を繰り返しておりました。こんな調子で、自分なりの生き方を続け、自分の生を精一杯生き抜いていきました。頭の方は最後まで鋭利、口に出さずとも、皆の動きをちゃんとキャッチし、自分の置かれている状況をはっきりと分かっていたようです。
 最後の瞬間も、どうやら自分で決めたようで、もうこれ以上生きていると周りの者に迷惑が掛かると思ったのではないかと思うほど、きれいにあっさりと一挙に幕を引き、あちらの世界に悠然と帰って行ったのではないかと思う程です。本当にアッと思う間もない一瞬の出来事。最高の演出で、皆を満足させるように、いつも世話をしている家族が全員そろっている時間を選び、皆がベッドの周りに集まった時はまだ温かく殆ど苦しみもなかったように見受けました。
 彼の生き様を知る人は少なく、少数の友人しか葬儀に来てくれないだろうと想像しておりました。ところが、家族の口からその生き方が伝わっていたのか、通夜には夜分にもかかわらず百人を越す人が集まってくれ、棺に収まった「穏やかな彼の顔」にだれもが感嘆していました。
 お経を上げてくだっさった日伯寺の若いお坊様まで、「よほど良い生き方をされたのでしょう」と涙ぐまれながら枕経の最後の言葉としてお通夜を締め括って下さいました。(「倫理の会」会報より)


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑭ 山本周五郎の世界
 近年、高齢化現象が進んだせいなのか、誠に涙もろくなってしまい、ビデオ映画を見ていても画面が霞(かす)んで見えてくる始末である。本を読んでいても例外ではなく、特に山本周五郎の下町を舞台にした世話もの風の短編になると、もう瞼(まぶた)が濡(ぬ)れっぱなしで、活字すら判読出来なくなり、涙が乾くのを待って読み直すことになる。
 山本周五郎は、およそ文学を志すような者が好んで私淑するようなカリスマ性を持つ作家とは言えず、また本人自身も自ら文壇の枠内には身を置きたがらなかった大衆文学の担い手であるが、普段には文学などとは余り縁のなさそうな立場の人たち、特に女性からは圧倒的な支持を受けている稀有な存在の人である。初期の代表作とされている「日本婦道記」は厳しい武家の定めの中で、忍従の生活を送った日本女性の強靭さを描いたものであるが、やや封建性を美化し過ぎた面もあり、私にはそれほど素直に共感出来なかった。
 戦後の作品は武家もの、下町もの、現代ものの三つに大別されよう。武家ものでは、いわゆる寛文事件と原田甲斐の苦悩を堀り下げた「樅の木は残った」、お家騒動の渦中(かちゅう)で生きることに真正面から対決する三浦主水正を描く「ながい坂」。田沼意次の政治手腕(しゅわん)に焦点をあてた「栄花物語」などの長編があるが、歴史では悪人扱いを受けている人物を、別の面から解釈(かいしゃく)を試みた小説作法は甚だ斬新であり、作品の幅を広くしているものである。短編も数多いが、「若き日の摂津守」「大炊介始末」「その木戸を通って」「花杖記」のほか、「ひやめし」「饒舌り過ぎる」「おしゃべり物語」「日々平安」「末っ子」などのユーモラスな作風も捨て難い味がある。
 現代ものは数にするとやや少ないが、三文文士の目を通して漁師町浦安の人と風物を哀感を込めて綴った「青べか物語」、自伝的な回想記「季節のない街」という傑作のほか、異色の探偵小説「寝ぼけ署長」などがある。
 しかし、山周の真骨頂はやはり何と言っても下町ものにあることには誰しも異論はあるまい。二、三〇〇年もの昔である江戸の下町の庶民の世界が、この名人の手にかかると息づくような情緒とともに、現代に甦ってくるのである。
 ある講演の席で山本は「慶長五年の何月何日に、大阪城でどういうことがあったか、ということではなくて、その時に道修町のある商家の丁稚がどういう悲しい思いをしたか・・。その悲しい思いの中から彼がどういうことをしようとしたか、ということを探求するのが文学の仕事だ」と述べているが、庶民に仕えるという創作精神は作者の仕事に一貫している。したがって下町ものの佳作は余りに多すぎて選択に迷うが、好みから挙げるならば、大火によって両親と実家を失ってしまった大工の若棟梁・茂次と、孤児たちの世話をやくおりつとの交情が胸を打つ「ちいさこべ」、反骨の医師・新出去定を主人公とし、保本登の人間的成長を様々の患者との対比で描いた「赤ひげ診療譚」、愚直な男の一途の心意気が幸福に通じる「むかしも今も」、人間不信に陥った栄治の苦悩をやさしく見つめる「凍てのあと」、性悪な情夫から抜け出せない女と彼女に純情を捧げる男「ほたる放生」、岡場所ものの秀作「つゆのひぬま」、やり切れなさがつきまとう「しじみ河岸」、倦怠期(けんたいき)にある中年夫婦の日常の一こまを描いて感傷的な「並木河岸」、このほか長編の「さぶ」も力作だし、推理小説風に仕上げた「五弁の椿」も個性的で忘れがたい。
 山本周五郎の作品の多くは映画化されているが、これはやはり作者のストーリー・テラーとしての才能の非凡さを立証(りっしょう)するものであり、特に「椿三十郎」「赤ひげ」「どですかでん」と黒沢明が三本も映画化しているのは注目される。
 下町ものの後継者としては、このあと藤沢周平が出てきてフアンを喜ばせたもので、その後しばらく途絶えていた感があった。しかし、近年になって山本一力、宮部みゆき、北原亜以子などの若手が次々と現れてきており、将来が期待されていることは頼もしい限りである。


今(いま)

嶋野榮道
 日本人を母親にアメリカ人を父親に持つJさんが、この春、得度(えとく)して尼僧になった。二十七歳の若さなのに、ひととおり以上の人生体験をしてきたようだ。そのJさんの左の耳の下には一センチ程に入れ墨があり「今」とある。気になっていながら理由を聴く機会もないまま秋になってしまった。先日ゆっくりと「今」の由来を聞いてみた。
十八歳になった時、両親に「今日からもう大人なのだから、自分のことは自分で決めて責任を持ちなさい。しかし、若し困った時は何時でも帰ってきなさい」と言われ、彼女はアパート暮らしを始めた。ファッションの業界で働いていた時、その会社は従業員は全員独創(どくそう)的でなければいけないという方針であった為、毎週、髪の毛をピンクに染めたり緑に染めたり、時にはピヤシングを顎とか鼻の穴につけ、とにかくやりたいことを誰にも遠慮せず自由奔放(ほんぽう)にやって暮らしてきた。その間婚約もし、フィアンセと共にドイツに渡り、昼間は異国での孤独を紛らわせる為パンクスタイルでベルリンの町を闊歩(かっぽ)した。
「何か大事なものを忘れたまま走っている」と思いつついつしか行き詰まる。ある時、母親と女同士の深刻な話合いの中で、母親が「今は大変だろうけれど、何時かきつと良い事があるよ」と励まし、母の祈りも込めて「そして、たぶん、いつか」と日本語で書いてくれた。母の祈りであり、自分の願いでもあるこの言葉を思い切って背中に入れ墨をした。以来「たぶん、いつか」は脳裏(のうり)から離れることなく時は流れた。
縁あって初めて坐禅(ざぜん)をしたのは三年前の事であった。その時
生死事大(しょうじじだい)
無常迅速(むじょうじんそく)
光陰可惜(こういんおしむべし)
時不待人(ときひとをまたず)
生死の問題を解決するのが一番大切な事である。全ては刻々変わり時は容赦なく過ぎて行く。今をしっかり生きなさい。という古来からある偈(げ)を初めて英語で聞いた。滂沱(ぼうだ)たる涙が流れたという。仏縁と申すべきであろう。それから坐禅の修行に入ったが、それは彼女の以前の生活とは全く次元の異なるものであった。禪堂(ぜんどう)での規則正しく質素な生き方、毎日が充実した生活に魅せられ、遂に「たぶん、いつか」と夢見ている限り、絶対に本当の将来はないと言う結論に到る。瞬間瞬間に情熱を迸(ほとばし)らし、現在を充実させる事だ。来るかどうか分からない未来で自分をごまかす根性では今を生きる事はできない。そこで母親の祈りと自分の願いであった「そして、たぶん、いつか」を完全に否定して、両親に出家の意志を告げる。親は「未だ若いのだから急いで尼にならずに人生のいろいろのことを学だ方が良い」と諭したが、彼女の決心は固かった。「大人の貴方が決めた事だからそうしなさい。」と言って出家を許してくれたそうである。
そこで耳の後に「今」と入れ墨をし、座右(ざゆう)の銘とし、毎日鏡に映しては自分に言い聞かせているという。(大菩薩まんだらⅢより)


大人も楽しめる紙芝 「飛び出せダイゴローの巻」

 皆さん、これがダイゴローです。このダイゴローときたらカナリアのくせにちっとも歌わないし、朝から晩までボーッとしていてごろごろしているものだから、だるまみたいに太ってしまいました。
 楽しみといえば、好きなものを食べることくらいしかないのです。「ああ、たまには外で思い切り遊びたいなあ」ある日、カゴのそばに雀がやってきました。「スズメ君、食事でもどうだい。」「ホーッ、こりゃごちそうだ。」「君がうらやましいよう。どこにでも飛んで行けて。」「とんでもない。何もしないでおまんまにありつける君の方が幸せだよ。」「僕は外の世界を自由に飛んでみたいんだ。」「それほど言うなら出てみるかい?」雀はくちばしの先を使ってカゴの入口をチョンと開けました。
 ダイゴローはいさんで飛び立ちました。おっとっと、危ない。何しろほとんど飛んだことがないダイゴローです。「おーい、待てようーっ。」雀のなんと早いことでしょう。それにあんなに高くは飛べません。雀が注意しています。「もっと高く飛ばないと危ないぞーっ。」キキキキーッ!危ない!ダイゴローはあまり低く飛んでいるので今にも車にぶつかりそうです。墜落しそうになったダイゴローを雀がやっと助け出しました。
 町はずれに来たとき雀が何かを見つけました。「さア、いいものをつかまえたぞ。食べてごらんよ。」大きなミミズでした。「エーッ。これを食べるの? 気味が悪いよ。」雀がせっかくつかまえたのにダイゴローにはどうしても食べられません。「じゃあこれなら食べられるだろう。」雀はゴミの中からキャベツの芯を見つけるとダイゴローに勧めました。ダイゴローは嘴(くちばし)でちょっとつついてみましたが、「僕には硬すぎるよ。食べ物はもういいから、水のあるところに連れてってよ。喉がカラカラなんだ。」
 雀とダイゴローは港の倉庫のそばの水たまりにやってきました。「おいどうしたんだい。早く飲みなよ。」「だってこの水汚いんだもの。」雀はちょっぴり怒ってしまいました。
 その時、水たまりの上をササッーとトンビが横切りました。「来た!逃げるんだ!」雀は叫んだかと思うと一目散に逃げ出しました。
 ダイゴローはどうしたでしょうか? おやおや、飛び立つことができなかったダイゴローはごろごろ転がって倉庫の陰に隠れたのでした。あーあ、ダイゴローったら泥だけではありませんか。
 「ああ怖かった」ダイゴローはやっとの思いで鳥籠まで戻ってきました。
 ダイゴローはその夜、ぐっすりと眠りました。
 次の日からはいつもは食べ物の好き嫌いの激しいダイゴローが出された餌は何でも食べるようになりました。
 やっぱり鳥籠の中がいいと諦めてしまったのでしょうか? いやいや、そうでもないようです。皆さん、見て下さい。
 ブランコにぶら下がったダイゴローがそれを鉄棒がわりにして顔を真っ赤にしながらトレーニングに励んでいるではありませんか。ダイゴローったら、また外に出ようというのでしょうか?
 次の冒険に備えて、体力作りでもしているのかも知れませんね。
 がんばれー。


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