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熟年クラブ連合会
     エッセイ  (最終更新日 : 2019/02/15)
2008年10月号

2008年10月号 (2008/10/14) 翼よ、あれがサントスだ

名画なつメロ倶楽部 田中保子
 当日の朝、夜来の嵐がやむ気配も見せず、憂鬱(ゆううつ)になった。何とか傘だけで間に合わせることが出来ないものかとギリギリの時間まで玄関でねばった甲斐(かい)があり、少しずつ晴間が見えてきて、愁眉(しゅうび)を開いた。折角の招待なので、身軽に出かけたかったのである。今日はJAL招待の遊覧飛行の日である。運良く、当選の報せを受けた時は思わず電話口でバンザイと叫んでしまった。
 空港には一時間前に既に大方の人々が集合して、受付を待っておられた。列の中に友人知人の顔が十指に余る程。半世紀近く在伯していると、こういうことなのか。挨拶、アブラッサ。近況を語り合うことで大忙しであった。傑作は知人の一人が「どうしても家内と入選したかったので、家内は一度も日本へ行ったことがないことを強調して応募したとのこと。「ついでに空港に来て、日航機を見て涙を流して暮らしていた」と書けばよかったのに、と笑った。
 登場前の開会式で、JALの西松社長より「日本移民百周年」と「日航による日伯定期便三十周年の記念で、ブラジルと日系人に対する感謝の企画であることの挨拶があった。
 今回、エンブラエルから十機のジェット機を購入し、今日の飛行機も実際、このラインで使われる飛行機の由。そのため、パイロットもわざわざ日本から来たそうです。
 来賓代表の西林在聖総領事のお祝いの挨拶の中で「日本でのブラジルのイメージは、サンバ、サッカー、アマゾンに尽きるがブラジル製のジェット機が日の丸を付けて、日本の空を飛ぶのは非常に愉快なことである」と述べた。
 機内のエグゼクティブの席は高齢者のようでした。主催者側の配慮と思った。二室のビジネス級の席は前後左右ゆったりして、操作に依って簡易ベッドにもなり、エコノミー席に座った友人から大いに羨ましがられた。
 搭乗中の注意があり、就航三十年の歴史のビデオ上映があった。一九七八年当初は、成田―アンカレッジーニューヨーク―サンファン―サンパウローリオデジャネイロと飛び継ぎ、一九八一年からマイアミ経由。一九八四年、ロスアンゼルス経由、一九九九年よりニューヨーク経由となり現在に至っている由。
 機内では女性職員は六代目から九代目までの制服を着用。男性職員はJALの法被(はっぴ)を着てサービスに当たっていました。
 リオまでの間に軽食の提供があり、リオ上空では空港管制塔からの特別許可を受けて旋回し、機の右に左に絵葉書で見るような美しい海岸線や市街地を見ることが出来た。
有名なポンデアスーカルも小さくちょこんとした感じ。席が翼の上なので、あちらこちらへ移動して窓から見た。
 サントス周辺に詳しい伯人の夫人同伴の方が色々説明して下さったが、終始奥様がニコニコしておられたのが印象に残った。
 初めて上空から見たサントスはミニアマゾンの如く、大小の川がクネクネと蛇行してサントス湾に注ぎ多くの移民が上陸した波止場も「あの辺がそうだ」と言われても定かならず。唯もう海を渡って四十数日をかけ異国に辿り着いた自らの勇気を一人密かに讃えたことであった。


鍬ダコ・ペンダコ

サンパウロ中央老壮会 栢野桂山
 十一歳から八十歳までの七十年間の百姓のかたわら、四十余年は農協関係の仕事にかかわってきた。そのミランドポリス農協の事業であるミナス州の共同コーヒー農場は大きな成功を収めた。
 コーヒー採取機四台、自動コーヒー選別機まで備え、除草はほとんど手鍬は使わず、除草機を使っていたほど、機械化した耕地だった。
 その耕地は成功したが、果実の加工場の方は様々な不運な影響を受けて、閉鎖のやむなきに至った。
 その中の責任者として、その責を取り辞任。子供らの住むサンパウロへ出てきた。農協時代、毎日弁当を作り、コーヒー園や養鶏場の運営など見てきた老妻が、口癖のように「六人の子供の住む近くに移りたい、移りたい」と言い続けていたが、奇しくもそんな妻の願いを叶えてやることに繋がった。
 さて、移転したのがサンタクルース日本病院近くのアパート六階。毎日エレベーターで乗り降りする狭い部屋の生活は、奥地の自然の中で緑に包まれ小鳥の囀りを日々聞く生活を送ってきた者にとっては息が詰まるようであった。そのため、家を買って移ったのが、同じサンタクルースのメトロの駅の近くにあるヴィラの平屋である。家のすぐ前から無料のバスが出ていて、好きな所へ行くことができる。近くの角を曲ると、これも高齢者優遇で無料のメトロに乗れる。メトロでもバスでも老体ということで、すぐに席を譲ってくれ、ありがたい国柄である。駅周辺にはパン屋、銀行が六、七軒、日本品の店、食堂、肉屋、バール、日本料理店などがひしめき合っている。
 毎朝パンを買いに行く時、駅の周辺の緑の街路樹がバスや車の埃、騒音に耐えながらも色々な小鳥のさえずりを聞かせてくれて、街中では数少ない自然の安らぎを与えてくれる。
 駅近くのピポカ(ポップコーン)屋に群れる人々の足元には、これまたハトが群れてこぼれたピポカを啄(ついば)んでいるが、あわや人々に踏まれそうになる。
 老妻が狭い庭に咲かせている種々の花や、万両(まんりょう)、南天(なんてん)に朝々、水をやるのだが、その三和土(たたき)のこぼれ水を待ちかねたようにハトどもが来て喉を潤している。これも朝の可愛い風景で、私の心を和ませてくれる。
 その住居の二階の窓辺の机で、俳句を作り、毎月の「のうそん」誌や「老壮の友」俳壇の選句や送られてくる俳句の添削などをして、結構、多忙な日々を送っている。
 十一歳から八十歳まで、鍬を放した日はなく、その百姓の勲章というべき鍬ダコが消え、俳句三昧の日々で、ペンダコが中指の先にできてから久しい。これからは作句の勲章として、このペンダコの指をさすりながら、余生を送ることになるだろう。


生と死の狭間で

レジストロ春秋会 大岩和夫
 「病院に行こう」と、息子に半分抱えられるようにして車に乗せられた。五月七日の午後から急激に痛みだした左くるぶしがいっぺんに腫れて地につけることもできない。大分以前から左足の親指と第二指の先端に異常な痛みがあり、何人かの医師に診てもらったが「リウマチか神経痛だろう」と、痛み止めの錠剤を処方され、それを飲んで凌(しの)いでいたが、今度は足首まで痛くなって腫れてしまったのである。
 病院に着くと、車椅子に乗せられ受け付けも素通りの急患扱いで、診察台に乗せられた時は、呼吸は吸うだけで吐くことができず苦しい。一瞬、これは死ぬんだと思っただけで、あとは覚えがない。
 気が付いたのは、翌日の午後もだいぶ遅くなった頃だった。あっ! 俺はどこにいるんだ? 咄嗟(とっさ)には思い出せなかった。「入院したんだよ」と家内の声で我に返った。家内と息子三人がいた。
 ひどく尿意があり、側にいる息子に「小便がしたい」と言うと、「そのままでいいよ」と言う。何のことか分からずにいる、「ソンダ(ゴム管)が尿道に入れてある」という。「小便のたれ流しか」とうんざりした。右手を動かそうとしたらチカッと痛い。何のことはない、ソーロの針が固定されてあり、枕元にソーロの瓶がぶら下げられ、点滴を受けているのだ。一体どうなったんだろう? 家内が説明してくれた。
 病院に着いた時は血圧が二十二にも上がっていたし、酸素が不足して呼吸困難になったため苦しかったのだという。一晩と半日は意識がなかったということだ。あれ程痛かったくるぶしは痛くなくなっていた。足が痛かったのは、血液の循環が悪いためだったからと、血の巡りを良くする錠剤を一度に四錠も日に三回、看護婦に飲ませられた。その後は、混沌(こんとうん)というべきか朦朧(もうろう)というべきか、半睡状態だった。
 食べ物は初日には少し食べたように思うが、あの塩気抜きの病院食は、三日も四日も続くとうんざりしてしまう。医者も「食べよ」というし家内も一口ずつ匙で口に入れてくれるのだが、仕舞いには臭いだけで胸がむかつくようになっていた。
 入院三日か四日目、主治医が交代して二人部屋に移された。そこは静かな部屋で先客が一人おり、それは思いがけなく最近知り合った門さんだった。妻のミチ子さんが付き添っていた。喘息(ぜんそく)で入院しているという。部屋が変わっただけで気分的に随分良くなった。
 何しろ前の部屋は四人部屋で次々と患者が入り、足を折ったという一人の男は、ひどいアルコール中毒患者で、二日二晩喚(わめ)き散し、悪口雑言(ぞうごん)の限りを尽くし、最後は医者が特別措置をとった程であった。その他の患者にも絶えず面会人が多く、騒々しいところだった。
 入院五、六日目はほとんど無我夢中であった。部屋が替わって二日目だったと思う。食欲が無くなったのを見て、医者は流動食を入れるゴム管を鼻口から差し込んだ。あぁ、今度は本当に俺はだめなんだなぁと呆然とした。息を吸っても吐いても鼻の奥が痛い。まして声を出して喋ろうものなら涙が出るほど痛い。これはもう駄目だ。あの老ク連から借りた方は返さなくてはならない。あのコロニアピニャールの天野図書館から借りた本は…。補聴器は高いものだから棺桶には入れず、誰かに使ってもらおう等と、ボヤけた頭に次々と浮かんでは消えた。
 そして流動食も十日近くなった頃、主治医から何の前触れもなく、突然「今日から好きなものを何でも食べてもよい」と宣告された。無性に嬉しかった。さっそく寿司を待って来てもらった。一切れの海苔巻きを芯は固いからと家内が抜き取り、ご飯だけを口に入れた。ふくよかな海苔の香り。米粒が消えてなくなる程噛んでから十二分にに味わった。おいしかった。これまで海苔巻きがこんなにおいしいと思ったことはなかった。それまでうち沈んでいた気持ちが急に引き立って生きる道が忽然と開けたような気がしてきた。しばらく経ってから、好物の赤飯を二口ほど食べた。その翌日には即席みそ汁を作ってくれた。何ヶ月ぶりの味噌汁の味だろう。最高だった。その日を契機として俄然食欲が出てきて、食べ物に関心がわき始めた。
 それからは車椅子に押されてではあるが病室の外の廊下、さらに病院の中庭に出ることができた。外の空気を吸い、晴れた青い空を眺めると、滅入っていた心が晴れ晴れとしてきて、健康のありがたさが身にしみて分かった。ちょうど病院を訪れたレジストロの姉妹都市中津川市の友好使節団の出迎えにも出ることができ、市長から激励を受け感激した。
 夢の中のような二十三日間の入院生活だった。呼吸するのも大変、モノを言うこともほとんど不可能。それを乗り越えられたのは、家族の心づかいと不眠不休の家内の看病があったったればこそと、心底感謝している。もちろん医師、看護婦の誠意こもった看護。友人知人の見舞いと激励も言うに及ばず、心から感謝している。
 これからの残りの人生は何か地域の方々のお役に立てることができれば幸せだと思っている。


息子健介が遺していったもの ② 「 人に心を配り、物をほしがらない」

サンパウロ中央老壮会 徳力啓三
 健介が逝ってから二か月が経った。
 三月二日には日伯寺で四十九日のミサを行った。親戚と近所の方々のみにミサの日時を伝えたが、健介と同年代の若い方々も沢山来てくれた。健介を励ましてくれた人達だが、健介の生き方を見て逆に励まされたことが多かったという。
 親より先に子供が死ぬと、普通は「口では言い表せないくらい悲しい出来事」として捉えられるようだが、私達の健介に対する見方は違う。健介の闘病(とうびょう)生活を知って下さっている方々は、健介が逝ったことに対し「これで健ちゃんも楽になったね、よくがんばったね」と言って下さる。私達夫婦は二十余年にわたる彼の神経腫瘍(しんけいしゅよう)とともに過ごした生活を見ていて、もうこれ以上は苦しませないでと祈らざるを得なかった。
 魂の永遠性を信じるものにとっては、不自由な肉体に縛られているだけでなく、その肉体がボロボロになり五感さえ満足に動かない状態で命を続けることがいかに難しいか、毎日の介護の中で見てきた。それだけに彼が逝った時には、悲しい気持よりも「これで楽になれるね、がんじがらめの肉体を脱いで楽な姿で一挙に天国に飛翔(ひしょう)して欲しい」と念じたものだ。ミサの時にも、「健介は今頃、光の国に昇り、私達の方を見て、皆仲良くやってるね。僕は人生を一〇〇%生き抜き、こうして元気一杯です」と言っているような気がしてならないと表現した。後で、娘から「親が悲しまないで誰が悲しむのか」とクレームがついたが、私ども夫婦は自分たちも意外なほどカラッとしている。
 ご会葬(かいそう)下さった方々に「故健介満中陰(まんちゅういん)の粗供養(そくよう)」なるものをお配りしたが、その中に健介の遺した短い文章を入れさせていただいた。二十四歳の時に書いたものだが、「そうやって、しあわせになれる?」と問いかけているのだが、「弱い人を踏みつけにしてお金をもうけても、一つある人は二つほしい、二つある人は三つほしい…人は幸せになりたくてお金をもうけようとしているように思うけど、誰かを犠牲(ぎせい)にしてまでお金をもうけても幸せにはなれないと思う」と書いている。
 お金などぜんぜん縁のなかった健介の生活だが、不思議なことに、何もほしがらない生活を続けていると、どこからかちゃんとお金が後を追いかけてくることを知っていたようだ。二重国籍だから日本から障害者(しょうがいしゃ)年金が入り、私の会社の共同経営者になっているので、一定の給与も入る。生活費は当然私の扶養(ふよう)家族だからゼロ、滅多(めった)に支出はない生活。その上にとてもケチ。自分は働いていないのだから、無駄(むだ)なものは一切欲しがらない、買わないというわけだ。
 いつ、いかなることが起ころうと困らないように、特に私らより長生きした場合のことを考えて、すこしの無駄もしない生き方だった。
 私や家内が外出する時は、必ずどこに行くのか? 何時ごろ帰るのか?と聞き、帰宅するまで心を配っていてくれた。
 自分があんなに不自由なのに、どうして他の人に対して気配りができるのか、度々不思議に思ったものだった。そのためかどうか分からないが、一度でも健介に会った人はいつも「健介さん如何ですか」と聞いてくれた。何も出来ない健介だったが、その心のエネルギーは相当大きかったのかもしれない。
 本当にたくさんの方々から支援を頂きながら、三十七年を私どもの元で過ごしてくれた。私どもが与えたものよりはるかに大きい、人間としての生き方を自分の体を使って指し示してくれた。暴発(ぼうはつ)しそうな私の生(い)き様(ざま)を一番よく制御(せいぎょ)してくれたのは間違いなく健介だった。
 健介亡き今、丁度充実(しまり)の時期に差し掛かった私は、いつも健介に問いかけながら、いよいよ充実した人生を築いていこうと考えている。
(「倫理の会」会報より)


愛読した作家たち

名画なつメロ倶楽部 津山恭助
⑮ 日韓混血の作家 立原正秋
 立原文学を語る上ではやはり日韓混血の貴族で、軍人から僧籍(そうせき)に入って間もなく自殺した父と、同じく混血の母との間に韓国で生まれ(大正一五年)、少年時代のあの惨めだった植民地朝鮮から日本へ帰り、母が再婚したために孤独な少年時代を送った出自の関連性に目をつぶる訳にはいかない。
 旧制中学三年の時、「朝鮮人」と侮辱(ぶじょく)した体操教師を刺して感化(かんか)院に収容されたというが、こうした数奇(すうき)な生い立ちのせいもあって、戦後の混乱期には所謂(いわゆる)非行少年として放蕩無頼(ほうとうぶらい)の生活を送ったらしい。自身の青春体験の一部分が作品成立の基底(きてい)をなしている「美しい城」(昭和四三年)では非行少年の生態(せいたい)が描かれている。
 立原は日本文化に非常な関心を持っていたが、なかでも禅(ぜん)とか能(のう)、茶の湯といった幽玄(ゆうげん)の世界に強く惹かれていた。
 それは彼の作品群にも色濃く反映されており、本人も「『花伝書』を小説作法として転化して読んだ」と述べている。
 芥川賞候補となった「薪能」(三九年)も能の世界が舞台となっているが、ある旧家の家系の終焉(しゅうえん)を闇夜(やみよ)に輝く篝(かがり)火に象徴させており、作家としての道をはっきり定めた作品である。
 続いて「剣ヶ崎」(四〇年)が同賞の候補となっている。「薪能」の方は審査員の選評では「尖鋭(せんえい)なきらめくような表現があちこちにあって、この作者の才能は充分に示されている」(石川達三)と評価される反面、「既に職業作家を思わせる巧さだ。非のうちどころのない巧(たく)みさが、却って新人のみずみずしさから遠ざけているうらみがある」(高見順)と言うことで「されどわれらが日々―」に賞は流れた。そして四一年に「白い嬰粟(えいあわ)」で直木賞を受賞したのが文壇へのデビューだった。
 「剣ヶ崎」は日本人と朝鮮人との混血の家系に生まれた兄弟の苦悩を浮き彫りにしたものだが、その後は不遇な時代に書き貯めてあった原稿をもとに、量産のノルマも悠々とこなし、「恋の巣」「海岸道路」「辻ヶ花」(四二年)「冬の旅」「ながい午後」「永い夜」(四三年)「あだし野」「血と砂」「舞いの家」(四五年)「紬の里」(四六年)「きぬた」「残りの雪」「はましぎ」(四八年)等々かなりの作品を残している。
 頽廃(たいはい)と虚無(きょむ)を主柱(しゅちゅう)とする性格(せいかく)創造(そうぞう)に新しさがあり、繊細な心理描写(しんりびょうしゃ)と巧緻(こうち)な構成に特色があるのが、立原文学の身上だが、日本の高度成長の余波をこうむって金銭的にも時間的にも余裕を得た女性たちが、派手やかな彼の作風の最も熱心な読者となったのも事実であり、その作品群を日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)になぞらえた人もあった。
 実を言うと私は不倫(ふりん)の匂いのする彼の短編群「渚通り」「広野」「やぶつばき」「埋火」や長編「海岸道路」「鎌倉夫人」「去年の梅」にもストーリーには大した魅力はおぼえないのだが、不要な形容詞や修辞語(しゅうじご)を極力(きょくりょく)排除(はいじょ)した文章の正確さ、古典的な均整美(きんせいび)には惹かれるものがある。彼の作品から好きなものを選ぶと「美しい城」「剣ヶ崎」のほかでは、能楽室町流(のうがくむろまちりゅう)の宗家(そうけ)に生まれた美しい三人姉妹の愛の変転を描く「舞いの家」、夫に去られた里子と骨董(こっとう)の目利き坂西の道ならぬ恋物語「残りの雪」、大和路(やまとじ)の四季を背景に現代では見失われた愛のかたちを探るロマン「春の鐘」を挙げたい。
 一力、宮部みゆき、北原亜以子などの若手が次々と現れてきており、将来が期待されていることは頼もしい限りである。


私のペット物語 ⑯ 「貫太郎」

シニアボランティア 貞弘昌理
 我家には、とても可愛い柴犬がいる。オス六歳。我家に来た時は生まれたての赤ちゃん。鼻をクンクン鳴らして、雪の中を駆けて、転がり回っていた。妻の付けた名前は「貫太郎」。どうして貫太郎なのか? 単に思いついたかららしい。
 今では立派な大人の柴犬。シッポがくるっと上がっているのが柴犬の特徴。茶色でとてもハンサム。しかし、今では呼んでも近寄っては来ない。躾が悪かったかなと思う。
 庭に放し飼いをしていて、散歩のときはロープをつける。ある時、ロープが外れて貫太郎が逃げ出した。一昨年末ころのこと。呼んでも来ないのはわかっているが、姿が見えているのに呼んでも来ないのは、とても歯がゆい。そのうち見えなくなった。
 入り口を開けていれば、夜のうちに帰ってくるだろうと思っていたが、帰ってこない。いくら探しても見つからない。もう諦めて一か月した或る日のこと、近くのコロちゃん(若いメス犬)を飼っている人から電話があった。「うちのコロちゃんと遊んでいるよ。」さっそくロープを持って捕まえに行った。やせ細っていて、食べる物もなかったのだろう。しかし、若いメスのところにいたとは、さすが飼い主に似ている。もう一つ飼い主に似ているところ、それはいつも小鳥や猫に餌を取られる事である。猫の姿を見ても遠くから吠えるだけ。猫は悠然と餌を食べている。猫が怖くて近寄れないらしい。内弁慶なのである。この臆病加減はやっぱり飼い主にそっくりなのである。こんなこともあった。朝、鮭の骨を貫太郎にやって仕事に出掛けた。帰ってみると、鮭はきれいに食べていたが、水が無くなっていた。すぐに水をやると、待っていたようにガブガブと飲んでいた。鮭がよほどしょっぱかったようだ。その様子を見ていて、可哀想やらおかしいやらで、そのことを家族に話すと、笑い転げていた。その貫太郎、今では可愛い家族の一員だ。


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